【連載】マンスリー・プレイバック(2016/01)
マンスリー・プレイバック
2016.02.27
徳永京子と藤原ちからが、前月に観た舞台から特に印象的だったものをピックアップ。ふたりの語り合いから生まれる“振り返り”に注目。
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▼岡崎藝術座『イスラ!イスラ!イスラ!』@早稲田どらま館、横浜STスポット、『+51 アビアシオン, サンボルハ』@横浜STスポット
【『イスラ! イスラ! イスラ!』京都公演より/photo:Takuya Matsumi】
徳永 考えてみたら、史実を題材にした演劇──映画も小説もそうですけど──はほとんど、たとえ史実と異なる結末を選んでも、軸足を置いているのはノンフィクションサイドなんですよね。でも劇作家・神里雄大はこの作品で、実在した人物の移動の足跡を使って、物語のフィクション度の飛距離を上げているというか、史実を寓話への滑走路にして、すごく広大なマジックリアリズムの土地に飛んでいった。これはちょっと、すごいことだと思います。
その手法は『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』から芽吹いて、前作『+51 アビアシオン, サンボルハ』とこの『イスラ!イスラ!イスラ!』で固まったと思いますが、こちらの方が観やすくなっていると思いました。聞いていて内容が把握しやすくなったということではないんです。主語が人間から島に移り変わったりするので、マジックリアリズムの原理主義に近付いているんだけれども──もしかしたら、だからこそ──ある種の軽やかさ、柔らかさを感じたというか。おそらく神里さんが、執筆のために調べて出合った事実の数々を、以前よりも思うように扱えるようになったんでしょうね。
ただ、そんなふうに戯曲を楽しんだ一方で、神里さんは劇作家に徹して、演出を任せられる人を探した方がいいんじゃないかと初めて思いました。というのは、それだけ強靭な文体に拮抗する演出方法を、今のところ演出家・神里雄大は持っていないように思ったし、これから持つ可能性を、今回の舞台から感じられなかったからです。例えば岡田利規さんや岩松了さんは、そのエポックメイキングな文体を生かす演出方法をご本人が持っていたから作・演出を両方やっていますけど、無理に両方することはないですし。
藤原 2月の横浜上演も合わせて語ってしまいますが、今回『+51 アビアシオン, サンボルハ』が再演されたのを観たんです。劇的に成長していたんですよ。僕も初演の時、演出は他の人に任せたほうがいいのではないかとブログに書いたんですけど、結果的には各地をツアーしていく中で演出と演技が劇的に変化しており、しかもなお伸びしろを感じさせるものになっていたんです。そう思うと、『イスラ!イスラ!イスラ!』の現状があの戯曲のポテンシャルを最大限引き出せていなかったとしても、演出家と役者たちが後からそれをモノにしていく可能性は信じてもいいのではないかと、今は思えます。
徳永 『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』では、膨大なせりふが役者さんの身体の中で透明になっていき、色っぽく見える時間があったんです。『アビアシオン』もその延長線上にあると感じたんですけど、『イスラ!イスラ!イスラ!』はそうじゃない演出をしようとしてうまくいっていないように私の目には映りました。
でも、藤原さんが言うように『アビアシオン』の再演が劇的に良くなった理由は何でしょうね?
