<先月の1本>『QUAD』 文:植村朔也
先月の1本
2022.11.24
良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。
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題:現代口語演劇以後の眠らない身体
6歩分の長さの辺から成る正方形があり、その辺上と対角線上を左回りで歩む作業が淡々と反復される。どの頂点を出発点とするかによって4つの歩行コースが可能であり、最大4人のプレイヤーがこの正方形内を衝突せずに同時に歩くことができる。もっとも、このプレイヤーたちが辺や対角線を歩くタイミングはそれぞれ同期しているから、対角線が交差する点では人々は衝突しかけもするのだが、たがいに身をかわす所作によってそれは難なく回避される。プレイヤーは1人ずつ正方形のエリアに入り、自分のコースを歩き終えるとエリアから出る。全員がエリアから抜け出ると、また1人ずつエリアに入ってそれぞれ別のコースを歩み始め、こうしてエリア内における歩行とプレイヤーの可能な順列組み合わせは一通り尽される。1歩はおよそ1秒で歩まれ、上演は約25分で終わりはするのだが、それは一応の終わりに過ぎず、歩みは半永久的に続きうるものとしてある。
以上が劇作家ベケットの後期の映像作品『QUAD』のあらましである。冒頭から素っ気ない記述に徹してしまったが、作品がごく明快な幾何学的構造へと切り詰められているのが伝わっただろうか。言葉は発されず、ただ歩行があるばかりであって、言葉を憎み、言葉に言葉で抗った作家ベケットが身体の方へと突き抜けたその所産であるとの説明が為されもする。長らく見過ごされてきた小品だが、哲学者ジル・ドゥルーズの『消尽したもの』で論じられて広く知られるようになった。
「ベケットパーティ」は室伏鴻のテクストをめぐる一連のイベントの帰結として、特にこの『QUAD』を題材に、2022年5月より一般社団法人Ko&Edgeの主催で開催された。第一部では計7日間にわたるシンポジウムが開かれ、第二部では実際に『QUAD』が上演された。さらに第三部として、髙山花子と齊藤颯人による映像作品が後日公開予定であるという。
さて、第二部の『QUAD』はカゲヤマ気象台の演出で北千住BUoYにて上演された。もちろん、これはなんとも奇妙な話ではある。『QUAD』はテレビで放送される映像作品として書かれたのであって、あまつさえ生前のベケットは上演の持ちかけを手厳しくあしらったというのだから、シンポジウムで鴻英良が述べていたように、これを生身の身体で上演するというのはとんだ違法行為なのだ。しかし、ここで考えてみたいのは、そこから帰結するまた別の違法行為の方だ。
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上演された『QUAD』のプレイヤーはキヨスヨネスク、立蔵葉子、畠山峻、日和下駄の4名。カゲヤマが主宰する円盤に乗る派の舞台ではお馴染みの出演者たちであり、その縁で今回の上演にも出演が決定したのだろうと思われる。そのため、カゲヤマが彼らをキャスティングすることはごく自然に思われもするのだが、しかし、これがおかしいのである。違法なのである。
ベケットはあらかじめプレイヤーを具体的に指定している。『QUAD』をプレイするのは、痩せて背の低い、互いに似た体格のバレエ経験者が望ましいとされていたのだ。『QUAD』が時にダンスの文脈で論じられる所以である(ex. 「ベケットパーティ」でのメンファン・ワンと中島那奈子)。
上演後のアフタートークではこの点をめぐって、観客からいささか非難がましい質問があった。いわく、ダンサーなら意味のない身振りをすることができると思うが、なぜ今回のプレイヤーには俳優が選ばれたのか、と。
対するカゲヤマの答えは、ベケットがダンス経験者を望ましいと考えたときのニュアンスはその時代と場所に特有のもののはずで、現在の日本ではダンサーと俳優の区別のニュアンスはまた変わっているため問題はない、というものだった。実際、アフタートークの第二部で宇野邦一が指摘していた通り(『QUAD』のアフタートークは二部にわたって開催され、第一部ではカゲヤマ気象台と出演者、映像の小手川将が、第二部では鴻、宇野、桜井圭介が登壇した)、『QUAD』が書かれたのはジャンル概念の問題性がさかんに取りざたされた時期のことであり、これを演劇やダンスといった特定のジャンルに限定して扱う必要はない。
しかし、それでもカゲヤマは観客の質問に十分に答えていたとは言えない。というのも、観客の質問の力点はおそらくダンスと演劇の区別よりも「意味のない身振り」の方にあったとみられるからである。逆に言えば、その非難は『QUAD』の身振りがある特定の意味に回収されてしまっていることに向けられていたはずなのである。そこで表明されていたのは、『QUAD』が不眠症の表現へと還元されていくことに対する不満である。
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アフタートークで語られたところによれば、カゲヤマ気象台は不眠症を上演の主たるモチーフとすることを稽古の初期段階から構想し、座組にもそのことを共有していたという。それは出演者のうつむきがちで病的な目つきや神経質な足取りのニュアンス、室内環境を思わせる舞台美術や衣装といったかたちで具現されていた。
