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<先月の1本>前田春日美+豊島彩花『やわらかい杖を置く 平たい目で登る』 文:渋革まろん

先月の1本

2022.12.31


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

***

塑造される身体、あるいは〈ニュートラル〉のメンテナンス──前田春日美+豊島彩花『やわらかい杖を置く 平たい目で登る』


1.ズレ続ける〈身体〉

 ひとつ、ひとつのポジションを確かめるように。押すと崩れる。巻き込むとまわる。離すと落ちる。音が鳴ると反応する。そして手は合わさると吸い付き、密着した腕はギブスのように互いの動きを拘束する──。

 トーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)の企画公募プログラム「OPEN SITE 7」パフォーマンス部門に選出された『やわらかい杖を置く 平たい目で登る』は、美術家の前田春日美とダンサーの豊島彩花の共同制作によるパフォーマンス作品である。2022年11月18日から20日にかけて、トーキョーアーツアンドスペース本郷スペースCで計4回、上演された。

 本作が上演されるのはこれが初めてではなく、2022年4月にアートスペースWALLAで開催された前田春日美の個展『やわらかい杖を置く』で公開されたパフォーマンスがいわゆる「初演」ということになる。そこでは20分ほどの作品だったが、再制作のプロセスを経て、11月のTOKAS版では40分ほどの作品に結実した。

 最初に確認しておきたいのは、前田が演劇、ダンス、音楽のようなライブパフォーマンスを中心に制作活動を行うアーティストではない、ということだ。

 前田が依拠する分野は基本的に「彫刻」である。武蔵野美術大学で彫刻を専攻していた前田は、物質的な形のある造形作品とともに、粘土や自身の身体を素材にした造形行為を記録するビデオワークを手掛けてきた。観客の目の前で上演するライブパフォーマンスに取り組むのは、『やわらかい杖を置く』が初めての試みになる。そこでダンサー・パフォーマーとして活動する豊島彩花の助力を得て、WALLA・TOKAS本郷の上演を実現させることになった。

 この経緯からもわかるように、作品制作のコンセプトは前田が主導していたとみなせるわけであるが、それではなぜ今回、前田はライブパフォーマンスの制作に踏み切ったのだろうか?

 なぜ今なのかについては、もろもろのタイミングがあったのだろうと推察することしかできないが、これまでの前田の制作に「身体」への関心が随伴していたことは確かである。

 たとえば、私が初めて目にした前田の映像作品《遠い体》(2019)は、「モノ」として見える身体(視覚)と内的に感じられる身体(触覚)の微妙なズレを極めて理知的な構成で明るみに出すものだった。『やわらかい杖を置く』につながる前田の関心の所在を確認するために、この作品の構造を簡単に読み解いておこう。

 まず映像内のスクリーンに、自分の右足を撫でる前田の映像が投影される(映像①)。次いで、スクリーンを突き破った前田の手足が、スクリーンに映る手足と重なり、映像①の手の動きをトレースするように右足を撫でる(映像②)。ただし、映像②の手はかたわらに積まれた粘土を用いて石膏像の型を取るように突き出た右足を塗り固めていく。

 それはスクリーンに投影された虚構の手(映像①)が、実物の足(映像②)を撫でているようでもあるし、半透明の身体イメージ(映像①)に、粘土の塑像を通じた量感としての実体が与えられるようでもある。

 つまり、映像①・②の重なり合うフレームは、虚構と現実の階梯が崩れ、相互に浸透する境界的な地平を開示する。そしてなかば幽霊のように視覚化された右足のイメージと、粘土で右足のかたちを塑像していく手の触感のあいだの微妙な齟齬感(触っているのに触られていない、足がないようであるようでないようで……)、常にズレ続けてしまう「見える身体」と「感じられる身体」の距離=「遠ざかり」をあらわにしていく。しかも最終的に、鑑賞者の前に残されるのは、切断された両足の粘土像、中身空っぽに見える即物的なモノなのだ。

