<先月の1本>ハイバイ『ワレワレのモロモロ2022』 文:丘田ミイ子
先月の1本
2022.08.21
良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。
***
それらは走馬灯のようで、万華鏡のようで
シアタートラムからの帰り道、いつも立ち止まる場所がある。万華鏡のような鏡張りの天井。その一瞬の煌めきを通り抜けて、いつも私は劇世界から日常へと戻っていく。
自身に起きた出来事を演劇化し、本人を中心に演じる。そんなコンセプトで送られる、ハイバイの『ワレワレのモロモロ』。過去には一般の人も参加しており、市民参加型演劇の趣も持つシリーズだ。ずっと観てみたかったし、もう少し思い切って言うと、「参加してみたい」とすら思っていた。自分の中にある消化し切れない諸々を誰かに共有したり、それを脚本や演劇にする過程で客観的に見つめたり、そして、そのことによって何か別の眼差しを持てるのではないか。記憶を、過去を、自分を、乗り越えることができるのではないか。いずれにしても、私はこの演劇のコンセプトそのものに強く惹かれていた。
“モロモロ”と聞いて自分の胸に手を当てた時に落ち着きをなくすような「どうにかしたい過去(やそれに関する記憶)」が私にはあるし、誰しもに一つや二つあるのではないかと思う。普段は一旦どこか別の場所に、言うなればクラウドのようなところに上げているけれど、ふとした時にそれは本体に降りてくる。それも結構な頻度で。過去や記憶が今の自分を形成しているのだから無理もないけれど、それがあまりに苦しい時、私は度々音楽や小説、そして演劇に逃げ込む。現実から逃げ込んだはずの演劇が自分に重なれば重なるほど心を奪われる、というある種のバグに、時々戸惑い、時々救われる。そんな数ある演劇の中でも、『ワレワレのモロモロ』は、限りなく現実と地続きに発生しているものだ。無論、それを創作する過程には大きな苦しみや葛藤があることも想像ができる。
今回は『ワレワレのモロモロ2022』と題して、プロの俳優たちによって脚本が書かれ上演される。出演者の顔ぶれもとても魅力的だった。その観劇がついぞ叶うと知った時から、それはもう楽しみで仕方なかった。劇場はシアタートラムだった。
『ワレワレのモロモロ2022』は、構成・演出・脚色をハイバイの岩井秀人さんが手がけ、出演者がそれぞれ脚本を担う、五つ(東京公演は六つ)の短編からなる一つの作品である。「一つの作品」とわざわざ書いたのは、短編と短編の繋ぎ目、モロモロからモロモロへの受け渡し方が素晴らしく鮮やかでさりげなくも示唆的であったこと、記憶と記憶、景色と景色が交錯する瞬間に立ち会うことにもまた意味を感じたからだ。それぞれのモロモロについても改めて振り返りたいと思う。
冒頭袖から出てきたのは、ベージュのボディースーツに身を包んだ武田立さんであった。舞台は浴室。一糸纏わぬ孤独な状態で起きたこんな悲劇がありありと再現された。剃毛に失敗し、乳首を傷つけてしまった武田さんは浴室内で気絶し、その後予期せぬものが無くなっていることに気づき、予期せぬ場所にあるかもしれないという可能性から、最も予期せぬ行動に出るのだが、最終的にはその“予期せぬ”一連が杞憂に終わる、という短い出来事であった。短い、取るに足らないように見える出来事だが、予期せぬものはシャンプーのノズルで予期せぬ場所はお尻の穴であるのだから、身体にとってはまさに一大事である。裸の奮闘を当時の温度感をそのままにあくせくと演じる武田さんが大きな笑いとともに記憶の中へと観客を連れ込んでいくような時間。『ワレワレのモロモロ』の題材とされる出来事は重いもの、とばかり思い込んでいた私にとって、「なるほど、こういう話もあるのか!」とただただ笑い続けた。劇場の空気を一気に柔らかく温める、オープニングにぴったりのコミカルな作品だった。
