演劇最強論-ing

徳永京子&藤原ちから×ローソンチケットがお届けする小劇場応援サイト

<先月の1本>TOMO都市美術館-都市をたずねる51『ツイッターを捨てよ、町へ出よう』 文:渋革まろん

先月の1本

2023.04.30


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

***

《ポスト劇場文化》と公共圏──TOMO都市美術館『ツイッターを捨てよ、町へ出よう』


 小劇場演劇に対する興味が薄らいでいる。直接の原因は、やはりパフォーマンスアートという表現形態に出会ってしまったことだ。それは演劇という形式に比べて、あまりにも自由でインディペンデントな社会的・芸術的実践を展開しているように思えたからだ。

 最後にこうしたことを書き残しておくのがいいかもしれないと思った。私はこのコーナーを始めるに当たって、ツイッターに次のように書いていた。


これから演劇最強論-ingの新企画「先月の1本」の執筆メンバーのひとりとして毎月短評を発表していきます。基本的に、現代演劇・現代美術の双方から周縁化されている諸パフォーマンスを取り上げ、上演/パフォーマンスの新しい地図を作り出していきたいと思います。


 こうしたコンセプトのもとで、次の作品/プロジェクト/フェスティバル/パフォーマンスを取り上げていった。

■5月 
「『クバへ/クバから』刊行記念/上演化プロジェクト」(三野新、楊いくみ)
■ 6月 
『全体の奉仕者』(筒)
■ 7月 
「匿名の女性たち─私は当事者ではない」内パフォーマンス(村田峰紀)/『BATTLECRY』(小林勇輝)
■ 8月 
『⌘町合わせ⌘』(濵田明李)
■ 9月 
「合意のでっちあげ」に関する実験ワークショップ発表会(手塚夏子、浜田誠太郎)
■ 10月
『セザンヌの神鍋山』(バストリオ)
■ 11月
「EBUNE大阪・西成漂流」(KOURYOU and more)
■ 12月
『やわらかい杖を置く 平たい目で登る』(前田春日美、豊島彩花)
■ 1月
『京都イマジナリー・ワルツ』(チーム・チープロ)
■ 2月
「Asiatopia International performance art festival 2023」(Jon Tangpaiboon and more)
■ 3月
『まよかげ/Mayokage』(篠田千明、ナナン・アナント・ウィチャクソノ、たかくらかずき、西田有里)

 その達成の是非は心もとないのだが、「パフォーマンス」という視点を取ることで、美術、演劇、彫刻、ダンス、写真、詩などにジャンル化された媒体や技術を超えて、さまざまな表現について論じることのできる視野を提示できたのではないかと自負している。小劇場ないし舞台芸術のレビューとしても、ジャンル等で仕切られた異なる文脈の実践を「パフォーマンス」の概念でつなげていくことで、なかなか同一平面上には並ばない作品たちを紹介していくことができたはずだ。それが読者の新しい興味を刺激することが出来たのであれば、これほど嬉しいことはない。

 たった1年間の連載で妙に回顧的な調子であるが、今回は、それほど身構えずにスラスラと思うことを書き綴ってみたい。つまり、感想、ということ。ダイレクトに何が面白いのかを書いてみたほうが、興味を持ってもらえる読者もいるかもしれないので(★1)。

 そうしたわけで今回は、TOMO都市美術館が主催する「都市をたずねる」シリーズVol.52『ツイッターを捨てよ、町へ出よう』にフォーカスしてみたい。TOMO都市美術館とは、現代美術家のトモトシが館長を務める「美術館」である。


TOMO都市美術館は、2020年4月に東京・西荻窪に開館した、現代都市における実験的な試みを実践・紹介する美術館です。(…)パンデミックがある程度の収まりをみせてからは、「面白いことはやっぱり路上で起こるはず!」という信念のもと、新しい都市の使い方を提案するつもりで活動しています。(★2)


 WEBサイトのアーカイブによれば、「都市をたずねる」シリーズは、未曾有のコロナ禍に世界中が湧いていた2020年6月20日から始まり、2021年11月13日に開催されたVol.22『銀座から新宿まで歩く』あたりから路上ツアーや参加型のアクションが頻繁に行われるようになっていったようだ。私は2022年4月に行われたVol.31 『47年越しのノック』でその企画をなんとなく認知し始め、2022年9月開催のVol.35『1時間透明になって飲む』あたりで、何してんだこれはとケタケタ笑いながらツイッターに流れてくる情報に目を滑らせていた。『1時間透明になって飲む』は、タイトルの通り「新宿のライブカメラの画角に入りながらも、存在を気付かれずに一時間飲むのが目標」の企画/アクションである。

