<先月の1本>なかったことにされた高校生の2人芝居がきっちり面白かったので自分たちでさくっとやってみる会『明日のハナコ』文:植村朔也
先月の1本
2022.05.21
良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。
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『明日のハナコ』はなぜ傑作なのか:なかったことにされた高校生の2人芝居がきっちり面白かったので自分たちでさくっとやってみる会『明日のハナコ』評
原子力発電は人間の判断スケールを大きく上回る問題である。大げさな程度表現ではなく、文字通り。岡崎乾二郎は書いている。「今回の(東日本大震災による)原発事故で明白になったのは、この科学技術の統御力に時間制限が必ずあることであり、さらには〔…〕その技術を用い、統御管理する主体自体の一貫性、同一性にも期限があることだったはずです。〔…〕つまり半減期が三〇年、五〇年どころか一〇万年というスケールさえ超える放射性物質のリスクを管理、統御できるかどうかは、技術的可能性だけの問題ではない、むしろその技術を統御する主体、理性の持続性の方が問題です」[*1]。誰も一〇万年後の事故のことなど気にはしない。「主体、理性の持続性」は一〇万年という数字を受けつけない。しかも、実のところこの理性の有効期限の短さが一〇万年どころではないことは、いまや周知の事実であろう。
小沢健二がその奇怪な小説『うさぎ!』で論じているように、原子力エネルギー政策は一九五〇年代ごろまで、その技術的不可能性ゆえにアメリカの科学界およびビジネス界から見向きもされていなかった。事故が生じた際のリスクが大きすぎ、またその可能性もあまりに高かったのである。その流れを変えたのが、原発事故発生時の賠償額を最小限度に設定した一九五七年のPA法である。「二〇〇一年には、エネルギーに詳しいチェイニー副大統領が言っている。PA法がなくなったら『原子力発電所には、誰も投資しなくなる』と」。そうまでしてアメリカがこの政策を強行した理由については小沢の文章を読まれたい。『うさぎ!』は原発問題を論じたこの第二十四話にかぎり、ネットで無償公開されている[*2]。
いずれにせよ、原子力エネルギー政策の根底にあるのは、たとえそれがいずれ破綻するシステムであろうと、自身の生きるタイムスパンにおいてそれが発生する確率のみを問題にし、あるいは生きているうちに事故が起きたとしても最小限度の責任でやりすごそうとする、自分本位で薄弱な理性だった。ならば、この理性の限界こそを問わねばならない。しかしそれは理性の限界であるがゆえに、理性によっては思考できないことになっている。
このように人間の理性には不可能な、「不合理」な判断を可能性の次元に落とし込む方途はたとえば芸術、すなわち想像力の領域にある。実際、一般に「いま・ここ」を越えていくことを旨とするものこそが演劇ではなかったか。
「なかったことにされた高校生の2人芝居がきっちり面白かったので自分たちでさくっとやってみる会」(以下、「やってみる会」)による『明日のハナコ』はその好例であった。もともと『明日のハナコ』は福井農林高校演劇部元顧問、玉村徹の脚本による、2021年9月に上演された高校演劇である。以下、そのシナリオの詳細にふれる。勉強のため演劇部を退部した女子高生と、部に残り続けた女子高生が、未来への不安に心を揺れ動かせながら、演劇祭に向けて書かれた脚本を稽古しあう。この劇中劇で辿られるのは、震災や戦争といったつらい過去を背負い、よりよい暮らしのために原発の建設を受け入れてしまった、福井の人びとの生の歴史である。しかし、話は終盤にかけて、ほとんど唐突に一〇万年後の未来へと飛ぶ。現代の産業文明が崩壊し、地表のほとんどが不毛となった未来の日本である。もはや日本語を解読できる者もいなくなったその未来に、地震が起き、放射性廃棄物がもれだして人びとの生を奪う。「どうか、未来の私たちのことを忘れないでください。こうやって失われていく未来のことを」[*3]。もちろん、それで奪われる生がわたしたちのものでないのなら、この未来を忘れずにいることは「不合理」であるほかない。だからこそ、いま、声に出すのだ。劇中劇の終演後、二人の女子高生は迷いやためらいを捨てて、決然と自分の未来へ歩み出す。高校生の現在のセカイが安易に未来を呑み込んでしまうことはない。
