<先月の1本>チーム・チープロ《京都イマジナリー・ワルツ》横浜公演 文:渋革まろん
先月の1本
2023.01.31
良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。
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猥雑な太もものスウィング──チーム・チープロ《京都イマジナリー・ワルツ》のレクチャーパフォーマンスに流れる”プロジェクト”と”ナラティブ”の系譜と驚異のワルツ
脳速度の加熱で永遠にも感じられる彼女の踊りの時間に浸り続けたいと思わされて私は唸った。比喩ではない。客席で何度も「やっば」と声に出してつぶやいた。周りからすればなんとも奇っ怪な客である。しかし、そのパフォーマンスは確かにまれに見るほどの驚異であったのだ。
2022年12月1日〜5日、チーム・チープロによる《京都イマジナリー・ワルツ》の再演が横浜のSTスポットで行われた。今回は、2000年代から2020年代に連なる日本の舞台芸術史における潮流を二つの側面から(ざっくり)外観した上で、本作から私が受けた“驚異”とはなんだったのかについて率直に述べてみたい。
1.リサーチ・ダンスの方法とまなざされる“身体”
チーム・チープロは松本奈々子と西本健吾のパフォーマンスユニットである。公式WEBサイトによると、2013年に結成されたあと数年の休止期間を経て、2016年に再起動。《人間の尊厳に関する実験vol.2: 上演》や《20世紀プロジェクト》連作といったゲームプレイ形式のパフォーマンスや観客が出入り自由の展示的なパフォーマンスを発表していった。そして、2019年から「リサーチ・ダンス」と呼ばれるリサーチベースの作品作りが開始される。その成果が《皇居ランニングマン》(2019・初演)に続く諸作品へと結実。そのなかでも《京都イマジナリー・ワルツ》(2021・初演)と《女人四股ダンス》(2022・初演)は、KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)で初めての公募プロジェクトに選出されて生まれた作品であり、彼/女らの注目度の高さが伺える[★1]。
それでは、仮にそうした注目がチーム・チープロに集まっているのだとしたら、それはどのような理由によるものなのだろうか?
私が初めてチーム・チープロのパフォーマンスを観劇したのは、横浜STスポット主催企画と「YAU TEN(有楽町アートアーバニズム)」のパフォーマンスプログラムとして行われた《皇居ランニングマン》で、今回は3度目の観劇ということになる。そのなかで強く感じるようになったのは、彼/女らのクリエイションが持つ、“総合力の高さ”とでも言うべきものである。00年代以後の上演系芸術ないしパフォーマティブな実践が切り拓いていった形式的実験と社会的関与の方法がまったく自然な前提として咀嚼され、ひとつの舞台に昇華されているのだ。
まず、本作の形式がリサーチベースのレクチャーパフォーマンスに分類されることを確認しておこう。松本のインタビューによれば、「イマジナリー・ワルツ」は、“文献的なリサーチ”と“フィールドリサーチ”を組み合わせた「リサーチ・ダンス」の手法で制作されている[★2]。いかにも一般的な手続きに思えるが、特徴的なのは、フィールドリサーチでは、実際に文献で調べた場所ないし気まぐれに訪れた場所でワルツを踊り、それを写真・言葉で記録していくという身体的な記憶の蓄積が目指されることだ。一ヶ月間通ったという京都の社交ダンス教室の経験もそうした身体的蓄積のプロセスに貢献するものだろう。
身体を記憶の貯蔵庫(メディウム)として使用するリサーチの方法論は、それ自体がレクチャーパフォーマンスの基本的なフレームを作り出すことになる。
上演はとてもシンプルないくつかの要素で構成されている。STスポットの白い壁に映されるテキスト、それを読み上げる機械的な音声、“ワルツ”のステップを踏む松本のダンス、そして、波音を想起させる三拍子のリズムである。
冒頭、松本が観客の一人ひとりに手を差し伸べたあと、「わたしは今日、この劇場に集まった皆さん一人ひとりとワルツを踊りたいと思っています」[★3]と投影されるテキストが象徴するように、舞台に立つ松本はそこにいるかもしれない誰かと〈想像〉のワルツを踊る。しかし、そこで〈想像〉されるのは松本とワルツを踊る“誰か”だけではない。テキストの語り=レクチャーを通じて松本の身体に投影される“誰か”の似姿もまたそこに〈想像〉されることになる。