 その後もTOMO都市美術館では、都市に関わり合うさまざまなアイデアが現在進行系で試され続けている。私はといえば、なかなか伺う機会がなかったのだけれど、2023年3月18日に行われた『ツイッターを捨てよ、町へ出よう』、そしてその対となる『町を捨てよ、ツイッターへ戻ろう』(3月25日)でやっと念願の参加が叶った。

 その内容はすでに聡明な読者諸氏はお気づきのように、ツイッターを捨てて、町に出るのである。つまり、上野駅に集合後、ツイッターの自分のアカウントを削除して、町を歩き、その1週間後にツイッターのアカウントを復活させるのである。

 18日当日の様子を振り返ってみよう。上野駅中央口改札を出たところにある「翼の像」の前に、トモトシ、私、そしてもう1名の参加者が集合。「翼の像」は、ツイッターのアイコンにちなんで選ばれたそうだ。トモトシから企画説明があって、渋革まろん(@z_z__z)アカウントの削除を試みるがどうにもうまくいかない。何度やっても「問題が発生しました。やりなおしてください。」のエラー警告が出てしまう。パスワードをリセットして再設定してもうまくいかず、なぜアカウント消すのにこんな必死になってるんだ私はなどと思いつつ、ようやく削除に成功。そのまま上野駅を出る。

 「ツイッターを消して初めての町だからすべてが初体験」(Byトモトシ)ということで、初めてのコンビニ、初めてのお参り、初めての街歩き、初めての飲酒をダラダラと楽しみ、雑談して、結局、上野駅から秋葉原駅まで歩いて解散。ツイッターのアカウントを消したとて、街の感覚が劇的に変化するわけでもないのだが、インスタグラム、フェイスブック、ツイッターなどのSNSを通じて常に生活が承認欲求と結びついた自己演出を迫られる場所になっているのは事実で、そのことを否が応でも意識させられる。みんなに充実したリアルを見せたいんだ!と実際に意識しているかどうかではなく、SNS化した社会ではそれをするかどうかという選択がさまざまな行為の前提として不可避的につきまとうようになった、ということだ。SNS以後、自己の行為を他者からの承認欲求から切り離すのは事実上、不可能である(鬱屈した「心の闇」が消え去った「露出の時代」)。

 歩きながらの雑談でもいろいろなことを話した。ツイッターは──演劇であれ美術であれ──小規模な芸術実践にとって欠かせない広告宣伝ツールになっているから、そう簡単に手放すことはできないということ(実際に『ツイッターを捨てよ、町へ出よう』の情報にもツイッターがなければアクセスできない)。人と会うためのリアルな場所を持てなくても、SNSがあるからバーチャルなコミュニティに属しているという安心感を得られるということ。しかしそのつながりは例えば職場に通うような習慣的なルーティンや物理的な場所に基礎づけられていないため非常に脆く、刹那的な存在証明(SNSへの投稿)の永続的な反復が必要不可欠になるということ……。ここでツイッターへの投稿は呼吸することと同様の生命活動そのものになる。

 それからの1週間は、少なくとも私に関しては、ツイッターを見たいという浮ついた気持ちとの戦いであった。ツイッター断ちの禁断症状である。タバコやアルコールと似たような働きがツイッターにもあるんやなと(マジで)今更ながら凡庸な考えを抱く。とはいえ、数日経った頃には、ツイッターの存在しない世界線に身体が馴染んでいったわけだが。

 3月25日。再び上野駅に集結したわたしたちは、一斉にツイッターのアカウントを復活させた。どことなく感無量である。共に困難を乗り越えた同士たちへの謎の連帯感すら生まれている気がする。確かそこでは「ツイッターがなくて困ったことがあったか」など話したように思うのだが、もうひとりの参加者は「特に無い」と答えていて驚いた。ツイッターへの依存度が私よりも明らかに低い。では、イベントや展覧会、公演情報をどこで入手するのかといえば、やはりWEBサイトに直接アクセスするしかなさそう……という話になる。

 しかし実は、何も知らなくても良いんじゃないか。久方ぶりにツイッターにアクセスすると、とある人物の公演評が目に入った。ツイッターを見なければその存在を知るすべはない。主観的にはそもそも存在しないのと同じなのである。それでなぜだめなのか?