藤原 俳優が台詞をモノにしたのは大きいですよね。太平洋を跨ぐような壮大な冒険に対して、現代日本の俳優である彼らがどのように立つのか……が掴めてきたんじゃないかと。例えば大村わたるは、自分にセリフがない時間の過ごし方も面白くて。
徳永 大村さんは、木ノ下歌舞伎『三人吉三』でもすごくよかったですし、いい俳優さんですよね。
藤原 小野正彦も不気味なユーモアが出ていて本領発揮感がありました。彼はほとんどマスクを被ったままの演技ですけど、何かが滲み出てましたね(笑)。『イスラ!イスラ!イスラ!』の話に戻りますけど、すでにキャリアのある俳優たちの実力についてはさておくとしても、最後にザルを被っている和田華子の語りとか、伸びしろを感じたりもします。早稲田どらま館の「黒壁」から、横浜STスポットの「白壁」へと変わって、演技の質もまた変わったと思います。白壁だと隠れようがなく役者があらわになるというか……。
徳永 『ブラックコーヒー』の小野さんの演技は今も目に焼き付いています。ただ、だとするとやっぱり演出ではなく、役者の頑張りと劇場という環境に依拠していることになる……。神里さんの演出家としての可能性は別として、あの頑強な戯曲に思い切ってぶつかっていく演出家を観てみたい。
藤原 それは観てみたいとは思います。あと戯曲について言及しておきたいのは、「王様=島」が原住民に振った番号が、2の累乗で、つまり32、64、128、256……というふうに増えていく。これによって時間の経過と人口増加をシンプルに表現しているのは面白かった。つまり直接的にエモーショナルな表現を使うのではない方法によって、このある種の回想とも言える物語を、良い意味でノスタルジックなものにしていたと思います。観ている僕自身の中にはあんな「島」の記憶はない。にもかかわらず、人類というものが生まれて死んできたその長い長い物語を感じさせてくれた。
徳永 寓話の純度は相当高いですよね。だからか私は、演じている俳優はまったくそうではないのに、椅子に座っておなかがでっぷりしている、いかにも絵本に出てくるような素朴な王様像をずっとイメージしていました。見せられているものとは違う絵が、戯曲によって脳内に投写されたんでしょう。
藤原 あ、それで言うと僕も最初はすごくプリミティブな「王様」や「島」のイメージを思い浮かべたんですけど、2回目を横浜で観た時には、よりくっきりといろんなイメージが浮かんだんですよね。あの語り手はざっくり言うと最初「王様」で、後半は「島」になっていくじゃないですか。序盤の、島民32號と一緒に畑で野菜をつくるシーンなんかはすごく若い教師のようなイメージなんです。でも256號に白三郎を殺せと命じる頃にはもうすでに語り手の身体がだいぶ消えてて、抽象的な思念へと変貌している気がしました。この語り手の変貌ぶりは面白いし、怖いし、なんだか哀しくもありますね。
▼ハイバイ『夫婦』@東京芸術劇場 シアターイースト
【©青木司】
藤原 見逃しました。痛恨です。
徳永 きっとレパートリーになるでしょうから、再演を楽しみに待っていてください。キャストはそのままではないかもしれませんけど。
岩井秀人という人の手法はこれまで“信じられないくらいひどいことを、まだヒリヒリするところ、ちょっと笑えるところ、大笑いできるところと、少しずつ距離を取っていく”方法で相対化するものだったと思うんです。その距離感のミックス具合が作品によって違っていた。だけど今回はそうじゃなかった、もうひとつの相対化の腕が生えた。
藤原 腕が生えた?!
徳永 はい、三本目の腕が(笑)。朝日新聞の劇評にも書いたんですが、簡単な言葉にしてしまうと「赦し」です。とはいえ、岩井さんや岩井さんのお母さんが、暴君だったお父さんを心から赦したかどうかではなくて“信じられないくらいひどいこと”の対処法に「赦し」という新しいカードを出せるようになったということなんですけど。
発端としてお父さんの死があり、生前のエピソードとして『て』に出てくるお父さんの暴力エピソードはここでも登場するんですけど、新機軸として、仕事仲間から見たお父さん像がプラスされるんですね。家族の知らない、家族の前とは真逆の“医師として立派な職業人”がそこにいて、岩井家の人々は戸惑う。その「戸惑い」を、お母さんはある方法で「確認」しようとする。
自分にひどいことをした人に対してユーモアで接するのは、すごく知的で大人な態度ですけど、お母さんが身体を張って試した「確認」への足がかりは、お父さんが生きた価値を認めることで、それはユーモアよりも個人的だと思ったんですよね。私はそれを「赦し」と呼んでいいと思いました。しかも、母親がそうしたことで、ずっと家族の話だったのが、最後の最後に、タイトル通りの「夫婦」の話になりました。
途中まで、だんだんお父さんがいい人に描かれてきて、『て』に洗脳された身としては(笑)、腹立たしくなってくるわけです。「おいおい、今まであんなに憎んできたのに、死んだくらいで岩井さん、日和るのかよ?」と。「わかった、他の誰が赦しても私はあの親父を赦さない!」っていきりたってたんですけど……
藤原 (笑)
徳永 でも最後のお母さんの行動でハッとした。岩井さんはそんなに簡単なことを描いていないんだなと。
藤原 「ひとつだけ」で「新しい物語をください」って書かれてましたけど、新しい物語、もらえましたか?
徳永 はい、もらえました!