鴨川の川岸に並ぶ恋人たち、昭和初期に建設された東山ダンスホールで近代化の象徴として社交ダンスを踊る女たち、先斗町歌舞練場で男たちの視線を誘い込む“ダンス芸妓”と呼ばれた芸舞妓、バレエの理想的なプロポーションから逸脱する自身の身体に怯えるバレエダンサー、そして、ある小さな村の老人が海岸の波に向けて吹いた笛の音色に同調するように生まれた波の美しいリズム……。
これら“踊る身体”を規制する西洋近代のイデオロギー、バレエの美学、自然発生的に生まれる踊る喜びの寓話、あるいはジェンダーの“まなざし”にまつわる歴史的・民話的・個人史的な諸言説が、まさにそのまなざしによって生産される“誰か”──恋人たち・ダンス芸妓・バレエダンサー・たゆたう波──のイメージを松本の身体に投影していくのである。
「リサーチ・ダンス」の方法は、鴨川や先斗町やダンス教室などフィールドワークで訪れた場所の記憶を松本の身体に書き込んでいくものだった。それと同様に、観客はレクチャーパフォーマンスを通じて、ワルツ/バレエ/社交ダンスを踊ってきた“誰か”にまつわる歴史的・民俗学的・個人史的な諸言説が松本の身体に書き込まれ、さらにそれらの言説的形象が書き直され、書き重ねられていくアクチュアルかつスリリングなプロセスを経験することになるのである。
2.00年代以後を画するプロジェクトとナラティブの潮流
ここまでの記述をもとに、先立って“総合力の高さ”としてまとめたチーム・チープロの本作につながる二つの脈絡を概観してみよう。
まず、本作のようなリサーチベースのクリエイションは、00年代以後に盛り上がりを見せたアートフェスティバルと並行して、舞台芸術業界で市民権を得ていったアートプロジェクトの文脈に連なるものである。
実践の形態は多岐にわたるが、アートプロジェクトの様式を特徴づけるのは、劇場・美術館の外に広がる市民社会やコミュニティに関与するプロセスを重視し、美的な形式よりも社会的意義や有用性が評価されることである。
舞台芸術シーンのなかでは、相馬千秋がディレクターを務め、2009年から始まったフェスティバル/トーキョー(F/T)が、「ポストドラマ演劇」のタームとともに、社会的文脈を創出するアートプロジェクトの実践を日本の舞台芸術業界に普及させる重要な契機になった、というのは、ある程度の賛同を得られるのではないかと思う。
「演劇性の拡張──演劇と現代アートの交錯をめぐって」[★4]という相馬の論文では、東京の人口統計を反映させた100人の市民が舞台に上がるリミニ・プロトコルの《100%トーキョー》(F/T13)や、素人・玄人の区別を問わず日本で公募されたパフォーマーをポップ・ミュージックで踊らせるジェローム・ベルの《ザ・ショー・マスト・ゴー・オン》(F/T11)などが「コンセプチュアルなフレームをプロトタイプ化して、世界のどんな地域のどんな身体でも再現可能な」プロジェクトとして紹介されている。これに加えて、都市を舞台に展開される高山明の《サンシャイン62》(2008)などのツアーパフォーマンスから、《完全避難マニュアル東京版》(2010,F/T10)などのポスト劇場的なプロジェクト、そして、社会的な現実に働きかえるプロジェクトを、アーティスト自身が観客の前で語り直す形式として「レクチャーパフォーマンス」が取り上げられることになる。
2023年現在では、社会的現実に介入するプロジェクトを「ライブドキュメント」として事後的に語り直すというより、個人史を社会史に連結させるパフォーマティブなプレゼンテーションという認識が一般化しているかもしれない。いずれにせよ、個人史と社会史を接合するレクチャーパフォーマンスの形式は、2017年に始動した芸術公社主催・相馬千秋ディレクションの「シアターコモンズ」でも散見されるおなじみの形式となっており、高山明が教授職で所属する東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作ならびに関連する「RAM Association」(2018-)のプロジェクトでも、一般的な選択肢のひとつになっているようだ。
そうしたわけで、レクチャーパフォーマンスは上演系芸術を社会的文脈と交渉させるための効果的な形式として、少なくとも日本のハイカルチャーのクラスタ/コミュニティで広範な認知を獲得するに至っていると考えられる。チーム・チープロの本作はそうした系譜の最前線を担うものと言えるだろう。
