<先月の1本>コトリ会議『みはるかす、くもへい線の』 文:山口茜
先月の1本
2023.01.31
良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。
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復讐劇
この物語は、主人公であるピロの実家、山奥のコンビニを舞台に繰り広げられる人間模様ならぬ便所虫模様である。ピロがどのように生まれ、今どのように暮らしているかという家族の話、コンビニに偶然やってくる若い男女のカップル、そして一組の夫婦、3つのストーリーが劇中で交錯する。
いっとき、あわや閉館かと危ぶまれた劇場、アイホール※を正規の金額で借りてみたらとっても高額だったので、舞台美術に費用ははほとんどかけられないとわかり、この劇場の形を美術として生かした演出をしたと山本さんが取材先に答えているのを読んだ。私も全く同じ思考回路で創作するので共感しかない。何がやりたいかよりお金の勘定が先に来ないと演劇公演を続けるのは結構難しい。
実際、劇場に足を踏み入れると、大きな舞台美術は無く、平台や簡易な小道具だけでしつらえられた、ほぼ劇場の素の姿がそこにあった。であるにもかかわらず、上演が始まると私たちはあっという間に「山奥のコンビニ」に連れていかれたような錯覚に陥り、そこで虫と人間の間の子であるピロを中心に繰り広げられる人間模様に巻き込まれていくことになる。急な坂道をドライブするカップル、崖から落とされる車、山奥にある薄暗く閑散としたコンビニの雰囲気など、およそ実際には無いイメージが、いとも簡単に立ち上がり私の手触りを獲得していく。夫婦で死のうと決意したのに、夫は急に生きたくなり、妻を裏切ろうとしたり、ピロの母に誘われた若い十六は、恋人である久満子が近くにいないことを確かめ、母と行為に及んだ挙句食べられたりして、私はその度に嫌な気持ちになったりバレないかドキドキしたり、そして笑ったりしてしまう。虫と人間の間の子として生きてきたピロが、自分の母であるカマドウマに内臓を食べ尽くされた人間である十六と、友達になりたいと望み、共にサッカーボールを蹴るシーンは、冷静になると意味がわからないのだが、なぜだかジーンとしてしまう。この劇を、小劇場に初めて触れる人が観たら、きっと小劇場にハマると思う。そう確信できるほど、質が高いのに、語弊を恐れずいうなら、お金がかかっていない。いや劇場費はかかっているが創作にはかかっていない。いや創作には実は人件費がものすごーくかかっているのだが、舞台美術を組まないことで大きな経費削減をしている。これは一見簡単なようでとんでもない曲芸だと思う。私は驚きつつも、観客としてとても嬉しく楽しい時間を過ごさせてもらった。
通常、ここまでエンタメとして完成度が高いと、私はあまりレビューを書きたい気持ちにならないのだが、今回のコトリ会議では上演中、私の喉に、魚の骨のように引っかかった事柄が今も抜けずにあって、それが一体なんなのかどうしても考えたくなったので、あえてこの作品をエンターテイメントとは全く違う切り口・・・つまり私の目線という切り口で再度、捉え直してみたいと思った。
骨の一つ目は、十六がどうしてもコンビニに寄ってトイレを借りると言って聞かない恋人に対して「怒るよ俺」と怒鳴るところ。骨の二つ目は、自殺しようとこの山にやってきた夫婦の、妻の歯が、四列あるということに夫が初めて気がついた時のことを話すシーンだ。
まず、一つ目。単純に私の体が、「怒るよ俺」と言う台詞を拒否した。これまでスルスルとなんの疑問もなく飲み込んでいた言葉たちの中で、これだけが飲み込めない。身体が強張って、それで気がついた。私は十六のことを、純粋で性格の良い男の人だと思っていたが、勘違いしていたかもしれない。
自分の言うことを聞かない相手に対して「怒るよ」と言うのは「脅し」である。怒られたくなかったら自分のいうことを聞け。というメッセージだ。不思議なものだけど、この言葉を吐く人は大抵、すでに怒っている。それにもかかわらず、まだ怒っていないかのように「このままだと私は怒りますよ」と警告する。自分の想定外のことをされるのが気に食わないからだ。さらに相手を、怒りという刀をチラつかせてコントロールすることができると思っているからこんな事を言う。言われた方は、そのチラつく怒気を感じ取って、言う事を聞く。親子にはよくあるやり取りのようにも思うが、恋人間でこの言葉が出るとギョッとしてしまう。
この一言の台詞で、これまで仲睦まじく、かつ、対等だろうと思っていたこのカップルが、突如「支配」「被支配」の関係にあった可能性が浮上し、急に劇の見方が変わる。このカップルは、今日突然、コミュニケーションが取れなくなったわけではない。実はずっと前から取れていなかったのではないか。もっと言うと、十六は取れていると思っていたけれど、久満子の方は取れたと思えたことがなかったのではないか。つまり二人のコミュニケーションは成立していなかった。それに十六は、この日の夜、ようやく気がついたのだ。彼女が自分であるエビを食べたと自覚した夜に、ようやく。