▼青年団リンク・ホエイ『珈琲法要』@こまばアゴラ劇場
『珈琲法要』2016年 (C)田中流
藤原 作・演出の山田百次は劇団野の上の主宰でもありますが、ホエイは青年団で俳優として活動してきた河村竜也の企画ユニットですね。この作品は何度か上演されているそうですが、僕は初めて観ました。山田百次らしく、闇が好き……という感じが非常によくあらわれた作品ではないかと。1807年の津軽藩士殉難事件をモチーフにしてるわけですが、恥ずかしながら自分はこの作品を観るまでこの事件のことを知らなかったので、観終わったあと、ネットで調べたり……。
徳永 おー。何か新しい情報は出てきましたか?
藤原 あの事件が明るみになったのが1954年っていうのがね……。150年も歴史の闇に葬られていた、っていうのがかなり衝撃でした。でももちろん、単なる歴史のお勉強ではないわけです。劇団野の上もそうですが、津軽弁の語りがすごく魅力的だなと思った。独特のグルーヴ感があって、惹きつけられます。
徳永 私は前回の東京公演を観ていますが、こんなにグルーヴ感はなかったです。上演を重ねたことで方言が身体に馴染んだと河村さんが仰ってました。
もうひとつ前回との違いで言うと、口琴(※アイヌの言葉ではムックリ)のシーンです。津軽から、対ロシアの警備のためにやってきた人を世話するアイヌ女性のベンケイさんが口琴を弾くシーンが何ヵ所か出てきますよね? 舞台になっている土地に伝わる歌や楽器の演奏が作中で披露され、それを物語のアクセントにするのは平田オリザさんがよくやることで、山田さんはその影響であのシーンをつくったのかなと思いましたが、アクセントとして機能していないかった。技術的に上手くないから、そのせいでシーンが間延びしていると感じて。
それが今回の上演では気にならなかった。演奏が上達したからではなく、他のシーンが立ち上がってきたからだろうと思います。
でも私は途中から「ベンケイさんが老婆だったら……」と考えてしまいました。その土地でずっと生きてきたアイヌの重みと軽さが、ズルさや間抜けさも含めてもっと出てもよかった、あの戯曲にはその可能性があるんじゃないかと感じたんですね。最後の最後にベンケイさんが「でもあんたたちは偉いな」と言う。言われた主人公が「何で?」って訊ねると「ここは本当に寒さが厳しいから、自分達アイヌは冬になったら南に移動して越冬する。なのにあんな達はここにいる。偉いもんだな」と。あのセリフには、津軽藩の若者が寒さと栄養失調で次々と死んでいく、それを支えていた大義とか頑張りをすべてゼロにする破壊力がある。そのあっけらかんとした怖さは、老婆のほうが出しやすかったのではないのかなと。人が死ぬと出す声にならない声も、若い女性だとヒステリーに聞こえてしまう。子供を産んで間もないといった話が出てくるので、そんなに簡単な話でないとは思いますが。
藤原 僕もあのベンケイのキャラクター造形に関してはもっと何かできるとは思います。でも菊池佳南さんが頑張ればいいんじゃないですかね。独特の何かを持っている、もっといける女優さんだと思うし……。方言をモノにすればいいという役でもないから、かなり難しいでしょうけど。
男達にタバコをよこせ、みたいに言うせりふがありましたよね。物々交換、つまり交易をするような関係性だから、お手伝いとか女中みたいな上下関係とも違うんでしょう。それって今の日本人にはあんまり馴染みのない感覚なのかもですね。
▼子供鉅人『重力の光』@下北沢駅前劇場
photo:橋本大和
藤原 個人的にはすっごい楽しんで、劇場出る頃には熱気ムンムンという感じだったんですけど、どうでした?
