<先月の1本>お寿司『ヘレンとgesuido』 文:山口茜
先月の1本
2023.02.28
良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。
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逃げたい人が逃げられるために
お寿司は、舞台衣装作家、南野詩恵が立ち上げた舞台芸術団体で、作・演出・衣装を南野が担当し、生地と文字を媒体として、演者の内外からアプローチを試みる、とウェブサイトにある。
https://osushie.com/about/
私は南野さんに、舞台衣装を長らくお願いしていた関係もあって、割と初期からほとんど見逃さずにお寿司を観続けている。今回の「ヘレンとgesuidou」は、お寿司おなじみの出演者と、新たな出演者が混じって参加する公演で、楽しみにしていた。
客席はほぼ満席だった。開演して、ヘレンと呼ばれる出演者たちが舞台上に順番に出てきて並んだ。最後に出てきたカトリ4さんは、挨拶だけしてすぐにいなくなる。その存在感に衝撃を受け、何が始まるのかと期待する。しかしその後は何も起こらず・・・というか舞台上の人たちは何かを見ていたり、何かをヒソヒソと喋っていたり、何かのルールに従って声を出したりもするのだが、それがなんなのかがわからない。ひたすらわからないまま、少しずつ情景は変わってゆき、終演する。その後、トイレ休憩があって「gesuidou」が始まった。こちらは会話劇だが、主要な登場人物3名のうち2名が顔のわからない衣装を着ており、またその衣装が恐ろしく精巧で、見入ってしまう。見入ってしまうのだが、私の身体がヘレンの時間で完全に冷え切っており・・・なかなか集中に戻れない。終演後、想定していた上演時間を大幅に超えていたため、私は慌てて自転車を漕いで子供を迎えに行った。ところがどれだけ自転車を漕いでも身体に温もりは戻ってこない。ヘレンのことと、gesuidouのことを考えたいのだが、寒さにやられて頭が働かない。仕方なくその日はそのまま、深く考えることをやめた。
翌日以降、折に触れてヘレンのことを考えるようになった。ほぼ何も読み取れなかったくせに、ふとした時に「ヘレン達」を思い出す。言語化したいのだけれど、簡単にはいかない気もする。でも気になる・・・というわけで、この場をお借りして、やや強制的にレビューを書いてみることにした。いつも私は、レビューを書くときの為に、台本や資料は必ず購入するようにしているが、今回は劇場を飛び出したせいで台本が売っていたのかどうかも定かではなく、南野さんと知り合いであるという特権を利用して、台本を読ませていただいた。
三度ほど通読して、この作品全てについて書くことは難しいと思い、あえて言語化が難しいと感じた「ヘレン」に絞って書くことにした。
一度目に台本を読んだときは、ここに書かれてあることと、舞台の上に乗っていることの違いに驚いた。違いというか、「表現されていない」と感じた。例えば台本には「客席奥にいる架空の「先生」存在を先生と呼ぶ。先生は6メートルあり、すごく上の黒板にて教鞭を振るっているようだがよくは見えない」と書いてあった。でも舞台を見たときは、6メートルの先生が背後にいるとは全く感じ取れず、彼女達は確かに何かを見つめてはいるが、何を見つめているのかは、全くわからなかったのだ。
実は客席に置かれてあった当日パンフレットに、南野さんの学生時代、よくトイレに行くので、先生に「おしっこ詩恵ちゃん」と呼ばれた、と書いてあるのを事前に読んでいたので、ヘレンは教室の話なのかな?ということはわかった。でもその先生がまさか6メートルあるとはもちろん、想像できない。私の座っていた席の真前の舞台には筒井茄奈子さんがおられて、キラキラと照明に反射する瞳で、まっすぐ客席奥を見つめて、全力でその場におられたことだけが目の奥に焼き付いていたので、なるほど、6メートルの先生を見ていたのか!でもあれを6メートルの先生を見つめている、と伝えたいのであれば、何か方法があったのでは?と考えた。
他にもわからないことはたくさんあった。舞台上にいる人たちがこそこそと伝言ゲームをするその内容や、ノートを腹に仕込んで叩く「ボレロ腹鼓」も、台本を読めば「突然月経がきてしまった学生が、友達にナプキンを持っているかどうかを尋ねている」とか「私たちの子宮は私たちのもの、子宮の痛みも私たちのもの」という意図やメッセージがわかるのだが、舞台でそれを伝えようとはしていないので、見ただけではわからない。わからないので、何をやっているのかわからないものを見続けた感覚だけが蘇ってくる。例えばオリジナリティを出そうとすると伝わらないものを作らざるを得ない、ということを考える。誰にも伝わらないということが、それがオリジナルであるという証拠にはなっても、伝わらない以上誰かに見せる意義のようなものは損なわれてしまう。
時を置いてもう一度、「ヘレン」を読む。冒頭に唐突に出てきてすぐに去っていったカトリ4さんのことを思い出す。今でもあの佇まいが強烈に印象に残っている。なんというか、こぼれそうなのだ。何かこぼれそうなものを必死でこぼさないように出てきて、そしてこれ以上ここにいるとこぼすので、すぐに帰っていった、という印象だった。
そこで、この公演が設定していた「出やすいお席」の存在を思い出す。「見やすいお席」ではなく「出やすいお席」である。お客さんが、様々な事情で、上演中劇場の外に出たい可能性を考えて、出やすいお席を設けたのだ。パンフレットにもあった。「私は、自分もしくは自分以外によって決められている事、場所、ものや何かには、逃げ道や抜け道があり/ありますようにと願っています」と。カトリ4さんも、もしかするとそうだったのかもしれない。舞台に出ることは決まっているが、出ていられる時間を本人に委ねた結果、登場していきなり退場するという演出に落ち着いたのではないか。