並行して、本作を00年代以後の小劇場演劇に方法論的な革新をもたらしたナラティブと〈想像〉をめぐる実験の系譜に位置づけることもできる。上演のなかで繰り返し提示される「想像せよ」というインストラクション(指示)は、00年代以後の現代演劇とコンテンポラリーダンスのジャンル的なクロスオーバーを促進した鍵概念にあたるものだ。
アングラ・小劇場演劇の文脈では、周知の通り、チェルフィッチュの『三月の5日間』(2004・初演)を分水嶺に、“観客”への語りかけを前景化する「ナラティブの方法」が、2010年代における戯曲とパフォーマンスの形式的な実験を推し進める原動力あるいは重要な参照源になった。
物語る主体の機能的指標を分析した佐々木敦の語彙を借りるのであれば[★5]、アクター(俳優)がキャラクター(登場人物)を演じるという関係で成立していた写実主義的なリアリズムの演技に対して、チェルフィッチュは、“観客”に向けて語るナレーター(語り手)の機能を導入することで、そこで語られる複数のキャラクター(登場人物)を行き来するような演技態を可能にした。心理主義・写実主義的なリアリズムの伝統では戯曲テクストの発話を通じてキャラクターに同化していたアクターの身体からキャラクターを引き剥がし、ナレーターの権能で語られるテクストと、パフォームされる身体が分離したままパラレルに並走する──そして語られるキャラクターと身体がどこまでも一致せずズレ続ける──分裂的な演技態を成立させた(もちろんそのズレをズレとして差し込むためには発話と身振りの特殊な技能が要請されるのだが)。
岡田利規も2010年に発表した演劇論の中で「イメージを観客に受精させる」[★6]という演技/演出の方法論を打ち出しているが、それはつまり戯曲テクストから独立して舞台に置かれた身体は、テクストが語られ、身振りが遂行される過程で、観客にイメージを受精させる〈想像〉の媒体になるということを意味している。そこで俳優の仕事は登場人物を上手く演じることでも、俳優自身のユニークな自己を表出することでもなく、なんらかのドラマや人物を物語るナラティブによって、上演の瞬間瞬間にその身体に具現化される人物、物語、逸話、形象……を観客の想像力に向けて現象(受精)させること、すなわち、観客との間主観的な拮抗関係を通じて身体に投影される〈想像〉を立ち上げることとして再定義されることになる。
ナラティブ(語り)のフレームが可能にするテクストと身体の分離を前提に、舞台から暗黙裡に発せられる「想像せよ」というインストラクションが、パフォーマンスを成立させる根本的な原理として働いているという考え方は、当然、松本の身体に“誰でもない誰か”の諸形象を投影する「イマジナリー・ワルツ」の手法に引き継がれているとみなしうる。
このように、本作には、チェルフィッチュの方法論的革新を受けて展開されたナラティブと〈想像〉をめぐる実験と、地域の社会的な文脈に応接するプロジェクト的な実践、制作と活動の両面において00年代以後の歴史的な系譜との接続を見出すことができるのだ。
前節でチーム・チープロへの注目は何に由来するのかと述べたが、それはとりわけ10年代以後の日本の舞台芸術業界に生じた“社会的転回” ──2011年の東日本大震災と原発事故を受けた社会・政治意識の高まりも関連するそれ──に自覚的なプロジェクトを、ポスト・チェルフィッチュの原動力になったナラティブと〈想像〉の実験に連なるレクチャー・パフォーマンスの形式を通じて、非常に安定した高い水準で実現しているからに他ならない。
確かにそれはそうで、私もそれだからこそ本作を評価するのであるが、しかし、私が本作から受けた“驚異”は、チーム・チープロの“総合力の高さ”を前提とした上でもなお、それに解消されるわけではない言い知れぬもの、すなわち太もものスウィングにあったように思われるのだ。
3.「女性の身体」の“猥雑性”
太もものスウィングとは、つまるところ〈想像〉の猥雑な交接である。
松本のダンスは、バレエをめぐる松本の個人史とワルツをめぐる日本の近代史、あるいは現在の鴨川の風景と神話的な伝承を軽やかにトリップしていくが、そこで絶えず観客の注意を喚起し続けるのは、女性のダンサーに向けられる“猥雑”なまなざしの存在である。
