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この俳優、魅力的につき   第1回 大石将弘(ままごと/ナイロン100℃/スイッチ総研副所長)【後編】

この俳優、魅力的につき

2015.09.28


「演出家の時代」と言われて久しい。それを反映するかのように、演劇人へのまとまったインタビューは、圧倒的に演出家、劇作家が多い。しかし最近、俳優発信の企画が目に付くなど、刺激的な小劇場を形成する俳優の存在感が高まっている。観る演劇は基本的に演出家で選ぶ徳永京子が、その中核にいる、気になって仕方のない彼/彼女にじっくり話を聞く。

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第1回 大石将弘(ままごと/ナイロン100℃/スイッチ総研副所長)【後編】
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ままごとのオーディションに受かった日に、
上司に「辞めます」と言いました


──就職先は東京ですよね?

「東京の(演劇状況の)様子を見たいっていう下心がありました。広告の制作会社に入ったんですけど、そこが自由が利く職場で、2年目ぐらいからスケジュールを自分で管理できるようになったので、お芝居のオーディションを受け始めたんです。受かると“18時打ち合わせ、戻り23時”ってことにして、夜の稽古したあと会社に戻って朝まで仕事して、帰ってちょっと寝て、みたいな生活を送ってました」

──柴さん(ままごとの柴幸男)との出会いは?

「劇作家協会研修科の別役実クラスの作家さんたちが作・演出する公演のオーディションに受かったんです。そこにふじきみつ彦さんがいらして、ふじきさんから“おもしろい芝居つくる人がいるよ”と柴さんの名前を聞きました。最初に観たのは『御前会議』(08年)で、すぐにこの人と仕事がしたいと思って舞台を追っかけるようになって、オーディションがあるのを知ったんです。それまでも“これに受かったら会社を辞めることになるのかな?”と思ったオーディションがいくつかあったんですけど、どれも結果はだめだったんですね。ままごとは“柴さんと仕事が出来るなら会社を辞めてもいい”って初めてはっきり思えたんです。制作の宮永(琢生)さんから受かりましたってメールが来て、その日のうちに上司に“辞めます”と言いました」

──柴さんの作品のどんな点が、他とは違ったんでしょう?

「会話劇の中で、静かなものも好きだけど、リアリズムから飛躍した猥雑なものも好きだったんですね。柴さんの作品は猥雑ではないんですけれども、ただ静かなだけじゃない。そのバランスと、演出がひとつのアイデアで成立してるのがいいなと。貫かれてるアイデアがすごい強いじゃないですか。格好良いなと思いました」

──そのオーディションが『スイングバイ』(10年)で、大石さんは柴作品初出演にして主役を演じ、間もなくままごとの劇団員になられます。

「『スイングバイ』のあと何も予定がなくて、もう1回就職しようかなとも考えていたら、その年の夏にやるtoiっていう、黒川深雪さんと宮永さんのユニットで柴さんが演出をすることになってて、出ないかと誘ってくれたんです。その稽古の帰り道、京浜東北線の中で“劇団員になりませんか?”と。僕が“はい、なります”ってすぐに返事したら“もうちょっと考えといて”と言われました(笑)」

──話は飛びますが、ナイロン100℃もKERAさんの演出を1作受けて(『SEX,LOVE&DEATH』13年)、すぐに「劇団員にならないか」と誘われたんですよね?

「そうです。まだ稽古中だったかな、本番中だったかな。KERAさんの作品もナイロン100℃の役者さんたちも以前からずっと好きで憧れていたし、ままごとを辞めなくていいという条件だったのもあって、ありがたくお受けしました」

──あの公演は本当に驚きました。3本のオムニバス全部で大石さんは目立つ役にキャスティングされていて、でもそれが充分納得できる“笑いの武器”ぶりで。大学時代にやったコントの筋肉が役に立った?

「頼れるのがそこしかなかったです。やっといて良かったなって、すごく思いました」

──話を戻しますね。『スイングバイ』後の約2年は、あらかじめわかっていたスケジュールとは言え、柴作品への出演がありませんでした。焦りは無かったですか?

「自分としては、これは与えられた猶予で、この時間を使ってどう成長するかだって考えてました。それでいくつかオーディションを受けたんですけど、この時期にマームとジプシーの藤田(貴大)くんと何作か一緒にやれた(『コドモもももも、森んなか』『Kと真夜中のほとりで』(どちらも11年)、『あっこのはなし』(12年))のはすごく良かったですね」

──どんな点が?

