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<先月の1本>濵田明李×多宇加世「⌘町合わせ⌘」 文:渋革まろん

先月の1本

2022.08.21


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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詩のマテリアライズ/翻訳のテストプレイ──濵田明李『⌘町合わせ⌘』で途方に暮れる


1.劇場のOSは「演劇」だけではない

「濵田明李さんのパフォーマンスを見た。OSが全く異なりすぎて途方に暮れたので誰か解説してほしい。」

 本作の観劇後、かもめマシーンの演出家・萩原雄太は、Twitterでこのように呟いていたが、これは非常に的を射た感想であるとまずは言っておきたい。濵田明李(はまだ・みり)による新作パフォーマンス『⌘町合わせ⌘』が呼び起こす驚嘆は、まさに「OSが全く異なりすぎて」見るものを「途方に暮れた」状態へ放り出すところにあると思われるからだ。
 『⌘町合わせ⌘』は、2022年7月2日〜3日の2日間、東京都板橋区にあるサブテレニアンというブラックボックス型の劇場で上演された。

「山形県酒田の町から発信される多宇加世の詩を、東京都板橋区の劇場で開封するパフォーマンスを行います。」

 と、事前告知の概要で説明されるように、本作は詩人の多宇加世から送られてきた未発表の詩を上演テクストにしたパフォーマンス作品であるわけだが、おそらく劇場に通いなれた観客であればあるほど、何をどう見ていいかわからず、ひどく困惑させられるに違いない。なぜか? MacユーザーがWindowsを使う時、その操作性の違いに戸惑うように、劇場のフィクションを作動させる基本的なフォーマット=OS(Operating System)が「全く異なる」からである。言い換えれば、劇場空間に向けられる観客の典型的な期待に従ってそれは作動してくれないのである。
 まず、形式的な水準で、いわゆる「演劇」にコミットする観客に、劇場空間の“誤作動”を感じさせたOSの名が「パフォーマンス・アート」である点を確認するため、濵田明李の来歴を紹介しておこう[★1]。濵田のWEBサイトによれば、濵田は武蔵野美術大学油絵専攻油絵学科在学中、日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル(ニパフ)に参加し、東京、ネパール、インド、ベトナムなどで作品を発表。卒業後もメキシコや各地でパフォーマンス作品の発表を続けてきた。
 つまり、濵田のアート実践は「視覚芸術/美術」の歴史に属する「パフォーマンスアート」のジャンル的カテゴリーで了解されるものである[★2]。とはいえ、「演劇」と「パフォーマンスアート」を定義する抽象的な形式上の差異[★3]から本作をレビューするつもりはない。ここで強調しておきたいのは、パフォーマンス・アーティストが劇場空間を使用することによって、「演劇」とは異なる仕方で劇場空間が作動させられ、一般的に劇場と観客が取り結ぶはずの関係に思わぬトラブルを誘発していたことである。
 濵田明李の『⌘町合わせ⌘』はサブテレニアンが主催するフェスティバル「オフトウキョウ2022」の参加作品であるが、濵田自身もフェスティバルの「企画・製作」に名を連ねる。それもあって、同フェスティバルで発表された5作品のうち、3作品は「パフォーマンスアート」と銘打たれている。『⌘町合わせ⌘』はもちろん、「パフォーマンスアート」として発表された姥凪沙『穴』、そして石田高大『エコトーンと東京脱出』でも、劇場空間に「演劇」とは異なるOSがインストールされることで、劇場空間は、障害者差別のマイクロアグレッシブな視線を批判的に問い直すサイト(姥凪沙)として、あるいは「居場所」に関する集合的な学びのプロセスを体験する集会場(石田高大)として、観客が期待しうる「劇場の使用法」の多面的な可能性を拡げていたのである。
 確かに、「演劇」とは異種のOSで作動する劇場空間と対峙した観客は途方に暮れる。しかし、観客と劇場空間の関係に“捻じれ”を生じさせるようなOS=オペレーティング・システムの再インストールは、メディアとしての劇場にまとわりついている盲目的・制度的な思い込みや前提に再考を迫るだろう。あるいはそれは、時代状況の変化に応じて、劇場に求められる機能や使われ方を刷新する実験的な“リノベーション”の機会を提供する場にもなりうるのだ。
 それでは萩原に「途方に暮れた」と言わしめた、濵田のパフォーマンスが作動させるOSは、劇場空間の使われ方をどのように“リノベーション”していたのか?