なるほどこのお芝居はどの方面においても、逃げたい人が逃げられるために作られている。
そして三度目の通読で、私はやっと思い至った。南野さんは間違ってもオリジナリティを出そうとしてこれを作ったわけではない。社会から見ると、何も起きていないように見えるけれど、実は個々の中で様々な変化が起きていた、という、その情景を再現したのではないか。それは、例えば女の身体を生まれもったものたちのことだ。
女の身体を生まれ持つと、思春期の頃から月経が始まる場合が多い。月経とは「成熟期の女性に約一か月の間隔で周期的に起こる子宮出血」で、出血が近づくと身体は大きく変化する。1ヶ月のうち体調が安定しているのはほんの1週間程度で、それ以外の期間は出血に備えてホルモンの分泌が変わることで身体的にも精神的にも不調となったり、出血に対して適切な処理が行われているかどうかを常に気にかけることになる。心理的な問題で月経が始まる日を完全に読み解くことは不可能に近く、思いもかけないタイミングで下着やズボンを汚してしまう、というようなことも頻繁に起きる。
しかし子供の頃から私たちは、自分が月経になったことは表立って言わないようにしつけられている。特に異性にそれが伝わることは恥ずかしいことだし、堂々とそのことを理由にして社会活動を欠席することは推奨されない。もちろん、活動できないほどの辛さを抱えている場合は自己申告で免れることもできるが、その「活動できないほどの辛さかどうか」は例えば「トイレで出血多量で倒れてしまう」とか、それぐらいのインパクトがないと認められないと暗に定められており、私たちは「頭が痛い」とか「下腹部がおもくてだるい」とか、そういう重要な体の変化を「病気ではない」と言って無視するようにしつけられる。
ささやかな身体の変化を無視し続けて私たちは大人になり、今度は「子を産んで母になること」を期待される。そのためには妊娠と出産が必要だが、妊娠した後のあの「自分の体が自分のものではなくなる感覚」は、全ての価値基準が「先生」であった学校生活と似たような体験となる。要は、身体を乗っ取られている。どれだけつわりが酷くてもそれを表に出さないようにすることができるし、お腹が大きくなり夜中に寝返りが打てなくなっても、翌朝は何事もなかったかのように笑顔で生活できる。
出産の痛みは想像を絶するが、それに耐えられない母などいないと言われているので、私たちは痛みに耐えて子供を産み落とすことを推奨される。そして子供が出てきた後は、24時間体制で裂けた会陰や激痛の走る乳首、岩のように硬くなる乳房を抱えながら、自分とは全く違う生命体のお世話を、場合によってはたった一人で、やることになるのである。
ここまで激しい身体と環境の変化の入り口に立たされているにもかかわらず、世の中がそれを「赤飯」でごまかそうとするのは、正直、割りが合わないとしか言いようがない。そこで南野さんはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの「ノーウーマン・ノークライ」という曲を劇中で流す。この曲のタイトルは「泣かない女はいない」という意味ではなく「泣かないで」という、過酷な状況に置かれた女性への励ましを歌っているものらしい。劇中の登場人物が、赤飯ではなくコーン・ミールを食べるという。なんのことかと思ったら、コーン・ミールは上記の歌の歌詞に出てくる食べ物だった。
舞台の客席に座る私たちは「先生」あるいは社会そのものだ。舞台で何も起きていないかのように思わされたわけではなく、これこそが、私たちの要請だった。
これまでの社会で、ドラマで、女の痛みが語られて来なかったことを改めて思う。私たち女は社会の要請通りにそれを隠し通してきたので、作家たちもすっかり騙されて、まさかそんなものがあるとは誰も気がつかず、従ってドラマにもならなかったわけだが、そういう社会を要請したのは、その実、私たち自身だったのである。
余談だけれど、お寿司の舞台は、もし私が制作ならば、通常の観劇のチケットに加えて、舞台を見て台本を読み、観劇した観客同士の交流に参加するまでをセットにしたチケットを販売していくと思う。舞台そのものは「伝えないこと」が主目的だとしても、その後に本を読んだり他者と語ったりすることは観客の自由だし、観客にはそうしたいという欲望があるのではないかと思うからである。
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やまぐち・あかね/1977年生まれ。劇作家、演出家。合同会社stamp代表社員。主な演劇作品に、トリコ・A『私の家族』(2016)、『へそで、嗅ぐ』(2021)、サファリ・P『悪童日記』(2016)、『透き間』(2022)、トリコ・A×サファリ・P『PLEASE PLEASE EVERYONE』(2021)など。
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【上演記録】
お寿司『ヘレンとgesuido』
写真:manami tanaka
【京都公演】2023年1月27日(金)~28日(土)THEATRE E9 KYOTO
【東京公演】2023年2月1日(水)~4日(土)こまばアゴラ劇場
作・演出・衣装:南野詩恵(お寿司)
出演:内田賀須茂/大石英史/カトリ4/斉藤綾子/関珠希/筒井茄奈子/野久保弥恵
/福岡まな実 /Yumi
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