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<先月の1本>Asiatopia International Performance Art Festival 文:渋革まろん

先月の1本

2023.03.1


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

***

《Asiatopia 2023》とトランスナショナルな〈移動性の現場〉


1.パフォーマンスアートとトランスナショナルな〈移動性の現場〉

 2023年1月6日〜8日、バンコクのBACC(BNGKOK ART AND CULTURE CENTER)で開催された「Asiatopia International performance art festival 2023」に、アーティストの武谷大介が出演すると聞いて、気まぐれに足を運んでみることにした。

 なので、このレビューはAsiatopiaで行われたいくつかのパフォーマンスについてレポートするものであるのだが、なぜそのような気まぐれが生まれたのかについては若干の説明を加えておいたほうがいいかもしれない。

 私が日本の小劇場で行われている芸術実践から、パフォーマンスアートの方に注意を振り向けるようになったのは、ここ数年のことである。いや、より正確に言い直すならば、演劇、ダンス、美術の各領域に関わるアーティストが、美学的・社会的な効果を産出するパフォーマティブな行為において、何らかの集合的な場を生成する諸実践を「パフォーマンス」という用語を前景化することで理解しようと務めてきた、と言ったほうがいいいかもしれない。

 私の中の転換点となったのが、2020年から2021年のあいだに、武谷大介が企画する《Responding》(2018-)や、小林勇輝が設立した《stilllive》(2019-)、Aokid(2016-)の主催する《どうぶつえん》に出会ったことだった。《どうぶつえん》はやや性質を異にするが、《Responding》と《stilllive》はどちらも現代美術の文脈において了解されるパフォーマンスアートのプラットフォームとして機能するインディペンデントな活動である(★1)。

 しかし、それがギャラリーや美術館の展示作品のひとつとして、あるいは賑やかしのイベントとして行われるパフォーマンスに類するものであれば、(やや誇張的に言えば)客席50席にも満たない日本の小劇場で展開されている極めてニッチな形式的更新に関心を持っていた私の視野に入ることはなかっただろう。

 《Responding》や《stilllive》に関心を惹かれたのは、多数のアーティストが社会的・政治的な状況に応答する独立したアイデアやテクニックを持ち込みながらも、相互のパフォーマティブな関わりの中で複雑に生起する関係性を立ち上げつつ、その刹那的な集合性が織り込まれたアーティスト・観客双方の個的な経験の産出を可能にしていたからである。

 《Responding》や《stilllive》といったパフォーマンスアートの現場では、1週間程度のワークショップやシンポジウムも含んだプロジェクトのフレームを通じて創造のプロセスを共にする場は確保しつつも、そのなかで各人がそれぞれの関心に基づいて、社会的・政治的・哲学的・美学的なフレームで認識される諸問題への反省的な契機を埋め込まれた──ときに容易には理解し難い──特異な問いを立ち上げる〈他なるものたち〉としての〈群れ〉の時空間が生み出されていたのである。

 日本という地理的・言語的に孤立した国民国家の文化圏では、言語・民族・文化の同一性を根拠とした「日本人」のナショナル・アイデンティティが自明の前提として信奉されている。「外国人」はどこまでも「外国人」の位置に固定されるため、一般的な意味で文化・言語の異なる他者が自身の日常生活に関与するものとして認識されることはほとんどない(当然、このような語り方それ自体が「日本人」の境界を再生産するので、一概には言えないが)。

 だから私は、ローカルな地理的・物理的制約を超えて多種多様な来歴の人々が行き交い、膨大な情報を瞬時に共有可能になったボーダレスな情報環境の中で、必然的に可視化されるはずの文化的・社会的文脈を共有しない〈他者たち〉を具体的に触知可能なものにするパフォーマンスアートの越境的なコミュニケーションとその〈集まり方〉に興味を抱いたのである。

 また、ナショナル・アイデンティティの同質性を素朴に反映して、日本の演劇文化では、みんなと同じであることの均質性を保証してくれる固定された客席とフィクションの範囲を確定する舞台空間が支配的な劇場の様式を創り出している。東京だけでも公共・民間合わせて50〜100館ほどの劇場が日夜稼働していると思われるが、そのほとんどはドラマやスペクタクルへの共感、あるいは社会的な課題の共有から──国民、アクティビスト、リベラル、保守、若者、ジェンダー、中流階級、愛好者、○○ファンといった──集団的アイデンティティを構築する排他的なメディアとして機能している。

 ゆえに、その場その場の刹那的で複雑なコミュニケーションが要請される社会的文脈を共有しない〈他者たち〉との共生的・抗争的な接触を生起させる公共的な場の必要が主張されることはまずない。日本語圏における劇場芸術は創作のプロセスにおいても、組織される観客の性質においても、一定の価値観やコードを共有する集団性を基礎的な単位にしているからだ。

