岡田利規×山本卓卓インタビュー『想像力を信じる、その先へ』
インタビュー
2019.01.22
日本の演劇の新作主義が影を潜めてきたのは、いつ頃からだろう。新作でないと観客が集まらない、マスコミに取り上げられない、書けない劇作家というイメージがついて外部からオファーが来ない、などの理由で、あるいは60年代からの慣習で、公演=新作という時代が日本では長く続き、それが劇作家の心身を消耗させてきた。それが2000年代前半あたりだったか、「劇作家がこんなに次々と新作を書く(求められる)国は他にない」と声が上がるようになり、同時に良質の再演も増え、今それは、つくり手にも観客にも前向きに受け入れられている。
チェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド』と範宙遊泳『うまれてないからまだしねない』は、ほぼ同時期に東京で公演するが、どちらも初演が2014年、約5年の時間を挟んでの上演となる。作風も世代も違うふたりだが、それぞれに大きな指針にしていた想像力への意識が、ここに来て変化しているらしい。ふたりの作・演出家は何を思い、過去の自身をどう更新するのか。岡田利規と山本卓卓に話を聞いた。
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中途半端な古さを更新して『ソリッド』を目指す
── まず、「再演」をどう考えているかをお聞かせ願えますか? というのは、この10年ぐらいで同じ演目に取り組み直すことの捉え方が変わってきたと思うんです。
山本 そうなんですか?
── 私見ですけど、チェルフィッチュが変えたと感じていて。以前は、1度やった演目を、キャストなり演出なりを変えて、または戯曲を書き換えて上演することだったのが、チェルフィッチュが海外で複数の演目を同時期に上演したことで、作品は恒常的に回すことができるレパートリーだという認識が広まった。また、その活動に伴う“世界初演”という言い方が「再演」という言葉を無効化もしたと感じています。
岡田 なるほど。考えてみると、「再演」という言葉が意味するものにはいろんなケースがありすぎますね。つまり、ほとんど役に立っていない言葉ってことですよね。「初演じゃない」ぐらいのことしか意味しない。……だからたぶん、「再演」という言葉を使わないというのが賢明かも。『スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド』に関して言えば、かつて上演に用いた『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』というテキストがあって、それを使う。で、その上演の仕方は大幅に変わります。
山本 『ソリッド』を付けたのは、岡田さんの中で「今回は再演と言わない」ということがあったんですか?
岡田 というより、前回と違うコンセプトでつくり直すんだってことを、まず自分たちで確認したかった。で、何か(言葉を)付け加えようというところから始めたんです。
── 昨年、24歳以下の俳優をオーディションで選んで『三月の5日間』を上演した時は、『リクリエーション』でしたよね。今回、わざわざ『ソリッド』という言葉にしたこだわりは?
岡田 ソリッドな作品にしたかったからです(笑)。
山本 僕、ST(スポット)でやった『わたしたちは無傷な別人であるのか』を観ているんですけど、あれ、あとから『わたしたちは無傷な別人である』にタイトルを変えましたよね。『である』に変えた後も上演していますか?
岡田 何回か上演しましたよ。
── 山本さんは、何をもって再演とする、といったこだわりはありますか?
山本 とにかく、更新するぞみたいな気持ちはありますね。そのためには、現在はもちろんですけど未来について考えることが必要で、未来を向きつつ過去にも向いてるという状態は、再演特有なのかなっていう気がします。
── 範宙遊泳はあまり再演をしない印象がありますが。
山本 『幼女X』は何回もやりましたけど、他の作品はそんなにやっていないです。
── 今回、『うまれてないから〜』をもう1度やることにした理由は?
山本 ぶっちゃけて言うと、僕の深い想いというより、最初はプロデューサーの意向です。本多劇場という今までより大きな劇場で公演するにあたって、いくつかの理由からこの作品が良いんじゃないかと提案があって。それでテキストを読み返してみると、ああこれは震災の話だなと、書かれているのが震災の暗喩だと気付いたんです。
── 初演の時は無意識だった?