2.テストプレイと静かな驚異

 この節では、濵田のパフォーマンスを振り返りながら、途方に暮れるという状態が生起するメカニズムとその両義性を分析してみたい。さしあたり、その主な要因として考えられるのは演劇的な再現=表象形式の本質的な構成要素である主体とドラマと模倣(ミメーシス)──俳優が登場人物を演じる行為──が欠如していたこと、そしてそれ以上にパフォーマンスによって組織される時間性から「展開」のモメントが消失していたことに求められるのではないか。濵田のパフォーマンスが作動させるOSには、結末に向かって展開する──それどころか断片的な場面や出来事の意味を構成する──時間の構造がプログラミングされていないのだ。
 そのパフォーマンスは業務委託された──「詩」と呼称される──文字列のデバック作業=テストプレイをたんたんとこなす在宅ワークに似ている。もちろん、それは不具合の修正という達成されるべき/有用な目的を持ったワークではなく、文字列としての詩行が、空間およびデジタル機器の物質的・システム的な要件に従ってアウトプットされる諸過程をそのまま観察し、吟味し、検分し、調査するような非目的的なテストプレイである。
 三方を客席に囲まれた舞台の床面には、発泡スチロールのような素材で出来たおもちゃの剣が差し向かいに──肉食獣の歯のように──15本並べられている。舞台の壁際には平台と箱馬を組み合わせた水平の台──テーブルとして機能する──が陣取り、その「テーブル」の上には半透明のレース生地でおおわれたノートパソコンとプリンターが置かれている。加えて、二台のプロジェクターは、劇場の壁にパソコンのデスクトップ画面がモニターされた映像と、「どこかの町をひらすら歩いている風景」[★4]を手持ちカメラで撮影した映像を投影する。
 冒頭、まるで秘密基地に入るように半透明のレースに潜った濵田は、手元のノートパソコンの操作を始める。壁に映し出されたデスクトップ画面には、iPhoneの「メモ」画面が現れ、日本語テンキーのフリック入力で「てにゃが出たので/ランプをともすと/手が血だらけだった/痛くはなかった(…)」という多宇の詩行が打ち込まれていく。後から振り返れば事前に録画した動画を流していたことに気づくのだが(その場でわかっていた人も多くいるだろう)、私には濵田がその場で手打ちしているように見えており、濵田が席を離れてもテンキーがひとつひとつ文字を選択し、詩行の連なりが生まれていくことに驚かされる。
 目的地が不明なまま無人の町を彷徨い続ける多宇の映像との結び目で、「この詩の主体は誰か?」という問いの余韻を残しつつ、デスクトップにはまた新たなウィンドウが開かれる。多宇の詩を保存したPDFファイルのようだ。プリント設定を開いた濵田はそのファイルを印刷する。パソコンにつながれたプリンターはいつもの駆動音を撒き散らしながら、詩が印刷された紙をプリントアウト。その間に、濵田は舞台右手の洗面器に入っていたボディスポンジの水を絞り、舞台中央あたりに移動して、なぜかそれで髪を撫でる、あるいは洗う。または身体にキラキラと光るラメを塗る。
 デスクトップ画面における不可思議な「詩」へのアプローチは、さらにいくつものバリエーションで試される。PDFのズーム機能を使い、詩の書かれたファイルの文字がまったく読めなくなり、白紙部分が「点」のようになるまで縮小する。その反対に、別のPDFに保存されている詩の「電」や「線」、「作」や「業」の文字を拡大する(後にまた別のPDFでこの作業が反復され、「囁」の文字にゆっくりと近づき、それを拡大する印象的なモメントがある)。
 こうしたテストプレイの中でもとりわけユニークに感じられたのが、詩行をリアルタイムでGoogle翻訳にかけるシークエンスである。テキスト入力の左側には、次のような文字列があらかじめ打ち込まれている。

てらいもなくわらうくものすにひっかかったがのはねのりんぷんとわたしたちのせなかからとれたあせをせいせいしあろまおいるをつくりますのでごきょうりょくくださいとうきょうへさっぽろへきょうとへながさきへおおいたへせんだいへくまもとへこうべへてれびでしかしらぬがざちくへはっそういたします(…)

 Google翻訳の右側には、たとえば「We will make the lint that was caught in the dust of the straw and the heat from our backs. Sendai to Oita」のような英訳が表示される[★5]。そこからもとの詩を復元するように、

 てらいもなくわらうくも
 のす
 にひっかかった
 がのはねの
 りんぷん
 と

という段落を挿入していくと、

 A spider that smiles without hesitation
 nest of
 caught in
 Gano’s splash
 Rinpun
 When

