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藤原ちからの2018年プレイバック

特集

2019.02.15


▼藤原ちからの2018年プレイバック

 2019年の元旦は、インドネシア・ジャワ島の南にあるパチタンという海辺の町で迎えた。食堂のテレビからは、聖地メッカで行われているムスリムの儀式の映像が流れていた。静かだった。けれどもそれは「日本のお正月」からはあまりにも遠い世界だった。一抹の寂しさを覚えると共に、今後わたし(たち)が体験していくかもしれない様々な未来を幻視したような気分でもある。

 昨年2018年は、およそ半分の時間を海外で過ごした。残りの半分も国内の各地を転々としていたため、結果として観劇数は激減することになった。いわゆる「日本の演劇」との距離もひらいてしまったのかもしれない。そんな状態で果たしてどう2018年をプレイバックすればいいのか。事前に徳永京子さんにご相談したところ、「藤原さんの現在の活動や目的が(日本の読者に)見えづらくなっているのではないか」とのご指摘があり、ならばその「見えづらさ」や距離に向き合うところから始めたいと思った。それは極私的なことではあるけれど、2018〜19年現在のアジアの舞台芸術の状況にリンクするものにもなるかもしれない。

■2018年は何をしていたか?

 わたしの「旅」は、長期の滞在制作、レクチャーやワークショップ、そしてリサーチを組み合わせることで成立している。後で具体的に書くけれど、様々な地域を訪れて、人や場所に出会うことを繰り返している。渡航費・滞在費はどうしているのかというと、基本的には現地の招聘機関であるフェスティバル、アートスペース、教育機関等が用意してくれることが多いが、しばしば国際交流基金の現地事務所によるありがたい金銭的・人的・情報的なサポートを受けたり(2018年は上海、バンコク、ヤンゴン)、文化庁の東アジア文化交流使としての渡航もあった(香港・マカオ・上海)。香港では総領事館にも広報面・精神面で大きく助けられた。そしてセゾン文化財団シニアフェローの助成のおかげで、中国東北部、マレーシア、インドネシアにも独自にリサーチに行けるようになり、日本をあまり経由せずに都市から都市へと巡回することが可能になった。


ソウルで行ったレクチャーの様子

 いいご身分ですね、と皮肉る人もいるかもしれない。確かに恵まれていると思う。そして楽しい。未知の土地に飛び込むことで、自分の脳内地図や身体感覚がどんどん描き変わっていくことに驚いてもいる。しかし一方で、休暇らしい休暇はほとんどなく、ひたすら移動と滞在を繰り返しながら、各地の文脈を読み解き、協力者たちと交渉や作業を重ねていく日々には、かなりの体力と精神力を要求される。

 2018年はアジア圏内の10カ国ほどを周ったのだが、まず最初に体感される障壁は、そのすべてにおいて通貨と言語が異なっているということだ。いろいろな種類のお金と言葉。これがまず端的にアジアの多様性を体現していると思うし、越境、の象徴でもある。その越境を繰り返すうちに、お金や言葉に対する自分の見方もだんだん変わっていったと思う。毎回、物価の相場をつかむことから始め、「ありがとう」や「ビールください」といった簡単な現地語を覚え、異なる環境にみずからの身体を少しずつ馴染ませていく。車は左側通行か右側通行か……日本との時差は何時間あるのか……この土地でタブーとされていることは何なのか……。そうやって自分の感覚を現地の文脈にアジャストしていく作業は、面白くはあるけれど、まあ、大変ではある。快適なホテルで眠れることなんて年に数度しかないし、お湯が出たらラッキーくらいの感覚じゃないとやっていけない。虫が出るたびに大騒ぎしていたら三日で声が枯れてしまうだろう。都市部の大気は排気ガスでひどく汚染されている。暑さや、効きすぎているエアコンからどう身を守るのか。不足しがちな野菜はどうやって補給すればいいか。治安の悪いエリアを通らざるを得ないこともある。ちょっと気を許すだけで、深刻な病気や怪我に直面する……。2018年に結婚した妻・住吉山実里もこの「旅」を共にしていて、ダンサー/アーティストでもある彼女が様々な可能性を各地で開拓してくれているのがありがたい。ひとりだったら今頃すでに発狂しているかもしれない。紛争地帯に入るジャーナリストや、前人未到の領域を探検する冒険家に比べればまだ生やさしいのかもしれないが、とはいえこの「旅」は我々夫婦にとってかなりリスキーだ。果たして今後もこの「旅」を続けていくのが良いことなのかどうかは、まだわからない。そしてもし、この「旅」がいつか終わるとしたら、その時我々はどこを拠点にしているのだろうか?

 わたしにかぎらず今、国境を越えて活動しているアーティストやプロデューサー(制作者)たちは、こうした状況に大なり小なり直面しているはずだ。母国はどこそこ、という確たる帰属意識があり、かつその母国にいることが快適であれば悩まずに済むのかもしれないが、そうでなければ、彼らは一種のディアスポラ(故郷喪失者)としてこの世界を漂うことになるだろう。舞台芸術のモビリティ(移動可能性)が急速に伸展したこの時代は、アーティストやプロデューサーに新たな可能性をもたらすと同時に、ハードな環境で生きることを課してもいる。そのせいか最近は、国際的なミーティングや私的な会話においても、サステイナビリティ(持続可能性)が話題にのぼることが目立ってきたように感じている。アーティストもプロデューサーも人間であり、その体力や精神力が無限というわけではないのだから。

■なぜ「旅」をするのか?