 もちろん、《遠い体》という作品ひとつに前田の取り組む「彫刻」や「身体」の主題が尽きるわけではない。しかし、「私の身体」が「私の身体ではないもの」にズレ続けてしまうこと、あるいはその逆で、塑造する行為を通じておぼろげな身体の輪郭を「私の身体であるはずのもの」として呼び戻すこと。主体(意志)の統制を逃れてどうしてもズレ続けてしまう身体感覚の分裂に、前田の制作的な関心の一端を読み取ることができるのではないかと思う(以下では、ズレ続ける身体を「身体=ズレ」と表記しよう)。

 さて、それでは、虚像と実像、視覚と触覚、輪郭と質量をめぐる身体感覚のズレや不一致に対する前田の制作的な関心は、どのようなライブパフォーマンスの上演を結実させ、また、身体=ズレの様態にどういった発見をもたらすことになるだろうか?


2.身体を〈杖〉にする

 結論から述べよう。ライブパフォーマンスの身体を新たなメディウムとすることで、この作品は身体の状態=コンディションに光を当てた。別言すれば、前田+豊島のパフォーマンスは、それ自体が身体=ズレのコンディションを整えるメンテナンスの技法を提示していると思われるのだ。

 ここでは便宜的に、この作品を構成する一連の流れを三つのパートに分解して、全体の見通しを良くしておこう。一つ目は前田と豊島が互いの身体を「やわらかい杖」にして、つまり互いの身体を支えにして生み出される協働的なパフォーマンス(Aパート)。二つ目は、天井から吊り下げられた長いロープを用いて動きの“輪郭”を生成していく豊島主体のソロパフォーマンス(Bパート)。そして最後に、舞台中央に設えられた「カメラボックス」の上部で、不定形の量塊を形作るように互いの四肢を絡め合わせる“粘体的”なパフォーマンス(Cパート)である。

 これらのパートではそれぞれの方法で、その身体をその人の身体として知覚させる「A=A」という通時的な同一性を「A=A’=A’’」に横滑りさせていく視差的なズレや不一致が差し込まれていく。この視差的なズレは、カメラ内蔵の台座(カメラボックス)に置かれた腕や胴体の映像が、舞台背面に設置されたディスプレイにリアルタイムで映し出される仕掛けにおいて、最もわかりやすく構造化されている。

 カメラボックスは観客の眼前に見えているパフォーマンス(前田と豊島の身体)の異なるバージョンを出力する装置として働く。それゆえに観客は「フィジカルに現前する身体」と「映像に媒介される身体」、あるいは「全体像を捉えられる眼の前の身体」と「腕や胴体の一部だけがオブジェ的に切り出された映像の身体」の視差において「その人の身体であるようでないようで……」という身体=ズレの様相を意識させられることになる。

 なかでも、四肢の絡まり合いで、どれがどちらの手足であるのか弁別できない人体のかたまりを“塑像”してしまうCパートでは、ディスプレイの平面性とフィジカルの量感/立体感が強烈なコントラストを成して、観る者の知覚に奇妙な混乱──どちらに知覚/感覚の照準を合わせていいかわからないといったような──を招き入れるのだ。

 一方、そうしたズレの契機によって、パフォーマーの身体は、彼/彼女の意図を反映する表現媒体であるというより、さまざまな意味や形態が実現されうる空虚なモノとして、その即物性を際立たせることになる。平たく言えば、そのパフォーマンスは事実をただ事実のままに提示しているような印象を与えるのである。

 「事実をただ事実のままに……」の意味を掘り下げるため、今度はAパートのパフォーマンスに目を向けてみよう。互いの身体を支えに行為の形を生成していくAパートのパフォーマンスは、一見したところ、相互の接触(コンタクト)から流れるようなダンスのムーブメントを展開させるコンタクトインプロヴィゼーションのスタイルに良く似ている。あるいは、合気道の演武に似ていると言ってもいいかもしれない。

