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<先月の1本>温泉ドラゴン『悼、灯、斉藤』 文:丘田ミイ子

公演情報

2023.03.31


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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“不在”の中で手渡される“存在”―陽が落ちて、そして電気が灯るように


隣に住んでいた父方の祖母が亡くなった時、共に生活をしていた私たち家族は突然の不在に戸惑い、長い間その大きな喪失感から立ち直れなかった。葬儀の場では父や母、姉や妹が代わる代わる棺のそばに身を寄せ、別れを惜しんだ。
温泉ドラゴン『悼、灯、斉藤』(作:原田ゆう/演出:シライケイタ)を観た帰り道、繰り返し反芻したのはその時に見たこんな風景だった。
遠方に住んでいた義叔母(父の弟の妻)だった。祖母にとっては母と同じ義娘に当たるその人が、祖母の額を何度も撫でながら、小さな声でぽつりぽつりと話しかけていた姿。義叔母とはなかなか会う機会がないこともあり、祖母とともにいる時の様子をそういえばまるで知らなかった。だけど、そこには個人と個人の歴史があった。物静かで穏やかなその人から流れた涙が祖母のもう開くことのない唇に向かって音もなく落ちたその時、私は毎日一緒にいた祖母の知らない姿が、その人と祖母の間に二人だけの関係と時間が確かに在ったことを思い知ったのだと思う。それは、その人を通して知る祖母の存在だった。不在の祖母の、強い存在感だった。単なる偶然で、本来劇評に記す必要もないことだけれど、祖母が死んだのは6月12日のことだった。

『悼、灯、斉藤』は斉藤家の母・佳子(大西多摩恵)が急死したことをきっかけに実家に集った三人の息子とその妻や友人、残された父・吾郎(大森博史)の姿を描いた11日間の物語である。当日パンフレットによると、上演台本を手がけた原田自身の母の死やその時に体験した出来事が本作のモチーフとなっていると言う。
舞台上には上手にソファ、中央に6人掛けのダイニングテーブル、下手に和室へと続く襖がある。客席からリビングの一室を臨む形になっているのだが、その手前にはベランダがある。窓やドア、手すりなどリビングとの境界となる類の美術は設置されていないが、登場人物が度々出入りする様子と後のセリフによってそこがマンションの5階であることが伺える。そのベランダからは、夜7時になると、向かいのマンションの廊下の電気が一斉に点灯する様子が見られるらしく、佳子は生前「エレクトリカルパレードみたい」、「いつも見ようと思って忘れちゃうの」、「あれを見ると、良いことが起こるんだから」と、その瞬間を目撃することをいつも心待ちにしていた。佳子がそういったささやかな発見を日々の景色に見出し、待ち遠しく思えるような人柄であることを大西は舞台上に存在した限りある時間の中で示した。夫や息子やその妻との会話の中で垣間見せる茶目っ気や可愛らしさを、チャキチャキと家の中を歩き回る姿に快活さを、溢れるように笑う表情にそれこそ“パレード”のような明るさを。斉藤家を絶えず照らし続けたその灯りが消えた後の静寂には、不在というよりむしろ存在がいつまでも揺れていたように思う。

舞台上のシーンは、そんな佳子が生きている時間のシーンと、死んでしまった後のシーンが交互に描かれる。60代後半の齢と思しき佳子の朝は早く、それは彼女が自らの意思で介護の仕事に就いているからであった。まだ暗いうちからせっせと働きに出る佳子は仕事に大きなやりがいを感じており、定年退職した吾郎もまた同じ時間に起床し、その送迎を担っていた。吾郎を演じた大森の仕草や表情には、長く連れ添った妻にのみ見せる安堵や緩和が浸透しており、二人の空気に漂うそんな年輪は物語における重要なインサートになったと言える。夫婦の仲睦まじさは元より、絵画や料理に凝り出す吾郎には「余生を楽しむ父の姿」があり、その姿は後に「その傍らには佳子がいるはずだった」という無念にそっと成り代わっていたようにも感じた。佳子が「吾郎ちゃん」と呼ぶ様子からも伝わるように、物腰柔らかで温厚な父である。斉藤家はおそらく家父長制家族ではなく、むしろ父は頼りない存在として描かれていた。そのことが一層に母の不在を圧倒的なものにしており、「頼りない父」のみに留まらず、「最愛の妻を亡くし呆然とする夫」としての居方に、舞台上に描かれてはいない二人の歩みや斉藤家の歴史をも想像せずにはいられなかった。佳子が急性大動脈解離で倒れ、最期を迎えたのは6月12 日、吾郎がいつもの様にその出勤を見送った後のことだった。