 その意味では、舞台芸術/パフォーミングアーツは定住する集団を単位とした共同性を構築し、パフォーマンスアートは放浪する個を単位とした集合性を模索する、と言えるかもしれない。少なくとも日本のアーティストや観客のなかでは、おおむねこのような二項対立的な図式において、両者の活動領域が想像されているのではないか。

 しかし私は、放浪的な個と定住的な集団に基礎づけられたパフォーマンスアートとパフォーミングアーツの二項対立的な図式をまた別の形で再編したいのである。別の言い方をすれば、舞台芸術には潜在的な差異や矛盾を内包しているはずの多種多様な社会的現実を可視化するパフォーマティブな身体性の次元が取り込まれても良いはずであるし、パフォーマンスアーティストが一時的に身を寄せる係留場所として劇場の機能が見直されても良いはずなのである。あるいは、決まった拠点を持たないパフォーマンスアートの現場に舞台芸術のアーティストが参入しても良いはずなのである。

 ここで私は、批評家・研究者の内野儀が、おそらく10年ほど前から批評的なキータームとして使用してきた〈移動性〉(モビリティ)の概念を思い起こしている。内野は2013年に発表した「〈媒介〉としての日本──舞台芸術のモビリティを高めるために」にて、インターカルチュラル/間文化的な創造に触れて、次のように書いている。


「(…)理論的には、芸術・文化をある特定の地理的ないし規範的フレーム内に固定して捉えるインターカルチュラリズムは、すてにアルカイックなものとして否定されている。というのも、ここ二十年のグローバルな領野での舞台芸術のひとつのクリティカルな特質は、国籍や固有の文化とは必ずしも即応しない特異性としての芸術的個(=シンギュラリティ)と個が、偶発的に出会い、雑種的としかとりあえずは呼びようがない上演へと、あるいは、もう少しキャッチフレーズ的に言うなら、トランスナショナルな実践として、時として結実していることだからである。」(★2)


 こうして内野は「自国の文化」という心地よい「自」の文脈を断ち切り、「舞台芸術のトランスナショナルな移動性=モビリティを高めること」で、「他」の只中で活動する〈特異点〉(シンギュラリティ)と〈特異点〉(シンギュラリティ)がアトランダムに接合されるトランスナショナルな〈移動性(モビリティ)の現場〉において、「日本」を単なる〈媒介〉(メディウム)とする「西洋とアジアの両方向に開かれた芸術実践というものが構想可能になる」と論じるのである。

 内野はその後も「移動と滞在」を軸にしたグローバル化した世界における舞台芸術の公共性ないし創造性についての理論的言説を積み重ねていくことになるが、舞台芸術の分野では2014年、国際交流基金(The Japan Foundation)内に東京オリンピックに向けた国際的な文化交流を活性化させる目的で──つまり東京オリンピック2020までの時限付きで──アジアセンターが新設され、2015年からは国際的な舞台芸術プラットフォーム「TPAM」の主催などを通じて、アジアの同時代的な舞台芸術の紹介と交流事業、そして様々な国際共同制作を推進していった。

 2018年には、アジアセンター主催で、タイの小説家ウティット・ヘーマムーンの小説『Rang Khong Pratthana』(邦訳=プラータナー:憑依のポートレート)』を演劇カンパニー「チェルフィッチュ」の劇作家・演出家である岡田利規が戯曲に翻案し、タイの俳優を演出するという相互翻訳的なプロセスを踏んだ国際共同制作が実現。上演はバンコクのチェラロンコーン大学内のソッサイパントゥムコーモン劇場とパリのポンピドゥ・センター、そして東京の東京芸術劇場シアターイーストの3都市で行われた。内野が示した西洋とアジアの両方向に開かれたトランスナショナルな実践の理念は、国際共同制作の歴史的な積み重ねの中で、緩やかな進展を見せているようだ。

 一方、2021年に開催された東京オリンピック2020の閉幕にともない、国際交流基金の組織改編が行われ、アジアセンターの活動にも終止符が打たれることになった。アーティストの〈移動性〉を駆動させていた公的な資金源が枯渇すれば、アジアという地理的・文化的圏域におけるトランスナショナルな実践もまた冬眠状態に入るのだろうか?

