KAAT×地点 共同制作第9弾『シベリアへ!シベリアへ!シベリアへ!』 三浦基 インタビュー
インタビュー
2019.05.17
俳優論の道具に戯曲が使われることに異論を申し立てて、
地点の新作で俳優が何を演じるかって言うと、馬なんです。
戯曲を、文節や単語ではなく文字単位で分解し、時にせりふをカットし、位置をも入れ替える。劇作家への不敬が問われそうな行為が、この人たちに限り「地点語」と呼ばれ、許される。理由は、その再編集によって、劇作家自身も気付いていなかった作品の本性や、時代や地域を超えた共通点が浮かび上がってくるから。この大胆な手法は、相手が新進の日本の劇作家でもロシアの文豪でも変わらない。一連の作業を指揮する演出家・三浦基が、最も好きな劇作家と言うチェーホフの、戯曲ではなく旅行記をコラージュして舞台化する。1890年、すでに小説家として地位を確立していたチェーホフが、モスクワから馬車と汽車と船を乗り継いでシベリアを横断する9000キロの旅に出た理由は、流刑地サハリンの実態や現地に住む人々の調査とされているが、本当のところは謎のまま。8ヵ月に及んだその旅は、膨大な資料と、家族や友人に宛てた多くの手紙を残した。チェーホフの生の言葉に近い『シベリアの旅』に短編小説も加え、地点はどんなチェーホフを立ち上げようと目論んでいるのか。主宰の三浦基に聞いた。
── 『シベリアへ!シベリアへ!シベリアへ!』(以下、『シベリアへ!』)は、KAATとの共同制作で「次は何やろうか」というところから始まったのでしょうか、それとも地点、あるいは三浦さんの中で「いつかこれを」と温めてきたアイデアですか。
三浦 前者です。KAATから毎年、何かつくってと言われ、その度に相談しながらやっていて、今年はこれになった。チェーホフはいつも頭の中にいる作家ですが、四大戯曲(『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』)はもう全部やってしまっているので、次はどうしようかなと思っていたんです。たまたま、『シベリヤの旅』の文庫を岩波書店が復刻版で出したのを書店で見つけたんですが、シベリアの長い旅行記と3〜4篇の短編小説が入っていて、これらをコラージュにしたら行けるかもしれないと思いつきました。それとは別に、KAATで2015年につくった『三人姉妹』を再演したいという思いがあって、これだったら『三人姉妹』と2本立てでやれるんじゃないかと。あとチェーホフは、なんだかんだと人気があって、わりとチケットが売れるんです。僕の演出は取っ付きにくいところがあるんですが、チェーホフの名前を出しておくと、結構な人が騙されて観に来ちゃう(笑)。で、痛い目に遭うんですけど(笑)。
── 『シベリアへ!』が新作なので、まずこちらを詳しくお聞きします。チェーホフに関係しているとすぐにわかるし、戯曲と旅行記のどちらにもかかった良いタイトルですね。
三浦 『三人姉妹』にある「モスクワへ!モスクワへ!モスクワへ!」という理想郷を求めるせりふをパロディにしてやってみたらいいんじゃないかということで。コンセプトはいいんですけど、いざやってみると、台本が散らかりっぱなしなので大変です。
── 具体的にどういうふうにつくっているのか教えてください。
三浦 基本的な題材は手紙です。チェーホフがシベリアを通過してサハリンに向かう途中で出した手紙が100通以上残っていて、それらを枠組みとして用意しています。数が膨大なので、学者の先生にドラマトゥルクとして入ってもらい、ここは重要だというところを教えてもらったり、資料集めをお願いしています。例えば、馬車をテーマにしたいと僕が考えた時に「馬車にまつわるエピソードが入った小説は他にもありますか?」と質問をして。あとは稽古を一緒に見ながらアドバイスをもらっています。
── 1番大きなベースが書簡ということは、いわゆるせりふはないのでしょうか?
三浦 手紙は意外とせりふ調なんですよ、チェーホフが相手に語りかけているので。だからむしろやりやすい。それに比べると小説は難しいですね。ドストエフスキーや太宰治の小説をやった時もそうでしたが、情景描写をどうするか、いつも苦労します。まあ、なんとかしますよ(笑)。
── 三浦さんは、テキストからあるキーワードを見つけ、それを全編にちりばめて、通常とは違う風景を観客の脳内に立ち上げます。今回のキーワードはさっきおっしゃっていた「馬車」ですか?
