ミクニヤナイハラプロジェクト『東京ノート』矢内原美邦インタビュー
インタビュー
2016.03.9
吉祥寺シアター10周年記念公演として、ミクニヤナイハラプロジェクト『東京ノート』がこの3月に上演される。平田オリザの代表作であり、いわゆる「静かな演劇」の代名詞とも呼ばれるこの戯曲に、むしろ対極とも思える超高速話法と激しい動きを得意とするミクニヤナイハラプロジェクトが、いったいどう立ち向かうのだろうか?
矢内原美邦は、同カンパニーの他にもニブロールやoff-Nibrollを主宰。演劇、ダンス、コンテンポラリーアートといったジャンルを越境して活動している。アジアとの関係も深く、現在は文化庁の指名する文化交流使として東南アジア各都市を歴訪。その旅の終盤に、フィリピンの首都マニラでインタビューを行った。
▼「東南アジアを回るのはどうですか?」
──東南アジアの各都市を回られて、このマニラに来られたんですよね。
矢内原 2015年の8月から、シンガポール、マレーシア、タイ、ミャンマー、インドネシア、ベトナム、そしてフィリピンと回ってきました。ベトナムもインドネシアも、まだもうちょっと整備されてた印象があるんですけど、マニラは……。渋滞が理由で待ち合わせに1時間遅れてくるとかあるし。昨日はコレヒドール島から帰ってきてくたびれ果てて、猫カフェにしか行けなかったですね。
──猫カフェ(笑)。この後はもう日本へ?
矢内原 いったん日本に帰って、最後、台湾に行こうと思ってます。台湾と日本は国交がないのでちょっと窓口はややこしいんですけど。世紀當代舞團というカンパニーにヤオ・フンという振付家がいて、その人と何度か一緒に活動してきたんです。ニブロールを台湾でやろうという計画もあったりして。
──文化交流使に任命された経緯や目的を教えてください。
矢内原 「東南アジアを回るのはどうですか?」って訊かれたんです、文化庁から。 だから「いいですね」って答えた。だって東南アジア、よくわからないじゃないですか、本当のところどうなのか。なので行ってみたかった。ただし受け入れ先は文化庁が用意してくれるわけじゃないので、自分で探すしかないんです。もちろん国際交流基金に探してもらったりはしたんですけど。あとはもともと持ってる繋がりを頼りにリサーチしました。
──訪問した都市によって違うプロジェクトを展開されたんですよね?
矢内原 シンガポール、ハノイ(ベトナム)、ソロ(インドネシア)ではニブロールの『リアルリアリティ』を上演しました。ベトナムとインドネシアは、地元のダンサーにそれぞれ入ってもらって、無料チケットを配ったんですけどさらにその友だちもやってきて。ハノイのユース劇場は650席あるのが満席でした。
クアラルンプール(マレーシア)では、ティーパック・タリというダンスフェスティバルに、ジョアンナ・ターンというダンサーに振付する形で参加を。バンコク(タイ)ではシアターフェスティバルに『戦略的な孤独』で参加しました。タイは女優たちとイチからつくったので特に面白かったかな……。
【写真:金丸圭 バンコクシアターフェスティバル参加作品『戦略的な孤独』】
──役者は日本からは川田希さんだけで、後はタイの役者さん?
矢内原 そう、日本にもよく来ているデモクレイジー・シアタースタジオとB-Floorから、タイの女優Ornanong Thaisriwong、Pavinee Samakkabutrに入ってもらったんです。稽古には遅刻してきたりしましたけど(苦笑)、なんだかんだ公演が近くなると真面目で、毎晩夜中の1時近くまで稽古しました。台本をなかなか手放さないんですよ。「大丈夫、セリフは覚える」って言いながら稽古3週目になってもずっと持ってるんです。でも優秀な女優さんで。結局『戦略的な孤独』は作品賞と演出賞と女優賞にノミネートされて、Ornanong Thaisriwongさんが女優賞だけ獲りました。
──演出する時の言語はどうしたんですか?
矢内原 現地語の優秀な通訳についてもらいましたけど、解釈が違うな、と思った時は英語で直接。時々、我慢ならなくて英語でえんえんダメ出しとかやりましたけどね。
──ミャンマー訪問は?
矢内原 観光です。3日もいなかったです。観光でした。でも行ってみないとわからないことも沢山ありますので、モ・サくんというコンテンポラリーダンサーがいて、誰に聞いてもその名前しか挙がってこなかったんですけど、文化面はまだこれからでしたね。
──場所ごとに異なる形にするのは大変では?