のように、新たな「訳」が生成される。こうして着々と再-翻訳される詩行に見入っていると、天井に設置されていたレシートプリンターから、「レシートってちょっと/いやだいぶおもしろい(…)」という詩行を印刷した感光紙が、蜘蛛の糸のように垂れ下がっていることにふと気づくのだ。
 濵田が遂行する「詩」という文字列のテストプレイは、そのひとつひとつが静かな驚異に満ちている。確かに、演劇的な文法で構成されるドラマティックな時間はそこにみじんも見当たらない。グルーヴ的な強度やフィクションの時間を牽引する作家の天才的な構想のようなものもそこにはない。
 退屈だろうか? いや、そうではないのだ。iOSのメモ機能を使った詩の打ち込み、PDFの倍率調整、Google翻訳、レシートへの印刷、その他、さまざまな仕方で詩行という文字列にアプローチする濵田のテストプレイは、ただひたすらに多宇の詩から発想されたアイデアの試行を繰り返し、「こうすると、どうなるか」という未知に向けられた探索の時間をわたしたちに手渡すのである。たとえば、iOSのメモ機能を使った詩の打ち込みを見るわたしたちは、通常であればひとつの独立した作品として経験される「詩」というものが、打ち間違いも含めて一文字ずつ打ち込まれているという端的な事実に気付かされる。あるいは、PDFファイルは見えなくなるまで縮小されること、ボディスポンジで髪を洗えること、「囁」という文字を拡大すると今にも「囁き」そうな字形であったこと……「こうすると、どうなるか」の未知がめくられ、端的な事実に気付かされることそれ自体が静かな驚異なのだ。
 こうした静かな驚異を可能にするのが《テストプレイの時間》である。この時間に捕らえられた詩行が、意味として解釈される手前の《モノ》性を浮き彫りにする点に注目したい。ここまでの記述で明らかなように、詩は非意味的な水準の《モノ》として打ち込まれ、縮小され、拡大され、プリントされ、機械翻訳にかけられる。濵田は意味や解釈以前の具体的な《モノ》として詩を扱っている。
 この節の冒頭で、濵田のパフォーマンスが作動させるOSに「展開」の時間構造がプログラミングされていないことを指摘したが、それは、上演ないし詩の意味を読解するという《解釈の時間》が作動する手前で、意味として読まれるわけではない文字列の側面、詩のマテリアルな《モノ》性に対峙させられるからである。《モノ》はテストプレイの精神で観察され、吟味され、検分され、調査されるが「展開」はしない。実際、本作のテストプレイの順番が入れ替わったとしても上演の効果に何の影響も与えない。むしろ、それはそれとして、複数のプレイのひとつとしてただ単に受容されるだけだろう。《テストプレイ》の時間には正解がない。それゆえ観客は次々にテストされるさまざまな詩の意味を、なんらかの筋が通るように「読む」「解釈する」手立てを失う。すなわち、「途方に暮れる」のだ。
 その最も鮮烈な事例が、上演の中盤、濵田が床に並べられたおもちゃの剣のひとつを手に取り、劇場の外に出ていくというシークエンスである。しばらくすると、ラッカースプレーで赤く染め上げた剣を持って戻ってくるのだが、2分ほどそこに放置された観客は、字義通りの意味で途方に暮れる。そこでは《観劇の時間》も見失われ、観客は空っぽな空間の《モノ》性に直面させられるのだ。
 《テストプレイの時間》は、上演ないし詩というテクストに対する意味解釈が作動する前に、《モノ》に時間が引き渡された「途方に暮れる」状態にわたしたちを連れて行く。それは多宇の映像に示されている通り、目的地が不明なまま無人の町を彷徨い続ける故郷喪失の体験を強いられることでもある。
 しかし、目的や意味や有用性の諸機能が宙吊りされた──異郷の──《モノ》に囲まれる未知の境遇に身を置いてみなければ、そもそもテストプレイが開始されることもない。どう使われるかわからないからテストするのだ。逆に言えば、詩は黙読・音読されるものという美学的・社会的・文化的な刷り込みの外に出なければ、「囁」の拡大でその詩の別の読まれ方が見出されることはなく、レシートが蜘蛛の糸のように垂らされることも、Google翻訳のアルゴリズムを詩の生成に転用するという発想が出てくることもない。「途方に暮れる」ことは、環境に組み込まれた諸事象・道具・記号を、他でもありえるかもしれない諸可能性が凝集された《モノ》として迎え入れ、静かな驚異に身を開くための方法にもなるのである。


