<先月の1本>コンプソンズ『われらの狂気を生き延びる道を教えてください』 文:丘田ミイ子
先月の1本
2022.12.28
良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。
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転生できない社会がその走馬灯を止めるとき
人生のある側面を、個人のある季節を鮮烈に切り取った演劇を観て、「走馬灯みたいだ」と感じる瞬間はこれまでもあった。美しい景色ほどそう感じた。ドラマや映画でも死にゆく登場人物のそれが回想シーンとして描かれる時は押し並べて綺麗な映像が多い。人生という連ドラの最終回を前に放送される総集編、映画に例えるならば、順序こそ前後するが本編公開前の予告特報に近い趣で、“いいことを、いいところまで”。家族と過ごした幼少期の思い出、気の合う友人との出会い、恋愛の絶頂、出産のシーンはマストだろうな。実際に自分の走馬灯はどんなものだろうか、と考えた時にもそんな編集済みのイメージは顕著に現れた。しかし、無論人生は光ばかりではない。むしろ闇が多いからこそ、光の方がピックアップしやすいとすら言えるほどこの世を“生き延びる道”は険しく厳しい。
そんな人生の、個人の、そして社会の「本当」を“いいことを、いいところまで”ではなく、ある種未編集・無忖度に描くといった点で絶大な信頼をおいている劇団がある。コンプソンズだ。その最新作『われらの狂気を生き延びる道を教えてください』が先月浅草九劇で上演された。
冒頭のセリフは、劇場の客席と思しき場所に腰をかけようとした探偵・工藤(東野良平)の「あれ、そっちも劇場ですか?」である。その後、工藤はこう続ける。「人間、死ぬ間際に短い映画を観るっていうじゃないですか。一生の出来事をさーっと走馬灯みたいに……。その映画、私楽しみなんですよね。でもまあ……演劇ですからね。何か建て込まれてるし、さぁーっと走馬灯みたいにってわけには、いかなそうだな」。
コンプソンズの作品群のタイトルは映画や演劇など何かしらの作品名のオマージュであることが多く、今作のタイトルも大江健三郎の小説『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』からきている。タイトルだけでなく、冒頭シーンが伊丹十三の映画『タンポポ』のオマージュでもあるほか劇中には音楽、演劇、お笑いなど数多くのサブカルネタやタイムリーな政治や社会の問題が抽出されている。
開幕のブザーが鳴り、「演劇」の手法で「走馬灯」が始まる。演劇を観て「走馬灯のようだ」と感じることはあっても、「演劇で走馬灯を観る」という経験は初めてのことで、その走馬灯が死ぬ前のものではなく、転生するためのものであったということもまた然りである。それらの景色は決して美しくはなかった。思惑や衝突が入り乱れ、人々は激しく荒ぶり、血が流れる。しかし、血を流さずして語られる人生などあるものか、という真っ当さがそこかしこに光っていて、今の世へと向けたコンプソンズの極めて切実な熱量が最大値に更新された演劇であった。上演時間は約2時間15分。人生を振り返るには短い時間だが、演劇としては決して短くはない。しかし、一瞬たりとも「長い」とは感じなかった。ところで、本作は現在映像が配信中(12/31まで視聴可)である。そのため、少しでも気になっている方はここで一度記事を閉じていただくことをおすすめしたい。
舞台は、元アイドルが経営するラーメン店。冒頭で工藤が舞台上のフィクションの客席とその向こうのノンフィクションの客席とを地続きで結んだように、この物語の下敷きもまた現実で起きていることなのである。作・演出を手がける金子鈴幸の世で起きるあらゆる社会問題を即時性と多面性を以って風刺する独特の視点、そこに相乗するフィクショナルだがしかし解像度の高い物語は本作でも健在、いやむしろ、1年半ぶりの新作でそんな唯一の作家性はさらなるパワーアップを見せていたと感じる。その物語、走馬灯の顛末についても触れていきたい。