 ところが、前田と豊島のコンタクトはひとつの流れの中に身を任せるのではなく、ひとつひとつのポジション、関係の形態をいちいち確かめるように“置かれて”いく。例えば次のように。

・右を向く相手の腰に右腕をかけて内側に巻き込めば、相手の身体は回転して正面を向く。
・掴んでいた手を落とすとそれは重力に従って床に落ちる。
・相手の歩調に合わせて足を出せば二人三脚のように足が動く。
・腰を押せば身体は崩れ、うつぶせに崩れた相手と手のひらを合わせて立てば、相手の肩甲骨が背中向きに稼働する。
・Aがカメラボックスでロープを抑え、Bがロープを引っ張ると、Aがロープを強く抑えるまで伸びる。
・Aが滑車のようにロープを引き戻すとBはそれに巻き込まれる。

 前田と豊島は、こうした“当たり前”の事実をひとつひとつ確認していく。すると、観客のまなざしは、身体の運動が生み出すイリュージョン/イメージへの想像力を働かせるよりも前に、二人のパフォーマーの身体にかかる物理法則や重力を意識せざるを得なくなる。言い換えれば、ひとつひとつの形態を実現するための補助具として互いの身体を極めて即物的に“使用”することで、物理的な制約に従わざるをえない身体の事実性が端的に開示されるのだ。 


3.ジャドソン教会派とタスク・ムーブメント

 こうした即物的な身体の使用は、ダンス史的な観点に立つならば、1962〜64年にジャドソン・ダンス・シアターの周辺で展開されたポストモダンダンスの潮流を想起させるかもしれない。一般的に、ジャドソン・ダンス・シアターは、ジョン・ケージの偶然性やスコアの考え方に影響を(主に)受けたダンサー/コレオグラファーが、モダンダンス的な「私」の感情表現や、技巧的な見世物としてのスペクタクルを否定し、日常的な動作を取り入れた新しいダンスの実験を行ったことで知られている。

 ジャドソン・チャーチ・シアターの中心的な人物であったイヴォンヌ・レイナーは、68年に「夥しさのなかにおいて定量的にミニマルなダンス活動に見られるいくつかの『ミニマリスト』的な傾向の概括らしきもの、あるいは《トリオA》の分析」というすでに古典的な地位を占めるポストモダンダンスに関する論文を発表している。

 ミニマリズム彫刻とジャドソン協会派に代表される新しいダンスを対比させてその並列性を指摘したレイナーは、クライマックスに向けた盛り上がりをつくる過剰にドラマチックなダンス(フレージング)を批判して、日常的なタスク(作業)を遂行するのと同等のエネルギーで動くことを要求した。レイナーいわく、


「ダンサーたちは、パフォーマンスにおける物理=身体的存在の、より事務的で、より具体的で、より陳腐な性質を許容する新たなコンテクストの探求へと駆り立てられた。人が行動と運動に従事しながら、身体に対してあまりスペクタキュラーな要請がなされず、スキルを見定めるのが困難なコンテクストである。」[★1]


 ミニマルアートは見えているものを超越した意味や虚構を発生させる芸術のイリュージョニズムを廃して、作品をただ見えているだけのリテラルなものに還元する。同様に、ダンサーの動きも日常的な作業で課せられる実際のエネルギーを超えて観客の視覚的な幻想=イリュージョンに奉仕するのではなく、ダンサーの内側に生じる実際の運動感覚(内観)と観客から見えている運動(外観)が一致するような即物的でニュートラルなものに見えなければならない。それは視覚的なスペクタクルの快楽を要求する観客のまなざしに抵抗し、あたかも見られていないかのような動きを提示するものになる。レイナーはこのような理路のもとで、ジャドソン教会派の非スペクタクル的なダンスの探求を説明した[★2]。

 身体のより即物的で実際的な動きを探求したジャドソン教会派のダンスと、本作における即物的な身体運用の共通点は明らかだろう。それをジャドソン協会派で重宝された「タスク」の概念から見ることができる。

 「タスク」とは作業や仕事という意味である。美学研究者・ダンス批評家の木村覚は、「イリュージョンのダンス」と「タスクによるダンス」の違いを以下のように定式化しているので参照しておきたい[★3]。

(A) I dance.
(B) X makes me do something.