矢内原 「この国に行くんですけど、なんかやることあります?」ってやわらかい感じで訊いて、キュレーターから反応をもらって。返ってくる答えはそれぞれだから。
例えばソロ(インドネシア)ではムラティ・スルヨダルモにお世話になりました。TPAM2015で来日していたアーティストです。彼女が父親と運営している劇場にレジデンス施設があるんですけど、問題はシャワーで、トイレの横に桶みたいなのがあってそれを浴びるしかない。蚊帳の中に100匹くらい蚊がいるとか……。
あとホーチミン(ベトナム)にはサンアート・ラボラトリーというギャラリーがあって、若いアーティストを育成するシステムがしっかりしてるんですよ。例えばテート・モダンのキュレーターがたまたま来ていて批評をするとか。作品を展示した次の週は、新聞記者や批評家が来てアーティストも含めて長い話し合いをするとか。そういう場があるんですね。
▼アジアで何をシェアできるか?
【2016年1月 インドネシア人に振付 「リアルリアリティ」】
──ずばり、アジア諸都市を回ってみての収穫は何でしょうか?
矢内原 文化交流使を引き受けたひとつの理由として、自分たち(日本)の文化を押し付けるんじゃなくて、アジアの中で何をどんなふうに将来的にシェアしていく可能性があるかを考えないといけないと思ったんです。アーティスト自身が。日本のアーティストはわりと恵まれていて、これまでは自分の作品さえつくってれば良かったんですけど、それもイヤだなと思えてきたんですね。
例えばタイのトンロー・アートスペースはレオンという役者が運営してたりします。役者が照明やったりキュレーションをやったりするのは当たり前。「やってくれる人がいないなら自分たちでやっていこう!」という精神なんです。そう思うと、アーティストが自分の作品だけじゃなく、他の人と何かつくっていくということがこれから大切なんじゃないかと。それが今回行ってみて感じたいちばんの収穫ですかね。
これは私の希望なんですけど、振付家・演出家だけのコラボじゃなくて、もっと様々な形で舞台に関係している人たち同士のコラボレーションを進めたいんです。それも日本人とばかりやるのじゃなくて、他の国の人とやってほしい。だからひとまずうちのメンバーを行かせて……。しかも団体で行くとどうしても日本と同じシステムでやっちゃうので、ひとりひとり個人で違うシステムの中でやってほしい。
▼『東京ノート』をどう演出するのか
──さて、本題の『東京ノート』について伺いたいと思います。吉祥寺シアターの10周年記念公演であり、同時にミクニヤナイハラプロジェクトの10周年記念でもありますね。矢内原さんとしては、こけら落とし公演で『3年2組』を上演した、縁の深い劇場でもあると思います。しかしなぜ今回、平田オリザさんの戯曲『東京ノート』を演出することに?
矢内原 劇場に言われたから……(笑)。「劇場に言われた」とかいう態度でやるからダメだと怒られますね(笑)。いやいや真面目にやってます! でも根本的に、ダンスではダンスじゃないって言われるし、演劇では演劇じゃないと言われるし、だからもうわりと自由に何も考えずに、劇場から言われたからじゃあやりましょうか、ということです。
──文化交流使も「文化庁に言われたから」っていう受け身の動機でしたね……(笑)。
矢内原 ああ、かっこわるいね(笑)。「これをやりたーい!」って言ってやるタイプじゃないんで。でも吉祥寺シアターがなかったら確実に私は演劇をやってないので、その劇場の考えることに応えていくのも使命かなと思ったんですよ。
──しかしよりによって平田オリザさんの『東京ノート』というのは? これは「静かな演劇」の代表作とも言われる作品ですよね。超高速で喋って激しく動くミクニヤナイハラプロジェクトの作風とは、対極にも思えるのですが。
矢内原 確かに真逆の存在ですね。ただ私、オリザさんとは、こまばアゴラ劇場のフェスティバルディレクターを3年間やったという関係があるんですよ。フェスティバルディレクターをやらしてもらってアゴラでダンスを上演してくれる人が増えたから、劇場も喜んでくれてよかったです。でも私のつくる『東京ノート』にオリザさんはあんまり興味ないようですね。戯曲を書き換えるのに許可を取ろうと思ってメールや電話をしたんですけど、「そんなに電話してくんな、知ったこっちゃない、好きなようにやれ」と(笑)。まあ好きなようにやれというのはオリザさんの懐の広さですね。好きなようにやれというのは本当にうれしかったです。
──キャストの半分は青年団の役者さんですよね。
矢内原 ほんとは正直こんなことできないと言ってくるかなと思って「この時間帯に来れない人はもう明日から来なくていい!」とか厳しく無理難題を押し付けているところです(笑)。いないですからね、うちのカンパニーでセリフ覚えてこないとか、前の日にやったことができないとかいう役者は!そういえばタイの女優たちに「なんでこんな簡単(イージー)な振付にそんなに時間かかるのか?」って言ったら、「イージーって言わないでほしい。私たちは難しいことにチャレンジしてるんだから」って。
まあ青年団の人も頑張ってますし、何人かは面白い扉をひらいてくれてますけどね。オリザさんの演出だと上演時間1時間のところを私はきっと15分くらいでやるので。もう500回以上も演じてる役なのに矢内原演出だとセリフが出てこないとか言われたりしますよ。もちろんそんな時は「役者なんて辞めてしまえ!」って心の中で思ってますけど、ひどいですね(笑)。
▼「成立はしません。駆け抜けます」
──矢内原さんの演出は「間(ま)」を嫌うと思うのですが、果たして「間」のないオリザ戯曲が成立するんでしょうか?