 それに私はなんとも答えようがない。しかし、内野が提示する「国籍や固有の文化とは必ずしも即応しない特異性としての芸術的個と個が、偶発的に出会い、雑種的としかとりあえずは呼びようがない上演」を作動させる回路は、なにも舞台芸術/パフォーミングアーツを支えている経済的・芸術的な環境と関わりのある文脈に限定する必要はないのではないか? グローバルなコミュニケーションの回路を張り巡らせるパフォーマンスアートの現場でもまた、アーティストの旺盛な〈移動性〉において、国籍や固有の文化と即応しない特異的な個と個の偶発的でアトランダムな接合を生じさせるトランスナショナルな場所が生まれうるのではないか、と思えるからだ。

 そういうわけで、トランスナショナルな〈移動性の現場〉とパフォーマンスアートの関係にぼんやりと思考を巡らせていた私は、それじゃせっかくだから行ってみようかなということで渡航の3日前に搭乗券をネットでポチり、1日遅れにはなってしまったが、なんとかタイのスワンナプーム国際空港に降り立つことが出来たのだった。


2.「Asiatopia 2023」レポート(1)──バンコク滞在1日目

 AsiatopiaのFacebookページによれば、Asiatopiaは1998年から続いている東南アジアで最も長い歴史を持つパフォーマンスフェスティバルである(★3)。2023年は、BACC(バンコク文化芸術センター)の4階にあるスペースで開催された。

 開催期間は1月6〜8日の3日間。16時から19時のあいだに各日4〜6人のアーティストが作品を発表していくスタイルで、あらかじめ決められているのかどうかは不明であるが、パフォーマンスの時間は5分〜60分とかなり幅広い。国境をまたいで複数の地域を拠点にしているアーティストもいるため、出生地や居住地で分類できないのだが、おおむね、オーストリア、イタリア、ドイツ、アメリカ、アルゼンチン、日本、カナダ、そしてタイで活動する13名のアーティストが参加した。タイ国外からは7名、タイローカルからは6名という内訳である。

 さて、ここからはレビューというより、紀行文の要素も交えたAsiatopiaの体験をレポートしていきたい。それというのも、Asiatopiaの来歴、バンコクという土地の歴史、参加アーティストのバイオグラフィ、それらのことがらについてよくわからないことのほうが多いからだ。しかも直前で渡航を決めたため、予定が合わず初日のパフォーマンスを見ることができていない。つまり、ほとんど観光客と変わらない穴だらけの主観的な体験しか語れないのである。

 言い訳めいてはいるが、不完全なレポートであったとしても、おそらく日本語圏の情報メディアでは誰も取り上げたことがなく、また、それの報告を担うものが永久に現れそうにないAsiatopiaの存在を知らせること自体に意義があるだろうということで、話を前に進めていきたい。

 18時頃に到着したスワンナプーム国際空港からタクシーに乗り、 ラーチャプラーロップ駅近くのプラトゥーナムホテルに向かった私である。当然、すでに1日目のパフォーマンスは終わっている。とりあえず、武谷と合流しておこうと、すっかり暗くなったバンコクの路地をひとり歩き、BACCへ。BACCがあるのは巨大なショッピングセンターが立ち並ぶサイアムエリア。交差点のスカイウォークでBACCを背にして視線を上げると、MBKセンターのテナントである「ドン・キホーテ」のドンペンくんと、カラオケ「まねきねこ」の看板が飛び込んでくる。

 その日は、ラーチャテーウィー駅近くのレストラン、パブ、バー、カフェが密集するココウォークのチリングハウスで夕食。ココウォークのカフェやパブでは、バンドの生演奏がやられていて、チリングハウスに集まっている年齢の若そうな人たちがその歌に合わせてものすごい熱気で踊り、歌っている。

 それからパッポン通りの老舗として名高いらしいKing’s Castleというゴーゴーバーへ。ポールの設置されたステージで、セクシーな衣装の女性が踊るナイトクラブである。真偽にまで当たれていないが、1970年代、ベトナム戦争に従軍するアメリカ兵の慰安施設として広まったようだ。さらにシーロム・ソイのゲイディスコとして有名なDJ STATIONに立ち寄ることになるのだが、こちらもまた大音量のクラブミュージックが流れるなか、身動きも取れないほどにひしめきあう人々が踊りまくっている。カラフルに色を変えていくレーザービームが、ダンスに揺れる暗闇を撃ち抜き、ギラついた光を発散している。ちょうど数年前に見たアピチャッポン・ウィーラセタクンの『フィーバールーム』のことを思い出す。帰りがけ、セブンイレブンでSINGHA BEERを買ってホテルに戻った。


3.「Asiatopia 2023」レポート(2)──バンコク滞在2日目

 2日目。いよいよ待望のAsiatopiaである。16時からなので、周辺を散歩でもしてみようかなとふらついていると、パヤタイ駅とラーチャプラーロップ駅をつなぐ高架鉄道の真下の線路に足を踏み入れていた。線路を挟んで両方にバラック的な家が並んでいる。