 そんな「旅」をなぜ続けているのか? 胸に手を当ててみると、ただ未知の世界に行ってみたいという好奇心がそうさせている……のだろう。とはいえ極私的なモチベーションだけでは、周囲の人々の協力は得られないし、気持ちも燃え尽きてしまう。使命感のようなものが必要だった。わたしの場合、それは「2020年以降も持続可能なネットワークを構築したい」という目的意識として表れた。

 なぜ2020年なのか。現在のアジアで「人の移動」を促している最大の立役者は、日本の外務省所管の独立行政法人・国際交流基金が設置したアジアセンターだろう。アジアのアーティストやプロデューサーで、このアジアセンターによる影響からまったく無縁という人を探すほうがもはや難しいかもしれない。2014年に開設されたこの機関は、今のところは、東京オリンピック・パラリンピックのある2020年までの期間限定とされている。毎年2月に横浜で開催されているTPAM(舞台芸術ミーティングin横浜)は今やアジアの舞台芸術のハブとして大きな存在感を示しているが、この運営もアジアセンターのバックアップに拠るところが大きい。その消滅後もTPAMが今と同じ形を続けられるのかどうか。あるいは2020年を過ぎ、文化予算バブルが弾けた時、日本の、そしてアジアの芸術文化の状況はどのように変化するのか。もちろん2020年以降も何らかの形で文化予算が日本政府(日本国民の税金)から降ってくる可能性はゼロではないが、それを座して待つわけにはいかないだろう。何かの恩恵にただぶら下がるような発想は、しかもオリンピックマネーにただ依存するということは、わたしには耐え難いものだった。とはいえ実際そのお金の流れがもうすでにそこにあり、誰かにいたずらに食い荒らされるくらいであれば、それをより未来に向けた投資として流れるようにしたい。2020年問題は危機(ピンチ)でもあり、同時に好機(チャンス)でもあると考えたのだった。

【Digression 1】こうした「2020年」にまつわる危機意識は、日本の同時代のアーティスト、プロデューサー、ドラマトゥルクたちのあいだではある程度共有されていると思う。例えばセゾン文化財団が発行している「viewpoint」は舞台芸術に関する希少な言説空間だが、その最新号であるvol.85は「国際的な舞台芸術祭とは?」をテーマに、2018年に公布された「国際文化祭典法」について様々な現場からの見解が寄せられている。例えばこれらの文章を読むことによっても、彼らがどんな危機意識を持ち、どんな未来を構想しているかを感じることができる。

■「日本人」のために?

 そんなふうに「2020年以降も持続可能なネットワークを構築したい」という気持ちで活動してきたのだが、わたしはそれを過去形で書かざるをえない。「2020年」という数字が現実味を帯びて眼の前に迫ってきた今、実はその目的意識に変化が生じている。

 以前の自分は無意識のうちに、「日本人」のために活動しようとしていた。特に批評家としてはそうだった。「日本人アーティスト」が「海外」に出ていくための批評的な文脈をつくることによって、次世代の「日本」の舞台芸術シーンをつくっていけると信じていたのだ。

 けれどもアジアで活動するうちに、なぜ相手が「日本人」でなくてはならないのか、という疑問が強まっていった。それに「日本人」というのはいったい誰なんだろうか。日本国籍を持っている人を指すのだろうか? 日本在住の人を指すのだろうか? 日本語を喋れる人を指すのだろうか?……いずれの定義にも当てはまらない人たちとわたしはすでに仕事や生活を共にしていて、彼らは今や大切な仲間であり、友人でもある。英語は相変わらず下手だが、生き延びるために必要だから実践で覚え、交渉や議論の場でもさほど不都合を感じなくなってきた。むしろ日本語よりラクだと思うことさえある。言語的な問題もなんとかクリアできるとなれば、もはや「日本人」だけに活動対象を限定する理由は特に見当たらない。

【Digression 2】わたしは今、ジョグジャカルタのASPという現代美術家の横内賢太郎氏が運営するアートスペースに滞在し、そのキッチンでこの文章を書いているのだが、マレーシア人の若いアーティストがひょっこり遊びにやってきた。彼はこのインドネシアに留学に来ているが、父親は客家、母親は福建省出身で、それぞれ母語が異なる。家庭では広東語が共通言語となり、それとは別にマンダリン=中国の公用語も学んだという。さらにはインドネシア語がマレーシア語(ムラユ語)に近いために、それらの言葉も喋れる。彼は通称フォレストと英語名で呼ばれており、それは彼の本名が漢字表記で「森林」であるためだが、姓は「黄」であり、これは広東語の発音ではワン、マンダリンではホワンになる。パスポートの表記はアルファベットでWongになるという。日本では自分の名前は唯一絶対のものだと信じている人が当然多いと思うのだが、複数の名前を持つ、ということが当たり前の世界もあるのだ。彼のポートフォリオを見せてもらったが、このような複雑なバックグラウンドや、マレー系・華僑系・インド系の人々が共存するマレーシアの環境、そして留学先であるここインドネシアで得た知見に大きく影響を受けているようだ。最初わたしはこの原稿執筆を続けたかったのだが、彼がいっこうに帰る気配がないので、これは……と腹をくくって冷蔵庫からビールを取り出し、なかなか美味いインドネシアの枝豆をぐつぐつと茹で始めたところだ。それらをつまみながら、彼と「2020年以後」やいろんなことについて話をしているうちに、このようなルーツやアイデンティティに関するアプローチは、今だけの流行ではなく、2020年以後はもちろん、2030年あたりにはますます重要になっていくのではないかと思えてきた。「わたし(たち)とは誰か?」という問いが古びることはないだろう。今、アジアの優れたアーティストたちの多くは、西洋の影響を脱して自分たちならではの表現方法を模索したり、各国の政治的・社会的な状況と格闘しながらみずからの活動場所を獲得することに注力しているように見えるが、いずれはかつての宗主国であったヨーロッパ諸国とも関係を結び直し、この地球に共に生きる人間同士として、世界の歴史や地図を編み直していくのではないか、と予感した。……フォレスト君との愉快で真剣な話が終わったので、またこの執筆を続けようと思う。)

 わたしはひどくナショナリスティックな視野狭窄に陥っていたのかもしれない。知らず知らずのうちに、「日本人=日本国籍=大和民族=日本在住=日本円=日本語」がイコールで結ばれるような、不寛容で閉鎖的な「単一民族神話」に毒されていたのではないだろうか。ひるがえって、アジアの多くの場所では、多種多様な民族やコミュニティがなんとか共存できるやり方を見い出そうとしている。ひとりひとりの人間も、先祖を遡ればそのルーツは実に様々だ。そうやって複数の糸が織り合わさっていることが当たり前のアジアを「旅」していると、「日本」という枠の中だけでものを考えていた自分がひどく遠いものに思えてくるのだった。

【Digression 3】こうした意識の変化は、わたし個人だけの話に留まるものではないようだ。「創造都市横浜」での、TPAMディレクター・丸岡ひろみ氏、横浜ダンスコレクション・小野晋司氏、国際交流基金アジアセンター・山口真樹子氏による最近の対談では、特に後編でこうした「トランスナショナル」な意識に言及されている。