なぜ不眠なのだろうか。おそらく上演の手引書としていくらか機能していただろうドゥルーズの『消尽したもの』が、不眠の状態に言及していたからか。あるいは、注意経済により誰もが不眠状態に陥れられた現代社会の戯画たることを狙っていたためか。
注意経済という言葉には注釈が必要だろう。かつて休息は就労時の生産性を向上させるための準備期間として理解され尊重されていたが、今日では労働と消費、労働と休息の間の境界は戦略的に曖昧化されている。ジョナサン・クレーリー『24/7 眠らない社会』曰く、「近年のヘルスケアに関する議論が示しているように、生きた労働の長期的な価値下落によって、休息や健康が経済的な優先事項であるということは、いかなるインセンティブをももたらさなくなった。いまや(睡眠という途方もない例外をもつ)人間存在の幕間は、ほとんど無意味なものになっている。そうした幕間は、労働時間、消費時間、市場時間に浸透され乗っ取られている」(p. 21)。休息時に人々を労働させ、消費させ、市場に巻き込むために、さまざまなデジタルデバイスが人々の注意を根こそぎ奪い合う。今や注意こそが経済を動かす時代なのだ。
しかし上記の引用でも示されている通り、人は眠っている間だけは働くことも消費することもできない。眠りはいまだに資本主義の論理が浸透することのできない外部としてあるのだ。だからこそ社会は人々に眠らないことを強いる。一分一秒をも惜しんで注意をデジタルデバイスへと差し向けさせる(この原稿にしたって深夜に書かれている)。クレーリーの言うように、「連続的な労働と消費のための二四時間・週七日フルタイムの市場や地球規模のインフラストラクチャーは、すでにしばらく前から機能しているが、いまや人間主体は、いっそう徹底してそれらに適合するようにつくりかえられつつある」(p. 6)わけで、この24/7体制下では誰も眠ることなどできない。
『QUAD』を注意経済に結びつけて捉える発想はそれほど突飛ではない。「ベケットパーティ」シンポジウム登壇者のフレデリック・プイヨードは『QUAD』の正方形を当時のブラウン管のスクリーンになぞらえている。鴻は「ベケットパーティ」で『QUAD』を扱うことで「収容所の愉悦」を再考したかったと語っているが、プイヨードにおいてはスクリーンこそが収容所とみなされる。そして、安定的な構造を持ちいつまでも終わりなく続くと見られる『QUAD』の営みはこの収容所の欺瞞への安易な追従であり、目前に迫る破局を見据えるならば、より不安定な構造を持つ長方形版『QUAD』、すなわち『Rec』へと作品は書き換えられなければならないと主張されるのだ。もちろん、そこでは、わたしたちがより新しくスマートな長方形のデジタル収容所へ移されたことが含意されてもいる。
俳優たちの演技の後、小手川将の手による映像版『QUAD』の上映へと上演がシームレスに移行したのは、映像作品としての本来のステータスへの回帰を単に意味していたのではない。スクリーンに幽閉されている点では2つの『QUAD』にそう大差はないと、その映像はあっけらかんと告げていたのだ。
このように、カゲヤマが『QUAD』に不眠症というモチーフをあてがったのは理由のないことではなさそうだが、それにしても、言葉に抗い、言葉を裏切ろうとした劇作家の所産が不眠社会の表現へと還元される恐れを作品は逃れていただろうか。俳優はダンサーと違って演技のために特定のニュアンスや文脈を必要とするのが普通だが、そこで選び取られた説明原理がこの不眠症であったなら、出演者の身体はこの不眠症という意味に従属していたことになる。しかし、さしあたってわたしの興味は、ベケットのテクストを絶対化して上演の是非を判ずることにはない。『QUAD』が意味を徹底的に排することを主眼としているのは明らかであるのに、不眠というモチーフ持ち込むことが作家たちになぜ自然とされ、問題視されなかったのか、そのことをむしろ問うてみたい。
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ここでもう一度アフタートークでのカゲヤマの言葉に立ち返る必要がある。ベケットが『QUAD』のプレイヤーにバレエ経験者を指定したとき期待されていたのは、特定の意味や文脈により掛かることなく正確な動作を反復することだったとみられる。では、バレエを経験していないにもかかわらず現在の日本の俳優に『QUAD』をプレイする権利があるとすれば、それはなぜか。そのそもそものところをまず問わなくてはならない。
以下はわたしの勝手な推測である。
現在の日本の俳優、といっても、ここでは東京の小劇場を中心に活動する俳優にひとまず対象を絞っておこうと思うが、その俳優たちが共通して持つのは現代口語演劇以後の身体である。そして、現代口語演劇を提唱した平田オリザの演技メソッドの特徴は、時間スケールの徹底的な分割にある。中西理が「演技のデジタル化」という言葉で整理しているように、演技はデジタルな構成単位へと分解され、秒刻みで管理される。その管理を、実際に秒数を数えて行うのか、それとも感覚に依拠するのか、そこのところは個々の俳優に任せられているが、いずれにしても、時間的に厳密で正確なアウトプットは絶えず要求される(参考:佐々木敦による想田和弘『演劇1』についての言及)。