山本 はい。で、書いてから5年経つんですけど、自分の震災に対する距離感が(戯曲を書いた当時と)かなり変わっていて、これは何だろうと考えるところから作業が始まりました。そんな時、8月に西日本大豪雨がありました。そのニュースを見て僕は、これは再演できないと思ったんです。なぜかと言うと、この話には大洪水の描写が出てくるし、今、自主規制とかいろいろある中で、リスクが高過ぎるんじゃないかと思った。でも少し時間が経って、やめるのはちょっと違う、やるべきだという気持ちになって、今度は、それはなんでだろうという気持ちになって、そこを考えて稽古しています。
岡田 今の話を聞いて、それこそ再演の意義だなって思いますね。つまり西日本豪雨があって、やれないと思ったのが、むしろ、やれるようになったというのを言っているんだけど。もしその作品が、西日本の豪雨だったり、どこかの地震だったり、それそのものを扱っているなら話がもう少しデリケートになるのはわかるんだけれども、そうじゃない場合は結局、符合じゃないですか。(演劇が生み出すフィクションが現実と)ぴったり合うという意味の符合ね。これはすごく大事なことで、結局、それが起こるかどうかなんですよ、再演は特に。さっき山本くんが「未来も過去も同時に見る」と言ったけど……もっと良い表現だった?
山本 いや、そう言いました(笑)。
岡田 みたいなことって、符合が起こるかどうかと同じ意味だと思う。
── 作家が自覚していなくても、作品の中に予見性が含まれていて、時間が経過した再演時にこそ、それが証明されるということですね。優れたアーティスト=坑道のカナリアで、まだ表出していない社会の問題点をいち早く作品に反映しているから、再演の時に社会と足並みが揃うケースがある。
岡田 自分のことで言うと、起こるという確信が『三月の5日間』の時はあったんですよね。
山本 そうなんですか?
岡田 うん。だけど『ソリッド』に関しては、今のところよくわからない。まず、この作品で描かれているコンビニは、最近のコンビニじゃないんですよね。で、その古び方が、ちょっと中途半端な気がする。例えば『三月の5日間』のイラク戦争の現在との距離感は、いい感じのエイジングと言えるようなものになっている気がするけれど、こっちの古び方はもしかしたら、1番イタい感じになる可能性がある。だから「ソリッド」にしようかな、という。
── ああ、微妙な古さが醸し出す贅肉感を削ぎ落とすという意味でのソリッド。
山本 戯曲は変えたんですか?
岡田 ほとんど変えていないです。今回は思いっきりフォーマリスティックにしちゃおうとしています。そのほうが、今の東京のお客さんにアクセスできるような気がして。ただの勘なんですけどね。
─── 初演がかなり形式的な作品だと受け取っていたので、今のお話は意外です。
岡田 あ、そうですか。
── クラシック音楽(バッハ『平均律クラヴィーア曲集』第一巻全48楽章)の楽章ごとにシーンをきっちり分けられていたのが大きな要因だと思うんですけど、俳優の動きも緩やか、美術もチープな書き割りと、脱力系の空気が流れていながら、それらがかなり緻密に統率されていると感じたので、岡田さんの作品の中でもかなりフォーマリスティック系と認識していました。
岡田 そうかもしれないですけど、今回はそれをもっと推し進めます。
── それと、ここで描かれているコンビニがちょっと古いというのも、初演時に日本以外の国で上演した時にそもそも、コンビニへの認識の国ごとの差があったはずなので、古さを問題にされているのも意外でした。
岡田 いや、コンビニがない場所でコンビニの話をやるのは、むしろ問題はないんですよ。コンビニはなくても消費主義はそこにだってはびこっているわけなので。今、コンビニの話をするんだったら、基本、店員が日本人じゃないのが当たり前みたいなところからやらなきゃいけないでしょう。『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ2』を書いてみたいなと、思ったりしています。
大人になる契約ができなかった人たちの『うまれてないから〜』
── 山本さんは、『うまれてないから〜』の書き換えはしているんですか?