香港で上演した『演劇クエスト・虹の按摩師』終演後のフィードバックの会 写真提供:Hong Kong Arts Center

 しかしこのトランスナショナルな意識が、舞台芸術にたずさわる人たちのあいだでおぼろげに共有されてきたとして、ではその人たちが「日本人」や「ナントカ人」であることから完全に逃れられる/逃れたいのかというと、そう簡単な話ではない。わたしは日本のパスポートを持ち、国際交流基金、文化庁、あるいは(国の機関ではないけれど)セゾン文化財団のサポートを受け、つまりはジャパンマネーのお世話になりながら「旅」を続けている。外見的にも日本人っぽく見えるから、町なかで「日本人?」と声をかけられることもしょっちゅうある。

 「日本人」であるということ。それはつまりアジアにおいては、かつて「侵略」してきた帝国の末裔であること、そして戦後の混沌としたアジア経済の中で「先進国の金持ち」として傲慢に振る舞ってきた人々の親族であることを意味する。その歴史的事実を消すことはできないだろう。けれども「日本人」は、昭和天皇の戦争責任について語ることをタブーとせざるをえなかったり、また政治・経済・メディア・教育における権力者たちが、おそらく本音では「補償やODAを通してたんまりお金は払ってやったからもう充分だろう。過去のことは忘れて未来志向でいこうじゃないか」という態度をとってきたこともあり、過去はアンタッチャブルなものとして蓋をしてしまい、結果として、アジアの歴史についておそろしく無知になってしまった。だからそれは若い人たちのせいではないのだが、とはいえ、無知の連鎖はそろそろ断ち切らなければいけない。現在の世界のダイナミズムを理解しようとすれば、その歴史について学ぶ姿勢は必須であるはずだが、実際に日本で起きていることはむしろ逆行していて、自分たちを「クール」なものとして発信したいだとか、日本が他の国より素晴らしいから外国人がたくさん来るのだとか、たぶん本気でまだ「日本は世界一の国だ」と盲信している人が少なからずいるのではないか。もう、いいだろう。「日本」内部のドメスティックな言説に閉じこもることをやめて、アジアの中に生き直すこと。自分(たち)の時間的・空間的な位置を捉え直すこと。歴史と地図を編み直していくこと。そういうことがもう、できるんじゃないか。

【Digression 4】アジアの歴史と地図については、先ほどのフォレスト君の話だけでも充分かもしれないが、もう少し具体例を挙げておきたい。台北芸術祭で上演した『IsLand Bar』の中でも扱ったのだが、鄭成功という人物がいる。長崎の平戸で1624年に生まれ、母親は田川マツ。父親は中国福建省出身の貿易商(または海賊!)である。鄭成功はのちに今の台湾に渡り、その土地を支配していたオランダ東インド会社を打ち破って政権を樹立した。そのため彼は台湾では英雄とされているが、その存在は「台湾史」の中だけに収まるものではないだろうし、もちろん「日本史」の中だけに収まるものではないだろう。そんな「ナントカ国の歴史」には収まりきらない人間が、実は無数に存在してきたのが「アジア」ではないか。
 また例えば沖縄のように、今は「日本」だけどかつては琉球王国として独自の商圏を築いていた「国」もある。2018年に知事に当選した玉城デニー氏がその公約の中にアジアを意識したマニフェストを入れているのは、歴史的・地理的に考えればむしろ当然の帰結とすら言えるだろう。沖縄にかぎらず、アジアでは朝鮮半島やマレー半島、インドネシアのように、その時々の政治的状況によって国境線が引き直されてきた。宗教も様々な変遷をたどっている。民族の移動にしても、タイ族は現在の中国南部から移動してきたとされる説が有力だし、中国・潮州にルーツを持つタイ国民も多い。華僑系の人たちは多くの都市に住んでコミュニティを形成しているが、必ずしも「中国人」として結束しているわけではなく、出身地によって言語もバラバラだ。……等々。今ある国境線をいったん外して地図を眺めてみれば、アジアをひとつのアーキペラゴ(群島)として見つめることが可能になるだろう。


■ホームとアウェイ

 「日本」から見た「アジア」はどこかエキゾチックで、カオスで、不可解で、神秘的で、しかし不衛生で、貧しくて、自分たちよりも「遅れて」いて、だけど国によっては「親日国」で、料理だけは美味しい……そんな色眼鏡から脱却するのは簡単ではない。

 アジアのどこかの国からアーティストやプロデューサーが来日する機会は増えている。彼らの作品を観ることで、「日本人」はアジアのリアリティに一歩一歩近づいている……今はそんな時期なのかもしれない。しかし「日本」というホームで作品を迎えるのと、実際に彼らが生活している土地に乗り込むのとでは、やはり大きな違いがある。ホームにいるかぎり、客席にいるあなた、こうして文章を読んでいるあなたは、安全な皮膜に守られたままだ。そして手持ちの色眼鏡で作品を観て、何かそれふうなことをもっともらしく言うことも、そんなに難しくないだろう。

 だが、海を越えてやってくるアーティストたちは、アウェイの環境、異なる文脈に乗り込むというリスクを冒している。招聘のために尽力した人たちもいる。そうした越境にまつわるリスクや、その作品が持っているバックグラウンドに対しての最低限の想像力は必要だと思うのだが、残念ながら今のところ日本の観客や批評家の態度にはそれが不足しているように感じる。それは越境するアーティストや作品にとって、かなり悪い環境だ。だからわたしは、アジアのどこかで優れたアーティストや作品に邂逅した時にも、「ぜひ日本でも上演してよ!」と勧めたり、そのために骨を折る気がしなくなってしまった。正直、日当や報酬としてジャパンマネーがもらえるということ以外に、アジアのアーティストやプロデューサーにとって、わざわざ日本で上演する意味はあるのだろうか? 日本が好きとか、日本の文化に興味がある、というアーティストも多少いるのはまだ救いだが、彼らを受け止める側の日本の土壌はまだそれこそ「発展途上」に思える。このことは真剣に考えてほしい。