訃報を聞き、それぞれの日常を送る3人の息子は実家に駆け付け、書類の確認や葬儀の手配、遺品や遺影の整理を行うが、3人の生活の状況やその関係性は決して良好とは言えないものであった。
飲食店を経営する長男の倫夫(筑波竜一)は、続くコロナ禍で金銭面でも精神的にも芳しくない状態が続き、妻・泰菜(林田麻里)が働きながら家を支えていた。唯一の独身である三男の和睦(阪本篤)は映画ライターであるが、決して売れっ子とは言えない。佳子は生前からそんな二人の身を案じていたようで、時折お金を手渡すこともあった。そんな中、栄養士として働く次男の周司(いわいのふ健)は妻・奈美恵(宮下今日子)と二人暮らし。葬儀にかかるお金の工面を最も多く請け負う状況にあった彼もまた複雑な心中にあった。自分の念願であった飲食店をオープンさせた倫夫や、やりたいことを仕事にしている和睦に対する嫉妬心。とりわけ倫夫とは折り合いが悪かった。そんな状況も相まって3人は次から次へと手続きに追われながら、悲嘆に暮れる間も無く、心をすれ違わせていく。
お金や承認欲求を巡って兄弟間に軋轢が横たわる様子は、この劇の見どころの一つと言っていいほどリアルな描写であり、家族や兄弟というコミュニティだからこそ生じ得る普遍的な煩わしさがつぶさに描かれていたように思う。そしてそれは、母親という圧倒的な存在が不在に成り代わった時、その喪失に相乗して生じるものの他ならず、ただ悲しい、辛い、だから身を寄せ合って、という綺麗事では済まない現実的な景色の数々であった。大切な誰かの死に紐づく個人の感情が必ずしも「悲しい」だけではないこと、人の死はそんな温順にはいかない出来事だという実感が含有していたことに、少なくとも私は強い信頼を寄せた。また、決して多くはないセリフのやりとりで兄弟間の複雑な関係性を風景の中に浮上させた点には、戯曲の強度、俳優の技術、演出の丹念さの交響があってこそ叶う会話劇の妙を感じた。三兄弟を演じた筑波、いわいのふ、阪本の多様な佇まいとそれぞれのエゴの手触り、それ故の分かり合えなさと、それでいて「本当は同じ悲しみを分かち合えるはずなのに」と心の奥底で揺れる願い。そんな錯綜がそれぞれの振る舞いやリアクションの中に細やかに抽出されていて、コップの水が予期せず机上に溢れてしまうような精神の切迫と決壊は実に見事であった。これには、3人がともに劇団員であること、それゆえの地盤の反響もあるのではないだろうか。「家族」とは言わずとも、劇団もまた他に代替の効かない唯一のコミュニティである。その中で確立している関係や互いへの理解や信頼感が「兄弟」という属性にある種の説得力を持たせていたように思う。

しかしながら私がこの演劇の中でさらに心を打たれたことは、兄弟の葛藤の傍らで各々の心をふるわせながら家族を見つめる3人の女性たちの姿にあった。倫夫の妻・泰菜、周司の妻・奈美恵、和睦の同級生・恵。林田麻里、宮下今日子、枝元萌がそれぞれ演じた3人の女性は、血縁関係ではないところから斉藤家に関わる人物たちである。

泰菜は不調を抱える夫を見守り、他者の力を借りず、その人生に伴走する愛情と覚悟を腹に据えて凛と立っていた。泰菜と佳子の二人きりの時間は、泰菜が倫夫に内緒で佳子の元を訪れ、送金の断りを申し出るシーンに描かれる。義母である佳子に対し自分の望む夫婦の在り方を表明する泰菜の姿には彼女個人の人生観やスタンス、ポリシーが色濃く反射していた。力のこもった身体の先端にその強さを滲ませながらも、ふとした瞬間に緩む目元や声色には、倫夫を気にかける佳子への理解や敬意も忍ばされていたように思う。また、そんな彼女の姿勢には自身の家族と絶縁状態にあることもまた影響しているようで、生い立ちに裏打ちされたそこはかとない寂しさや人一倍の自立心をも感じた。一方で、送金の断りが佳子との最期の対面になってしまったこと、その時に起きた佳子の冗談のような言動を笑わなかったこと、そのことでお別れが悲しいものになったのではないかと悔いる姿には血縁を飛び越えた家族としての惜別があったように感じる。「女性の強さ」という多義的なものに回収されない、人生の背景や未来への展望に根ざした個人そのものの強さやジレンマがそこにはあって、こちらを真っ直ぐ射抜くような林田の眼光に思わず目を逸らしてしまいそうになるほどであった。