山本 僕もあんまりテキストをいじっていません。
岡田 それをやっちゃうと、キリがないもんね。
山本 その通りです。それだったら、もう、この作品である意味はない。だから、変わったのは何かって言われれば、書く言葉の違いがまずあります。ここで書かれている言葉は、今の僕なら書かないだろうというものがすごく多い。それと演出が全然違いますね。初演の時は、演出と書くのとほとんど同時進行だったから、俳優の様を拾いながら、1度書いた言葉を変えたりっていうこともあったし、それを俳優に要求していた時代だったりもしたんですけど、今回はそうではないから。だから完全に演出家という気持ちでやっています。「作・演出」と付いてるけど、「作:5年前の山本卓卓、演出:5年後の山本卓卓」みたいな気持ちで。
── 5年前の劇作家・山本卓卓は、いかがですか?
山本 若いなぁと思います。
岡田 それ、どういう意味? 良い意味? 未熟みたいなこと?
山本 良い意味、でももちろんありますけど、「ここでこの言葉を持ってくるか」というところで、青春しているなぁと感じます。……あ、今、「青春」ってワードが出て思い出しましたけど、今日、再演つながりで言いたいなと思っていたことがあって。『三月の5日間』は、僕、青春の話だと思っています。それに気付いたのはわりと最近で、2〜3年前ぐらいかな。なんでそう思ったかと言うと、嘔吐するシーンがありますよね、女性が渋谷のホテル街を歩いていて、ゴミ置き場にいるのが最初は犬だと思っていたら、ホームレスの男性だったと気付いた時に。
岡田 あれが青春のシーン?
山本 契約のシーンだと思ったんですよ、若者から大人になる瞬間の。せりふとしてはサラッと言われるだけですけど、あのシーンがあったからすべてが一本に通ったというか。そのぐらい、あそこが大好きで。彼女たちは、5日間やりまくるわけじゃないですか。性欲のことしか考えてないっていうか。それって青春で、恋愛とか愛とかって、もっと成熟した人たちの営みな気がする。だけど、彼らはひたすら、外の世界で何が起ころうが、目の前の性欲をひたすら消費していくことも、すごい青春だなと思って。
岡田 僕はあんまりその意識がないですね。でも、岩松(了)さんもそう書いてたな、(岸田國士戯曲賞の)選評で。
山本 あ、本当ですか。
── 確か、「青春のすべてがここにある」と書かれていました。
岡田 それを読んだ時も「そうかぁ」と思ったんです。ということは、たぶん僕は青春というものをわかっていないというか、実感していなんだと思います。で、今わからないということは、この先も理解できないでしょうね。
想像力より具象を&想像力をここにいないものへ
── 5年前、山本さんは何歳でしたか?
山本 26歳です。
── その時に書いた戯曲のどこにご自分で青春を感じているのか、もう少し説明していただけますか?
山本 うーん……人との関係にイライラしていたのが表れていたり……。
岡田 ああ、そんな作品だった記憶は残っていますよ。
山本 『うまれてないから〜』は、この現状を変えたいと思ってヤキモキして、そのために相手を変えたいと思って、でもうまく行かないと考えていた当時の自分が反映されています。だから受け入れるしかない、流された方がいいと思っても、詰まっているから流れない。それって青春だなって気持ちが僕にはあります。しかも青春で止まっちゃう話なんです。彼ら(登場人物)がその先に行けないという話。だから、青春で終わっちゃってる。
── 『三月の5日間』のように、大人になる契約はしないんですね?
山本 しないというか、できなかった人たちの話です。できるかもしれないのは、お客さん。お客さんは常に時間が続いてくから。そういう気持ちでつくっています。
岡田 観客が違うじゃないですか。つまり、時代が変わったというのと同じ意味なんですけど。それに対処するみたいなことはしてるんですか? 5年経って上演し直すための作戦みたいなことがあったりするのか。あるいは、そういう観点から、前とこんなところは変えてみたいといったことがあるのか。もしあったら、どんなことを考えているのか知りたいんですけど。
山本 たぶん、僕、初演の頃は、演出家としてもっと、お客さんの想像力を信頼していたと思います。でも今は、ちょっと気持ちが変わってきています。想像力って僕の中では抽象なんです。例えば、鉛筆を枝に見立てるのは抽象だと思うんですけど、以前はかなりそこをかなり大事にしていた。でも今は、もっと具象がほしいんですよね。抽象は要らないってことじゃなく、具象と抽象が同時に存在する世界をつくりたい。鉛筆を枝だと言う人と、鉛筆を鉛筆としか思えない人が同時にいていいというか、いるべきだっていう気持ちになっています。
岡田 舞台美術とか?