「わたしは女性側のワルツポジションへと身体を変形させています」と映写されるテクストと並行して、実際にワルツポジションを作る冒頭のシークエンス。西洋化の象徴として男性にリードされる従順な女性を振り付けた社交ダンスが、身体的な接触をともなう“猥雑”なものとして規制され、さらに社交ダンスを踊る芸舞妓も警察権力の介入で潰されていったという歴史的なエピソード。
テクストの語りは繰り返し、規範的なまなざしによって生産される身体の諸相に光を当てていくが、そこで観客に意識される“猥雑”をめぐるまなざしの働きは実に両義的である。社交ダンスの場面のあとに提示される挑発的なテクストに目をやろう。
「あなたたちの身体が猥雑なものとみなされることを想像しなさい」
率直に言って、近代的なジェンダー規範を身体化した──私自身も含む──ヘテロセクシュアルな男性にとって、自己の身体を“猥雑なもの”として想像するのは、それほど容易いことではない。彼らは猥雑性を問われる側の性ではなく、常に「女性の身体」を“猥雑なもの”として意味づける側の性であるからだ。
近代の家父長的なジェンダー規範は、人間のエロスの様態を、生殖を目的とした(ヘテロ)セクシズム/異性愛的性差別主義(竹村和子)のジェンダー言説を通じて、視る主体/視られる客体に振り分け、男性/女性の非対称な権力関係を再生産してきた。ジェンダー化された「男」のまなざしが、「女性の身体」をセクシュアルな客体の位置に固定し、常にすでに“猥雑”な快楽の源泉としてそれを評価、値踏みする男性主体の地位を維持し続けてきたわけである。
しかし、本作では、たとえば社交ダンスのエピソードを通じて、男性と接触する「女性の身体」を、公序良俗に反するポルノ的で“猥雑”なものとみなして取り締まる、家父長的なジェンダー秩序と結託した法的・道徳的なまなざしに批判の矛先を向けながら、なおかつ「女性の身体」を“猥雑”なものとみなす男性的なまなざしを、“視線の重み”として積極的に引き受け、自らの身体を過剰に“猥雑”なものとして現象させようとするのである。
「わたしは自分の身体が猥雑なものであることを想像しています/あなたたちの視線が重さとなっていくことを感じています/わたしを見てください」
上演の終盤。コロナ禍で想像上の祖母と踊った秘密のワルツを経由して、昭和10年に鴨川の氾濫で浸水した先斗町歌舞練場で「あなたが望む誰か」に化けるという信楽焼のたぬきと出会い、ついに「こちらの世界とそちらの世界のあいだ」を流れる川へと行き着いた松本の身体は、あまりにも“猥雑”な〈想像〉のワルツを踊る。
それは、私が勝手に思い込んでいた優美な作法のもとで踊られる社交ダンスのイメージではなかった。いや、というより、制度化されて“猥雑性”を取り除かれた正しい社交ダンスのステップではなかった、と言うべきか。誤作動を起こしたおもちゃのようにねじられる四肢は、不安定なアクセントを刻みながら左右に振られる臀部、と連動してステップを踏むふとももをダイナミックにスウィングさせる。
それは確かに、彼女の手を取った男性を振り切るような、社交ダンスの制度的な規範から解放された野蛮な“ワルツ”の噴出、と言いたくなる圧巻のパフォーマンスだった。そうした野蛮さに女性自身が選び取る“猥雑性”を見出し、「男」のまなざしに価値付けられていた「女性の身体」を、女性自身の手に取り戻すための主体的な身振りとして理解することもできるだろう。
しかし、そうした見方では、「女性の身体」にポルノ的な猥雑性を読み込む男性的なジェンダーのまなざしは変わらず温存されることになる。問題にすべきは「女性の身体は猥雑であるかどうか」という問いの前提を成している「女性の身体」を「女性の身体」として意味づけるジェンダー言説の特権性である。
平たく言えば、ダンス芸妓やバレリーナの形象が投影される松本の身体を、男性的な欲望で意味づけられる「女性の身体」としてのみ見なければならない必然性はなく、身体の”猥雑性”をポルノ的な意味での“猥雑さ”として認識させるジェンダーの枠組みにだけ従わなければならない理由などどこにもないのだ。
身体とテクストを並置して〈想像〉を走らせるナラティブの手法は、まさに性欲望の差異化で規制されるべき“猥雑”な身体を意味づけるジェンダーの枠組みを相対化するように作用する。いわば、「女性」に同化していた身体から「女性」というキャラクターを引き剥がし、多様な言説的形象(キャラクター)を行き来することを可能にするのである。
私が本作からまれに見るほどの驚異を感じたことは冒頭で述べた。それは端的に、ナラティブのフレームが可能にした複数的な〈想像〉の往還を通じて、ポルノ的な“猥雑”さとは別の意味の過剰な“猥雑”さがラストの“ワルツ”にまさに現象していたと感じられたからである。