対して奈美恵は泰菜とはまたタイプの異なる人物であり、コロナ禍で圧迫された舞台芸術の世界でそれでも公演を打ち続けるダンサーの女性であった。佳子と二人きりのシーンこそないが、斉藤家の冷蔵庫には奈美恵のダンス公演のチラシが貼られており、佳子は吾郎と欠かすことなくその観劇に足を運んでいるようだった。コロナ禍での赤字覚悟の上演に難色を示した吾郎に対して、佳子が「人生かけてるんだから」と言い放つ場面や、絵画展に出す自身の絵を決めかねていた吾郎が名指しで奈美恵に意見を仰ぐシーンもあった。それらのシーンから奈美恵が義両親と風通しの良い関係性を結んでいたこと、佳子が奈美恵の生き方や表現に理解を示していたことが間接的に伝わり、きっとどこかであったに違いない奈美恵と佳子が笑い合う情景をも想像させられた。二人はどこかウマが合うのではないかという気持ちにもなったのだが、実際に奈美恵がはからずも佳子と同じ言葉を選ぶシーンがあった。ベランダから見えるあのマンションの一斉点灯を見た時、奈美恵もまたこう言ったのである。
「エレクトリカルパレードみたい」。
さっぱりとした物言いと飄然としたまさに踊るような存在感。清々しいまでに飾らぬ奈美恵は、義兄・倫夫の作った料理を喜んで食べ、その妻の泰菜ともラフに会話を交わし、折り合いの悪い兄弟関係をも無効化するように振る舞う。宮下自身の持つしなやかな身体性とたおやかな雰囲気、その独特の魅力が役とシンクロしている点もまた素晴らしく、奈美恵のタフさが実感のあるオリジナリティへと昇華されていたと思う。一人一人と対等な関係を結ぶ奈美恵のフラットさは、その場の、ひいては家全体の緩衝材となり、兄弟の軋轢や翳りゆく関係、重苦しい空気に晴れ間をもたらす。
とりわけ夫の周司がその心情を吐露したシーンでそれは顕著であった。
周司は、母の喪失と不在によって兄や弟に向けられた母の愛を羨む気持ちが一層膨れ上がり、終始イライラしていた。子どももおらず、やりたいことをしているわけでも大した出世をしているわけでもない自分を嘆きながら、それでもお金だけは出ていく状況に心のどこかで「損をしている」と思ってしまう自分と葛藤していたのである。その心がついぞ決壊した時、奈美恵は夫を直接的な言葉を以て励ますことこそしなかったが、「大丈夫?」という一言とともにそっと、しかし強く心をそばに寄せた。それは、ともすれば大勢の人前でたくさんの励ましの言葉をかけられることよりも尊い瞬間であるようにも感じ、さらにその振る舞いに対する周司の表情がまた素晴らしく、一つの夫婦の絆を確かに思わせるものであった。「お通夜の前にお通夜みたいになっちゃったね」と言った奈美恵は、そこからさらに嘘みたいな勢いで“お通夜みたいな空気”を吹き飛ばす。緊迫した家族の心は徐々に解け、もちろんその緩和は客席にも伝播する。そんな奈美恵のユーモアは周司に対する、家族に対する、そして佳子に対する愛であるに違いなく、私は笑いの起きる客席の中、どうしても涙を堪えられずにいた。その光景はやがて根っから明るく生きた佳子の姿へと静かにスライドし、今ここに在る解けた時間は生前の彼女がこの家で最も起きてほしい、と願った光景であるようにも感じた。思えば、この家には椅子がとても多い。老夫婦の二人暮らしになってもなお全員が集っても座れるだけの場所があったこと。そんなところにもまた佳子の強い存在感を見出すのである。