徳永 私はストーリーにこだわる派なので、もっと深められる話をお祭り方向に持っていってしまったなと、ちょっともったいない気がしました。
藤原 なるほど、プロセスをもっと緻密に組み立てることは出来るはずだとは思います。ただ今回は劇団10周年記念公演だし、派手なお祭りで楽しくやればいいんじゃないかって思っちゃったんですけど(笑)。確かに劇作家としては丁寧に踏みとどまってギリギリのところで粘って書いていくのは大事だと思いますが……。
徳永 祭りと文学性の両立、益山貴司さんはできると思うんですよ。シェイクスピアものというお題をもらって、『マクベス』のスピンオフをやった『逐電100W・ロード100Mile(ヴァージン)』の素晴らしさは忘れられません。
藤原 あれはシェイクスピアのお株を奪うような言葉遊びがとても素敵だった。
徳永 益山寛司さん演じる主人公の光ちゃんが「可愛い」から「みんなにモテて」「男女どちらでも行ける」ではなくて、愛されたら反射的に愛し返す魂の持ち主だということを、最初に示すべきというか、大切にすべきだと思ったんですよ。それはあのキャラクターのベースにあるはずなんですね、天使なわけだから。
なのに、その周囲に集まる人達のエピソードを均等に派手に見せるために、肝心のところがおざなりになって、光ちゃんが分裂症みたいに見えてしまった。
藤原 両性具有の彼=彼女が自分の意志を持たない存在だから、引きずられていく。そこの動機づけが弱かったということですか?
徳永 意志を持っていないのではなく、受けた愛は100%返す存在だから、意志がないように見える。本当はものすごく大きい愛に殉じている存在なんですよ。寛司さんの身体は物語がたくさん詰まっているから、短いせりふでもそれは表現できたと思うんですけどね。
それと、ロロの篠崎大悟さんが出てきた時、恥ずかしながら誰だかわからなかったんです。いつもと全然違っていて。
藤原 アホアホな腐れ警察官ですね。ごめんなさい実は僕も出てるの事前にちゃんとチェックしてなかったんで「あれ……大悟君?!」と思ってマジでびっくり仰天しましたよ……。しかもめっちゃ楽しそうだし、こっちも楽しくなりました。いやー楽しかったなー。
徳永 『天才バカボン』に出てくるホンカンみたいな、クレイジーな警官でした(笑)。『ハンサムな大悟』のあとにアレをやる振れ幅がいいですね。
藤原 客演陣も華やかだったし、僕は今回の『重力の光』は「Dr.スランプ アラレちゃん」みたいだと思ったんですね。ニコちゃん大王とか出てくる感じに近いっていうか(笑)。だから物語の細かい瑕疵とかはもうどうでもいいや、いいから見せてくれお前たちの魂を!、みたいなハイな気分になっちゃったんですね。
でもきっといずれまたじっくり重厚な物語も書くんじゃないかな……。どうかな……。だってヤクザの兄貴とか面白いじゃないですか、影山徹が演じてた、町の平和を守るとか称して架空のイタリアンマフィアと戦ってピザが頭に刺さってるっていう(笑)。なんなんや!
徳永 いくら激しく動いても取れないピザ付きのかつら……。ああいう小道具の隅々まで魂を注入しているバカバカしさは、私ももちろん大好きです(笑)。
あ、もうひとり印象的な役者さんがいました。光ちゃんのことを好きな男の子役の山西竜矢さん。できる人だなあと思いながら観ていました。折り込みチラシによると、今度子供鉅人のスピンオフを演出するみたいですね。
▼ロロ いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校シリーズvol.2『校舎、ナイトクルージング』@横浜STスポット
撮影:三上ナツコ
藤原 高校演劇のフォーマットにのっとって60分で上演する「いつ高」シリーズ(いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校シリーズ)の2作目ですね。いやあ、次が楽しみになりました。なんせ謎を残したままで終わるし……。先日主宰の三浦直之さんが、「シリーズものだと伏線を回収しなくていいので想像がどんどん膨らんで書きやすい」と仰っていて。それって観てるほうとしても、清々しいっていうか。必ず終わらせなくてはいけないという強迫観念がない作品って面白いですね。
徳永 前作を観た時に、高校生にアピールとしていると謳うわりには地味じゃないかと思ったんですけど、いい意味でますます地味になりましたね。むしろ「高校生向け=弾ける」みたいなセオリーといかに距離を取るかという心づもりなんだなと、勝手に判断させてもらっています(笑)。
何しろ、何台もの小型レコーダーを使って、夜の校舎で昼間の学校の音を再現して、そこにあった時間に思いを巡らせるという、超ストイックな挑戦で。うなぎ屋さんの換気扇の下でうっとりしながらごはんを食べるレベルですよ、これ(笑)。