 そこを抜けて、ラーチャプラーロップ通りを南に進む。まずインドラ・スクエアという小物やアパレル関係の小売店が並ぶショッピングセンターの中をめぐり、それからこちらも大量の小売店が軒を連ねるプラトゥーナム市場に迷い込む。アーケードを抜けて、さらに南に行くと「セントラルワールド」という超巨大なショッピングモールが視界に入り、圧倒される。8階建てなのは良いとしても、とにかく信じられないほどに広い。どうやら東南アジア最大のショッピングモールらしい。

 そうこうしているうちに、開幕の時間が迫っていたので、急ぎ、BACCの会場に向かう。会場は鼠色に光るコンクリートの床と白い壁に覆われたフラットな空間で、50席ほどの横長の客席が組まれていた。入場料はない。誰でもフリーで入ることできる。客席も埋まり始めて、Jon Tangpaiboonの司会でスタート。ちなみに、1日目には、Ursula Maria Probst(Austria)、Beate Linne (Germany)、Len Jittima Pholsawek (Thailand)という3人のパフォーマンスがあった。2日目に出演するアーティストは、以下の通りである。


・Time Gate/Ben G. Fodor & Dorothree Frank(Austria)
・Taweesak Molsawat(Thailand)
・Mike Hornblow(Thailand – New Zealand)
・Daisuke Takeya (Japan)
・Graciela Ovejero Postigo(Argentina : USA)


 最初にパフォーマンスを行うのは、男女二人組のBenとDorothree(Austria)。舞台にはあらかじめ祭壇を想起させる舞台セットが組まれていた。黒い机に白いテーブルクロスが敷かれ、細長い3本のろうそく、ワイングラス、布に隠されたもろもろの小物が置かれているが、そのうちのひとつは後に頭蓋骨の模型であることがわかる。

 冒頭、Benが客席の前をめぐって「SCIENCE FICTION VANITAS」と書かれたボードを見せ、そのあいだにDorothreeは絵筆を使い、足の甲に赤いインクで紋様を描いてみせた。それからふたたび鏡を持ったBenがそれに観客の顔を写しながら客席をめぐる。ディティールを見てくださいと呼びかけられた観客がテーブルの前に集まる場面のあと、全員がまた客席に戻ったタイミングで、ワイングラスをチンと鳴らしたDorothreeが「I am rich……」と語り始める(★4)。

 さて、VANITASとはなんだろうか? 美術史研究者の香川檀によれば、それは17世紀バロック期のオランダで静物画の一ジャンルとして確立された伝統的な主題である。髑髏やろうそくのモチーフで表象される生の儚さの寓意として、近現代の西洋美術史にヴァニタス表現の系譜を作り出してきたということである。ヴァニタスをめぐる近現代美術をめぐる歴史的な展開について特に知るところはないのだが、BenとDorothreeのパフォーマンスがヴァニタス表現の系譜に連なるものであることは、西洋美術史の教養を持つものにとっては一目瞭然だろう。

 マイクを持ったDorothreeが語るのは、銀河系にまで支配的な領土を打ち立てた未来の人間の生についてである。そのSF的な未来像では、ロボットがロボット奴隷を製造し、超銀河的な規模で環境資源の収奪が行われ、人間の呼吸から電力を生み出す技術が確立される一方で、都市や村を分断する巨大な壁のネットワークが形成される。

 また、「I am the president of global and transgalactic China/Russia」と、一般に権威主義的な国家として理解されているロシア・中国の「グローバルで超銀河的な大統領」になった彼女は、権力の最後の制約である「時間」が崩れ落ちたことを告げる。さらに終盤で、人間が寿命や病気という生物学的な限界である死を克服したときに、私自身が「死」であると謎めいた言葉が語られることになる。

 儀式的な雰囲気のなかで進行するこのパフォーマンスは、死が消滅した未来の生を語ることで、むしろヴァニタスが内包する「有限な時間」という観念が崩壊した「現在」の歴史的条件を浮き彫りにしている。つまり、自然環境の資源や各地の文化的・歴史的な資源を「限りないもの」として根こそぎ収奪・市場化することで永続的な消費のサイクルを回し続けるグローバル資本主義の終わり得なさ=不死性、そしてグローバル資本と国家的な政治権力が欲望する「時間」の本質が批評的に言及されるのだ。

 それでは、このヴァニタスをめぐるパフォーマンスは、有限な生を刻印された〈顔〉のある人間の終焉を悼む儀式なのだろうか? 最後、ふたたび観客に向けられる鏡は、観客に観客自身の〈顔〉を投げ返す。それは個を形成する有限の時間と、資本が欲望する無限の時間の相克をひとつの問いとしてわたしたちに投げかけるのである。