佳子の不在を存在たらしめる人物は義娘だけではなかった。三男・和睦の同級生で、劇中で明確に示されてはいないが、おそらく過去に恋仲にあった恵である(劇中では「いろいろあった」という表現に留まっている)。恵の立場は泰菜や奈美恵とは異なるが、ある意味で佳子と最も直接的に深い時間を過ごした人物と言えるのかも知れなかった。結婚・出産を機に斉藤家と同じマンションに越してきたことから佳子と再び交流ができた恵は、和睦には知らせず度々斉藤家を訪れていた。恵の佳子への関わり方は「友人の母」というよりむしろ「年上の友人」というような感じで、自身の生活や育児の悩みを吐露していたこと、子どもを預かってもらっていたこと、一緒にディズニーランドに行くまでの仲であったことが伺える。幼い息子をほとんどワンオペ育児で育てている恵は、自分が母親であることに息苦しさを覚えているようで、そういった悩みや苦しさを吐き出せる相手が佳子だったのである。そして、それはまた佳子も同じで、吾郎以外の他の誰の前でも口にはしない「孫が欲しい」、「和睦に結婚してほしい」という気持ちを恵の前では話せるのであった。二人は「息子を育てる母親」という点で同志でもあった。斉藤家では母親のことを「母さん」でも「おふくろ」でもなく、「ヨシコさん」と名前で呼ぶ習慣があり、恵はそれに憧れ、自分の子どもに「メグミちゃん」と呼ばせている。佳子の母親としてのスタンスに最も触れてきたのは、家族の誰でもなく実は恵なのかもしれなかった。恵を演じた枝元は、二人の間に流れた時間の濃さを時にシリアスに時にコミカルに情感たっぷりに表現し、その一部の時間の中に佳子の全体が、存在感が拡がっていくことを感じさせてくれた。

こうして他者の中に揺めくように映し出される佳子を見つめているうちに、不在である佳子に強烈な存在感がひた走るのを感じた。彼女たちの居方には、血族とはまた別の切実や祈りが宿っていた。それは、家族という水たまりの隣にあるもう一つの水たまりのようで、一人一人から溢れた水滴が隣の水滴とくっついて、やがて一つの湖となって、そこにみなの心が映し出されるような。そんな交わりを感じた。それは、家族というコミュニティを拡張し、さらに解像度をぐっと上げた時にしかカットインしてこない景色だと思う。人一人の存在の多様さと大きさを、死は「不在」というよりも「不在に存在を際立たせられること」なのだということを、改めて感じることのできる上演台本であり、演出、そして演劇だった。

「死後」に対して、「生前」という言葉は形式がまるで違う。「死んだ後」という文字通りの意味合いに対し「生まれる前」と書くのには、輪廻転生とかそういった宗教的な意味合いがあるのかもしれない。実際、「生前」には「しょうぜん」、「そうぜん」といった読みもあり、それぞれが古く多用されていたことから「死後」という言葉よりも歴史が古いのではないか、という話もある。
しかしながら私はこんな風にも思うのだ。
その人が物質的に不在の状態である死後に対して、生前はその人が物質的に存在している時間である。そう考えた時、「死」を基準にすることそのものに違和が生じる。さらに言うなれば、残された人の心を思った時にそうはしたくない、という祈りや願いを含まれざるを得ない。だから、「死ぬ前の時間」ではなく、「生きていた時間」、「生きている間」として「生」という言葉がとられているのではないか。
そういった意味で『悼、灯、斉藤』は、「生前」の時間を煌々と“灯”し続けた演劇であったと思う。たとえ、そこに母の不在があったとしても、「死んだ」という結末ではなく「生きた」という軌跡を、不在を通して存在を映し続けていた。夫が、息子が、その妻が、家族が、友人が、他者が出会い、見つめてきたその人の姿がそこには在った。それらの全てが人の死を“悼”むことだとこの演劇は伝えていたのではないだろうか。

ドーナツの穴、ひこうき雲、洋服の編み目、灯りのついていない電気、そして、母がいなくなった家。時に存在よりもその不在が世界を世界たらしめるように、空白と痕跡がかつて在った姿や形を鮮やかに蘇らせていく。“不在”の中で手渡される“存在”。それは、陽が落ちて、そして家に電気が灯るような普遍的な風景なのかもしれない。そう思う時、今は亡き人たちも決して遠くはない。
「エレクトリカルパレードみたい」な照明が劇場全体に灯ったあの時、その様子を見つめる登場人物それぞれの眼差しの中に、さらにその光景を眺める私の眼差しの中に佳子がいた。「良いことが起こるんだから」と、いたずらっぽく笑うヨシコさんが、確かに在た。


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おかだ・みいこ/フリーライター。2011年から雑誌を中心に取材執筆活動を開始。演劇、映画などのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど幅広く手がける。エッセイや小説の寄稿、詩をつかった個展も行う。


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【上演記録】
温泉ドラゴン『悼、灯、斉藤』

撮影:宿谷誠

2023年02月16日 (木) ~23日 (木・祝)
東京芸術劇場シアターイースト
作:原田ゆう
演出:シライケイタ
出演:阪本篤/筑波竜一/いわいのふ健/大森博史/大西多摩恵/林田麻里/宮下今日子/枝元萌
東谷英人/山﨑将平/遊佐明史

温泉ドラゴン公式サイトはこちら

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