1作目では、カーテンの揺れや模型や写真を使って、観客には一切見えない校庭を想像させた。今回は聴覚を刺激して、繊細で豊かなイメージを立ち上げさせた。三浦直之は自覚的に、欠落をもって演劇の力を発揮させることをやっていますね。
それをひとつの物語にするのに、引きこもりの深夜ラジオオタクの女子というキャラクターを造形するのも三浦さんらしい。しかもその役を、美人の望月綾乃さんがやるのがロロですね。
藤原 望月さん、自分は昔ネクラだったから、あのキャラクターは自分自身の姿だとも洩らしてました。ハマリ役かもですね。「いつ高」シリーズがのっとっている60分の上演で仕込みも10分で……っていう高校演劇のフォーマットには限りがあるから、その限界をうまく逆手にとって、見えないものを立ち上げる。素晴らしいなと思います。でも、伏線ひろげすぎちゃって大丈夫かな。回収できなくて破綻していく連載モノの宿命になるんじゃないか……(笑)
徳永 ポストイットをたくさん貼りつけて、近くで見るとメモの束だけど、遠くから眺めたら学校の形になっているような、最後はそんなことになるのかもしれませんよ。
あ、出演者ではおばけちゃん役の北村恵さんが新鮮でした。失礼ながら、あんなにちゃんと役者をやるなんて(笑)。
藤原 相当、(彼女の所属劇団である)ワワフラミンゴ色が入ってましたけどね(笑)。最高でした。大石将弘さんは怪我してたからあの松葉杖役になったのかなあ。
徳永 彼がやった映画『GO』の窪塚洋介、見事な完コピでした!
藤原 あのシーンをそこで持ってくるかっていう……。脈絡ないのに説得力があるのがすごい。
徳永 あれも含め、作中に出てきた映画や漫画やラジオ番組の注釈一覧が、出演者が書いた解説でまとめられて配布されていましたね。それも高校生向けの気遣いで、いいなと思いました。
藤原 かつ、「ロロの引用の元ネタが分からない」という積年の批評家からの批判をかわす意味でも効果的ですね(笑)。
徳永 役者さん達が意外と制服の賞味期限内なので、当分楽しませてもらえそうでうれしいです。
藤原 「高校生役ができなくなったらどうするんですか」って質問に、「襲名性にしたい」って三浦さんは答えてましたよ。「2代目・将門」「3代目・シューマイ」とかになるわけですね(笑)。そういうのが成立してるのってチェルフィッチュ『三月の5日間』のミッフィーちゃんくらいかなあ……。繰り返し上演されて古典化すれば、いつかは……。
すでに大阪の高校生が「いつ高」を上演したっていう話も聞きました。今後どうひろがっていくか期待したいプロジェクトです。ウェブサイトで戯曲が公開されてますけど、ト書きの1行目がいい。「ファンタジーでなければならない」。
▼ソ・ヒョンソク『客』@新宿某所
IAFT presents「客」2016年 (c)IAFT
藤原 例によって今月もやむをえず話題作を見逃さざるをえなかったのですが、ぜひお聞きしたいものとして、ソ・ヒョンソクの『客』があります。
徳永 ソ・ヒョンソクさんは韓国で多元(ダウォン)芸術のアーティストで、日本ではフェスティバル/トーキョー2014の『From the Sea』が高い評価を得ましたよね。『From the Sea』は観客がヘッドホンとアイマスクを装着して、俳優に連れられて町を歩く、1対1のツアー型パフォーマンスでした。町の音や匂いに刺激されて記憶が引き出され、また混じって、ノンフィクションとフィクションの境界線が曖昧になるという、とてもおもしろい作品でした。それがあったので今回、申し込んだんですけど、そういう方は多かったようで、チケットはすぐに完売、追加公演がありました。
『客』は、Interdisciplinary Art Festival Tokyo(インターディシプリナリー・アート・フェスティバル・トウキョウ)という演劇、映像、音楽、人形劇等の横断的な表現活動を行なうフェスティバルの中のプログラムとして上演されたんですけど、新宿区の某所にあるお屋敷に、観客が指定された時間に行って、20分ぐらいの体験をするものでした。
まずそのお屋敷がすごくて、都心の一等地なのに広大な庭があり、部屋数も多いし、茶室まである。プログラムはリビング、寝室、そして最後に茶室が使われます。このお屋敷自体が持つ物語性が強くて、どんな人物がいつ建てていつまで住んだのか興味津々で、私はむしろゆっくり見学したくなったんですけど(笑)、当然、そうも行かず。