続く作品、まりあさん作の『デート注意報』もまた面白い、ユニークな出来事が題材であった。過去に経験した、とんでもない2つのデートの再現劇である。ドキドキワクワクの初デートをメルヘンな気持ちで迎えるまりあさんの元に相手から届いたのは、「ぴったりしたタートルネックを着て、目の前で水を4リットル飲んで欲しい」という謎の要求。相手はとんでもない性癖の持ち主だった訳である。「こんなことあります?」と終始観客を楽しく煽りながら進むデートの顛末。こちらも聞くには楽しいが、起こった方にしてみたらたまったもんじゃない悲劇である。過去の痛々しい色恋沙汰を誰かに笑われることで消化していくような経験は私にもあった。だけど、どれだけくだらない話だとしても、その時当人は少なからず傷を負っている。「過去のトラウマを明るく面白く語る」ことには、それ相応の思い切りがいる。まりあさんの放つ明るく愛らしい存在感が清々しかった分、私は心で彼女を抱きしめたくなる衝動に駆られていた。俳優たちは自分が書いた作品以外にも出演をするのだが、続く作品にもまりあさんは出演をしていた。全く相反する役柄だった。
岡本昌也さん作の『目を合わせるのは優しい頃を踊りたいだけだよ』という作品は、「忘れられない恋愛があって…」という切り出しから始まる。恋愛のモロモロから恋愛のモロモロへのバトン、と思いきや、開いてみるとそれはもっと複雑で、自己の本質に迫るような根深い問題、つまるところ生い立ちに関わる物語なのであった。傷を舐め合うように、荷物をなすりつけ合うようになし崩し的に当時の恋人を求めた時間を岡本さんは「人生の中のある季節を過ごした」と振り返り、その恋人が自分の元を去った時のことを「突然はしごを外されたよう」と表現した。誰かと分け合えると思っていた傷や荷物が、自分でしかどうにもできないものであることを知らされた瞬間の絶望の描き方がひりひりと身に迫る。暴力的な父親に似たくなくても似てしまう不安と葛藤、記憶をふさいでも、恋愛でなし崩しても、切っても切れない家族との関係。劇中ではしばしば当人が「抱えているもの」が大きさの異なる岩のようなもので表現されていて、それらは文字通り一枚岩ではいかないものばかりなのである。岡本さんが重そうな顔で持ったいくつかの岩たちを今度は袖から出てきた岡部ひろきさんが受け持つ。それが話の変わり目であり、シームレスながらも演劇と演劇の接着面であった。
岡部さんが岩を持ちながら語り始めたのも、やはり自身の生い立ちであった。幼少期、思春期、青年期と時系列に沿って家族の状況と自身の成長を紡ぐ作品のタイトルは『自己紹介岡部』であり、このタイトルがいかに象徴的であるかは結末にかけて明かされていく。美容師の母と俳優の父との間に生まれた岡部さんは両親の衝突と父親の不在を肌で感じながら大人になっていくのだが、要所要所のやりとりがとてもリアルで、とりわけ思春期の心の爆発には目を見張るものがあった。幾度もの反抗の末、母や自分を裏切り、手放した父親を恨みながらも岡部さんは次第に気づいてしまう。母親にきつい言葉を吐いた時や、二股の恋愛をしてしまった時なんかに「自分も同じことをしているのではないか」と自問自答をするのである。この「親に似たくなくても似てしまう」という血縁の因果については、前の作品、岡本さんの語りから通じているものがあり、作品の上演順にも意味があること、ひいては別々の出来事が自ずと接点を持ち、演劇としての繋がりに昇華されていることに気付かされる。やがて青年を迎えた岡部さんは、奇しくも父親の出演舞台の観劇をきっかけに「俳優」という職業に興味を持つ。父親役を演じた板垣雄亮さんの飄々とした、踊るような佇まいがまたその「掴み切れなさ」を、それと≒で結ばれる「憎み切れなさ」を鮮やかにしていく。その関係性に笑いながらも、こうして観客が笑えるまでの形に創作されたことに感服する。