4.「Asiatopia 2023」レポート(3)──バンコク滞在2日目

 可傷的な身体を素材にするパフォーマンスアートでは、自らの身体にあえて暴力を加えることで、身体を攻囲する不可視の権力システムを感覚的な水準で可視化する戦略が取られることも多い。

 Taweesak Molsawat(Thailand)が行ったのは、言ってみれば自身に生えている脇、乳首、股間の毛を全力で千切って食べるというパフォーマンスである。真っ暗闇の空間で、彼を取り囲んだ観客は、ろうそくの明かりに照らされて浮かび上がる彼が千切っては食べ、千切っては食べるのをただただ目撃することになるのである(後半では観客に毛を抜くように促してもいた)。

 最初に足の指に貼り付けた金箔を食べる行為、そして毛を抜いて食べる行為に託された象徴的な意味は、正直よくわからないのだが、私が注意を惹かれたのは彼が乗っていた台座である。むろん、これは見る側への配慮なのだろうが、台座は彼自身の身体を受苦のモニュメントとして理解させる文脈も作り出している。「見る側」と「見られる側」の非対称性が強調されるのである。その構造は薄っすらとではあるが、私にタイにおける政治権力と身体の関係についての想像を促してくるのである。

 3人目のパフォーマーは、Mike Hornblow(hailand – New Zealand)。彼はバスについているのと同じくらいに巨大なタイヤと比喩的・物理的な関係を取り結ぶ交渉的・遊戯的なパフォーマンスを展開した。タイヤにへばりついたり、転がしたり、引き寄せたり、押し倒そうとしたりする彼の行為で、巨大なタイヤの裏側に貯められていた水がすこしずつこぼれていくという前半部のパートが終わると、彼はビニール袋からNIVEAの日焼け止めクリームを取り出し、タイヤの溝に塗りたくる。それから、タイヤに溜まった水に頭を突っ込んでみたり、その水で濡らしたタオルを使ってタイヤを叩いてみたり、タイヤの中に身体を収めてそのままタイヤを転がしてみせたりする。

 最終的に、タイヤをトランポリンのように使い、タイヤの弾み具合を確認するようにジャンプしてパフォーマンスは終了する。自動車を動かすための機能的な部品として組み込まれない車のタイヤは、無用の廃物と化すわけであるが、Mike Hornblowは、ここで廃品の美学的な再利用をパフォーマンス化しているとみなすことはできるだろう。タイヤは音を鳴らすための道具になり、遊具になり、曲芸師の舞台になり、生活するための仮設住居になる。

 車のタイヤは、産業資本主義による工業製品の規格化を通じて生産される均質な部品であり、そうして規格化されたモノとの関係・想像力を遊戯的な行為を通じて解きほぐすこと。それはタイヤの規格からあふれてしまう水のように、グローバリゼーションの経済体制において均質なフォーマットを与えられる消費者の欲望や生活の想像力に抗して、モノとの遊戯的交渉を開始する別の想像力を具現化するのである。

 ただ一方で、私はこのパフォーマンスから、バンコクの街を歩きまわる中で迷い込んだ、高架鉄道直下の線路沿いに並んだバラックの家を連想していたことも付記しておきたい。タイヤに翻弄される身体に廃品との遊戯的な関係を見出すことの政治的な意味とは何か。それを問われているようにも思える。

 さて、本日4人目のパフォーマーは、上演された作品のなかでも最長の約60分間のパフォーマンスを行ったGraciela Ovejero Postigo(Argentina : USA)。「WATER MARK」の名を持つ本作では、「氷」を記憶のメディウムにした儀式的なパフォーマンスが展開された。

 主役はGracielaが用意した直方体の氷塊である。観客の手も借りて、濃緑の布に覆われた氷塊を舞台の中央に運んだGracielaは布をていねいに剥ぎ取る。その下に見えてくる紐で縛られたブルーシートはまるで遺体のようだ。彼女はブルーシートの覆いも取られて剥き出しになった氷塊に、斧で切れ込みを入れ、そこで出来たくぼみに赤い蕾の花を添えていく。

 その後、この儀式のための特別なドレスを作るように2メートルほどある巨大な緑の葉をいくつか身体にまとわせ、腰のあたりの紐で縛ると、おそらく香辛料のターメリックだと思われる黄色い粉を氷塊の表面にまぶしていくのだが、赤い蕾とターメリックの粉で化粧をほどこされて黄金色に光る氷塊は、儚さの感覚を帯びたメランコリーの詩情をたたえている。氷塊はいずれ溶けてなくなることを運命づけられた儚いメディウムであり、それが赤や黄色の色彩をこの瞬間にだけ現象する特別なものとして感覚させるのだ。