山本 そこをかなり意識してやっています。
岡田 山本くんは文字を使うでしょ?(*会場の壁に、せりふや文章、擬音などを映写して、俳優はそれと関わりながら演技する) 文字って究極に抽象じゃないですか。そこはどうするんですか?
山本 今回も使います。僕が文字を使うのも、お客さんの想像力を信頼しているってことなんですけど、でもそこに加えて今回はすごいソリッド……いや、実は僕もさっきからソリッドに対抗できる言葉がないか、ずっと考えてるんですけど(笑)。「ダイナミック」?
岡田 まんまだけど、「コンクリート」は? 『うまれてないからまだしねない コンクリート』。
山本 「コンクリート」ですか。「ダイナミック」は普通か。まぁ、これまで信頼してきた想像力以上のことを狙ってはいるんですけど。
岡田 今の話を聞いて、山本くんの考えを全部を理解できたとは思わないんだけど、興味のあるところは重なっていますね。僕もこの何年か、想像力ってことをわりと言っていたんですよ。だけどここに来て、想像力をぐいぐい押し出すみたいなつくり方をするのは、そろそろ止めようかと思っているんです。山本くんは想像力を抽象と言ったけど、僕的には了解事項というのが、今はピンと来る。こっちも知っていてそっち(観客)も知っている、コンセンサスが前提にあって成立するものじゃないですか。つまり、鉛筆を「枝です」とする時に、枝を知らない人には通用しないですよね。これは極端な例だとしても、自分の知っていることを相手が知らないケースはあり得るわけですから。もちろん、想像力をまったく信用しないってことはできないし、有力なものだとまだまだ思っているけれど、でもそれだけを信じていると、意外な落とし穴、というか限界、というか行き止まりが出てくる気がしている。じゃあどうするんだっていう答えはまだ見つかっていないので、それをこれから考えたい。想像力原理主義的に作品をつくっていくことは、自分にはもうできるし、続けていけばさらにできるようになるとは思うんだけど、そのことが重要という気がしなくなってきたんですよ。
── それは、演劇の外に作用する力を持ちたいということですか?
岡田 いや、それとはまたちょっと違います。というのは去年、展示をやりましたけど(チェルフィッチュの〈映像演劇〉『渚・瞼・カーテン』、熊本市現代美術館)、それも僕にとっては演劇だったし、傍目には、これは演劇じゃないとされているものでも僕は演劇としてやれるんですよ。で、そこにはやっぱり想像力も大きく関わっている。だから演劇の外というよりも、今、僕が興味があるのは、例えば演劇って、今、ここにいるお客さんに対してやるんだけど、そうじゃないものをやっていきたいってことなんです。今、ここにいない人だったり、もっと言うと人間じゃなかったりみたいな対象も含めて。
山本 それ、めっちゃおもしろそう。
岡田 『ソリッド』がそれになるかというと、また別の話なんですけど。
山本 今の話を聞いて思ったんですけど、お客さんが岡田さんのある作品を観た、で、例えばその3年後とかは想像しますか?
岡田 具体的に想像はしていないけど、でも、それもさっき言ったことには含まれると思います。
山本 僕、そればっかり考えてます。「今日これ観た。良かった、悪かった」じゃなくて、何年後かに皿を洗っていてふと思い出すとか、夢に出てくるとか、お客さんの先の時間にリーチしたい。わりと真剣にそれを信じていますね。5年前の僕は想像力の方が強かったんだけど、今はトラウマの時間というか、傷として残る時間に期待したいと思う。
岡田 観た瞬間にグサッと行くものではなくて、3年後に残っている傷?