これまで幸せなパートナーだと思っていた相手が、突然エビを食べて自分を食べたと言い出し、トイレに入る。勝手にパートナーのいるトイレを開けると、彼女の手には自分の排泄物がついている。十六からすれば、久満子が突然狂った、と言うふうに見えるのだけど、そうではない。彼女はこれまでずっと、十六と意思疎通できなかった。自分が虫と人間の間の子だと気がついていなかったのだ。気が付かずに、人間として生きてきて、虫の部分を無意識に抑圧して、人間とは会話が成り立たないことを隠し「なんでもないように振る舞い」「相手の感覚に合わせ続けてきた」のが、城崎で食べたエビのせいで、虫である自分が解放されてしまったのだ。(城崎で食べたエビは、もしかしてきょうだいだったんだろうか。ここを深堀りするとちょっと話が逸れるのでおいておく)
そういう仮説を立てると、久満子が引き寄せられるように自分の生家にたどり着き、自分の母親が「人間の姿を保つための餌」として十六が食われてしまうのも筋が通ってしまう。
久満子は明らかな自分の意思ではなく、何か大きな流れに押されてここまで到達する。そして自分の感情に気がつく。久満子はずっと、言うことを聞かないと怒ったり、トイレを勝手に開けたりする相手に復讐したかったのだ。
次に、妻の歯が、四列あるということに夫が初めて気がついた時のことを話すシーン。夫は、初めてキスしたときに、妻の歯が四列あることに気がついたという。でもそれは個性かなと思っていたら、その後、卵を産んだので、妻が人間でないことに気がつき、二人で死ぬことにしたというのだ。些末なことなのだけれど、私は「歯が四列あることにキスの時に気がついた」と言われて、驚いてしまった。
大体、歯というのは、その人が乳児の頃から保護者によってしっかり観察されていることがほとんどだと思う。咀嚼に不都合があれば、と言うより見た目に問題があれば、まだ未就学児のうちに、親は悩む。一部の親は未就学児のうちに歯医者に連れて行く。遺伝もあるし、日頃の生活スタイルの影響もあるが、歯は成長するに連れどんどん個性的になっていく。大体年長さんぐらいで子供の歯が抜けて、小学生に入ると、大人の歯が揃う。そしていよいよ、矯正するかどうか考える段階に入る・・・こう言った過程を、およそ大半の保護者は完全に把握していると思う。自分たちの子供の歯が四列あったとしたら、普通は、という言葉はあまり言いたくないのだけれど、普通は、病院にかかると思う。病院にかかって、おそらく歯が四列ある人間ということで研究対象になるだろう。ひっそり医学界ではニュースにもなるかもしれない。それでたぶん、全身検査が行われて、どうやら生殖器にも異変があることがわかるだろう。普通の生活に戻れるのは、四列ある歯を一列に戻す手術が施されてからだと親は思う。しかしもし手術では不可能だと言うことになると、普通の生活に戻っても、小学校や中学校で虐められたりもしつつ、引き続き手術で普通に一列の歯にならないか、最先端の医学に期待するだろう。例えば子供の歯が抜けるタイミングで何か打つ手はないだろうか。全部抜いて差し歯にしてしまってはどうだろうか。と言うか生殖器に異常があるってどう言うこと?そうやって親は心配し続けると思う。家族の不安を一身に受けながら子供は成長するので、子供の方もなんだか不安だ、それを「障害」や「個性」として本人や家族や社会が受け入れ、就職、恋愛等に至ることももちろんあると思うが、今回はそういうバックグラウンドが、妻に全く感じられないことに引っ掛かりを感じたのだ。
それは単純にそういう過去の説明が劇中にない、ということもあるだろうし、登場している間の振る舞いにそれが感じられなかったと言うこともある。一応セリフでは妻本人が「私も一歳ぐらいの時からおかしいと思っていました」と言っているが、一歳の頃に起きたことは通常記憶に残らないので書き換えられた記憶だと思う。それにこれは「おかしい」と言うレベルではない。
この場合、二つの可能性が考えられる。一つは、妻が突如、この世に現れた説。夫と出会う前の数年間に、それまで虫として生活していた妻が何らかの方法で人間を食べ、突如人間の姿で立ち現れたところで夫と出会ったと言う説だ。今回のコトリ会議の空気感としてはこちらが合うのだろうなと思いつつ、もう一つの方を掘り下げてみたい。
それは夫の方にも相当辛いバックグラウンドがあったのではないかと言う説。二人ともが、非常に過酷な人生を歩んできて出会い、共鳴していて、それで二人は、二人でいる間だけは、自然体でいられたのではないか。それがいざ、子作りに励んだところ、虫が生まれてしまった。やっぱり二人には、人間を作ることはできなかったと落ち込み、死ぬことにした。けれども所詮、夫は人間だ。相手次第では人間を作れる可能性がまだ、ある。だからいざ死ぬとなったら怯んでしまう。自分だけはやり直しが効くと思っていることが明らかになる。