「体力的にも鍛えられたし、藤田くんは時々稽古場で役者を追い込むので、そういう稽古場への耐性がつきました。それと彼が伝えてくれた、発話の仕方やせりふや動きに対する考え方は、そうしたことをあまり学んでこなかった自分にはすごく勉強になりました。その時よく言われたのは、役者の中にちゃんとイメージがあるかどうかが大事だということ。何もない空間がどこかの街の路地裏や湖になる時に、まずその風景のイメージを役者ができるだけ細かく持つこと。その意識はのちのち、例えば『朝がある』(12年)ですごく役立ちました。あと、せりふに書かれてることは全てじゃない……って、当たり前のことですけど。せりふに書かれた言葉は蛇口をひねって出てくる水で、その後ろに見えないタンクがある。そこにある(言葉にならない)ものが大事だと。すると、せりふしか言えない状態にフラストレーションが生まれる。俳優の状態としてすごく興味深い体験が出来ました」

──柴さんから、そういう演じる上でのアドバイスを受けたことは?

「あまり役者の内面には興味がないんだと思うんですけど、あまり聞いた記憶がないです。基本的にされるのは外側の演出で。『日本の大人』(13年)の時に1番されたかな、やりとりがウソになっていないかどうか、みたいな話を」

──インタビューしたいと思った理由のひとつなんですけど、ままごとの代表作『わが星』には出演されていないけれども、大石さんは柴さんの大変な時期、重要なタイミングの作品に出ているという印象を持っているんですね。『スイングバイ』は、岸田戯曲賞の受賞直後で、『わが星』の評判もあって、柴さんに相当大きなプレッシャーがある時だった。その後、そうした喧噪から距離を置くように柴さんは東京を離れ、各地でワークショップや滞在制作することに活動をシフトしていく。私がそれにひと区切りついたと感じたのは、大石さんが久々に柴作品に出演された『テトラポット』(12年2月)でした。あれは柴さんが“移動すること”と“つくること”のクロスポイントを見つけた作品のように感じて。そして大石さんのひとり芝居『朝がある』(12年6月)は、音楽に引っ張られ過ぎた『わが星』再演に対する文学からの応答だったのではないかと思ったんです。具体的な音楽を使わず、純正文学のせりふに音楽性を見出そうとしたのではないかと。

「あー、もしそう見えたとしたら、うれしいですけど、僕にはまったくわからないです。柴さんから特に何かそういう話があったわけではないですし」

──確かに、大石さんにお聞きすることではないんですけどね。と言うことは、柴さんは稽古場ではいつも変わらないんですか?

「厳しい時期もありましたけど……。『朝がある』の時は、出演者が僕だけだったので“もしうまく行かないことがあるとしたら、原因は自分か俳優のどちらかにしかない。悩んだり苛立ったりする必要はない”とままごと新聞(ままごとが発行しているフリーペーパー)に書かれていましたね」


誰にでも出来る演劇と、特別な人にしか出来ない演劇、
どちらにも関わりたい


004

──では、去年から立ち上げられたスイッチ総研についてお聞きしますね。まず、始められた理由と経緯ですが。

「オファーを待っていれば次々とスケジュールが埋まっていくような売れっ子俳優に、自分はならない可能性の方が高いなと思った時に、仕事をつくっていかないとダメというか、つくる側の仕事を持ちたいと考えるようになっていったんです。ワークショップの企画とか、自分でお芝居をプロデュースするとかも考えたんですけど、いまいちしっくり来なかった。そんな中で2013年にままごとが横浜の象の鼻テラスでやったイベントの中で偶発的に『スイッチ』っていう作品が生まれて、すごく可能性を感じられるものだったんですね。可能性っていうのは、いろんな場所でできて、その場所ごとに作品が変化する可能性。実際、そのあと小豆島でもやったんですけど、たくさんの人がおもしろがってくれた手応えがありました。それで今年4月に六本木アートナイトのプログラムが公募されているのを知って、慌てて団体にして応募したのが経緯です」

──大石さんは副所長で、ニッポンの河川の俳優である光瀬指絵さんが所長。固定メンバーはそのふたりですね。

「光瀬さんは象の鼻テラスから参加してて、全体の演出も彼女がやってくれていたんです。それで僕が光瀬さんを誘って、巻き込む形で団体にしました」

──他の演劇には無くて、スイッチ演劇がこの世の中にあると生まれるものって何だとお考えですか?