 そんなわけで、舞台芸術でも「日本人」のアーティストやプロデューサーがもっと海外に出て実際にその肌でアジアの姿(それがどう見えるかは人それぞれだろう)に触れるようになっていったら、状況は今とは異なったものになっていくだろう。例えばクアラルンプール郊外にあるファイブ・アーツ・センターを訪れてその土地の多様性や人々の温度のようなものを感じたり、バンコクのあるパトロンが運営しているアートパークでピチェ・クランチェンの素っ頓狂なパフォーマンス&パーティを観て、彼がいかにバンコクのオーディエンスに愛されているかを知る……といったことは、日本で彼らの作品を観るだけでは得られない感覚だった。客観性を保つために現場からは距離をとりたいだとか、そんな時間もお金もないだとか、英語が喋れないだとか、いろいろと「行かない理由」はつけられると思うのだが、まずは行ってみる、という精神は大事だと思うし、そういうトライをする人もいる。ゆうべ思い立って飛行機に飛び乗りました、という人に台北で作品を観てもらった時は嬉しかった。行く都市によっても、誰とどんなタイミングで出会うかによっても当然体験は異なるだろうし、肌に合う合わないはあるだろうけど、えいやっ、と海を越えてみたら大化けする人材は、日本にも数多く眠っているだろう。

【Digression 5】海外に行くにあたって英語が最大の障壁になると感じている日本人は多いと思う。かくいうわたしも自分が英語が喋れないと思いこんでいた。けれども案外、行ってみればなんとかなるものだったりする。英語に対する恐怖心やコンプレックスや恥の意識こそが、日本人の海外渡航を妨げている最大の敵だろう。しかし英語が喋れないアーティストはアジア各地にたくさんいるので、恥じる必要はない。ミーティングやパーティで誰かが冗談を言って周囲が笑っている中で、自分ひとりがその笑いの意味が理解できないで置いていかれるようなシチュエーションがあったりすると不安になるものだが、実はその場の半数くらいのメンバーはよく意味がわかってなくて適当に笑っているだけだったりするので、心配しなくていいだろう。無敵の英語力・中国語力を持つシンガポール出身者を除くアジアのほとんどのアーティストやプロデューサーにとって、英語は感情やニュアンスを十二分に表せる言葉ではなく、やむをえず使わざるをえないコミュニケーションツールでしかない。海外経験の豊富なアーティストやプロデューサーほど、シンプルな英語を使って複雑な事象を表現することに長けている。

【Digression 6】各地を訪れるにあたっては、わたしは「視察」という態度はとらないようにしてきた。できるだけ現地の人たちが食べるものを食べ、飲むものを飲み、一緒に何かを観たり、踊ったり、遊んだりして、何かを交わそうとしてきた。「視察」という態度をとる際に疑わなければならないのは、どんな目で視て察するかということだ。自分がすでに持っている価値観や美意識は、日本の、ひいては西洋のそれに大きく影響されている可能性が高く、それをそのままアジアに当てはめようとしても、それは「日本や西洋が見たいアジア」を投影してしまうだけかもしれない。それでは、ただ「私は現地に行った」というアリバイだけが重ねられることになってしまうだろう。

【Digression 7】少し前から、「上海のアートシーン」とか、「台北の演劇シーン」とか、そういう「シーン」として捉えることへの興味をわたしは失ってしまった。結局のところ、ある国や都市の「シーン」を牽引しているのは、人や場所である。それに尽きる。もちろん作品も大事であり、先に紹介した「創造都市横浜」の座談会で山口真樹子氏が語っているように、作品を媒介することでより深い議論をすることが可能になるのは間違いない。作品は、他者や異文化への越境をもたらしてくれる触媒でもある。けれどもまずその前提として、そうした作品を生み出していく人と場所の存在をしかと認識したい。その人々がどのように移動しているのか。その場所にどのような人々の想いや時間が堆積し、交錯しているのか。それらを点と線を結ぶようにして見ていきたい。性急に面(シーン)として捉えるのは、アートにおけるグローバルな市場と権力のネットワークをつくるのには役立つかもしれないが、古くて暴力的なやり方だと思う。


 アジアのどこかでパフォーマンスをする時、わたし自身のこの言葉と身体が、その土地に流れてきた時間に触れている、という感覚を抱くことがある。そこからどのようにアジアの歴史や地図を編み直していけるかが、今のわたしの最大の関心事になっている。それは「日本」がアジアと関係を結び直すためにも必要なプロセスであり、そのためにジャパンマネーを使わせていただく価値は十二分にあるとも思っている。ミサイルや戦闘機や核兵器をつくるよりもはるかに安上がりな予算で済むし、そしてはるかに人間にやさしいやり方だと思うから。


台北芸術祭2018で上演した『IsLand Bar』(C) Gelée Lai

■上演のトランスナショナル化を批評はフォローできるか?

 さて、そんな事情により、今のわたしは「日本の演劇」をあまりたくさん観ることができないのだが、そもそも「日本の演劇」とは何を指すのだろうか?

「ナントカ国の演劇」に回収されないような舞台芸術作品が増えている。例えば多田淳之介やきたまりがこの数年アジア各地でリサーチ&上演してきた『RE/PLAY dance.edit』や、岡田利規がバンコクで演出しパリでも上演した『プラータナー』、横浜STスポットでのステップを経てKYOTO EXPERIMENTでも上演された手塚夏子/Floating Bottleによる『Dive into the point 点にダイブする』などはその最たる例だろう。あるいは、山田由梨(贅沢貧乏)が中国で演出した中国人キャストによる『みんなよるがこわい』は、仮に百歩譲ってそれが「日本の演劇」だと呼べたとして、何かの媒体で「2018年の日本の演劇ベストテン」にノミネートされる権利はあるのだろうか? 再演された東京デスロック + 第12言語演劇スタジオの『가모메 カルメギ』は、日韓の演劇史に名を残す作品だと思うが、いったい2018年の日本ではどのように受け止められたのか? あるいは柴幸男が作・演出の『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』は、フェステュバル/トーキョーと台北パフォーミングアーツセンターとの共同製作で、台北芸術祭でも上演された。わたし自身も同じ台北芸術祭に『IsLand Bar』で参加したが、後で書くようにトランスナショナルなチーム編成になっており、「台湾の〜」とか「日本の〜」作品として捉えることは不可能だ。大御所では平田オリザによる『マニラノート』。商業演劇(?)では長谷川寧演出の音楽劇『白夜行』の上海での上演。実験的な試みでは、市原佐都子(Q)とイ・キョンソン(クリエイティブ・ヴァキ)らによるワークショップや、マレーシアのファイブ・アーツ・センターの支援を受けての西尾佳織(鳥公園)のワークインプログレスなど、様々な動きが生まれている。境界はすでにあちこちで溶け始めている。