高校卒業後、上京して俳優の道に進んだ岡部さんが今まさに出演しているのが、この『ワレワレのモロモロ2022』というわけなのだから、人生は時折、なんとドラマティックなのだろう。終盤で親子の関係は信頼のおけなかった父子関係から、最も信頼のおける師弟関係になっていく。父が息子のセリフにダメ出しをするシーンは入れ子構造が可笑しくも、胸がいっぱいになる描写だった。ところで、岡部さんが俳優を志すきっかけとなった演劇のタイトルがそのまま本作のタイトルに模されていることに気づいた演劇ファンも多いのではないだろうか。なんとも象徴的で素敵なタイトルだと思う。岡部ひろきさんを劇場で観るのは3回目。私はこれからもその出演作を客席で待望するだろう。
一人の子どもが成人になるまで、を見届けた後、次に袖から出てきたのはハイバイの劇団員で久しぶりの出演となる川面千晶さんである。『川面の出産』と銘打たれている通り、妊娠検査薬でプラスを認知した瞬間から話は始まる。例の小道具の岩を週数に応じた大きさでお腹につめていき、Xデーへと向かっていく。厳しい食事制限、適度な運動。出産を二度経験した身としても改めて言っておきたいのは、妊婦の時期というのは心身ともに過酷で、そして孤独だということである。体の変化に心がついていかないことはおろか、心の変化に気づきながらもそれを置き去りにして二人分の体のケアに勤しまなくてはならない。万全の状態でその時を迎えるべく、川面さんが日々積み上げた涙ぐましい努力にまず心の中で喝采を送った。前情報としてそれぞれのタイトルだけ把握してきた私にとっては、まさにこの作品が観たくてここにきたと言ってもいい。それは私自身もまたハードな出産を経験した当事者であったからかもしれない。しかし、出産に立ち会われたことはあっても、立ち会ったことはない。川面さんの出産に立ち会いながら、その時間は演劇であることをふと忘れるほどにあまりに生身で、気づいたらボロボロと溢れる涙を拭いもせず、息も絶え絶え手に汗握る自分に気づく。凄まじい劇体験で、体感だった。促進剤がもたらす強烈な痛み、にもかかわらず全く開かない子宮口、そんな悶絶を経て突如迎える帝王切開。「私は妊娠中からずっと苦しい」、「その横で飯をバクバク食うな!」、「私は誰も褒められないのに」、「二人の子どもなのになんで私ばかりが」「おかしいやろが、そもそものシステムおかしいやろが」、「妊婦に繋ぐ管は全部bluetoothにしろ!」。そんなセリフの全てがまさに魂の叫び、全妊婦が、全元妊婦が「よくぞ言ってくれた!」と思わずにはいられない叫びの数々であった。その劇の素晴らしいことは、川面さんの秒刻みの心境だけでなく、傍らで立ち会う夫・諏訪さんの懸命さ、懸命だけれども当人にとっては煩わしくなってしまうほどの空回りさに温度と湿度が宿っていたことである。「どうしてあげたらいいのか」、そもそも「最良」が存在するかも分からない状況で右往左往しながらもかたときもその傍を離れまいとする後藤剛範さん演じる諏訪さん。そして、ついにその時はやってくる。乱れに乱れた精神状態の末、意識あるままの開腹手術。これまでの怒涛と怒号と打って変わって、ことは淡々と静かに進み、その凪の音がまた命が生まれる時の緊迫を手触りを以て伝える。もう一つ印象的だったのが看護師役を演じた松本梨花さんだ。当事者にとっては非日常のお産も彼女にとっては日常の光景、要所要所でそのコントラストが絶妙に表現される。絶頂と思しき痛みの中で受ける「生まれるまでまだかかりますね」という宣告、それを「少々お待ちくださいね〜」のテンションで言われた時の絶望。その超フラットな存在が、お産という劇的なドラマもデイリーな人の営みの一つであることを思い知らせていた。ドラマでは1シーンや1カットに割愛されがちなお産。そんなこんなで生まれました、の「そんなこんな」に立ち会うことができる演劇が世に誕生した瞬間だった。そしてやっぱり一言、川面千晶さん、本当にお疲れ様でした。