10年前に「ピンチランナーズ(愛称ピンラン)」というアイドルグループで活動していたまさこ(村田寛奈)は、生まれて初めて訪れたラーメン店との再会に運命を感じ、その店の店主となる。グルメ記事の取材にやってきたライター・メンマン(大宮二郎)にこれまでの軌跡を語るまさこだが、同じ施設で育った幼馴染の兼田(細井じゅん)やピンラン時代からのファンで現従業員のシンペイ(てっぺい右利き)、当時のプロデューサーでどう見ても堅気ではない風貌のナベ(野田慈伸)からの横入りによって掲載NG発言が続き、取材は思いもよらぬ方向へ。しかし、スタッフが借金まみれの幼馴染、前科持ちのプロデューサー、情緒不安定なファンであるという“黒い”情報の露呈は、メンマンにとっては願ったり。彼の正体は「タイトル詐欺で煽るタイプのWEB記事のライター」だったのだ。本業は小説家であり、転生ものの小説が売れないことから始めたバイトであることも白状したメンマンだが、「元アイドルが営むラーメン屋の闇」を取材した録音データはすでに編集部のクラウドにあげられていた。
そんな中、兼田の恋人・ゆみにゃん(星野花菜里)が店に駆け込む。実家が反社会勢力のトップ、つまりゆみにゃんは“フィクサー”の孫娘である。カップルペットインフルエンサーとして活動するゆみにゃんは「うちの子(愛犬ムーチョ)が誘拐されたんです」「身代金が500万円なんです」と騒ぐが、同時に「ネタがほしいんでしょ?」と誘拐事件をメンマンに取材させようとする。同じく飼い主である兼田はゆみにゃんのパパに頼んで身代金をさっさと払おう、犯人はきっと二人グループだからなんなら1000万払おうと提案する。後にわかることだが、この誘拐をでっち上げた張本人こそが兼田であった。その理由ともう一人の黒幕についてはさらに後に明かされる。しかしながらこの時点でラーメン店は現代社会の闇と人間の狂気に満ち溢れているのだが、こんなの今の世に比べたらまだ序の口だ、と言わんばかりにまた一人、もう一人と訳あり登場人物が物語に参入していく。
少し遅れて、ナベとかつて不倫関係にあり、今は地下でアイドル活動を継続する傍らパパ活に励むピンランのもう一人のメンバー・れんげ(さかたりさ)が店を訪れる。その理由はまさこにピンランの活動再開を説得するためであったが、まさこにはもうその気はない。その理由は、ピンランにはもう一人のメンバー・タカヨがおり、彼女はもうこの世にいないこと、その背景にはもっと大きく黒い社会の闇があったからだ。
時間は10年前に遡り、まだラーメン店がまさこに渡る前の店内である。そこには客として訪れた探偵・工藤とその同級生で当時のオーナーであった桜井(津村知与支)の姿があった。この二人の間にもまたある因縁があり、桜井がラーメン屋の傍ら幼児ポルノの斡旋に手を染めていた事実を突き止めた工藤は詰め寄るが、桜井はラーメン屋をやめて政治の世界に進出するのだ、と煙に巻く。
時はまた10年後に戻り、いわくだらけのラーメン店は閉店を余儀なくされ、まさこをはじめとする一同は解散前夜を店の中で思い思い過ごしていた。誘拐のカラクリがバレた兼田は逃亡。「見つかったら即射殺」というのがフィクサーらの命令だと言う。そんな中にまた一人新たな登場人物・メガマックスマサ(金子鈴幸)が現れる。彼もまた黒い権力者の息子で兼田の身を追っていたが、どうも調子外れな男で、セリフの9割に内容がない。しかし、意味はある。演劇的な見方で言うと、ナンセンスギャグ担当のキャラクターであるのだが、そのギャグが抜群に風刺的で切れ味が鋭い。詳細は控えるが、それは浅草九劇という場で上演するにあたってしか機能しない、逆説的に言うとこの場だからこそ放つ意味のあるギャグであり、「芸能界の闇」をテーマの一つとした作品でそのギャグを投じたところにも、私はコンプソンズの無忖度演劇の妙と覚悟を感じずにはいられなかった。無忖度はまだ続く。ピンランの再結成を望んでいたはずのれんげはNPO団体を立ち上げるアクティビストとなり、団体を一緒にやらないかとまさこに持ちかける。思想の話はまた別の思想の話の呼び水となり、ノーマスク・ノーワクチンを掲げるまさこもまた陰謀論者であることがわかる。思想の混線はさらに過去へ、タカヨの死とピンランの解散に遡り、その裏に統一教会が絡んでいたことが知らされる。
ここから走馬灯はさらに加速する。舞台上の時間は進んだり遡ったりして、目の前の景色が現実なのか走馬灯の中なのかやや混乱するのだが、それもおそらくある種のメタ構造であり、死を前にした記憶の混濁を観客が体感するための演出であったのではないかと想像する。ただ、そのスイッチングには一つの法則があった。
「突然ですが、この後僕は死にます」という独白によって続々と知らされる登場人物たちの死である。死にかけた人間は「ソウルステーション」、つまり「死に至った人々が生まれ直すための儀式をする魂の波止場」(いずれも転生モノ小説家・メンマンによる命名)に移動をし、走馬灯が始まるのだと言う。それは転生の始まりという意味合いも持つが、生き返ろうとする者は、走馬灯が始まるのを必死で止めようとする。