3.《翻訳》で劇場をハックする

「パフォーマンスで作品をやり始めしっくり来る。その中では、達成を目指さなかったり、中止したり、その場所の特性を取り入れたり、オブジェを持ってきて、15分とか20分とかのあいだに起きる一連のことを観客と共有するというのが特徴。2017年から2019年位までのメキシコに住み、好奇心の赴くままに学ぶ。」(濵田明李プロフィールより)

 気まぐれな風のような好奇心には決まりきった道がない。好奇心を抱いた人はいつもどこか途方に暮れる。濵田のパフォーマンスは、規範的な権威への挑戦や抵抗、社会的・政治的な文脈に介入する対抗的実践といった勇ましいアクションを含意するものではない。それよりはむしろ、国、民族、言語、企業、地域のボーダーが常にすでに超えられてしまう未知の境遇を住処として、「好奇心の赴くままに」、ローカルな場所の文化や習慣にひとまず身を委ねてみること。そして、それらの文化の諸文脈と諸アイデンティティの借宿としての身体、知識、想像、感性、アイデアを交渉させる多元的な翻訳の場を立ち上げること。『⌘町合わせ⌘』のパフォーマンスが含意するのは、ある特定の環境に属する記号や機能を、また別の環境に移し替える《翻訳》のテストプレイである。この見方を踏まえることで、冒頭に引用した萩原が出した「解説」の要望に応じることも可能になるだろう。
 前節で言及した通り、「こうすると、どうなるか」をひたすら試行する濵田による詩のテストプレイは、詩という文字列を観察・吟味・調査可能な《モノ》として、さまざまな仕方でアプローチを仕掛けていく。別の視点から光を当てるならば、それは多宇からネット回線を通じて送られてきた「詩」のデータを、劇場の物理空間にさまざまな仕方で《翻訳》しているという見方も成り立つだろう。濵田はひとつひとつの詩がローカルな場所の諸環境に《翻訳》しうるかどうかのテストプレイを遂行している、というわけだ。
 では、それは具体的にどういうことか? これまで繰り返し述べてきた「こうすると、どうなるか」のより詳細なパラフレーズにその答えはある。「こうすると、どうなるか」とは、「詩のテクストを、空間・制度・身体・小道具およびデジタル機器の物質的・システム的な要件に委ねてみたらどうなるか」ということである。まず大前提としてサブテレニアンという劇場的な設備を備えたブラックボックスの前提要件がある。そこで課せられる諸条件はさまざまだが、劇場の客席という制約のもとで2分間、観客を放置してデスクトップ画面に表示される詩を読ませたらどうなるか?というテストプレイが突出している。詩は放置された客席と結びつくことで、繰り返しの黙読を要請する《モノ》に《翻訳》される。
 また、プロジェクターのピント調節機能は、映写された詩のテクストをぼんやりとした文字の輪郭に《翻訳》する効果を持ち、Acrobat Readerの機能である倍率調整を通じて、とある詩は「囁」という文字=《モノ》に《翻訳》される。Google翻訳のアルゴリズムはリテラルに日本語を英語に翻訳するわけだが、それ自体がまず日本語の詩に潜在していた別様の読まれ方(「We will make the lint that was〜」)への《翻訳》である。さらに「ひらがな」の羅列は、行で構成される詩のフォーマットに変換されることで詩行という「図」の知覚が生成されるプロセスに《翻訳》され、同時に、英文のいわばアルゴリズム的に生成される「潜在詩」の《翻訳》も進行する。
 より物理的な空間への《翻訳》に近いものとしては──前節の上演記述では省略していたが──床に並べられた15本の(おもちゃの)剣の下に15行の詩の書かれた紙片が隠されており、一本ずつ剣を手前に引いていくと、そこに隠されていた詩行が現れるというシークエンスがある。おそらく「(…)歯並びの悪い/私の犬よりもおおさげに」の意味内容に従って、詩は歯のように並ぶ「剣」に、15行の詩は15本の「剣」に《翻訳》される。そしてその逆に、床に置かれた「剣」は手前に引くことができるという物理的な可能性に準じて、「剣」の下から登場する紙片に詩が《翻訳》されるのである。
 こうした細部の分析は煩雑に感じられるかもしれない。だが、濵田のテストプレイは、これだけでは足りないほど多くの──時に意味不明な──ディテールに満ちており、そのこと自体が、ローカルな場に潜在する多元的な翻訳可能性という未知の未知性をわたしたちに伝えている。
 忘れてはならないのは、詩のテクストをローカライズする《翻訳》のプロセスは、同時に、劇場の、PDFの、プロジェクターの、レシートプリンターの、Google翻訳の、おもちゃの剣の……慣習的な使用可能性の変異を誘発するということだ。平たく言えば、詩のテクストをマテリアライズするときに普通ではない使われ方がされるということだ。こうした使用可能性の「変異」も《翻訳》の概念で包括するならば、ひたすらに試行されるテストプレイは、文化的・社会的・美学的に形成されるローカルな場の使用可能性に変異=《翻訳》を引き起こす多元的な《翻訳》の場を立ち上げるのである。
 さて、萩原の「解説」の要望に応じよう。普通の劇場は主体・アクション・ミメーシスと結びついた劇的=ドラマ的な時間を構成する演劇の上演に最適化されている。当然、観客もそれを期待して劇場に足を運ぶ。
 他方で、『⌘町合わせ⌘』のパフォーマンスには、主体・アクション・ミメーシスのすべての要素がそもそも存在しない。その代わりに多元的な《翻訳》のプロセスを駆動させるひたすらなテストプレイの試行錯誤があるのだ。演劇のシステム(OS)は、テストプレイのシステム(OS)に取って代わられ、劇場空間はローカルな場所の環境に組み込まれた諸身体や制度、機能、価値、アイデンティティに変異を引き起こす多元的な《翻訳》を共有する場所として“リノベーション”されたのである。
 わたしたちは、濵田が遂行するようなパフォーマンス実践を、なぜ劇場的文脈の中で評価する枠組みを持ち得ていないのかを自問すべきなのだ。少なくともわたしは、途方に暮れた場所から生まれる好奇心のポテンシャルにこそ目を向けたいと思うのである。