 そして重要なことは、今名前を挙げた上演のほとんどをわたし自身が観られていないという事実だ。それは批評家として失格だろうか? もしもそうだとしたら、ほとんどすべての批評家が失格ということになってしまうだろう。そう、すべての批評家は「失格」なのだ。これを肝に銘じるところから、わたしは2019年を始めたい。

 これだけ世界各地にバラバラに散らばった活動のすべてを追い切ることは、絶対に誰にも不可能だ。その事実を否定する人はもはやいないだろう。では、ある程度ならキャッチアップできるとして、どの程度追えれば批評家として「合格」ということになるのか? 観劇した数が一定数をクリアしていればいいのか。訪れた国の数の多さによるのだろうか。それらはもはや批評家の「合否」を判断する基準としてはナンセンスであるように思える(もちろんプロフェッショナルな批評眼を磨くために、まずは様々な作品を浴びまくるという体験は絶対的に必要だとしても)。

 むしろわたしが関心を持つのは、その批評家が、人生のそれなりに長い時間をかけて追い求めようとしているものは何であるかということ。そしてどのような範囲において、どのようなクライテリア(評価基準)によって、みずからの批評を書こうとしているのかということ。

 もしもこれから批評を書き始めようという稀有な人がいたら、もはや確固たる基盤が何もないこの茫漠とした世界で、みずからその足場や態度をセットするところから始めざるをえないだろう。それは舞台芸術に関しては、(日本人にかぎらず)まだ世界中の誰も成功していないことだと思う。

【Digression 8】日本を不在にして移動を続けていると難しいことのひとつが紙の刊行物を手に入れることだ。まだ読めていないがタイトルから想像するに、「舞台芸術」21号の内野儀氏、岩城京子氏、森山直人氏による座談会 「〈J演劇〉とその彼方:「批評」と「モビリティ」をめぐって」の内容とリンクする話をしているかもしれない。批評家同士が互いの言論に関心を持ち、時には建設的な議論をブリッジしていくことは必要だと感じているので、本当はすぐにも参照したいのだが、帰国後に拝読するということで今はご容赦願いたい。

【Digression 9】若い批評家のトライが行われている。劇作家でもある綾門優季氏が、急な坂スタジオの支援を受けて批評を書く場を得たのは、2018年の印象的なトピックのひとつだった。またこの2019年の年明けには、山﨑健太氏の呼びかけで劇評マガジン「noteach」が立ち上げられ、現時点で山﨑氏のほか、伊藤寧美氏、渋革まろん氏、野村崇明氏、高須賀真之氏が参加している。書く場がなければ自分(たち)でつくる、というインディペンデントな精神は、これからの批評家にとって必須のものであるだろう。

【Digression 10】ところで、現在の日本の先鋭的な演劇批評は、どちらかというとフォーマリズム、つまり作品の主張したい「内容」ではなく「方法」のほうに関心を寄せており、特に身体と言葉の関係にフォーカスしているように感じている。例えば2018年秋に刊行された「現代詩手帖」11月号で、国際的な批評を手がける第一人者である内野儀氏が、フォーマリズムの領域でまだやるべきことがあった、というような内容のことを書かれていたのは非常に印象的で(前述の理由により雑誌が手元になく、正確な引用ができないことをお詫びしたい)、次に氏にお会いした時に真意を確かめたいと思いながらそのままになってしまっている。わたしは基本的には表現の多様さを肯定したいので、誤解のないように言い添えるとフォーマリズムの傾向を持つ作品を否定したいわけではない。しかし言説をつくりあげていく批評がフォーマリズムに偏重することにはかなりの危機感を持っている。日本(東京、京都、愛知)以外の地域においては今のところ、フォーマリズムは観客に対してさほど有効ではない、というのがわたしの認識だ。身体と言葉の繊細な関係については、チェルフィッチュのそれでさえ、海外で充分に理論的に理解されているとは言い難いと受け止めている。チェルフィッチュはしかし越境した時にも各地の文脈に接続できるような一種の普遍性(各国の電源コネクタに対応できるマルチ変換プラグみたいな)を持っており、それが各地の観客との接点になっているのではないか。話を戻すと、日本人の身体と日本語との関係を繊細に突き詰めていく方法論の先に、トランスナショナルな展開の可能性を見るのは今のわたしには難しい。これはしかしわたしの狭い考えに過ぎないのかもしれず、10年後、20年後の世界地図を見据えたうえで日本語のフォーマリズムの重要性を説く批評がいずれ登場するのかもしれない。わたしはフォーマリズムを否定する者ではなく、作品の構造や方法論を精密に解析・理論化するような批評眼も必要だと考えているし、作品の形式についての考察を怠り、単にその同時代性や社会性のみにジャーナリスティックに言及するだけでは、芸術が持っている恐ろしくも魅力的な可能性の芽を潰してしまうことにもなるだろう。ともあれ、同じ「現代詩手帖」11月号にも書いたように、批評とジャーナリズムの間隙を縫うような新しいクライテリアが必要だと感じている。日本人や日本語だけの圏域に留まるのではない、トランスナショナルな批評ははたしてどのようにして可能なのだろうか。こうした問題意識について、いずれ批評家諸氏の見解を伺ってみたい。


 アジア各地を転々としていて思い知ることは、「舞台芸術」という範囲に絞ったとしても、今この世界における面白いことは、もはや誰かひとりの批評家がフォローできる範囲の「外」で起き続けている、ということだ。国内外の著名なフェスティバルを回ったとしても、それらはもうキャッチアップできるものではない。誰かのお墨付きを得たものだけを観て批評を書きたいのなら話は別だが、だとしたらいったい何のために書いているのかを問われざるをえないだろう。食い扶持のためだろうか? 権威を得るためだろうか? あるいは批評を通して、もしもまだ誰にも「発見」されていないような才能を見出したいと望むのであれば、誰のためにそうしているのか。その才能を持つアーティストのためなのか。恩を売りたいのか? ただの趣味なのか?