三浦 ええ。チェーホフの手紙には、ほとんど馬車のことしか書いていない(笑)。今で言う乗り合いバスみたいな位置づけなんでしょうが、トラブったとか出発が遅れたとか、馬車と馬のことばっかりです。現地で会った人達の描写やエピソードもありますけど、基本的には旅の過程で見たものの描写で、移動の話が多いんです。それで、基本的に登場人物は馬にしつらえました。みんな「ヒヒーン」とか言っています(笑)。
── 俳優は馬を演じる?
三浦 馬みたいな人たち、という感じかな。馬みたいな人間みたいな人たちがエピソードを繰り広げる、というのを稽古しています。だから相当、コメディタッチになると思いますよ。チェーホフのシベリアへの旅というと、どうしても“流刑地の調査”みたいな印象ですけど、その辺はあまり関係なくなりそうです。
── チェーホフの手紙の文面も、道中の大変さを嘆きつつもそれをネタに笑いにしていて、全体的に明るいユーモアを感じます。
三浦 そのあたりの文献も稽古で本読みしていて、それを聞いてると、ものすごく明るいですね、チェーホフは。冗談もかなり効いている。そこはおのずと(舞台に)反映されていくと思います。ただ今回、本当に表現したいのは、チェーホフの世界ではなく、ロシア文学の歴史なんです。
── というと?
三浦 ゴーリキーの『どん底』やドストエフスキーの『悪霊』をやったり、今度ロシアのボリショイ・ドラマ劇場と『罪と罰』もやるのでその準備のために、改めていろいろな文献を読んでいるんですけど、ゴーリキーとドストエフスキーとチェーホフはつながっている。たとえばチェーホフは、身内への手紙でもゴーリキーの小説からの引用をポロッと、上手に書いている。それはやっぱり、あの土地で小説を書く時に、誰もがプーシキンからトルストイを経て、さらにゴーリキー、ドストエフスキーというように(先人が)ちゃんと層の厚さにつながっているというか。それがうまく表現できたら、チェーホフという固有名詞ではなく、長いことヨーロッパに憧れ、でもヨーロッパではないロシアという地域の形が見えてくるんじゃないかなって。それは日本人にとってすごくおもしろい感覚だと思うし、ロシア文学の匂いのようなものが出てくるんじゃないかと考えているんです。
── 一番上の層にチェーホフがいて、そこからロシア文学の地層を潜って、そこにある共通項を体感するような感覚でしょうか?
三浦 そもそもチェーホフがなぜシベリアに行ったかというと、誰に頼まれたわけでもない、よくわからないんですよね。トルストイは作家として成功すると、莫大な慈善事業をしています。で、かたやドストエフスキーは政治犯として捕まっていて流刑されている。チェーホフにしてみると、作家たるものどん底を見ていないとダメなんじゃないかという意識は絶対にあったと思うんですね。そういう、先代が見てきたものを確認しに行ったんじゃないかと、僕はちょっと考えていて。
── そうお聞きすると、チェーホフが体調不良を押して過酷な旅を続けた理由がわかる気がします。
三浦 だから『シベリアへ!』は、チェーホフ独自の世界というよりは、文学なり表現なり、何かを見つけようとする人の行動、営みのようなものが見えてくるといいなと。チェーホフは、本当は日本にも行きたかったのに、サハリンまで行ってあともう1歩というところで、日本でコレラが蔓延していると聞いて断念したそうです。それを考えると、地理的な距離ですけど、すごく近しい感覚が持てる気がします。たとえば『三人姉妹』は、大抵の人はモスクワに憧れるロシア人姉妹の問題、つまり向こうの話として観に来ると思うんです。でも『シベリアへ!』と2本立てでやることによって、チェーホフというひとりの若き作家がこちら側へ、辺境へ接近して来ているんだと感じてもらえるとおもしろいんじゃないかと思いますね。
── そういった複数のテーマを、馬とつなげるんですね。
三浦 昨日、資料を読んでいて発見したんですけど、チェーホフはよく“父不在”の作家と言われていて、生い立ちの中で父親に殴られたりして仲が悪かったと思っていたら、手紙ではちゃんと、父の病気の心配をしていて「おいおい、ちょっと待て」と(笑)。やっぱり作家は家族問題をフィクション化するんですよ。あの時代の父権制は、子供を鞭で打つとか殴ってお仕置きをするのが普通なんですよね。そしておもしろいのは、馬もすごく殴られる。だから馬という存在は、完全な家畜ではなくて、非常に人間に近い。これは日本でもかつてはそうで、馬の目線みたいなものをおもしろがりながら稽古しています。
── その時代では、家と外の中間に存在しているのが馬小屋であり、生活圏内と外を繋ぐのが馬なのかもしれません。
三浦 中間という意味で言うと、移動しなきゃいけないんです、『シベリアへ!』は。普通、ドラマというのは大体が家の中じゃないですか。荒野にしたって人物が立ち尽くしていたりして。今回、これは演技面ですけど、移動する、ずーっと走り回っているということをやっています。
── 今のお話からふたつ質問です。三浦さんの演出は俳優に大きな身体的負荷をかけますが、今回の馬はどういう動きをするのか、また、演劇はあまり得意でないとされている移動をどう表現するんでしょう?