 実際、Gracielaのパフォーマンスは、不変の実体として存在するモノを、この瞬間に消え去るつかの間の現象に変容させ、惜しまれるべき忘れがたい瞬間を際立たせる。くぼみの端に火をつけ、もう一方の端まで燃えていく様子を見つめる時間は、その最もたるものである。ここでわたしたちは、「火」が象徴する生と死、存在と非在の不安定な境界に投げ出されることで、流れ去ってしまう瞬間瞬間の忘れがたさを経験することになる。

 パフォーマンスが終わった後、観客には2つのカードが示される。ひとつは「WATER MARK mythology outside mythology」というタイトル。そして、もうひとつのカードには、


「in memory of Artist
MAGDALENA POSTIGO(1927-2017)
LEE WEN(1957-2019)
NA WATTANA(2094-2022) 」


と記載されている。Gracielaは「氷」というメディウムに固有の時間性を巧みに顕在化させる。そして、ターメリックその他の彼らを想起させるものたちをそこに刻みつけることで、消え去ってしまった人々の特別さと忘れがたさを想起させる追悼の時間を作り出すのである。

 2日目の最後を飾った5人目のパフォーマーは、Daisuke Takeya(Japan)である。武谷のパフォーマンスは、日本の文化的表象を織り込みながら、近代における帝国主義の歴史を呼び起こしつつ、アジアのなかの「日本」が持ちうる主体的な位置性に関わる思考を触発するものであった。

 白いTシャツとズボンに身を包み、サッカーボールを転がしながら登場した武谷は、そのサッカーボールを台座に置かれた布袋に命中させようとする。何度か試したがうまくいかず、観客にボールを渡して代わりに蹴ってもらうなどする(ちなみに2人目の挑戦者が命中させた)。その後、日本酒の入った徳利とお猪口を持ち出してきた武谷は、舞台の左手に正座する。観客に「サケ?」と呼びかけると、何名かの観客が彼の前に正座して酒を酌み交わす。頭上に高く掲げたおそらくタイ米の入った米袋の中身を床にぶちまけたあともまた観客に3メートルほどはあるだろう竹竿を見せて参加を促す。竹竿を渡された5名の観客は、武谷と一緒に布袋にそれを突き立てることになる。

 この布袋の中には、武谷が拠点とする石巻の土と野菜が入っているのだが、日本の近現代史に照らして見るならば、竹竿は「竹槍」であり、無残に突き刺された布袋は日本の植民地支配を受けた「アジア」という身体である。しかし、武谷のパフォーマンスはそのような一義的な解釈を許さない。布袋に「竹槍」を突き立てているのは、Asiatopiaに集まった多国籍の観客なのだ。そのなかにはタイを始めとした東南アジアの各地域で生活する者もいるだろう。ここでは誰が何に暴力を振るっているのかという場面のコンテクストが多層化されているのである。

 また、布袋に詰め込まれていた土と野菜はやはり地面にぶちまけられるが、それは床に広がったタイ米と交わることはなく、明確な境界線を形作る。そして、武谷は石巻の土で領土化された場所の中心で、生野菜をボリボリと噛み砕きながら、床に落ちている野菜を観客に手渡しもする。自身の身体を象徴的な「日本」の領土に仮託することで、「日本」を中心とした「アジア」の地図を描き出すのである。そのとき、手渡される野菜は、毒にも薬にもなるだろう。ところが、布袋を頭に被り、何本もの「竹槍」が突き出る盲目の怪物を形象化した身体で舞台上をふらつきさまよう場面に至って、加害─被害、支配者─被支配者の構図は180度逆転してしまう。ここでもまた、誰が何に暴力を振るっているのかという問いが回帰する。

 最終的に、タイ米の広がる”陣地”に正座して一礼するところまで、「タイ」、「日本」、「アジア」、あるいは「自然」のパフォーマティブな身体化と非対称な関係性の構図をレイヤー状に積み重ねていく武谷の振る舞いは、軍事的・経済的・政治的に遂行される暴力の所在を多重化することで、主体の位置性に関わる複雑な情勢、いわば、複数のアジアを浮き彫りにするのである。


5.「Asiatopia 2023」レポート(4)──バンコク滞在3日目

 Asiatopia3日目。BACCで行われていた《バンコクビエンナーレ2022》を見て回りつつ、ちょうどサイアムのニミブットスタジアムで行われていたBLACK PINKのワールドツアーで、そのファンたちがピンクを乱舞させる光景に目を奪われる。ショッピングセンター内のミーティングポイントでは、BLACK PINKの振付をマスターした女性たちが、アマチュアとは思えない渾身のダンスを披露する。大盛りあがりである。