 雑誌やテレビのようなメディアには物質的・時間的な制限が設けられている。しかし、SNSにアップされる情報のフローには際限がなく、一度その流れに飲み込まれてしまえば、波乗りサーフィンみたいにその流れを乗りこなし続けなければならない。ツイッターを利用することがそれをなぜ利用しているのかを意味づける再帰的な循環構造──リヒテはこれを「上演」と呼んだ──はそれをやめたくてもやめられない病的な依存状態(アディクション)にひとを追い込む。そのとき、ツイッターを広告宣伝ツールとして用いる演劇や美術といった芸術分野の上演実践もまた、無限の消費、病みつきのアディクションにひとを駆り立てる「上演」の内部に組み込まれざるを得ないわけである。さて、それではそのような情報消費社会の依存症/アディクションの上演に巻き込まれざるをえない演劇や美術はそれに対してどのような応答が可能なのか?というのが、SNS以後の「上演」をめぐる課題であり、『ツイッターを捨てよ、町へ出よう』はまさにアディクションの上演に一時的な中断を差し挟むことで、SNSの演出に取り込まれた都市への感覚に内省を促すわけである。


 「都市をたずねる」シリーズのアクションは、高山明がブレヒトの教育劇の理念的な発展型として語る「演劇ちゃん(Theater-chen)」を思い起こさせる。高山は演劇を巨大な動員装置として活用し、ドイツ民族という「共同体の身体」を創出したナチスの党大会──とりわけドキュメンタリー映画『意志の勝利』に収められた第6回党大会(1938)──を念頭に置きつつ、次のように言っている。


衝撃的な負の歴史への反省から、演劇はプロジェクトになることを警戒し、ますます舞台上の芸術を志向するようになった。(…)演劇は、(社会的な)芸術としての地位を築いた代わりに、都市のプロジェクトになる力を失ってしまったようだ。(…) 演劇を芸術から解放し、都市のプロジェクトという古代ギリシア以来の原点に引き戻す必要がある。(…)小さくて身近なテアトロン(客席)を都市に偏在させ、「観客」を取り巻く実空間を虚空間によって二重化=プロジェクト化できるかどうか、そこが問われているのである。(★3)


 「芸術」に引きこもるのではなく、毒にも薬にもなる都市のプロジェクトとしての演劇の力を取り戻すこと。そこで高山は「自分が置かれた環境や状況に「演劇」を見出すことのできる観客さえいれば、演劇は成立する」のであり、「都市や社会のなかに、さらには自分の生活のなかに、自ら「演劇」を(再)発見することが究極の目標」になると論じる(★4)。

 TOMO都市美術館のアクションもまた都市のプロジェクトとして、見えない「客席」を都市に偏在させる「演劇」(演劇ちゃんたち)のように見えるだろう。「ツイッターのアカウントを削除する」というコンセプト──これを「戯曲」と言ってもいい──を通じて、観客/参加者を取り巻く都市空間を二重化し、自らが埋め込まれている「演劇」=SNSの自己演出に取り込まれた都市の再発見を可能にするのである。それがIT資本の巨大な社会的・経済的プロジェクトに対する批判的な足場をかろうじて確保する。

 しかし、「都市をたずねる」シリーズは、本当に高山が論じるような都市に拡散して見えなくなった「演劇ちゃん」だろうか? 高山の『マクドナルドラジオ大学』というプロジェクトは、難民や亡命者が「教授」としてマクドナルド内でライブ講義を行い、それを学生=観客がポータブルラジオで聴講するというプロジェクトであるが、そこでは「演劇」が都市の公共圏を機能させる媒体になることが目指されている。

 他方で、「都市をたずねる」シリーズは、あくまでもトモトシの気まぐれな──その時々の必然性があるにせよ──アイデアを次々に試行する実験的なプロジェクトである。都市の中に持続的な公共圏を創出する意思のようなものは感じられない。それでは、トモトシはいったい何をしているのだろうか? 別の言い方をすれば、「都市をたずねる」シリーズにおいて、公共圏は都市の中のどのような機能ないし場所としてイメージされているのだろうか?


 これが私からの最後の問いになる。私自身にその答えはない。しかし、《ポスト劇場文化》におけるアートプロジェクトのあり方を、「都市をたずねる」は体現しているように思えるのである。

 書いているうちに、《ポスト劇場文化》再考といった趣になってしまった。パフォーマンスアートはどこにいったんだ。結局のところ、最後まで、日本語圏における「パフォーマンスアート」と「パフォーマンス」、参加者とのコミュニケーション、集団的経験、社会的なアクションを包含する「SEA的プロジェクト」あるいは「アートプロジェクト」の関係を整理できないままに来てしまった。だが、少なくとも、演劇という媒体・技術・ジャンルをめぐる語彙はそのような方向に向けて更新される必要があるのは間違いない。私自身は、パフォーマンスアートの越境的なコミュニケーションとトランスナショナルな場の創出を追跡しながら、残された課題についても考えていきたい。決意表明。終了。