と、ここまで書いてみてしみじみ思うのは、モロモロこそが人生だ、ということなのである。とりわけ生まれた家族や生む家族にズームされた作品に私はあらゆる人生の原点やターニングポイントを感じ取ったが、最後の作品はその文脈でいくと、少し趣が異なるものだった。しかし、結果的に私はこの作品に最も心を奪われた。「言葉のいらない瞬間」と「言葉にならない瞬間」が劇場に浮かび上がったその光景を、私は今でもちっとも忘れられずにいる。
秋草瑠衣子さんが書いたのは、「モラトリアム」と呼ばれる人生の季節に、自分と他者の日々がふと奇跡のように重なる時の煌めき、その一瞬が煌々と光って、やがて少しずつ陰っていくまでの夢のおしまいのような時間の話だった。一口に青春、と呼ぶには浅はかすぎるかもしれない。しかし、その眩しさは押し並べて「青春」と呼ばれる、戻ってはこない“在りし日の輝き”を思わせるものであった。タイトルは『新宿マスカレードカフェ』。新宿二丁目に実在するそのお店を舞台に、秋草さんと当時の恋人・こするちゃんの青春が刻まれる。かつて某歌劇団で男役を務めていた秋草さんは、退団後にようやく訪れた自由な時間をここ新宿二丁目で過ごしていた。持ち前のルックスとパフォーマーとしての豊かな経験から男装を施した秋草さんはその界隈で「王子」と呼ばれ、人気を博す。ホストのような装いに身を包み、ウインクを一つする度に魅了される人々。そんな矢先に秋草さんが出会ったのが、美しいものを愛してやまない、細い身体をした「こするちゃん」であった。岡本昌也さん演じるこするちゃんの一言目は「女装がしたいです」だった。こするちゃんは戸籍上男性であった。あらゆる性が錯綜する新宿二丁目では、日常を送る昼間の姿をA面、なりたい自分になる夜の姿をB面と呼ぶという慣わしが当時あったようだ。男装と女装に身を包んだ美しいB面の二人は、一躍二丁目の人気者コンビになる。こするちゃんの美への追求と執着は凄まじいもので、ある日クラブで見知らぬおじさんにキスをされてしまったこするちゃんは、「美しくないものが美しいものに触れる権利なんてない」、「消毒しなきゃ」と室内が全面鏡張りのホテルに秋草さんを誘う。そこで、美しい自分達に囲まれながら、世にも美しい映画『2001年宇宙の旅』を観るのだ、と。ホテルの鏡には体を重ねた美しい二人が幾重にも映し出されていく。鏡を使うことなくその瞬間を映し出した美術と演出、そして照明の美しさに息をのんだ。照らすというよりも、灯るような光だった。これが、私がこの劇中に見た「言葉のいらない瞬間」だった。しかしながら、B面だけの再生とはいかないのが人生で、やがてこするちゃんはA面の姿でいることの方が多くなる。就職活動に明け暮れるこするちゃんと二丁目で過ごす秋草さんは少しずつ疎遠になり、借りっぱなしになっていた『2001年宇宙の旅』のDVDの返却を合図に二人の恋は終わる。しばらくの時を経て、マスカレードカフェの一つの節目を機に再会を果たした二人は、在りし日の思い出を語り合う。「『エーゲ海』、覚えてる?」「そんなクラブあったっけ?」「クラブじゃなくてホテル。全面鏡張りの」。そんなやりとりの果てに、こするちゃんは言うのだった。「ああ、あの汚いホテルか。懐かしいな」と。輝いていたものが色褪せ、在りし日をくすませてしまう「時間」が、その時、二人の間に長く、重く、呆気なく横たわる。秋草さんは何も言葉を発さなかった。これが「言葉のいらない瞬間」の対の手触りで浮かび上がった「言葉にならない瞬間」だった。しかし、こするちゃんは今もなお細い身体のままで、「その方が美しいから」と言ったあの日から何も変わらない身体なのであって、その身体の線を額縁のように縁取る光が舞台上にゆらゆらと溶け出していく。岡本昌也という俳優が、こするちゃんの消えゆくB面と、A面であっても滲むその哲学を身体まるごとで表現する。その佇まいがあまりに美しく、儚くて、私は、もうずっとこするちゃんに魅了をされていた。だけど、手を伸ばしてももう届かない。時は2022年、新宿二丁目は舞台上から消え、三軒茶屋の劇場に秋草さんの姿があった。「過去だからでしょうか、美化していますかね、私」。そんな彼女のセリフを最後に『ワレワレのモロモロ2022』は幕を閉じた。