断片化されたテクストがつなぎ合わされたナラティブは、知覚される身体を複数の〈想像〉がひしめき合う複層的な場に変えてしまう。上演の時間的な経過の中で、川辺の恋人、ダンス芸妓、バレリーナ、日本人、エスコートされる女、老人、波、孫、秘密、たぬき、妖怪、魑魅魍魎,美女、死者……の言説的形象が松本の身体に投影されると同時に、観客の記憶に蓄積され、それがラストで踊られる“ワルツ”において一挙に去来するのである。
そこで「男性」の性欲望を差異化するジェンダーの枠組みで定義されていた“猥雑”の観念は、身体を産出する複数的な言説 ──ダンス芸妓、老人、波、孫、秘密、たぬき、妖怪……についての──が交錯する雑種的な闘争の謂いとして再定義されることになる。“猥雑”なのは「女性の身体」ではなく、〈想像〉を過剰飽和させる“ワルツ”のスウィングであり、それが太もものスウィングを、交錯する形象が畳み込まれるように物質化される驚異的なイメージの運動に見せているのである。
「わたしは 自分の身体が見られていることの喜びを想像します」
“猥雑”な身体を見られていることの喜び。それは、男性的な性欲望のまなざしに射抜かれることの喜び(だけ)ではない。他者に語られることとまなざされることのあいだで言い知れぬものに変態することの喜び、だったのではないか。ダンス芸妓のように、波のように、たぬきのように、秘密のように、あるいは「あなた」のまなざしに生まれる他の誰かのように、めまぐるしい〈想像〉で変態する“猥雑”な身体は、それを「女性の身体」として見つめる私自身の男性的な欲望にもズレを差し込み、困惑させる。
いったいなにがそれをそのように見せているのか。スウィングする太ももに脳を揺さぶられるようなめまいを覚えながら、まるで多重露光写真のように焼き付いていく〈想像〉のスウィングが、挑発的な問いとなって私の眼前に立ち現れる。あなたは、どのような歴史的・文化的・西洋的・美学的・道徳的・民族的・ジェンダー的……なまなざしの〈想像〉で、つまりは偏見で、「私」の身体を貫いているのか? 視ているのか? 生み出しているのか?
怒涛のように押し寄せる記憶の洪水に翻弄される私は私自身の現実を成り立たせているまなざしに強烈な違和を喚起させられながら、“猥雑”な太もものスウィングにどうしようもなく魅了されてしまうのである。
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[★1] チーム・チープロWEBサイト、https://www.chiipro.net。
[★2] 「仮想の他者と踊る ―チーム・チープロ(松本奈々子・西本健吾)インタビュー|2022年11月」、STスポットWEBサイト、https://stspot.jp/mag/202211-01/。
[★3] チーム・チープロより提供いただいた上演テクストから引用。以下に引用する上演テクストも同様。段落の区切りは「/」で表記。
[★4] 相馬千秋「演劇性の拡張──演劇と現代アートの交錯をめぐって」(『表象』、12号、表象文化論学会 、2018年、pp.57-65)。
[★5] 佐々木敦『新しい小説のために』(講談社、2017年)を参照のこと。なお、同著者による『これは小説ではない』(新潮社、2020年)、『小さな演劇の大きさについて』(Pヴァイン、2020年)などでは、ナレーター/キャラクター/アクターの分節を踏まえた上で、チェルフィッチュを結節点とした日本の現代演劇における語りの演劇の系譜が詳細に論じられている。
[★6] 岡田利規『遡行 変形していくための演劇論』、河出書房新社、2013年、p.60。
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しぶかわ・まろん/批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。
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【上演記録】
チーム・チープロ《京都イマジナリー・ワルツ》横浜公演
写真:岡はるか
2022年12月1日(木)~5日(月)
STスポット
出演:松本奈々子
振付・構成:松本奈々子、西本健吾 / チーム・チープロ
チーム・チープロ公式サイトはこちら