山本 そうですね。
岡田 その意味で再演の時に──再演の定義は、相変わらず僕もうまく言えませんけど──、必ず問題になるのは「なぜ、今、これをやるか」じゃないですか。もちろん、ちゃんと準備して「こういうつもりでやります」みたいなことは言えるけど、でも今の山本くんの話は、こちらが観客を信用するという態度がそもそもあるということだから、だとしたら何かはきっと起こる。いや、起こらないかもしれないけど(笑)。
山本 起こしたいですね。それからもうひとつ、今日は絶対に言おうと思っていたことがあって。『スーパープレミアム〜』ってタイトル、めちゃくちゃ良いですよね。
── 私、覚えられないんですけど、覚えるコツはありますか?
岡田 いや、正確に覚えてる人は座組の中の人たちぐらいだと思います。
山本 なんて略してますか?
岡田 『SP』と我々は呼んでましたけど、今回のバージョンは『ソリッド』と呼んでます。
山本 僕が、なんで良いと思ったかっていうと、どの単語も古びないなと思ったんです。もし古びる時が来たら、それも楽しい。
岡田 確かに。もし古びる時が来たら、たぶん、世の中が良くなってるってことなんですよ。
── それはどういう意味ですか?
岡田 つまりこれは、めっちゃ、コマーシャリズムの言葉だから。別の言葉で言うと「モチモチ」とか「サクサク」とかもそうだけど、そういうフレーズを見聞きすると、ほら、体がうずいてきちゃうじゃないですか(笑)。そういうことが起こらなくなるということは、つまり世界が、より成熟したフェーズに行くということで、でもまあ、そんなことはないだろう、みたいなことでしょ?
山本 そうそうそう。だからおもしろいなと。
── なるほど。個人的には、ソフトとかリッチがもたらすイメージと、最後のソリッドで全部否定されるのがシニカルだと感じていました。
岡田 ちなみに、ソリッドは商品名ではないですよ。スーパープレミアムソフトWバニラリッチまでは、作品のタイトルであり、作品に出てくるソフトクリームの名前ですけど。そこは大丈夫ですか?
── 大丈夫です。ソリッドな食感のソフトクリームはない。ガリガリ君ですよね、ソリッドは。
岡田 そうですね、もしかしたらダブル食感みたいなものになるかもしれませんけど。
山本 それ良いな。再演でそんなふうに変わったら、おもしろいですね。
インタビュー・文/徳永京子
協力/山吹ファクトリー
★チェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド』
2019年1月25日(金)〜2月3日(日) 会場:シアタートラム
公演情報は≫コチラ
★範宙遊泳『うまれてないからまだしねない』
2019年1月31日(木)〜2月3日(日) 会場:本多劇場
公演情報は≫コチラ
≪プロフィール≫
岡田利規(おかだとしき)
演劇作家/小説家/チェルフィッチュ主宰。1973年神奈川県生まれ、熊本在住。
活動は従来の演劇の概念を覆すとみなされ国内外で注目される。2005年『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。同年7月『クーラー』でTOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2005ー次代を担う振付家の発掘ー」最終選考会に出場。07年デビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を新潮社より発表、翌年第二回大江健三郎賞受賞。12年より岸田國士戯曲賞の審査員を務める。13年には初の演劇論集『遡行 変形していくための演劇論』、14年には戯曲集『現在地』を河出書房新社より刊行。16年よりドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品演出を3シーズンにわたって務めた。
山本卓卓(やまもとすぐる)
範宙遊泳/ドキュントメント主宰。劇作家・演出家。1987年山梨県生まれ。
幼少期から吸収した映画・文学・音楽・美術などを芸術的素養に、加速度的に倫理観が変貌する、現代情報社会をビビッドに反映した劇世界を構築する。近年は、マレーシア、タイ、インド、中国、アメリカ、シンガポールで公演や国際共同制作なども行ない、活動の場を海外にも広げている。『幼女X』でBangkok Theatre Festival 2014 最優秀脚本賞と最優秀作品賞を受賞。一人の人間に焦点を当て作品化するソロプロジェクト「ドキュントメント」も主宰し、2カ年計画で初監督映画『Changes』を製作中。ACC2018グランティアーティストとして9月より半年間のNY滞在を控えている。