矢内原 成立はしません。成立なんて目指さないです。青年団のファンは怒るでしょうね。でもいいんです。駆け抜けます。そんなに「間」が欲しけりゃ戯曲を読めばいい!
たぶん私は、「間」が役者の演技手法になるのがイヤなんですね。「できてます」みたいな顔で演じさせたくない。たぶん約20年前の『東京ノート』初演時(1994年)よりも、インターネットの発展もあって、情報がいっぱい入ってくるので流してしまうじゃないですか今は。自分からキャッチしにいかないと情報を得ることができない状態が、今の東京をつくりだしてると思うんですよ。だからまあ、駆け抜けますよ、とにかく。「え、もう終わったの、なんだったの……」ということだけは目指します。青年団の役者は立ってるだけでいい?ということはないです。 走れ、走れ!みたいな気持ちで。逆にうちのカンパニーの役者はただ変な形で立たせたりするかもしれませんけど。
──以前、稽古場を見学させていただいたので、その鬼演出家っぷりは想像できますが、そうまでして役者を追い込むのはなぜですか?
矢内原 いや、追い込んでないです。普通のことしかしてないんですよ。むしろびっくりするんです、こっちが。すごい簡単な動きなのに役者がパニックになったりするのが。ただAからBに行ってBからCに行ってCからDに行く、これを繰り返しているだけなのに、Aの次にえーっとDだったっけ……みたいになるのに驚きます。日本の役者さんはもうちょっと鍛えたほうがいい。例えばタイの役者にしても、デモクレイジーもB-Floorも役者の身体が台詞と同時に動くじゃないですか。でも日本の演劇は、「静かな演劇」に代表されるように動かないことを良しとしてきた。もちろんそれはそれですごく面白いんですけど、でも(アングラ演劇時代は)唐十郎さんにしてもみんな動いてましたからね。今は小劇場にそういう動かない役者さんが増えすぎたということなんでしょうね。
──AからBに、っていう喩えは幾何学的で面白いですね。
矢内原 記号のように。最初の『3年2組』の頃は「自由に動いてください」って言ってもみんな大体立ってるままなのが多かったので、これは全部指示を決めようと思って決めていったんです。そうすると役者もいろいろ考えてチャレンジしてくれるので。何かきっかけがないと厳しいですね。
──演出が細かく決められている、という点に関してはオリザさんと近いとも言えますね。
矢内原 近いかもしれませんね。ただ、役者ができるまでしばらく見てみないふりで待ってみる、っていうこともここ10年のあいだに覚えましたよ。宮沢(章夫)さんの稽古場に行った時に、「矢内原、待つことも必要だよ」って言われて。ようやく1日くらい待てるようになりました。
──あの……気は短いほうですか?
矢内原 短いっていうか、その前に「切る」のかもしれない。あ、できないんだ、じゃあ辞めていいよってなる。そうなると結果的に、できる役者さんにしかセリフがなくなっていきますよ。役者はそこに差を見せつけられて焦るかもしれませんね。
──ある意味、残酷ですね。
矢内原 そういう社会の中で生きてますからね。甘くはないです。(笑)
──『東京ノート』の話しに戻りますが、今これを上演する意義があるとしたらなんだと思いますか?
矢内原 たぶん『東京ノート』って、いろんな人が世代を越えてこれからも演出していくと思うんです。その時代によっていろいろに捉えられる戯曲なんじゃないでしょうか。
──では、アジア各都市を回ってこられた矢内原さんの目に、今の「東京」ってどんな都市として映っていますか?