登場人物の多くが死んでしまった原因は、突如として街に出没した熊と、熊と時を同じくして暴れ出した桜井であった。政治の道へ進んだはずの桜井は世の中が自分の思うようにいかない鬱憤をフィクサーや芸能界のドンをはじめとする権力者を殺すことで晴らそうとするが、その狂気はやがて無差別殺人へと形を変えていく。そしてその暴走の道連れとなったのが、権力者から身を追われている兼田であった。さらには身寄りのない兼田が未成年の頃から桜井の支配下にあった事実が徐々に明かされていき、まさこは幼馴染を守りたい一心で兼田を匿おうとする。幼馴染を守りたいのはまさこだけではなかった。兼田もまたラーメン屋の借金を抱えるまさこの身を案じ、手に入れた身代金を全額まさこに振込んでいたのである。しかし、そんな互いへの思いが分かったところで、ディストピアと化した走馬灯を止めることはできない。バタバタと死んでいく者と生き返ろうとする者のうねりはやがて走馬灯の当事者を混在させ、ひいてはラーメン屋という場所そのものの走馬灯として描かれていく。
全員が死に至る寸前に、まさことれんげの目の前でその転生は起こった。不完全で一時的だけれども、その後の未来を大きく変える転生である。ナンセンスギャグ担当であったはずのメガマックスマサの声色が変わる。
「ルール破ってきちゃったわ。まさこ、久しぶり」。
そこにいたのはピンランの亡きメンバー・タカヨ(金子鈴幸)だった。あろうことか、一時的な転生先に借りた体がマサだったのである。
「崩壊する世界からみんなを助けられるのはまさこ、あんたしかいない」
「あんたら2人でピンチランナーズだから! 2人なら絶対大丈夫だから!」
そう励まされたまさこは、タカヨによって仮の命を与えられた全員を連れ、「死んで生まれ変わる」のではなく「生きたまま別の自分になる」ために、時空の狭間をくぐり抜けようとする。「どうせ生まれ変わってもろくな人生じゃない」とわめくサイコパスの桜井にすら「ラーメン食うまでは生き延びろ!食ってから死ね!」と手を伸ばす。
「次の宇宙でも、絶対一緒にアイドルやろう!」
そう言ってまさことれんげはラーメン一杯を作り上げながら、一曲を歌い切る。
ちなみに、まさこのラーメン店の名前が『タンポポ』であることは最後に明かされる。そして、れんげが立ち上げたNPO団体の名前もまた『ダンデライオン(たんぽぽの英訳)』である。冒頭にあった映画『タンポポ』のオマージュがこういった細部に接続していたという粋な仕掛けはもちろん、れんげが自身の団体にまさこの店名を命名しているところにもまた志をともにした二人の関係性が滲んでいるように感じてグッときてしまう。
波乱と混沌に満ちた走馬灯の果てに彼らが転生した先は、誰でもない彼ら自身であった。それは、彼ら自身が強くそう願ったからなのか、くぐり抜けた時空の隙間がたまたま絶妙だったからなのかは正直わからない。しかし、信じたいのはやはり前者である。生まれ変わっても自分がいい、この世がいいなどと思うにはやはり現世は険しく、“われらの狂気を生き延びる道”はあまりに厳しい。思想の衝突は止まることを知らず、今日の味方も明日には敵になる時代だ。社会も芸能界も真っ黒で、権力や組織によって個人がひねり潰されるのも日常茶飯事、叫ばれているほど遵守されないコンプライアンス、差別も暴力もパワハラもいじめも性被害も後を立たない。走馬灯が美しいだけであるはずないのは、もうずいぶん前から生きている世界の歪みが教示していたのではないだろうか。それでも、転生できない私たちは、その狂気をこの身で生き延びるしかない。“いいことを、いいところまで”とは編集できない社会で各々の人生を生きている私たちは、間違ったり、至らなかったり、及ばなかったりを繰り返しながら、やり直したいことややり残したこと、言えなかった言葉やあげられなかった声を一つずつ潰すことでしか前には進めない。
演劇の上演一つとってもそうである。扱う題材やその描き方によっては他者を傷つける可能性も大いにあり、(創作の過程で多発しているハラスメント行為は決して許されるものではないという筆者の考えは前提として)そうした問題がなかったとしても作り手が描く作品の中でモラルや道徳をどれだけ遵守しているかという点もその評価の議論にあがる。しかしながら、そこにのみ重きをおいた作品の全てが演劇として高い評価を受けるのかと言われると、それもまた難しい現実もあり、創作を発信する方も受け取る方も一枚岩にはいかないと痛感する。(重ね重ねになるが、演劇業界をはじめとする全てのハラスメント行為は作品や作家の評価以前に必ず追及されるべきであり、業界全体が実情を重く受け止めるべきである)。