パフォーマンスは、まずリビングにクレヨンと画用紙が用意されていて、自分の小さい頃の顔を描くように指示されました。次にヘッドホンをするとナレーションが流れてきて「幼い子供であるあなたに声をかけてください、その子は今ひとりで劇場に座っています。目印は白い座布団です」みたいな話を、確か聞きました。そして2階に行くと白くて丸い座布団があり、そこに座ると役者さんが現れて、導かれ、次にベッドで添い寝をされるんですけど、目を閉じるように言われ、目を開けると、最初に自分が描いた絵がお面になっていて、役者さんがそれを付けているんです。
『From the Sea』もそうだったけど、役者さんの語りかけが、質問なのか質問じゃないのか微妙で、それも狙いなんでしょうけど、答えるべきなのか答えなくていいのか迷うことが何度かありました。……いや、答えなくていいプログラミングもされているんでしょうけど、テーマが“幼い頃に置き去りにしてきた本当の自分”という、わりと絞られたものであると早くから感じられて、そんなものはないというか、あったとしても人前にそれを出すモードにはそう短時間ではならないわけで、場所が密室であることと相まって、非常に窮屈だったんですよね。窮屈というか、観客に求められる振る舞いが、あらかじめ決められているように感じてしまいました。
下の名前、私だったら「京子、京子」と呼ばれたあたりでそれが鼻につき(笑)、最後の茶室を出る時に「あなたはあなたの演劇をこれから始めてください」と言われるんですけど、私の実人生がお芝居かどうかは余計なお世話だし、人生=芝居だとしても、それはかなり古臭い定義じゃないですか。
藤原 そうですか。サイトスペシフィック・アートに造詣の深い人たちが今のお話に近い感想を漏らしていたので、どうだったのかなと思ってたんです。
徳永 最初に描かされた子供時代の自分の絵、私は小学校3〜4年生の頃の自分を描いたんですけど、その後のナレーションは明らかにもっと小さい頃を想定しているようで、その開きを修正しきれないままパフォーマンスが進んだ戸惑いもありました……。
藤原 難しいですよね。韓国語とのあいだで、実は言語的・文化的な齟齬もあるのかもしれないし。
徳永 ああ、それは少し考えました。流れてくる言葉、役者さんから語りかけられるせりふに、どう反応していいのかわからない宙づり感があったんですけど、もしかしたらそれは翻訳のせいかもしれないなと。翻訳が下手ということではなくて、幼少期に対するリテラシーの違いとか。判断は難しいですけど。
藤原 自分の記憶を他人に語ることをどう捉えるかの違いもあるのかも。
徳永 たとえ自分の意志で参加したとしても、初対面の人には言いたくないことってありますよね。でも私は、パフォーマンスを先に進めるために仕方なく協力してその言葉を言った。でも言わなくてもよかったかもしれなくて、そこに二重に傷付くわけです。そういう意味で、後味はあまりよくなかったですね。
藤原 もちろんソ・ヒョンソクは、観客にプレッシャーをかけること自体は意図的にやっていると思うんですね。ただ実は、日韓のあいだで様々な感覚的な齟齬があるのかもしれなくて、だとしたらそれはお互いを知る上でも興味深い違いかもなって。
徳永 ただ、『From the Sea』でも今回も強く感じたのが、役者さんのパフォーマンス能力の高さ! ひとりひとりの観客に合わせて瞬時にいろんな選択をしていると思うんですけど、その柔軟性には感じ入りました。
▼危口統之『はだかのオオカミ』@ いわき総合高校
藤原 もうひとつどうしてもお聞きしたいのが、危口統之『はだかのオオカミ』です。こないだたまたま劇場で危口さんをお見かけしたら、この人は何かひとつ大きな仕事をやってきたんだろうなあ、という風貌になっていました。まるで、戦争が終わったのを知らず、数年間山の中で生きていた人のような……。
徳永 そ、そんなすごい変化を!?(笑)
この公演は、飴屋法水さんが一昨年、岸田國士戯曲賞の賞金20万円をいわき総合高校に寄付することで生まれたんですよね。受賞作『ブルーシート』は、いわき総合高校のアトリエ公演で生まれたもので、予算がなくて飴屋さんの年でそれが終わると聞いて、自分の演出料がちょうど20万円だったから、それをそのまま、次の公演のために使ってもらいたいと授賞式でおっしゃった。
それを引き継いだのが、悪魔のしるしの危口統之で。危口さんは、既存の建物に、それは無理だろうと思われるギリギリの大きさと形のオブジェをつくって、観客も参加してそれを建物に入れる「搬入プロジェクト」が国内外で人気ですけど、これは大学時代に学んだ建築から生まれたパフォーマンスですよね。悪魔のしるしでは、実のお父様を俳優として起用して共演したり、ご実家とその地域の歴史を採り上げたりして、つまり、これまでは自分から出てきたことを作品にしてきたつくり手なんです。
その人が高校生にどんな作品をつくるのかといわきまで観に行ったら……これがびっくりするくらいおもしろかったんです!