矢内原 特別なものではなくなってきているんでしょうね……。特にアジアにあって。まだまだ日本人は東京が特別だと思ってる人が多いでしょうけど、もはや対等だと思うし、自分としてはもっとイーブンにしていきたい。もはや世界中、主要都市はそんなに変わらない。東南アジアはモールも多いし、都市はこれからもっと画一化してフラットな状態になっていくんじゃないでしょうか。その都市ならではの文化を留めていくのかどうか、という問いはありますけど、だからといって「江戸」みたいなイメージの東京はたぶんもう無理ですよね。
──諸都市がフラットになっていくのはしょうがないと?
矢内原 しょうがないと思います。都市に生きる以上は。都市を離れて山岳民族のような生き方をするのも、それはそれでいいと思いますけどね。でもこれからのシェアの方向って、例えばこのマニラにも猫カフェがあるし、モールには日曜になるとコスプレの人たちがたくさんいる。アキバのように。それらを日本特有のものと考えるのではなく、シェアしていこうとすれば、すぐにリアルタイムで同じ状態をここでもつくりだせるので。
▼「代わりにやってくれる人がいれば辞めます」
──矢内原さんとアジアとの関わりは今回の文化交流使だけではありませんね。ダンス・イン・アジアというフェスティバルも続けられていますし、亜女会(アジア女性舞台芸術会議)を羊屋白玉さんと共に立ち上げられています。
矢内原 亜女会はヨーロッパやアメリカの人にも来てもらってます。というのは彼らは日本人以上にアジアの情報を知らないので、お互いの活動を紹介して交流していく。そうすると、辛い時も頑張れる、っていう……。
──辛い時も頑張れる……(笑)
矢内原 ほんとそれだけです。女子会なので。私は、如月小春さんや岸田理生さんたちがアジア女性演劇人会議をやられた時代(1992年立ち上げ)のように「男じゃないと演出できない」というような男女差別というのは、感じることもありましたけど、世間的にはほとんどない世代として育ったので。今はまず女子が集まって、そこに男子も入ってみんなでやれればなあという感じでやっています。演出家だけじゃなくて、翻訳家とかドラマトゥルクとか制作者とか、みんなでそういう場をつくっていこうと。辛くても一緒に舞台頑張っていこうっていう女子会です。
──男の人も亜女会に入れるんですか?
矢内原 入れます。そして私はそのうち辞めるので。
──いつも「辞める」って仰ってますよね、いろんなことに対して(笑)。
矢内原 まあ代わりにやってくれる人がいれば辞めます。ダンスは特に……。「美邦ちゃんやってよ」みたいに上の世代から言われますけど、50代にもっと頑張ってもらわないといけませんね。
──世代的にしわ寄せが来るんでしょうかね。辞められないと思いますよ。
矢内原 いやもっとできるでしょう、50代の人も。ダンスは振付家同士で頑張っていこう、みたいな機運が演劇よりもさらにないんですよね。まあダンスとか演劇とかって分かれてるのもよくないですよね。できれば全部一緒にしていきたい。
──そこを最後にお聞きしたいと思います。矢内原さんのカンパニーは、強いて言うなら、ミクニヤナイハラプロジェクトが演劇、ニブロールがダンス、そしてoff-Nibrollがコンテンポラリーアート寄りということになるのかもしれません。それらの活動の境界についてはどう考えてらっしゃるんでしょうか? 数年前のインタビューでは「演劇にこだわりたい」とも仰っていたと記憶しているのですが。
矢内原 今は全部一緒にしていきたいですね。仕事が増えるばかりなので、もう一緒でいいです。演劇もダンスもコンテンポラリーアートも、なるべく自分の中で枠をつくらないようにしたい。なかなかお客さんがジャンルを越えて流れていかないんですよね。うちのカンパニーだと2割くらいが共通のお客さんで、後はくっきり演劇とダンスに分かれてしまってます。
──そういう意味では、東京はまだ特別な都市かもしれません。他の都市ではジャンルの境界ってもっと溶けてませんか?
矢内原 そうですね。バンコクも演劇が強いとはいえ、ピチェ・クランチェンのお客さんがB-Floorに行ったりしますもんね。
──東京が変わる日は来るんでしょうか。
矢内原 そうなるといいですね。今はみんな自分のやることに精一杯かもしれません。次の世代ですよ。もうちょっと育つといいですね、アジアに修行に行って。学生を見てるとみんな頑張るし真面目だなと感じます。まあ真面目じゃない人は私は無視ちゃうんですけどね。「二度と授業に来ないで下さい」って言いますよ。でも「もう一回やらせてください」って粘る子もいますよ。そんな子が頑張った時は実は嬉しかったりします。まあ、そのうち大学の先生も辞めますよ。ある程度場所をつくったら……。誰かがそれをやってくれればいいんですけどね。
取材・文:藤原ちから
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