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[★1] 濵田明李WEBサイト(http://miriham.main.jp)

[★2] ここで言う「パフォーマンスアート」とは──極めて単純化された語り口になるが──生活と芸術を区分けする制度的なヒエラルキー/境界の抹消を目指した1950年代以後のネオダダ、ブラックマウンテンカレッジ、ハプニング、フルクサスなどの戦後アヴァンギャルドによる革新的な芸術運動、自己の身体を政治的・社会的な表現媒体として呈示するボディ・アートやフェミニズム・クィア的パフォーマンスの潮流、そして90年代以降の鑑賞者とのコミュニケーションや新たな社会的文脈の創出を目指す「関係性の美学」や、特定の社会集団に対する介入的な働きかけをアート的なプロジェクトとして展開するソーシャリー・エンゲージド・アート、00年代後半以後の日本の舞台芸術シーンを参照するならば相馬千秋・高山明が先導したサイトスペシフィックなツアーパフォーマンスなどの諸文脈との連関において歴史化・言説化されるジャンルあるいは表現形式としての「パフォーマンスアート」である。
 これらの歴史的な参照項は、小山内薫・岸田國士・千田是也・唐十郎・鈴木忠志・野田秀樹・平田オリザ、岡田利規……などの固有名で紡がれる日本の小劇場の「演劇史」から縁遠いものとして響くだろうか。だとすれば、本作の(演劇にコミットする)観客は、それだけ異種の歴史的文脈に支えられた美学的=感性的な表現形態と直面させられたわけである。
 ただし、濵田自身は、音声配信プラットフォーム「Artistspoken」におけるスクリプカリウ落合安奈との対談で、パフォーマンス的な表現形態に興味を持ったきっかけは、「ドリフターズ・サマースクール」への参加だったと語っている。当然ながら、濵田が追求してきた芸術実践のコンセプトは、必ずしも欧米中心のパフォーマンスアート史観に規定されるものではない。

[★3] たとえば劇場空間の時間的な拘束と固定された客席、プロセニアム的な正面性の制度的・機構的制約から発想される「演劇」と、そうした時間的・空間的制約に拘束されない展示空間を前提にした「パフォーマンスアート」など。

[★4] 酒田市在住の多宇が、家の周りを一時間ほど歩き回る様子を、手持ちカメラで撮影した映像である。上演の冒頭から終盤近くまで流しっぱなしで再生される。

[★5] この英訳はじっさいの上演における翻訳ではなく、この原稿を書くにあたって引用した詩を、新たにGoogle翻訳にかけたものである。以下の英訳も同様である。


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しぶかわ・まろん/批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。

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【上演記録】
濵田明李×多宇加世『⌘町合わせ⌘』

©︎赤井康弘

2022年7月2日(土)~3日(日)
会場:SUBTERRANEAN
パフォーマンス:濵田明李
現代詩:多宇加世

SUBTERRANEAN公式サイトはこちら

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