無観客公演として上演された『明日のハナコ』は、観客の目に触れる唯一の手段であった「福井ケーブルテレビ」での放送を検閲された。さらに記録映像の保存は許されず、脚本も回収の憂き目に遭った。きわめて「合理的」な判断であるというほかない。検閲の理由の一つに掲げられている「差別用語の使用」がみられた問題の箇所は、戯曲に引用された前敦賀市長の次の発言である。「一〇〇年たってカタワが生まれてくるやら、五〇年後に生まれた子供が全部カタワになるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階で原発をおやりになった方がよい」。この「カタワ」という表現が問題視されたとのことだが、この引用の鋭さはむしろ、『明日のハナコ』の戯曲が投げかけている問いがそこに集約的に示されていることの方にある。
「やってみる会」は、『明日のハナコ』を総勢七名のキャストで上演した。二人芝居なので回ごとにキャストが変わるのだが、その練習度合いはまちまちで、台詞の暗記の程度に応じて「ほぼ通常」「躍動的リーディング」「さくっと読んでみる」の三種の上演形態がとられた。多くの観客は「ほぼ通常」での上演を望むように思われるが、重要なのは、その予約開始時点において、各予約回の出演者・上演形態が決定されていなかったことだ。「やってみる会」は、サービスの品質を均質化し保証する、商品の送り手と受け手の関係を回避した。観客はこの舞台を「さくっと予約してみる」ほかなかった。『明日のハナコ』について共に考える場を生み出す参加者としての対等性が、観客にも期待されていたのだ。
『明日のハナコ』の表現を抑圧した人びとは愚かではない。その人びとは、この舞台で語られていることが自分たちにとってどれだけ危険かを知っていたから、恐怖を覚えてこれを封じたのである。そう考えたい。だとすれば、わたしたちは『明日のハナコ』を上演し続けないわけにはいかない。たとえ理性に有効期限があるのだとしても、「いま・ここ」で未来のために判断を下すことができるのはわたしたちだけであり、そして、わたしたちは無力ではない。『明日のハナコ』は上演されるたびに、これを封殺しようとする合理的な声に否を突き付ける。それが次の上演につながるとしたら、それは未来の声をこの現在にとどめ続けることでもある。だから、まずは「自分たちでさくっとやってみる」。この、あまりに危険で、あまりにほんとうの舞台を忘却させずにおくことは、けっして無意味な抵抗などではないのだ。
『明日のハナコ』は、六月には大阪・長野でのリーディング上演が予定されている。
[*1]岡崎乾二郎「理性の有効期限――理性批判としての反原発」『感覚のエデン』、二〇二一年、亜紀書房。
[*2]小沢健二「うさぎ! 第二十四話(原発について)」ひふみよ、
[*3]『明日のハナコ』は上演台本がWeb上で公開されている。
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うえむら・さくや/批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランク保存記録。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。
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【上演記録】
なかったことにされた高校生の2人芝居がきっちり面白かったので自分たちでさくっとやってみる会『明日のハナコ』
撮影:鈴木淳
2022年4月8日(金)~10日(日)
梅ヶ丘BOX
脚本:玉村 徹(福井農林高校演劇部元顧問)
演出:光瀬指絵(ニッポンの河川|スイッチ総研)+ゆかいな仲間たち
出演/演奏尾など:石倉来輝(ままごと)、川田希、田中祐希(ゆうめい)福永マリカ
光瀬指絵(ニッポンの河川|スイッチ総研)、茂木大介、森谷ふみ(ニッポンの河川)
演奏:井高寛朗
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