 誤解のないように言い添えると、わたしは趣味や金儲けのために批評をすることもけっして悪とはかぎらないと考えている(金儲けにしては効率が悪いというのはさておき)。そして自分のやることなすことすべてに論理的な理由をつけろ、と言いたいわけではまったくない。ダンサーがただ踊りたいからダンスをしていても、俳優がただ舞台に立ちたいから演劇をしていても、そのモチベーション自体は誰かが否定できるものではないはずだ。そこには、根源的にはきっと、理由なんてないのだ。とはいえ、自分の目的意識やモチベーションについて特に考えなくても、誰にもそれを伝えなくても、業界内の慣習にうまく乗っていけば成功への道がひらくかもしれない……という古い時代はとうに過ぎ去ってしまった。もしも好事家の世界や業界に閉じこもりたいのでなければ、その「外」へ出るために考え、それを言葉や他の手段にし、他者との対話を試みる……という努力は必要になるだろう。それは批評家も例外ではないはずだ。

 「失格」とは「格」を「失う」と書くわけだが、もしかしたらそんなものは失ってしまったほうが、自分の知らない領域がこの世に存在しているという当たり前の事実を認めやすくなるかもしれない。そして他者が手がけた作品に真摯に向き合い、自分はなぜ批評を書くのかという初期衝動を再確認し続けるような、謙虚な姿勢を取り戻せるかもしれない。だから積極的にまずはわたし自身が「批評家失格」の烙印をみずからに押そうと思う。この2019年の冒頭において。その上で自分が本当に何に興味があり、何を面白いと感じ、何を愛し、何のために書き、そして誰に言葉を届けたいのかということを、実践しながら探っていきたい。

 さて、ずいぶん長くなってしまったが、以上がわたし自身の2018年の極私的な状況であり、2018年の舞台芸術についての現状認識であり、2019年に向けてのマニフェストでもある。

 こういう状況において舞台芸術作品の「ベストテン」を挙げるとしたら、その順位付けをしうる権威は何に依拠しているのか? 対象となる範囲はどこなのか? 誰のためにその順位を付けるのか? 編集者も書き手も読者も、それを考えざるをえない時代にすでに突入している。もしもそれらを何も考えずに「ベストテン」を書ける/読めるとしたら、それはあまりにも無邪気で、牧歌的で、時代錯誤で、もはや未来に対する罪ですらある。

 それが、2019年という現在地ではないか。



▼藤原ちからの訪問都市トップテン
 徳永京子さんから、「観た舞台のベストテンでなくてもいいと思う」というありがたい意見を頂戴した。そこで「訪問都市トップテン」という形で10都市を挙げ、そこで出会った人や場所について書いておきたい。これからいろんな土地で舞台芸術に関する仕事をしてみたい、という人の参考になればいいなと思う。

■釜山

 京都のUrBANGUILDというライブハウスでは、「FOuR DANCERS」が定期的に開催され、ダンサーたちが小作品を発表している。そこで妻の住吉山実里が上演したパフォーマンスを、イ・ジェウン(Jeun Lee)が観に来ていた。ジェウンさんは京都芸術センターで滞在制作を行っていたのだ。五条界隈でお茶をし、ビールを呑み、彼女の発表も観に行った。そして近々ソウルに行く予定があるんだよと言うと、だったらぜひ釜山に寄って住吉山の「筆談会」をやらないか、と誘ってくれたのだった。

 5月、ジェウンさんの家に数日間滞在させてもらった。釜山は海の幸が豊富で、新鮮な魚を市場で買ってレストランに持ち込めば、その場で調理してくれる。海辺の開放的なカフェで仕事をする時間も至福だった。大阪から夜行フェリーで向かったのだが、そうやって海を行き来しながら生活するのもいいかもしれないな、と夢想した。


打ち合わせの様子。右からイ・ジェウン、現場通訳のオーギャン

■ソウル

 前年にソウル近郊の安山市で『演劇クエスト』をつくった縁で、キョンギ大学で「都市とアート」をテーマにレクチャーを行うことになった。日本でもお馴染みのコ・ジュヨン(Jooyoung Koh)さんに通訳をお願いした。アーティストの現代的な役割について語ったと思う。

 今回のソウルは短い滞在だったが、何人か旧知の人々に会った。プロデューサーのパク・ジスン(Jisun Park)から聞いた話では、月に一度、舞台芸術のプロデューサーやアーティストたちが集まって共同リサーチや勉強会を開いているそうだ。日本では同種の動きは見当たらないような気がするのだが、それがもし韓国にあって日本にないのだとすれば、なぜだろう?

■マカオ

 1月に東アジア文化交流使として訪れた際に、キュレーターのエリック・クォン(Erik Kuong)に会い、それがきっかけで6月に2週間ほど、彼のスタジオに滞在させてもらうことになった。わたしにとってこの滞在はとても有意義で優雅な時間であり、ひたすらマカオの旧市街を歩き、カジノや競馬場やドッグレース場(閉鎖される日に観た)をひやかしたり、中国への国境を徒歩で越えたりしながら、アジアの複雑な歴史に対する想像力を膨らませていった。今さらながら、広東語がマンダリン(中国の公用語)とはまったく異なるという事実を耳で体感することにもなった。エリックのアシスタントを務める台湾人のバイイさん(Baiyi Sun)と、夜の海に入り、砂浜で月を見た光景が忘れられない。


マカオの海で

■香港

 マニラで知り合ったステファン・ノエル(Stéphane Noël、香港を拠点にするスイス出身のキュレーター)が香港アートセンターに『演劇クエスト』を紹介してくれたおかげで、『演劇クエスト・虹の按摩師』を創作することになった。香港アートセンターにはインターン制度があり、シンディ(Cindy Kwok)とヴァネッサ(Vanessa Laiwingyan)の2人のインターンがリサーチに協力してくれて、彼女たちの眼や知見を通して香港にアプローチすることになった。上演は2日間のみだったが、馴染みになった雑貨屋(酒屋)で体験者のフィードバックの会を開いたことで、香港の人々のリアリティに多少は接合できたように思う。複数のメディアにインタビューしてもらったり、在香港日本大使館の協力で香港ブックフェア内でトークをさせてもらったりと、ただ作品をつくって終わりではない様々な動きが生まれたのもありがたかった。滞在先は競馬場が近いハッピーバレーにあるV54というレジデンス施設。湿気対策は大変だったけれど、キッチンがあったのは助かった。

 ステファンのおかげで、同じ時期に香港で滞在制作していたリミニ・プロトコルの『Remote Hong Kong』のリハーサルに参加することができたし、逆にリミニのヨーグ(Jörg Karrenbauer)が『演劇クエスト』を体験してくれたりと、刺激的な交流もいくつか生まれた。