妻の方は久満子と同じように、どうしてもこの山で死ぬと決めている。この山にあるコンビニで超ロキソニン麻薬を買って、それを飲んで痛みを感じずに死のうとする。夫の方は表面上一緒に死ぬことに賛同しつつ、こっそりあらゆる手段を使って死から逃れようとするが、何かにつけてうまくいかず、最終的に超ロキソニン麻薬を飲むタイミングまで逃して、苦しみながら死ぬ。これもやはり、久満子の時と同じだが、彼女はただ、死のうとして、なるべく楽に死にたいと思い、山にあるコンビニに寄っただけなのだ。そして全く自覚なく、こっそり自分を裏切ろうとした夫に復讐を果たしてしまうのである。彼女の無意識は、ずっと気がついていたのだ。夫が自分とは心中しないと言うことに。
ところでこの復讐劇は、ピロの父親がうっかり便所虫を踏んでしまったところから始まる。父親は便所虫を踏んづけておいて、まるで自分が被害者のように「だからボットン便所嫌なんだよ」と言い捨てる。ところが便所虫の方は実は別の便所虫、カマドウマと婚約していて、幸せの絶頂期にあった。人間に踏まれてペッチャンコになった便所虫は死んでしまい、残されたカマドウマの方は絶望して自分も潰して欲しいと人間に懇願する。人間はつい、カマドウマを励ましてしまい、うっかりカマドウマと子作りをしてしまうのである。
死んだ便所虫は幸せの絶頂期にあった、と言ったが、実は死ぬ直前に婚約者のカマドウマと言い争いをしている。
「私もいつか海へいきたい」
「僕たちは海へは行けないよ」
「あきらめないで」
「だって僕たちは 山奥のボットン便所でひっそりと暮らすカマドウマ」
「カマドウマだって蛹になって いろんな虫に変態すればいいのだわ カトンボ クワガタ ハンミョウエビ アゲハ蝶」
「エビは虫じゃない」
「エビは虫よ どう見たって昆虫よ」
「そして君」
「なによ」
「カマドウマは蛹(サナギ)になれない」
「な なんですって」
「カマドウマは蛹になれない虫なんだ」
「そんな 人間だって時が来れば部屋に閉じこもり蛹になって なんだかんだで職について飛び立つのよ」
「君は海へはいけないんだ」
「意気地なし そんなこと言うなら人間とちゅんちゅんしてやる」
「な 」
「人間とちゅんちゅんをして いろんな虫を産んで産んで 産みまくってやるわ」
人間のように遠くを見つめたいと願ったカマドウマは、恋人に現実を突きつけられ、それでも海へ行くのだと言い返す。そして勢い余って人間と子作りをすると宣言してしまう。そしてその宣言が、恋人の偶然の死に寄って現実化してしまう。彼女はなんとか恋人の死を乗り越え、同じ人間と何度も何度も交尾を繰り返し、いろんな虫を産みまくって川に流し、その子供たちの行先を案じる。海に流れ着いたはずの子供たちに思いを馳せることを通して、彼女は遠くを見つめることに成功するのである。
なるほど、これは復讐劇などではなかった。山奥のボットン便所に生息するカマドウマの壮大な夢を叶える物語だったのだ。ただ、それであれば尚更私は残念に思う。山奥のボットン便所に生まれたカマドウマは、子供を産むことでしか、遠くを見つめることはできなかったのだ。この虫と人間の間にある圧倒的な権力勾配に絶望する。でもだからこそ作者の山本正典さんは、人間の生命を奪って虫の夢を叶えると言う構造にしたのかもしれない。虫の復讐に力添えをするために。
やはりこれは、無邪気にカマドウマの夢を叶える物語、ではなく、立派な復讐劇なのではないか、と改めて思ったのであった。
※アイホールはこれまで多くの主催・共催の演劇公演や企画を行い、関西演劇界の振興を中心となって支えてきましたが、老朽化や市民の利用率の低さを理由に市が事業費をカットし、現在貸し館のみの運営となっています。
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やまぐち・あかね/1977年生まれ。劇作家、演出家。合同会社stamp代表社員。主な演劇作品に、トリコ・A『私の家族』(2016)、『へそで、嗅ぐ』(2021)、サファリ・P『悪童日記』(2016)、『透き間』(2022)、トリコ・A×サファリ・P『PLEASE PLEASE EVERYONE』(2021)など。
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【上演記録】
コトリ会議『みはるかす、くもへい線の』
撮影:河西沙織
2022年12月2日(金)〜4日(日)
AI・HALL
作:山本正典
演出:コトリ会議
出演:大石丈太郎、川端真奈、三ヶ日晩、花屋敷鴨、原竹志、山本正典、吉田凪詐
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