<先月の1本>KAAT神奈川芸術劇場プロデュース 『掃除機』 文:私道かぴ
先月の1本
2023.04.30
良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。
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立ちはだかる壁と五本指ソックス、令和の身体にかかる重力
着席してからしばらく、じっと美術に見入った。舞台の床から少し高い位置に土台が組まれ、左右は波のように、客席側に向かって大きく湾曲している。左側にはベッドが床とほぼ垂直の角度で取り付けられていた(驚くべきことに布団と枕もきちんとある)。舞台中央には奥に続く通路があり、音響ブースのような机が設えられている。視線を右側に移すと、反り返った床=壁には、先ほどのベッドと対になるようにTVが固定してある。
どうやら家の中の様子を、通常ではありえない角度で客席に提示しているらしい。小さなソファや黒い箱、座椅子などのいくつかの日用品には上から照明が当てられていて、中でも特別に存在感を示していたのが、舞台の真ん中にある掃除機の柄だった。
「掃除機っていうお芝居を始めようと思ってて~」と、四つん這いの人物(栗原類)が床を滑って舞台に現れた時、私はその台詞を話しているのが「掃除機」であるという設定よりも先に、東京五輪で見た女子スケートボードの様子を思い出した。壁の間をぬって台車に腹を乗せながら滑る役者の動きが、どことなく選手の姿に重なったのだ。
反り立つジャンプ台を使って高く飛ぶ選手の視点を想像すると、眼下に広がる景色が目に浮かぶ。ふわりと宙に浮いている間は時間もスローになって、素敵な景色を見ているんだろうと想像していた。
しかし、それは正しくないかもしれないと、役者を見て唐突に気付いた。掃除機を演じる彼は光る台車にうつぶせになり、手で床を押して前進していた。顔を上げると、反り立つ壁に視線がぶつかる。そのとき、それが掃除機の目線からはどれほど高く見えるだろうということに思い至った。そしてスケートボードの選手も、空に浮かんでいるよりずっと、床に座ったり、失敗して地面に這いつくばったりしているのではないかと思った。日常の練習ではむしろ、そういった低い視線で過ごす時間の方が長いのではないか。
「この視線を一度も想像したことはなかった」と思った。自分自身の人生経験だけでは必ずしも想像の及ばない、そうした「他の人には簡単に見えないような、這う視線」こそが、今作の根底をなしている。
それを最も感じたのは、引きこもりの50代の長女(家納ジュンコ)を観ていた時だった。大学時代から家の外に出ない生活を続けている彼女は、掃除機をかける際に親への罵詈雑言を叫ぶことが習慣になっている。親からすれば、「働きもせず、家に寄生して親に暴言を浴びせる酷い娘」といったところだろうか。掃除機に向かって親の愚痴を言い、カップラーメンを食べ、ただただ眠る姿は、本来務めるはずの役割を放棄した人のように思える。では人生すべてに無気力なのかというと、そういうわけではないらしい。
最初におやっと思ったのは、彼女の履いているのが5本指ソックスだったことだ。家にずっと引きこもっている人物がこの形状の靴下を履いているという設定に、なんだか無性に興味を引かれた。5本指ソックスには、血行をよくし健康を促進する効果があると言われている。では、彼女の気にする「健康」とは、家の中にいながら見据える「未来」とは何なのか。
そのヒントは、彼女がベッドに向かうシーンにあった。
ベッドは壁に掛けられた調度品よろしく、床とほぼ垂直に設置されているため、長女はボルダリングのように、壁の突起に足をかけてベッドまでよじ登らなければならない。腕と足に必死に力を入れる後ろ姿は、単に「布団に潜り込む」以上の過酷さを感じさせる。「家から出ずに自分の布団で過ごす」という選択は、これほどまでに大きな労力を伴った行為なのだ。ダラダラとこれまでの歳月を過ごしてきたわけではなく、この生き方を自ら選択しているのだということが、5本指ソックスから、必死に身体を持ちあげるふくらはぎから伝わってくる。そこには、強い意志を持った重たい身体が確かにあった。
重さを伴った身体と言えば、長男(山中崇)にも当てはまる。彼は、家の中で父親と顔を合わせると、父親の長い話が終わるまで、足が床にくっついてしまったかのように動くことができない。その姿は幼い子どもの頃からそうだったのだろうという雰囲気を伴っており、切なさを感じさせる。しかし父親の口調には、聞くことを強要する高圧的な響きがあるわけではない。ではなぜ動けなくなってしまうのかというと、長男には日中働かずに図書館やショッピングモールで過ごしている、という負い目があるからではないか。
作中では、父親が3人(俵木藤汰、猪股俊明、モロ師岡)に分かれるという演出があるが、それは父親だけが唯一社会的な顔を持っていることの表現のように見えた。長女は家の外に顔を出さず、長男も家の外に関係性はない。しかし、父親は昔働いていた会社の人間関係であったり、新しく出来たコーヒースタンドで話す店員がいたり、果物をわけてもらうような親しい知人がいたりと、家の外に様々な顔を持っている。その「社会性」を家に持ち込んでいることこそが、長女と長男にとっては、父親が3人もいるような圧となっているのではないか。