■上海

 上海には何度か訪れているが、前年2017年にはある美術館から渡航2日前にキャンセルを喰らうという苦い思い出もあり、鬼門というか、難攻不落感は半端ない。それでも上海へのアプローチを諦めていないのは、ジャパンマネーに依存しない形でアジアで活動しうる可能性を探りたいからだ。それになんといってもズーフーニャオ(组合嬲、Niao Collective)みたいにヤバイ連中がいるのが大きい。まだ日本ではほとんど知られていないアーティスト・コレクティブだが、劇作家・石神夏希さんの日記で言及されている。6月にはそのズーフーニャオの協力で人民広場でゲリラ的に「筆談会」を行ったほか(おっちゃんたちにもみくちゃにされながらも、凄くクレイジーで最高の体験だった……)、石神夏希さん、 宮武亜季さん(PARADISE AIR / 居間theater)、住吉山実里と共に新天地フェスティバルに参加し、またiPandaというアートスペースでもトークを開催した。こうした企画を次々に開催できたのは、国際交流基金(日本文化中心)北京事務所の後井隆伸さんの理解とフットワークと尋常ではない交渉力のおかげだったが、その後井さんは2018年度をもって中国を離れることになってしまった。今後、日本人アーティストの中国での活動はどうなっていくだろうか……。とりあえずズーフーニャオとは引き続き何かやりたい。

■台北

 日本でもお馴染みのタン・フクエン(Fu Kuen Tang)がディレクターを務める台北芸術祭にて、8月に『IsLand Bar』を上演した。2017年にADAM(Asia Discovers Asia Meeting for Contemporary Performance)のアーティストラボに参加した時、何人かのアーティストたちとその『IsLand Bar』のプロトタイプをつくったので、それをあらためて上演しようということで、香港出身ベルリン在住のスカーレット・ユー(Scarlet Yu)、台北在住の李銘宸と共にメンバーを組織し、総勢12人の多国籍なアーティストたちと創作・上演したのだった。

 まあ大変だった。スケジュールがかなりタイトな中で、母語や文化の異なる人たちと意識の共有を図るのは簡単ではない。それぞれのIsLand(島、国家、都市、コミュニティなど)の政治的・歴史的な危機を、一杯のカクテルと絡めながら、観客との親密なシチュエーションでパフォーマンスする……そんな『IsLand Bar』のコンセプトを、メンバー間で十二分に共有できていたとは言い難い。そこで観客との接点をより強力なものにするために、毎晩(10夜!)の終演後に「秘密のミーティングポイント」を設け、アーティストも観客も入り混じって好きなだけダベる、という仕組みを裏技的につくりあげた。お金がなくても、通りすがりの人でも参加できるように、コンビニ前の(公共的な)広場を占領したのだ。批評家・黃佩蔚のようにほぼ毎晩ここに入り浸ってくれた人もいて、なかなか楽しい夜だった……。日本からいろんな人たちが観に来てくれたのもありがたい。

■高知

 アジアセンターの「Next Generation」にも参加していた松本千鶴さんの企画で、高知県立美術館で2つの企画に関わった。ひとつは「地域のアトリエ」と題し、OiBokkeShiの菅原直樹さんらをお招きして公演やワークショップやレクチャーを開催した。92歳のおかじいこと岡田忠雄さんが病から復活して高知に来てくださったのは、奇跡だったと思う。もうひとつの企画はスウェーデン出身のランダール&サイトルの滞在制作に、邦訳監修・ドラマトゥルクとして加わるというもの。

 生まれ故郷である高知での初めての仕事は、感慨深いものがあった。どちらの企画にも観客としてうちの親が来てくれたのだが(母親に至ってはすべてのプログラムに皆勤賞だった……)、すべての芸術がそうあるべきとはまったく思わないものの、「自分のつくる作品は母親(たち)が観られるものでありたい」と常々思ってきたので、それが叶ったのは個人的には嬉しい。

 現場通訳として入ってくれた浜田あゆみさんや、十代の子どもたちを含むガイド役のダンサーのみなさん、そしてOiBokkeShiの公演に参加してくれたシアターTACOGURAの藤岡武洋さんら、高知在住のアーティストたちと現場をご一緒できた。美術館の職員さんらをはじめ、高知在住の愉快な人々と陰に陽に交流できたのもありがたかった。仕事じゃなくても彼らに会うためだけにちょいちょい高知に戻りたいと思う。藁工ミュージアムで観た、京都のNPO法人スウィングによる展示『親の年金をつかってキャバクラ』もすごく刺激的だった。「良いキュレーターと場所さえあれば、地方都市でもヤバイ作品が観られる」という顕著な例だと思う。ちょうど劇団どくんごが公演していたりして、演劇作品もいくつか観ることができた。それにしても高知は酒呑みが多い。しかも底なしで、潰れるまで呑む人が多い……。


岡本明才さん(写真左)の運営するスペースTAOで行ったランダール&サイトルのトーク

■バンコク

 『演劇クエスト』の滞在制作のために、11月に1ヶ月間滞在した。この原稿を書いた後に再びバンコクに舞い戻り、作品を仕上げることになっている。招聘元はLow Fat Art Fesで、国際交流基金のサポートを得ているが、そもそもその芸術監督であるウェイラ(Wayla Amatathammachad)と出会ったのはTPAM2018だった。ある作品の開演前に「演劇クエストのチカラさんですか?」と彼が話しかけてきて、そのあと焼き鳥屋にふたりで行ってなぜフェスティバルをやるのかという話を聞き、ぜひ一緒にやろう、と意気投合したのだ。後で聞いたところによると、やはりTPAMに来ていた国際交流基金バンコク事務所のワンさん(Siree Riewpaiboon)が、ウェイラに『演劇クエスト』を推薦してくれたらしい。

 11月のバンコクではちょうどBIPAM(Bangkok International Performing Art Meeting)が開催されていたので参加した。BIPAMはまだ始まって2年目で、TPAMほどの規模はないものの、東南アジア、特にインドネシアやシンガポールからの参加者が多く、非常に刺激的な議論が交わされていた。日本人プロデューサーも何人か参加していたものの、場としてはASESANの人たちが主役という雰囲気であり、こうして日本を経由しない形で活発な交流がなされていることに刺激を受けると同時に、あ、これは日本はもうすでに取り残されつつあるのかもしれない……という寂しさを感じもした。このままでは西洋列強に置いていかれる、と幕末の人々は危機感を抱いたと思うのだが、平成の終わりには、このままでは日本はアジアに置いていかれる、と思わざるをえない。実際TPAMでの同種の議論にしても日本人で参加しているのはごくひと握りという印象が否めない。クレバーだったり、ジェントルだったり、意欲的であったりするこのアジアのプロデューサーたちの若いエネルギーは、わたしにとってはものすごく魅力的であり、何人か、今後も仕事してみたいな、と思う人たちに出会うこともできた。この若いプロデューサーたちはどんどん国際的な経験を積み、おそらく今後のアジアでますます活動していくだろう……。「プロデューサーの時代」が到来しつつあるのかもしれないと感じた。それは魅力的であり、やや危険な徴候でもあるように思う。それについてはいずれ機会があれば考えたい。