 タスクというアイデアは「(A) 私が踊る」の背後に隠れている「(B) X(振り付け)が私に何かをさせる」という状況を舞台に上げることを目指すもの、というのが木村の解説だ。タスクのフレームは、観客を魅了するダンスの背後に隠されている、そのダンスを「私」に踊らせている状況や力関係を露呈させる。身体に指示を出す司令塔が「私」からタスクの「X」に移り変わり、タスクの遂行に委ねられた身体は私のものとは言えなくなる。「私」はなんらかの課せられたタスク=「X」をひたすら遂行するだけのニュートラルな動作の担い手として位置づけられることになる。

 先述したように、レイナーはこうしたタスクの遂行を通じて提示される、見せるためではないニュートラルなパフォーマンスに、非スペクタクル的なダンスの活路を見出していた。同様に、相手の身体を杖にするというタスクを課すことで、「私」に所属するわけではないものとして身体を動かし、即物的な関係の形態を生み出していく本作のAパートでも、タスクの遂行に基づいたパフォーマンが構想されていると言えるだろう(詳細な記述は控えるが、Bパートではまた別のかたちで、ロープの操作をひとつの課題としたタスク・ムーブメントが展開される、ということも付記しておきたい)。

 しかしながら、タスクのアイデアでえぐり出されようとしているものは、正反対と言っていいほどにかけ離れている。ジャドソン教会派におけるタスクのアイデアは、視覚的なイリュージョンを立ち上げる見せるためのダンスではなく、課せられたタスクにひたすら従事することで、観客のまなざしに回収されることがない独立したダンスの時間を形成する。つまりそこでは、ダンスに向けられたまなざしが疎外する、実際に踊っている私の「現実」を「回復」することが目指されていると言えるだろう。タスクは様式化されたテクニックや社会的な諸制度への従属から自己自身の身体を解放し、再発見する方法でもあるわけだ。
 他方で、前田+豊島のパフォーマンスにおけるそれは、課せられた制約を引き受け、一定の課題(タスク)を遂行することで、むしろ「身体」を「身体」の形状に塑像することを目指しているように思われるのだ。つまりここで問題化されているのは、スペクタクルの拒絶によって「回復」される「現実」や「自己」ではない。むしろそうした「現実」や「自己」を常に解体してしまうような、身体を侵襲するあらゆる情報の流れなのではないか。


4.〈ニュートラル〉のメンテンナンス

 WALLA版の会場で配布されたパンフレットには、やや唐突に次のような“詩行”が挿入されていた。


「例えば、今の私は椅子に座っていて、
キーボードを叩いていて、
足を組んでじんわり腿が自身の体温で暖かくなって、
暖房の風がゆるゆると当たっているのを脛で感じ、
タートルネックがきついな、
左側のこめかみが少し痛み指先が止まっている。」


 TOKAS版のパンフレットには再掲されることがなかったこの短い詩行が、本作のパフォーマンスを裏側から照らし出している。ここまで前田の過去作も参照しながら、「私」の意思から逃れ続ける身体=ズレの様相と名指していたもの、それは「椅子に座る」、「キーボードを叩く」、「足を組む」、「腿が暖かくなる」……といった周囲の環境から発せられるバラバラな情報がバラバラなまま大量に流れ込み、身体を無数に分裂させる事態とリンクしているのではないかと思われるのだ。