6人の実体験を、張本人が自らフィクショナルに立ち上げた一つの演劇。全てを見届けた後、走馬灯とはこんな感じなのだろうか、とふと思う。人生のあらゆる瞬間が、「記憶に会いにいく」と言うよりも「記憶の方から会いにきてくれた」ような感触でクロスし、それぞれが交点を持ったところから一つ、二つとフェードアウトしていく。そんな演劇に仕上げるにはまず、張本人が能動的に「過去や記憶に会いにいく」というプロセスを踏まなければ成立しない。それはともすればとても苦しく辛い時間であったかもしれない。それでも私たちの目の前に現れたいくつもの光景は可笑しく、楽しく、切なくて、やはり少し苦しくて、とても美しかった。私はどれほど大事な記憶に、その逡巡や追憶に立ち合わせてもらったのだろう。終演からひと月が経った今もずっと、そんなことを考えている。
幕が閉じた時、自分の走馬灯にはどんな人生の季節が浮かび上がるだろうと考えた。それは例えば、数少ない父との二人きりの外食だろうか。強い母が確かに泣いた上京の夜だろうか。友人を亡くした朝だろうか。そんな友人が見守り、両親には口が裂けても言えなかった曖昧な恋の果てに子どもを産んだ春、離婚届を片手に家を飛び出して池袋の劇場へと駆け込んだ冬かもしれない。それは、他でもないハイバイの『夫婦』を観た日だった。帰り道に私はその離婚届を捨てて夫婦をやり直したのだけど、この先は全く分からない。私たちのモロモロはいつだってのっぴきならない。人生のあらゆる季節を、A面やB面の自分をいくつも岩のように抱え、時に押しつぶされそうになりながら今日も今日とて生きている。そんな自分のモロモロとさっきまで立ち会った他者のモロモロの狭間、ふと、立ち止まる。シアタートラムからの帰り道、万華鏡のような鏡張りの天井。二枚以上の鏡を組み合わせることで対象の映像が変幻する万華鏡は、今しがた観た演劇と似ていると思う。そして、それはやっぱり走馬灯とも、つまりは人生とも似ている気がする。その煌めきを通り抜けて、今日も私は煌めいてばかりはいられない日常へと戻った。A面もB面も諸共、本体に抱えながら。
しばらくして、別の回を観た友人からメールが届いた。私と彼女のスマートフォン、その本体に「マスカレードカフェ」という言葉が入った。次に会う時、私たちはきっと、こするちゃんの話をするだろう。そうして、万華鏡のように幾重にも煌めいた演劇がまたひとつ、私たちの記憶へと重なっていく。私はそれを美しいことだと思う。たとえいつかは全てが、どこかへと走り去っていくものだとしても。
***
おかだ・みいこ/フリーライター。2011年から雑誌を中心に取材執筆活動を開始。演劇、映画などのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど幅広く手がける。エッセイや小説の寄稿、詩をつかった個展も行う。
***
【上演記録】
ハイバイ『ワレワレのモロモロ2022』
画像画像
©︎坂本彩美
2022年7月2日(土)~3日(日)サントミューゼ
2022年7月7日(木)~10日(日)シアタートラム
構成・演出・脚色:岩井秀人
出演:秋草瑠衣子、板垣雄亮、岡部ひろき、岡本昌也、川面千晶、後藤剛範、松本梨花、まりあ、武田立(東京公演のみ)
公演公式サイトはこちら