(あくまで作品として)当たり障りのないことだけをやっても、美しい景色だけで紡いでも、こんなどうしようもない世を生きる観客には響かない。しかし、センシティブな問題を扱うにはそれ相応の熟考と配慮が必要である。あっちを立てればこっちが立たず、の道をどうにかこうにか突き進んで生き延びるしかないのは、人生も演劇も同じであると思う。『われらの狂気を生き延びる道を教えてください』は、そういった点においてギリギリのところまで突き詰め、見事に成立させていた作品だったと感じる。まさこが最後の最後に全ての登場人物を死の淵から救い出したように、あと一滴入れてしまうと溢れて受け取れなくなってしまう言葉やシーンの一つ一つを取りこぼさず、あと半歩足りないと辿り着けない景色を見せた演劇だった。
「小山田圭吾のクイックジャパンの記事読んだ時、君のこと思い出したよ」
「だからあの人がジャニーさんで、俺がジュニア」
「安倍さんはもういないから……」
「震災が何を変えた?この国の腐った体制は何も変わらなかった」
「女が作ったラーメン食えないから」
「浅草九劇でじぇじぇじぇって言いすぎちゃった!」
一筋縄では扱えない題材をいくつも積み上げ、大声で言うには憚れるような言葉や事象をセリフやシーンの中にあぶり出す。そして、そのあとさきでそれらの闇に一筋の光を灯すのは、人間の尊厳に眼差しを向けたこんな一言であったりする。
「誰かが死んでたら良かったなんて、そんなんおかしいやろ」
そんな核心的な一言が、膨大に散りばめられたギャグや風刺の中でもまるで濁らず、しっかり際立って伝わること。とりわけ今作はそんなコンプソンズの魅力が強く感じられる作品であり、私は真っ直ぐと心を射抜かれた。
一見、破茶滅茶でやりたい放題やっているように見えて、その実、全方位への眼差しを真摯に考え抜かれた演劇とはそう出会えるものではない。そんなギリギリさは、いや、真っ当さは、コンプソンズがこの時代に演劇に向かう上での覚悟と表明であったと思わずにはいられない。さらに素晴らしいことは、その覚悟を作家と同じかそれ以上に俳優陣が背負っていたことだ。それらは声の躍動感や温度、緩急を極めた佇まいや間合いからも十分に伝わってきた。自分の信じたいものしか見えなくなる人間の性を飛び越えて、混沌の社会であらゆる思想を生きる登場人物たちは言葉とその中に流れる意図を笑わせながらもまっすぐと届けてくれた。覚悟の上で切実に放たれた演劇は、覚悟の上で切実に受け止めることができる、ということをコンプソンズは本作で証明したのではないだろうか。
私が見届けた走馬灯は、「誰か」のそれであり、「ラーメン屋」のそれであり、そして「社会」のそれであったように今思う。死ぬことのない社会が転生するのは難しいが、別の社会になることはともすれば可能なのかもしれない。無論それには「流れゆく走馬灯を止め、時空の隙間を絶妙な塩梅でくぐり抜けること」に匹敵する奇跡が必要だ。そんな皮肉を込めたしかし現代社会への切実こそが“われらの狂気を生き延びる道”のメインロードであったように思える。信頼してやまないコンプソンズがそう言うのならば、たとえ美しい走馬灯にはならなかったとしても、私もこの狂気の道をどうにかこうにか行きたいと、生き延びたいとそう思うのであった。
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おかだ・みいこ/フリーライター。2011年から雑誌を中心に取材執筆活動を開始。演劇、映画などのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど幅広く手がける。エッセイや小説の寄稿、詩をつかった個展も行う。
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【上演記録】
コンプソンズ『われらの狂気を生き延びる道を教えてください』
撮影:塚田史香
2022年11月10日(木)~20日(日)
浅草九劇
脚本・演出:金子鈴幸
出演:村田寛奈、さかたりさ、津村知与支(モダンスイマーズ)東野良平(劇団「地蔵中毒」)
野田慈伸(桃尻犬)、てっぺい右利き
大宮二郎、細井じゅん、星野花菜里、金子鈴幸
コンプソンズ公式サイトはこちら