三浦 まず移動ですけど、集団、群れで動くというのが重要です。5〜6人が一緒になって動いていく。そのうちひとりが転んだり取り残されたり、あるいは逆走することによって風景が変わっていくんです。演劇の場合はそれが移動になるんですよ。それはこれまでの作品、『駈込ミ訴ヘ』や『悪霊』で実験済みで、そういうことのバリエーションをつくり、劇場の広さを上手く使うことで、舞台を風景化していきます。もうひとつの、どうやって馬を表現するのかですけど……。これはもう、バッシャバッシャです。右だったかな、左かな、とにかくどっちかを踏むと「バ」、逆を踏むと「シャ」。それで「バ」「シャ」「バ」「シャ」。それは足音であり、舗装されていない道路のぬかるみであり。で、ある人が「バッシャ、バッシャ、バッシャ、バッシャ、バッシャは走っていく」と言うと「馬車は走っていく」というせりふになるわけですよね。
── おもしろいです!
三浦 そういうくだらないことを、今みんなでやってます(笑)。
── 劇団員の皆さんの反応は?
三浦 「熱い」って言ってます。汗かくから。本当に大変なのはKAATに移ってからでしょうね、広いから。
── それから、地点は美術と衣裳も毎回楽しみなんですが、今回のプランは?
三浦 美術は、『三人姉妹』が白樺が吊られていて透明のガラスの壁があるというものなので、それの変容版ということを考えています。『三人姉妹』で浮いてた美術が全部降りてくるとか、ガラスの壁も全部分解されて寝かせて置いてあるとか、そのあたりまでは決まっています。これは僕の中では90%経費節減なんですけど(笑)、『三人姉妹』と『シベリアへ!』が反転している世界というのを最初に提案して、経費節減には見えない、もうちょっと豊かな世界になるように機能すると思います。衣裳は、馬ですから、衣裳プランナーからは馬の写真ばっかり見せられています。いろんな馬の写真を見て「これか?」「それだ」って、何の話をしているのかわからない状況になっています(笑)。
── 翻って、三浦さんが最終的に帰っていくチェーホフの魅力は何ですか。
三浦 うーん、全部良いからなぁ、はっきり言って。チェーホフがダメだったところは、単純に、リアリズム演劇だったからとしか現時点では言えないですよね。リアリズムも、実は途中で彼は飽きているんですけどね、当時の演出家のスタニスラフスキーと揉めたという話がいっぱい残っているように。後の時代から言えば、ベケット的な方向に向かっていた。『桜の園』が遺作になりましたけど、その次の作品の構想をちょっと編集者に話していて、それは、ある結婚式が開かれるんだけど、花嫁だか花婿だかが来ない、そういうコメディを書きたいんだと。まさに『ゴドーを待ちながら』なんです。僕もいくつか、オーソドックスなストレートプレイによるリアリズムのチェーホフを観たことがあるけど、それがおもしろいと思ったことは、まずないですね。でもそれを要請しているのは、チェーホフの文体だし、形式だったわけです。だからそこが非常に難しいし、そこが罠なんです。
つまり、チェーホフを商業演劇でやっても当たるじゃないですか。笑いにしようと思えばなるし。でもリアリズムで、(戯曲に対する)原理主義でやってみましたとなると、妙に暗いシリアスなものになる。その繰り返しがチェーホフ劇の罠だとすると、実はそれだけでもないんだけどな、というのが魅力というか。「全部良い」とポロッと言っちゃったのは、俯瞰した目つきというか、達観した眼力が非常におもしろい一方で、情熱的な部分もあったりするのが、うん、“いいヤツ”って感じなんです。「こいつ、わかってんなー」みたいな(笑)。ドストエフスキーはいいヤツとは思わないですよ。「大変ですね」って言いたくなる。