 さて、バンコクでは中心部ではなく、チャオプラヤー川の南東側にあるトンブリー地区に滞在している。Low Fat Art Fes vol.3(2月8〜17日)の会場もこのあたりになる。今年からコミュニティに特化したフェスティバルに変貌するそうで、スタッフも舞台芸術のみならず、建築やメディア等、様々な専門領域の出自を持っている。ちなみにみんなびっくりするくらいいい人で、一緒にリサーチをしていても良いインスピレーションを受ける。ウェイラたちが始めようとしている新しい試みに『演劇クエスト』で参加できるのは嬉しい。


リサーチにて。左がウェイラ、その奥がワンさん

■ヤンゴン
 これまでフィリピン、中国、タイにおいて、国際交流基金の方々とお仕事をしてきたのだが、彼らは単に金銭面でのサポートをするということに留まらずに、現地で生活するにあたっての重要な示唆をくれたり、時には一緒に企画を考えてくれたりもした。もともと海外に出たいというモチベーションを持った人が多いせいだろうか、意欲的な人に出会うことが時々ある。

 ヤンゴンには、国際交流基金バンコク事務所の桑原輝さんからの紹介で、レクチャーとパフォーマンスを行うために急遽向かうことになった。ヤンゴン事務所で企画を担当してくださった松岡裕佑さんはものすごくエネルギッシュな人物で、一緒に企画を練るのは楽しかった。佐藤孝治所長や、スタッフの大塚麻里子さんにも大いに助けられた。麻里子さんオススメの秘密のシャンプー・マッサージは、もし今後ヤンゴンに行く人がいたらぜひ体験していただきたい。

 レクチャーは「Art as Game of Participants」と題して、主に観客との新しい関係について語った。またパフォーマンスとしては住吉山実里の「筆談会」をミャンマー語で行った。どちらもミャンマー人のクリス(Kriz Chan Nyein)が協力してくれたのだが、彼も今度のTPAMに来るらしい。ヤンゴンやミャンマーに興味がある人は、クリスにコンタクトをとってみては。


ヤンゴンでの「筆談会」。わたしはドラマトゥルクとしてこのプロジェクトに参加している

■ハノイ
 台北で出会ったベトナム人アーティストのマミ(Tuan Mami)と、住吉山実里が、ハノイで一緒に何かやろう、という話になったらしい。……のだが、着いたその夜に夫婦して高熱を出すという事態に陥った。ヤンゴンでの疲れが出たのかな、と思っていたのだが、数日後に、あ、これはデング熱だ、と気づいたのだった。おそらくバンコクで刺されまくった蚊にやられたのだろう……。それで一週間寝込んだために、ハノイの町を探索することは難しかったのだが、湖のほとりにあるホステルに籠もり、体調がマシな時に近くの市場で野菜を買い込んで、夫婦だけで細々と送る生活は、それはそれで悪くなかった気がする。とはいえクリスマス・イブにはなんとか復活し、住吉山はミュージシャンのタム・ファム(Tam Thi Pham)と組んで即興でパフォーマンスをした。会場のÁ Spaceは線路に面しており、彼女はその線路の上で踊った。演奏のみならずみずからパフォーマンスもするタムさんは素晴らしいアーティストで、人望もあるようだ。いつかまた一緒に何かしてみたい。

 ハノイでは台湾人プロデューサーのイーカイ(Yi-kai Kao)と、TPAMで上演するミニパフォーマンスについて話した。彼とは台北やバンコクでも会っている。以前バックパッカーをしていたそうで、なるほどフットワークが軽いのも頷ける。今は東南アジアの活力に興味を持っているという。彼に案内してもらって秘密基地めいたカフェで飲んだエッグコーヒー、絶品だった。


ハノイのÁ Spaceで行った住吉山実里とタム・ファムのパフォーマンス

■その他
 というわけで10都市を挙げてみたのだが、他にも訪れた都市はたくさんある。国内では松戸のPARADISE AIRに2週間ほど滞在させてもらったのだが、ラブホテルを改装したこの場所の得体のしれなさは(良い意味で)ヤバイ。レジデンシーにはオープンコールがあるので、興味のある人はぜひチェックを。新潟県の妙高文化ホールではレクチャーとパフォーマンスを行ったが、担当の大野雅季さんはものすごく意欲的で優しい方で、またぜひとも一緒にお仕事したい。

 他には中国東北部やマレーシアの各都市で、いろいろと数奇な体験をしたのだが、いつかまた別の機会に譲りたい。そして2018年の最後はインドネシアで迎えた。まずバンドゥンに入り、そこからプロペラ機とミニバスを乗り継いで、冒頭に書いた海辺の町パチタンまでたどり着き、そこでサーフィンをしながら2018年/2019年を越境した。人生で初めてのサーフィンを、この歳で、大晦日に、インドネシアで経験するとは思ってもみなかった。そして年が明けて1月1日、食堂のテレビからは、聖地メッカで行われているムスリムの儀式の映像が流れている。静かだ。生まれ変わって、新しい人間になったような気がする。わたし(たち)は常に生まれ変わり続けている。

藤原ちから Chikara Fujiwara

1977年、高知市生まれ。横浜を拠点にしつつも、国内外の各地を移動しながら、批評家またはアーティストとして、さらにはキュレーター、メンター、ドラマトゥルクとしても活動。「見えない壁」によって分断された世界を繋ごうと、ツアープロジェクト『演劇クエスト(ENGEKI QUEST)』を横浜、城崎、マニラ、デュッセルドルフ、安山、香港、東京、バンコクで創作。徳永京子との共著に『演劇最強論』(飛鳥新社、2013)がある。2017年度よりセゾン文化財団シニア・フェロー、文化庁東アジア文化交流使。2018年からの執筆原稿については、アートコレクティブorangcosongのメンバーである住吉山実里との対話を通して書かれている。