 もちろんインターネット上の音楽配信サービスと連動した音楽市場のグローバル化によって可能になった光景ではあるが、国境を軽々と超えて韓国とタイの居住者をつなげるファンコミュニティの形成に「良さ」を感じる。You Tubeをプラットフォームとしたヒューマンビートボックスのグローバルなコミュニケーションなども思い起こしながら、フィジカルとオンラインのハイブリッドな活動・コミュニケーションの形態を編みだす力がまるでなさそうな日本の演劇なんかはまるでついていく余地がないなと思う。

 それはさておき、その日も16時から開催されたAsiatopiaの出演アーティストは以下の通りである。


Visut Koosolmanomai (Thailand)
Sara Lanner (Austria,Italy)
Payap Keawkred (Thailand)
Satit Raksasri (Thailand)


 このレビュー?レポート?があまりにも長大になっているので、それぞれのアーティストの作品をごくごく簡単に紹介して、まとめに入ろう。

 まず、Visut Koosolmanomai (Thailand)は、QUEENの「Bohemian Rhapsody」を流しながら、カップ麺、カラフルでキュートなお麩(?)、ホイップクリームなどを砕いたり混ぜたり頭から被ったり、そこらへんに撒いたりする、過剰な飽食をイメージさせるパフォーマンスを展開した。楽曲の終わりでパフォーマンスも終了する。カップ麺にホイップクリームをたっぷりかけたグロテスクな料理が印象的である。

 次に、Sara Lanner (Austria,Italy)。形式的にはポストモダンダンス的な日常性の感覚を発するニュートラルな動作を基調としたもので、断片的なシークエンスの連なりのなかで社会や自然の諸環境を想像的に浮かび上がらせる。後半、会場の照明を落とし、スマホのライトで自分自身とペーパークラフトの小さなビルのようなものを照らしながら動いていく場面は、誰にも声が届かない洞窟や炭鉱のような場所で悲嘆に暮れる状態をプレゼンテーションするものとして解釈可能である。その洞窟は心理的・社会的なものでも、実際の環境を映し出したものでもあるだろう。

 いずれにせよ、私にとっては、身振りの集積においてしか像を結ばない(思想的な時代区分としての)ポストモダン的な身体の形式が、社会的な場面と容易に結びつく回路が新鮮だった。日本の小劇場におけるオルタナティブな実験の現場においては、しばしば身振りの集積のみが無意味かつ過剰に暴走する現象と対照的だった。

 3人目は、Payap Keawkred(Thailand)。ビニールの袋を破って出てくる場面から、レンガ、木炭、造花、何かを煮詰めた赤い汁をブリコラージュ的に組み上げた祭壇を作る終盤戦まで、かなり手数が多く、スペクタクル性の強いパフォーマンスである。背景の壁には、Windowsのデスクトップ画面が映写され、最後に尺八(?)を吹くまで、場の緊張感を高めるミニマルポップな音楽が絶えず流れている。大雑把な流れとしては、まず、「生命」の誕生から始まり、観客に「どんな人間であるのか、自分自身を見てみろ」と言って掲げた鏡に描いた簡易の〈顔〉を叩き割る。観客一人ひとりには造花が渡され、最終的に簡易の祭壇とタイ語で(?)祝詞のような言葉、そして尺八(?)の演奏で構成される儀式が遂行される、となるだろうか。

 歩いて見た範囲のことだが、バンコクのまちなかには大小様々な祭壇がいたるところに設えられている。大通り、路地、ショッピングモールの脇、交差点といったさまざまな場所に点在している祭壇は、日本で言うところの道祖神やお地蔵さんに近いのかも知れない。Payapのパフォーマンスが参照しているタイの文化的ソースを持たない私には、純粋な形式の構造を見ることはできても、その意味を読み解くことは難しい。しかしそれゆえに、Payapの小さな儀式は私の思考と感性を触発してやまないのである。

 Payapが組み立てた”祭壇”などの小道具は残したまま、Asiatopia2023のトリを飾る、Satit Raksasri(Thailand)のパフォーマンスが始まった。暗転した空間にノイジーな音楽が流れるなか、先が赤く点滅するライフルのようなものを持ったSatitは、周囲を警戒しながら歩き回る。「ライフルのようなもの」はやがて何らかの吹奏楽器だったことがわかってくる。それから顔に楽器を固定したSatitが息をするたびに、吹奏楽器に送られた空気が甲高い音を響かせる。彼はその状態のまま、白い布を持って走り回ったり、ドレスのようにも見える布を地面に横たえて、添い寝してみせたりする。

 背景の壁に流れている写真のスライドには、ときおりコロナウイルスの図像が映されることがある。それと連結させてみるならば、彼の「呼吸」を際立たせる吹奏楽器の甲高い音は、それ自体が我々に対する”警告音”として響く。しかし、呼吸のたびに鳴らされる”警告音”は、舞台上に配置される諸記号──ライフルや蹴り飛ばされる小さな地球儀──との連関で、戦争や環境汚染の”危機”を告げ知らせるものにも聞こえてくる。”危機”は常に警告されているが、何が危険なのかは結局のところわからない。あまりにも問題が入り組みすぎているためか、”危機”の空間に慣れ親しみすぎて感覚が鈍麻してしまったためか、あるいは…?