────────────────

[★1] 3月の〈先月の1本〉ではありがたいことに植村朔也氏が、私が9月〜11月の〈先月の1本〉で主題にしていた《ポスト劇場文化》についての詳細な検討をしてくれた。そこでは《ポスト劇場文化》論を観客の主観的な「効果としての劇場」に還元することの危険性が指摘されている。その効果が生まれる具体的な条件──経済的な下部構造も含めた政治的・制度的・物質的な条件──の分析がなければ、論としての実体がなく、今起こっていることへの有効な装置概念(レンズ)にはならないだろうと言うのである。
 まったくもっともと言わざるを得ない。本来であれば、《ポスト劇場文化》は《ポストドラマ演劇》に対するカウンター的な対概念であり、ドラマを通じて共同体の公共的な関心事を分有・抗争する場としてのシアター文化に対して、そもそも近代以後に公共圏を理念的に鍛え上げる場としてのシアターを持たなかった文化圏──共同体の文化的な統合装置である天皇制や世間的な寄り合いの場としての公民館といったみんなの感情を集約する装置しか持たない文化圏──における、つまりはシアター以後がそもそも存在しない文化圏におけるシアターの正統な発展形としての《ポストシアター》として論じられるべきでもあった。
 ただ注意すべきは、近代的な公共シアターの解体の観点(①)をとるか、世間を規範とした文化共同体の歴史的発展の観点(②)をとるか、ポストモダン&グローバル化の進展による汎相対主義の進展という観点(③)をとるかによって、《ポストシアター》の概念は見え方が変わってくるということだ。①からすれば、それは《ポストドラマ演劇》以後のシアター/テアトロンの社会への遍在(高山明が『テアトロン』で論じているような「演劇ちゃん」への展開)に見えるだろうし、②からすれば、近代的理念の衰退とともに寄り合いの場としてのシアター(公民館)が自然に繁茂している(内野儀が論じる理念なき演劇実践であるがゆえに非制度的である「J演劇」のジャンクさの加速度的な進行)のように見えるだろうし、③から見れば、資本・情報・移動の流動化によって固有の文化やネイションの所属から引き剥がされたものたちが各々の文化的・技術的ソースを駆使してハイブリッドな交流と共在の可能性を探る一時的な結節点の創出(トランスナショナルな実践にもなりうる場)に見えるだろう。
 その観点の錯綜それ自体を問題化するのが《ポストシアター》の概念だと言ってもいい。しかし私にはそれを紐解く力も余裕もなかったので、①を西欧中心主義を背景にした日本語圏演劇の歴史的展開を不可視化するものとして暗に批判しつつ──そしてその批判的観点それ自体を疑いつつ──②と③のあいだを右往左往していたというのが実情かもしれない。だから「上演がそれ自体で生起させる、ある自律的な磁場への関心」──それは制作主体がそもそも想定されていないアニミズム的な「自然/ジネン」への愛着である──が私にあるのは確かなのだが、それが①②③のどの見方によって言説化されうるのかの錯綜と混乱に私の主な関心はあり、ゆえにポストドラマ演劇と同じような表現の普遍性を担保する美学的な装置の解体に伴う混乱──自律した美学的空間を体現するブラックボックス/ホワイトキューブの混交──を理論化しようとするクレア・ビショップの「グレーゾーン」という概念では満足できないのである。
 では、《ポスト劇場文化》の観点から本論で取り上げるTOMO都市美術館の一連のプロジェクトは一体どう見えるのかといえば、正直よくわからない。しかし、かなり直感的なものだが、この圏域に引っ掛けておくこと、そうしたものとして記録しておくことが未来から現在を振り返ったときに意味を持つかもしれないと思い、この選択になった。
 そうした事情はさておき、これから書いていく感想は、「EBUNE大阪・西成漂流」や「Asiatopia 2023」で試みた紀行文を取り入れたレビューとは質は異なるが、根本的には観客の自律的な思考と行動の移動性を強調する意図のもとで書かれる。

[★2] 「TOMO都市美術館」WEBサイト、[http://tomotosi.com/tomo-museum/]。

[★3] 高山明『テアトロン 社会と演劇をつなぐもの』、河出書房新社、 2021年、 pp.253-254。

[★4] 同上、p.251。


***

しぶかわ・まろん/批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。


***

【上演記録】
TOMO都市美術館-都市をたずねる 51『ツイッターを捨てよ、町へ出よう』

2023年3月18日(土)
上野駅周辺
企画:TOMO都市美術館

TOMO都市美術館公式サイトはこちら

演劇最強論枠+α

演劇最強論枠+αは、『最強論枠』の40劇団以外の公演情報や、枠にとらわれない記事をこちらでご紹介します。