── 4月に新国立劇場で『かもめ』が上演されて、観たあとに私が思ったのが、三浦さんの著書のタイトルでもある「おもしろければOKか?」という問題でした。「チェーホフの登場人物たちって、愛すべき困った人たちよね。私たちと同じよね」という視点からの演出だと私は感じたんですが、その結果、笑えはするけど、非常にやせ細った『かもめ』になってしまった。観客にリアリティを感じてもらうことはそんなに大事なのかと考えてしまいました。
三浦 今の、書いてくださいね、あなたの発言として。僕はそれに関してひとことも言ってません(笑)。というか、それは世界中で起こっているミステイクなんです。想像できるんですよ、そこで「でも意外と良かったですよ」とそのプロジェクトに言えることがあるとすると、おそらく「あのマーシャはよかった」「あのニーナがよかった」という俳優のパフォーマンスに対する評価になる。でもそれはやっぱり危険で、というのはその評価って結局は「あのハムレットが良かった」が上になっちゃうんですよ。だってチェーホフ劇は市井の人々の話だから。迫力があったでもエロティシズムがあったでも何でもいいんですけど、俳優を評価するときに、壁が高いのは、作家志望のトレープレフより、父の復讐に悩む王子のハムレットの方なんです。それで今、世界中で起こっている現象は「よし、『ハムレット』をやって当てるぞ」と「ハムレット俳優は誰だ」なんですね。これが商業演劇のパターンであって、本来の演劇の歴史で言うと、ワーニャ伯父さんの苦悩の方が僕らに近いもののはずなのに、そこが一切無視されて、アイドル性というか偶像性というか、俳優論、スター論の道具に戯曲が使われることになってしまう。そこに異論を申し立てて、地点の新作で俳優が何を演じるかって言うと、馬なんですよ。もういいんだ、「バッシャバッシャ」と言ってなんぼなんだと。底辺まで降りておいて「おっと?」と思わせるのが近道なんです。ここから、リアリズム演劇をどう考えるかなんです。
── 最後に、同時上演の『三人姉妹』についてですが、三浦さんは以前も同作を演出されていますが、4年前のバージョンの再演を強く望んでいらした。どういうところが上手く行ったと?
三浦 これね、俳優たちが四つん這いで這いずり回ったりして、かなり人と絡むんです、身体的に。で、誰かと目が合うと嘆く。さっき言った、リアリズムで書かれている戯曲を、どういうふうに抽象化するか。止まって観念的にせりふを言う方法で以前は成功したんですが、AとBが向き合って、ぶつかったり、くんずほぐれつ絡み合ったり、リアリズムの感覚を僕なりに考えて拡大してやってみた結果、非常に情熱的に、また非常に暴力的に、あるいは、エロティックにも見えるものになった。それらが原作の情感とうまく合致したということが、評価すべき点だと思います。それは言語に関わらず伝わるもので、日本だけじゃなくて、どこの国でも通用する、もっと言えば、子どもが見ても何となくわかる。「あの人たち、なんか揉めてんな」とか、そういうことが直感的に伝わるという意味においては、リアリズムに近い感覚を、観客が抱けるんじゃないかなっていうことだと思いますね。そこを観てもらえれば。
── 初演を拝見して、俳優がぶつかり合う度に、登場人物それぞれの細かいプロフィールが消えていって、相関図の矢印が濃く太くなっていくのを感じました。再演を熱望していたひとりなので『三人姉妹』も楽しみにしています。ありがとうございました。
インタビュー・文/徳永京子
KAAT×地点 共同制作第9弾『シベリアへ!シベリアへ!シベリアへ!』公演情報は ≫コチラ