このパフォーマンスがユニークなのは、”危機”という観念そのものが空洞化する”危機”を知らせているからだ。最後の場面、彼はハンドマイクで自身の胸を何度も叩き、心臓の鼓動を模倣するが、果たして彼は本当に生きているのだろうか? それが疑わしく思えるからこそ、心臓の鼓動は模倣されるのではないか? Satitのパフォーマンスは、戦争や環境問題、新型コロナウイルスのパンデミックといったグローバルな危機的諸問題に対する警告だけがひたすらに膨張する不安の中で、警告される”危機”の内実が空洞化していくアンビバレントな事態の構造を示してみせるのだ。


 最後は駆け足になってしまったが、私が目にしたAsiatopiaのパフォーマンスの報告はこれですべてだ。内野が言う「国籍や固有の文化とは必ずしも即応しない特異性としての芸術的個と個が、偶発的に出会い、雑種的としかとりあえずは呼びようがない上演」は、基本的に多様なアクターが関わり合う多文化主義的な集団創作の現場を念頭に置いていると思われ、創作プロセスを共にするわけではない(今回の)Asiatopiaのプログラムは、内野が提起するトランスナショナルな〈移動性の現場〉のイメージとは必ずしも重なり合わない。

 しかし、たとえば、Asiatopiaに参加した武谷大介の活動と芸術実践は、「西洋かアジアか」の二項対立的図式の明らかな外部で、作品の内容・活動の両面において「西洋化した日本のアジアに対する植民地主義的視線」を相対化しつつ、「日本独自の価値」を根拠にすることもなく、「日本」を単なる媒介として〈他なるものたち〉の只中で動いているのである。

 正直なところ、私はパフォーマンスアートの現場がどうなっているのかほとんどよくわかっていない。よく言えばリサーチを進めているとなるが、悪く言えばただ単に無知ということになる。しかし、Asiatopiaのようなパフォーマンスアートの現場は、あらかじめ「文化交流」という枠組みが念頭に置かれておらず、特異なる個と個の偶発的な出会いとアトランダムなネットワークの拡がりを基盤にして開催されている。上述した各作品のレビューを追ってもらえれば、パフォーマンス間で響き合う主題やモチーフ、提起される問題の連関を発見することもできるだろう。逆に、参照枠とされているそれぞれの文化的・地理的な歴史性や美学のズレ/相克を読み取ることもできるだろう。当然、シンポジウムやトークセッション、公的・私的な交流も含めて、作品主義に拘泥することのないプロジェクト的な視野における現場的な交渉が日夜起こり続けているのである。

 パフォーマンスアートのフレームで歴史的に形成されてきた活動やコミュニケーションの形態は、グローバルに展開するトランスナショナルな移動性の現場と親和性が高いことは明らかであると思われる。それも、言ってみれば、より草の根的なものとして。私個人としては、引き続き、その動向を追っていきたいと思っているし、日本の現代演劇の現場に関与するアーティストや諸機関のアクターの関心が向けられることを望んでいる。

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[★1] 各イベントに関する過去に書いたレビューがあるので、興味があれば参照して欲しい。

「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて――『STILLLIVE: CONTACT CONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」(2020年、https://maronbooks.wordpress.com/2020/12/13/stilllive2020/

「秘密結社――R3:SCAPE-CITYにおける〈秘匿〉の身振り」(「Responding」Webサイト 、2021年、http://borderlands.responding.jp

「どうでもいいって? そりゃけっこうですね!――Aokid/『どうぶつえん』から『どうでもいいもの』の歓待と遊びと〈群れ〉について考える」(アートジャーナル「Search&Destroy -第7号」、2021年、http://cs-lab.zokei.ac.jp/wp-content/uploads/2021/10/SD7.pdf

[★2] 内野儀『「J演劇」の場所 トランスナショナルな移動性へ』、東京大学出版会、2016年、p.ⅳ。

[★3] 「Asiatopia」フェイスブック・ページ、https://www.facebook.com/ASIATOPIA

[★4] 以下の内容は、上演後に配布された英文のテクストを参照している。


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しぶかわ・まろん/批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。


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【上演記録】
Asiatopia International Performance Art Festival

2023年1月6日~8日
タイ・バンコク

「Asiatopia」フェイスブック・ページはこちら

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