危口さん、いい意味で実はすごく器用なんだなと新発見しました。今年度の生徒さんは20人で、しかも全員女の子だったんですけど、ひとりひとりをみんなちゃんと活かしていた。『はだかの王様』と『オオカミ少年』を足した物語も、ストーリーとしてとてもよくできていましたし。
感動した点はいくつもあって、まず、無駄がひとつもなかったこと。最初、ジャージ姿の生徒達が、この公演の稽古前という感じで、みんなでお菓子を食べているんですけど、それがブルボンの袋菓子で、口々に「ルマンドが1番好き」とか「ロリエがいい」とか「ブルボンのお菓子はみんなパクリっぽい」とか好き勝手を言っていると思ったら、ブルボン→王朝っぽい柱の舞台セット、『はだかの王様』の宮殿、ブルボンのお菓子の名前が貴族達の名前と、次々とつながっていって。
その柱も段ボールでできているんですが、王様やお妃に代わって政治を行なっている貴族達が色違いの毛布をガウンのように着ていたり、あえてのチープさが、題材にしている童話の世界の入り口にもなっているんですよね。
演出家としてすごいと思ったのは、高校生と作品をつくるとなったら、どうしても瑞々しさとか生命力とか弾け具合とか、その時期、その年齢だけが持つエモーショナルなものを作品に取り込むことが当然みたいになると思うんです。たとえばいわき総合高校で過去につくられた藤田貴大さんの『ハロースクールバイバイ』のいわきバージョンも、飴屋さんの『ブルーシート』も、それが前提にあった。その“現在性”はあって然るべきなんですけど、危口さんは一切そこを勘定に入れなかったと思います。
それに関係する話で、劇作家としてもすごくクレバー。演劇ってどうしても過去を扱うことが多いじゃないですか。それを俳優の肉体の現在性でカバーするところが構造的にあって。でも危口さんは戯曲に相当、未来を仕込んでいた。もしかしたら私がこれまで観たり読んだりした戯曲の中で1番、未来が取り込まれたものかもしれないと思いながら観ていました。なんでもないせりふなんですけど「今はわからないかもしれないけど、いつかこのせりふの意味するところがわかると思うよ」と生徒に向けられた意識を、全体に強く感じたんですよね。3年後かもしれないし10年後、30年後かもしれないけど、未来に開く時限爆弾がたくさん仕掛けられていたというか。
それが可能になった理由でもあるんですけど、内容がリーダー論、民主主義論なんですよ。何もしないことで、平和の象徴として存在することで国を統治してきた王様が、見えない衣裳に大金を費やしたことを糾弾されて「みんなが自分を必要としていないなら」と自ら王座を降りるんですけれども。入り口はおとぎ話だけど、途中からどんどん深読みが利く苦い話になっていく。王様は野に下りてオオカミ少年と出会い、そこでまた苦い展開が待っていて……。いやぁ、本当によくできた話でした。
藤原 君主が何もしないのがいい世の中だっていうのは確か中国の思想の中にありますよね。易経の「垂裳」とか、老子の思想とか。危口さんのことだから数千年のことは射程に入れてそうですね……。
徳永 手を加えて悪魔のしるしバージョンで再演したいとおっしゃっていたので、危口さん自身も手応えがあったんだと思います。
藤原 高校生たちの日常的な想像力を超えているような感じがしますね。ロロの「いつ高」とはまた別のアプローチで。……飴屋法水さんの岸田賞の賞金で実現した、っていうのがまたドラマです。
徳永 いわき総合高校のアトリエ公演は、プロのつくり手にとっても大きな経験になっていることが多いので、これからも続くといいですね。