「普通のお芝居は、予約とかチケットを購入することで、やる側と観る側の契約を結ぶんですね。チケット買ったから、お客さんには観る権利が与えられるし、やる側にはやる権利が与えられる。これ、スイッチが生まれた理由になるんですけど──、道行く人にいきなり演劇を見せても、うるさがられたり驚かれたり、迷惑がられますよね。音楽とか絵画は、そこにあっても気にしなければ無いことにも出来るんだけど、演劇って表現として相当強いので。そこで不快に思う人をゼロにするためにどうすればいいかって考えた時に、チケットを買う、売るっていう形じゃない契約を結べればいいのではないかって話になって。そこで“○○してください”というお願いごとを書いたものを置いておいて、そのお願いを聞いてくれたお客さんにだけ、私達もやりますねっていう関係はどうだろうかと。そこがまず、普通のお芝居と違うところだと思います。
もう1つは、お客さんが参加するハードルがすごく低いこと。お願いごとは“太鼓を叩いてください”とか、子どもにもおじいちゃんにも出来ることなので、道行く人が小さな好奇心を簡単な行動にさえ移せば、誰でも観客になれる。だから1回やったお客さんがおもしろがって何回もやってくれたりとか、他のスイッチも何が起こるのか試したくなる。次の行動を生むんですね。ノリの良い人は演じる側に回ってくれることもあるし、さらに自分でスイッチを考え出す人もいる。スイッチやった帰り道に“これをこうしたらどうですか?”みたいな自分のアイデアを出してくれたりして。つまり、お客さんになることと、演じる側になること、つくる側になるということが、かなり敷居が低い状態でシームレスにつながる。それが他とは違うところかなと。スイッチを押すと3秒から30秒の演劇が始まるのがスイッチなんですけど、こんなにハードルの低い演劇はないから、みんな1回やってみてほしいと思ってます」

──あえてお聞きしますが、なぜそれを演劇と呼ぶのでしょう? コントでもネタでもなく。

「なんでだろう? それ、準備してなかったな。まだ、ずっと考えてます」

──「みんなやってみたらいい」が実現すると、一億総俳優、総演劇作家、総観客になるわけで、そうなってもいいんですけど、その自給自足って、タコが自分の足を食べるような痩せたものになっていく心配が生まれませんか?

「一億総演劇人になってもいいのかっていうことで言うと、僕はいいと思ってます。演劇は誰にでも出来ると思っているので。一方で、特別な人にしか出来ないとも思っていて、自分はその両方をやりたいと思っているんですね。誰にでも出来る演劇と、特別な人にしか出来ない演劇、その両方に関わりたいと思っています。悪魔のしるしの危口統之さんがTwitterに“演劇が日曜大工のようになることを夢想している”って書いてて、すごく共感したんです。演劇のDIYと言ってもいいかもしれないけれど、自分の生活空間とか生活の規模とかスタイルに合わせたものを、休みの日につくってみる、それぐらいの気軽さっていいいなぁって。
それと、つくったりやったりするのは単純におもしろいと思うんですよね。一億総演劇人になると、お芝居やる人は観る人にもなるので、まず演劇界的にいいんじゃないかって思うのと、これ、柴さんが言ってたんですけど“おもしろい芝居はやってる方も観る方もおもしろいけど、つまんない芝居は観る方はつまんないけど、やってる方はおもしろい”って。極論なんですけど、つまんない芝居でもやってる方はおもしろいんだから、全員やれば、それがつまんなくても皆が楽しめていいじゃんっていう。もちろん、おもしろいに越したことはないんだけど、やったりつくったりする方がおもしろいということは大切だと考えてます」

──その“日曜大工”は演劇でなくてもいい?

「僕はたまたま演劇でしたけど、音楽でも何でもいいです。そういうものが無くても豊かに生きてる人はいると思うんですよ。ただ、これは僕がワークショップの講師をやってる理由でもあるんですけど、おもしろいことを何かやりたいと思いながら出来ないっていう人がいて──僕がそうでした──、自由に何でもやっていいよと言われてもいきなりひとりでつくるのは難しいと思うんです。でも、例えばスイッチみたいなハードルの低いものならルールさえわかれば誰にでもできるし、おもしろいものになり得る。最初からひとりで作品はつくれなくても、100個の思いつきを組み合わせれば絶対おもしろいものができると思うんですよ。1回つくれば、その体験が元になって、その次に繋げられると思うし。そういうナレッジを共有出来たらいいなぁと思いながら、今はいろいろ(俳優もスイッチ総研もワークショップ講師も)やってるという感じですね」
(完)

ままごと

2009年に、劇作家・演出家の柴幸男によって旗揚げされた、柴幸男の作品を上演する団体です。近年は小豆島や公園など公共空間で、“その時、その場所で、その人たちとしかできない演劇”を模索しています。 演劇を「ままごと」のようにより身近に。より豊かに。 ★公式サイトはこちら★