 この解離的なズレの感覚はTOKAS版の企画概要に「痒みや痛みといった自身の意思とは異なる感覚が肌理を這う」と記されていた身体感覚とも相通ずるものがあるだろう。タスク的な視点が明るみに出したのは「 X(振り付け)が私に何かをさせる」という状況だったが、それに即して言えば、ここで了解される「日常」とは、生理感覚レベルの絶え間ない無数の微細な「X」という“振り付け”に曝され続け、「私」を奪われ続ける状態なのだ。

 だから、レイナーが理論化するポストモダンダンスにおいて目指すべき理想とされていた、誇張された動きのダイナミズムを生まないニュートラルな状態は、本作において日常を持続させるために取り組むべき課題になる。無数の情報の流れに翻弄される身体は、ニュートラルな状態に立ち戻るためのメンテナンスを介して常に再調整され続けなければならない。そのためのツールとして使用されるのが互いの身体を拘束する「やわらかい杖」であり、そのようにして課せられるタスクの遂行なのだ。

 前節において「身体」を「身体」の形状に塑像すると述べた事態を、ここでより正確に分節することができる。それは常に情報の流れのなかに分散し、ズレ続けてしまう状態(コンディション)を正常に稼働する「身体」の形状に塑造する、ということなのである。逆に言えば、形態の塑像を通じてその輪郭を絶えず確認し続けなければ、「身体」は「私」に統合される通時的な同一性を保つことができずに消え去ってしまうだろう。

 パフォーマンスは身体を不安定で刹那的な〈いま〉の現象に変容させる。パフォーマンスという諸環境との流動的な関係に条件付けられたメディウムを介することで、本作はすでにわたしたちが、安定した単一の実体として「身体」を想像することができなくなり、「私」を包囲する複数の情報環境に応じて、絶え間ないメンテナンスを必要とするパフォーマティブな〈状態〉に差し押さえられていることを明かす。

そこで不随意に身体を侵襲する情報の流れに対して──やわらかい杖でもって──日々を適切に過ごすためのニュートラルな状態を整えること。あるいは、多元的な情報環境の中で自分自身の心身をケアするセルフメンテナンスが余儀なくされる状態に追い込まれていく「身体の失調」を開示すること。それは「私」にニュートラルな状態のメンテナンスを要請/強制する社会的・経済的・政治的な条件を問い直すことでもある。

 ゆえに私は本作の実践を、複数の情報の流れに細分化される身体=ズレのメンテナンス、パフォーマティブな状態の絶え間ない塑像を通じたサヴァイブ=生の技法の探求なのだと言ってみたい誘惑に駆られるのである。


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[★1] イヴォンヌ・レイナー「夥しさのなかにおいて定量的にミニマルなダンス活動に見られるいくつかの『ミニマリスト』的な傾向の概括らしきもの、あるいは《トリオA》の分析」、中井悠訳、『述 = Statement : 近畿大学国際人文科学研究所紀要』(近畿大学国際人文科学研究所編)、2009年、pp.90-106。

[★2]レイナーとジャドソン協会派のスペクタクル批判については、武藤大祐「イヴォンヌ・レイナー『トリオA』における反スペクタクル──見ることの困難をめぐって──」(『群馬県立女子大学紀要』、群馬県立女子大学紀要委員会編、2009年、pp19-31)で、ロバート・モリスの「彫刻についての覚書」との比較考察を通じて詳細に分析されている。

[★3]木村覚『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』(メディア総合研究所、2009年)pp49-50を参照。


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しぶかわ・まろん/批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。

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【上演記録】
「OPEN SITE 7『前田春日美+豊島彩花「やわらかい杖を置く 平たい目で登る」』(トーキョーアーツアンドスペース本郷、2022)

撮影:大野隆介 画像提供:Tokyo Arts and Space

2022年11月18日(金)~20日(日)
トーキョーアーツアンドスペース本郷 スペースC
出演:前田春日美、豊島彩花

「OPEN SITE 7『前田春日美+豊島彩花「やわらかい杖を置く 平たい目で登る」』公演情報ページはこちら

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