上演の時間スケールをデジタルな時間単位へと細分化し、秒刻みの時間進行に足取りを正確に従わせるという『QUAD』の操作は、俳優たちにとっておそらくすでに馴染みのあるものだったと推察される。もっとも、体格や歩幅も異なっていた俳優たちは、歩みのペース感さえばらばらに、固有の速度感で演技をしていたわけだが。歩行という単純な身振りの反復からなる『QUAD』にはポストモダン・ダンスの「タスク」の概念を想起させるところがあるが、単純な同一視はできないとはいえ、平田メソッドのタスク的側面がここにおいて抽出されたという見方もあるいは可能かもしれない。
このわたしの推測が正しければ、ここではバレエの正確さから現代口語演劇の正確さへと『QUAD』の演技の意味が変質していることになる。テクストの意味にも自身の感情にも依拠しない時間的な正確さによって身体は律されるのである。ところで、秒刻みのスケジュールに即して自己管理される身体はネオリベラリズムの論理ときわめて親和的であって、寸暇を惜しんで勤労に励む24/7の時間枠組みに従属することを自然化する。
アフタートークでのカゲヤマのある発言が、重ねて思い出される。正方形の外で座りながら待機している時と、正方形上を歩行している時とで、俳優の身体の状態が変わらないことを理想としていたというのだ。ここで俳優たちの休まる身体は、クレーリーの論ずる不眠社会の論理を正確になぞってしまっている。それはいわばスリープモードの身体だ。「低電力の状態でスタンバイ中の装置というこの考えは、睡眠に関するもっと広い感覚を、単に操作やアクセスが遅延され軽減された状態へとつくり直してしまう。こうした考えは、オン・オフの論理に取って代わり、したがって、もはや何ものも根本的に「オフ(休暇)」になることがなくなり、実際に休みの状態であるものはなくなってしまう」(p. 19)。
上演を担っていたのはビジネスマンライクに厳格なタイム・マネジメントを行う現代口語演劇以後の眠らない身体だった[*]。秒刻みの正確なセルフ・コントロールを休みなく要請するその演技は、個人の時間を一秒でも多く捕獲せんとする不眠社会の論理とひどく相性がいい[**]。もちろん、ここでわたしはひどく強引に『QUAD』の演技を単純化している。それに普段のカゲヤマの舞台について言えば、その演技を「現代口語演劇以降の身体」によるものと一括するなどという手続きはほとんどとりえない。しかしそれだけに、今回の『QUAD』は例外的な、それゆえ雄弁な事例としてわたしの目に映った。 カゲヤマは『QUAD』を不眠社会のメタファーへと還元してしまったのではない。むしろ、作品に同期した俳優たちの身体は不眠社会の現実を自らのうちに自然と呼び込み、『QUAD』のゲームのルールをいつのまにか書き換えてしまったとみるのが、どうやら妥当そうである。
[*]発表当初、この箇所はもともと次のように書かれていた。
「アフタートークの第二部では、ダンスに通じてはいない素人同然の身体という意味で、今回の『QUAD』をコドモ身体の上演とみなす桜井圭介の発言があった。しかし、実のところ上演を担っていたのはごく特殊な訓練を経た、現代口語演劇以後の眠らない身体だったのだ。」
しかし、俳優たちがある種の訓練を経ていることはアフタートークの時点で自身も指摘しているところであり、発話主体と発話内容が不分明になってしまっているとの指摘が桜井氏からSNS上でなされたことを受け、「ごく特殊な訓練」の意味するところが明示的になるように上記のような修正を施した。誤解を生じかねない不適切な引用について、氏には記してお詫びしたい。
なお、一連のやりとりの過程で、ポスト・フォーディズム下の労働特性として強いられるパオロ・ヴィルノが言うところの臨機応変なフレキシビリティ(ヴィルトージティ)が、とりわけコンビニ労働者に代表されるものとして桜井のコドモ身体論に接続されうることが示唆された。記録しておく価値があると考え、記し添えておく。
[**]劇作家の松原俊太郎は、西日本新聞での連載において、芝居をやめたかのように見える演技を困難かつ理想的なものとして掲げ、その具体的な実践者として荒木知佳と敷地理の名前を挙げているが、これは実に的を射た指摘であると言わねばならない。舞台上で芝居をやめることはきわめて難しく、そしていま、きわめて重要な意味をもつ。荒木と敷地の両名は2023年3月の松原の新作に出演することが決まっている。芝居をやめる演技はそれほどまでにこの劇作家を虜にした。
クレーリーは『24/7』で、眠ること、あるいは、眠りや夢想に本来の価値を取り戻させることを現代社会への処方箋として提示している。
(2022年12月17日修正)
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うえむら・さくや/批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランク保存記録。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。
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【上演記録】
『QUAD』
撮影:齊藤颯人
2022年10月10日(月・祝)
北千住BUoY
演出 :カゲヤマ気象台
出演:キヨスヨネスク 立蔵葉子(青年団、梨茄子)畠山峻(円盤に乗る派、People太)日和下駄(円盤に乗る派)
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