一方で、作中に登場するもっとも軽い身体として、長男の友人(環ROY)の存在が印象深い。物語の冒頭、音響スタッフのように奥のブースにまっすぐ入って来た時から、ずっと一人浮いている。ブースでの立ち振る舞いは、首をまわすなどのストレッチをし、飲み物を飲み、あげくスナック菓子まで食べ始めるのだから実に自由で軽やかだ。終盤、長男と物流サービスの倉庫で働いていた頃の話をする彼の動きは、その軽やかさを煮詰めに煮詰めた先の洗練された「ダルさ」の表現で、思わず息を飲んだ。ある音楽ジャンルに見られる手足、腰、顔の角度の身体表現が、言葉に絡みつく前にふっと途切れる。言葉が動きを、動きが言葉をかわしながら、次の展開へと移っていく。
こうした佇まいの彼は、最初に舞台を突っ切ったその時から、ずっと侵入者であり部外者だった。その空気を、家の中の人間ではなく掃除機だけが感知して、警戒しているような動きが印象に残る。掃除機は友人に向かって、「この家族に対する基本的リスペクトってのをぜひ払っていただきたいかなってのがありますっていうのはお願いできますかね?」と言う。これは、この家のどの人物よりも外に出たことのない存在としての、悲痛な叫びではないだろうか。
ただ、この部分だけに注目して、作品全体を「家の中にいて重力を感じている家族と、その重力から軽々と逃れる部外者」という理解に留めてしまうのはもったいない。今では他人の家にずかずかと侵入している友人も、かつては某大企業の倉庫で働き、「クソ溜まりに飛び込んだ俺はそこがクソ溜まりだと実は知っててそれなのに飛び込んだ」と自らを振り返っている。元より今のような軽さがあったわけではなく、「どこにも飛び込まないのが正解」という答えを導き出し、「ここから一番遠い地球の真裏だから」という理由でブラジルに行くような生き方を習得した。重力を受けないから軽いのではなく、重力をしっかりと受けた上で、そこから選択した行動が「軽さ」を生み出しているのだ。それは、音響ブースで見せていた佇まいのように、「ダルい」というポーズを取るというれっきとした意思表示でもある。
そうした点で、この作品は今後の家族の変化の兆しが感じられる前向きな物語である。長男は友人に触発されて「思いっきり新しいところ」に旅立ち、長女は部屋で思いをぶちまける。「わたしは、自分なんて、人生経験ほぼなにも経験しないでここまで来ちゃってる、のっぺりしてる、平板なやつ、波乱万丈、山あり谷あり、クライマックス、カタルシス、そういうのとは全然かけ離れた、ずっーと凪いでる透明な空白をここまでひたすら過ごしてきただけのやつだと思ってる。でも、それが何か問題でも?って本心から言えるようになる境地にどうにかして到達してやりたいって思ってる。まあ、いいんだけど別にどうだって」。この言い回しに、友人が掃除機に向かって話すクライマックスの台詞が重なった。
「いや、きみの現状の視野ね、パースペクティヴね、もうちょっとひろがったほうがいいんじゃないかなって思ったからさお節介ながら。でもわかんないけどねそれがいいのかどうか」。長女も友人も、自分の生き方を振り返って、決意表明やアドバイスをする。しかし、最後には「まあ、いいんだけど別にどうだって」「でもわかんないけどねそれがいいのかどうか」と、けむに巻くような言い回しでもって話を終える。この言葉遣いに見るように、重さを感じた上で選択する「軽さ」を、長女は既に習得し始めている。
スケートボードの選手は、高く飛んだ時の美しい景色ばかりを目にしている。家の外に出るよりも、家の中でずっと暮らしている方が楽である。キツイ仕事に就いている人は、そういう現場だと知らずに飛び込んでいる…。
今作はこうした思い込みや既成概念を、鮮やかに飛び越えていく。這いつくばって自分の部屋で暮らす人もいるし、某大企業の倉庫で一人一台あてがわれるスキャナー(長男の友人の命名によるところの「熱帯雨林隊長」)を破壊して軽やかにクソ溜まりのような職場から去る人もいる。決意さえあれば長男のように思いっきり新しいところへ行くこともできる。
希望を声高に叫ぶわけではない。むしろずっと重低音が響いているような静かな作品だ。しかし、どこか前向きな終わり方にまとまっているのは、これが演劇という形を取ったからこそではないかと思った。
巧妙なテキストを、各々の重く軽い現代の身体を通して表現する俳優たち。その身体性を最大限引き出す舞台美術に、役の説得力を後押しする衣装。すべてを絶妙なバランスに整え、耳と目に残るシーンを作り上げる演出家。その全てが相まって、客席の私たちの身体にも流れ込んでくるような体感を実現していた。劇場を出たあとに、自分の選択した生き方の重さを、つい考えてしまうような演劇作品だった。
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しどう・かぴ/1992年生まれ。作家、演出家。「安住の地」所属。人々の生きづらさに焦点を当てた会話劇や身体感覚を扱った作品を発表している。身体の記憶をテーマにした『丁寧なくらし』が第20回AAF戯曲賞最終候補に、動物の生と性を扱った『犬が死んだ、僕は父親になることにした』が令和3年度北海道戯曲賞最終候補に選出された。国際芸術祭あいちプレイベント「アーツチャレンジ2022」において映像作品『父親になったのはいつ? / When did you become a father?』が入選。
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【上演記録】
KAAT神奈川芸術劇場プロデュース 『掃除機』
撮影:加藤甫
2023年3月4日(土)~22日(水)
KAAT神奈川芸術劇場中スタジオ
作:岡田利規
演出:本谷有希子
音楽:環ROY
出演:家納ジュンコ 栗原類 山中崇 環ROY
俵木藤汰 猪股俊明 モロ師岡
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