<先月の1本>うさぎの喘ギ 第8回公演『はらただしさ』 文:山口茜
先月の1本
2022.07.21
良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。
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「あなたが言いたかったのはこういうことじゃなかったものたちで集まりましょう」
誤解を恐れずにいうと、今まさに多くの人が関心を寄せるSNS上の発信方法について、持論を展開するための種満載の舞台だった。これを友達と観劇して、その後にお茶をすれば、話は尽きないだろう。でも逆に、それ以降SNSで何も言えなくなってしまうかもしれない。でも作者の言いたいことは、おそらくSNSの発信方法についてでは無い。人間とは何かを問う、哲学的な戯曲、そして作品だった。そうそう、私が言いたかったのはこういうことだったんだ、そうそう。
劇場に入ると、いつもは狭く感じられるウイングフィールドが、とても広く感じられた。 通常ならあの細長い空間により多くの観客を入れるため、ギリギリまで雛壇を組んで奥の方にある舞台が見えるようにするようなまさに「小劇場」なのだが、今回の舞台は段を組まず、3つの壁を背にして観客と俳優が円になって座り、マイクが1本、天井からつるされただけの空間を眺めるしつらえとなっている。私が劇場に入ると、俳優たちはすでに観客然として、座ってスマフォを見たりしている。これはもしお客さんがとても多かったりすると、観客と俳優が混じり合って誰が誰だかわからなくなる仕掛けかもしれないとワクワクする。
とは言えすぐに、どの人が俳優でどの人が観客なのかが分かる。だって観客はもう劇場に入った時から、自分の見るべき対象はどこにあるのか、探す身体になっているからだ。対して俳優は、これから自分が対象になるのだと言う緊張で身体をいっぱいにしている。だからお客さんの数が多かろうが少なかろうが、やっぱり俳優と観客が混じり合うことはないかもしれないと思い直す。
時間になると、一人の俳優が「そうそう、私が言いたかったのはこういうことだったんだ、そうそう」というセリフを呟いて、劇が始まる。劇中では、この言葉が繰り返し発語される。しかし俳優同士の対話はない。基本的にみんな、モノローグで喋りっぱなしなのだが、それらはすぐに、ランダムに選んだ観客に向けて発語され始める。観客は、いつやってくるともしれない俳優の目線に怯えながら観劇することとなる。目を合わせないように下を向く観客もいる。私もふと、観客の特権は闇に紛れて覗き見することなのに・・・なんて思ったりする。でもすぐに思い直す。自分も過去、これと同じことをした。見る側と見られる側の線を、取り除きたかった。でも志半ばでそのチャレンジをやめてしまった。演出家の泉宗良さん は一体どう言う作戦で、何を期待して、こう言うことをしているのだろうか。絶対に見逃すまいと目を見開く。 すぐに俳優に目線をキャッチされて詰め寄られる。私も負けじと見返す。演劇をやるのは力が要る。ここまでして伝えたいこととは一体、なんだろうか。
そのうち、俳優の中でも、この仕組みを受け入れている俳優と、そうでない俳優がいることに気がつく。それはそうだ。だって私たちは強制的に目を見つめられることで舞台上とつながりを持たせられるわけだけど、私たちにセリフはないし、練習時間もなかった。私たちだけがインプロで、俳優たちは台本芝居なのだ。この不均衡な関係性を身体でキャッチして、遠慮がちにこちらを見てきたり、目が泳いだりする俳優がいるのがわかる。それがまたとても、面白い。そして観客のくせに俳優を安心させたくなる。大丈夫だよ。聞き漏らすまいと思っているだけだから。どう言う風に見つめたら、私はあなたを受け入れていますよと言うメッセージを送れるのだろうか。なんて考えたりする。
劇中では最初、演劇か何かの感想のようなものや、恋人同士の話、美容室での髪型の話などがランダムに発信されるが、そのうち出生率とか、ジェンダーギャップ指数とか言ったデータも混じり始める。それで一気に話題の解像度が上がる。「個人の会話」「個人の心情」「それに同意するセリフ」を聴きながら目の前の俳優の身体を見ていたのが、突如、現実の社会問題に向き合わされる感覚。でもそれもまた舞台上では「そうそう、私が言いたかったのはこういうことだったんだ、そうそう」というセリフに回収されていく。
そしてまた、対話はしないものの、登場人物間にあるらしい関係も徐々に変化していく。それはもともと彼氏と彼女であったり、姉と妹であったり、客と店員であったり上司と部下であったりするが、時間が進むにつれ、相手を気遣ったり、相手を知りたかったり、興味を持って踏み込もうとして拒否されたりと、関係に変化がおとずれる。
人間たちが恐る恐る関係を続けていく中で「ペンギン」が登場する。ペンギンは、おそらくLINEのスタンプで、彼氏と彼女の会話の中に出てくるのだが、ビジュアルはなく言葉だけで語られるので、まるで登場人物のように他の人物と並んで認識されてしまい、私を和ませる。次にペンギンが出てくるのが楽しみになる。ペンギンは影からそっとこちらを見たり、スライディングしたり、羽?手?ヒレ?をふったり山頂に旗を立てたりする。かわいい。
言語化することは何かを選ぶことで、何かを選ぶと言うことは何かを捨てると言うことだ。でもそれが例えば他人の言葉だったら?誰かが書いた文章を読んで、あ、これだ!私の言いたかったことって!と思って「リツイート」したり「いいね」したりした時にも私たちはやっぱり、何かを捨てることになるのだろうか?もしそうでないなら、つまり何も捨てずにいられるのなら、そのリスクを背負わない「リツイート」や「いいね」は、実はとてもぺらぺらの薄っぺらいものなのではないか。でもじゃあ、リアルな私たちの人間関係は、果たして重厚なものなのか。身体性をともなうこの現実世界でもまた、いつ終わるともしれない代替可能な関係性の中で、私たちはぺらぺらの言葉を発しているだけでは無いか。そう言うことが、劇を通して浮かび上がってくる。
終盤で、あんなに私を和ませていたペンギンが不意にコンドームを取り出し、装着する。私はギョッとして、ペンギンを愛でていたことをなんだか恥ずかしいことのように感じる。このようにとにかく非常に実験的で対話のない劇なのに、劇作がうまいので飽きさせない。ペンギンは「コミュニケート」する。劇中で何度も「言葉にしたら終わっちゃう」と登場人物にコミュニケーションを拒否させておいて、ペンギンが、セックスというコミュニケーションを行う。確かにセックスは、言葉を多く必要としない、身体性を伴うコミュニケーションだ。けれど彼らの求めるコミュニケーションはそれなのか。私にはわからない。
そしてまた、劇は続いていく。私たちはこの劇のように、ただ空中に向かって言葉を発しているだけで、コミュニケーションしようと思って相手の目を見ても、相手は丸腰の観客のようにおどおどと目を泳がせるだけで、それはすべて、「コミュニケートしている」という思い込みに過ぎないと感じ始める。私たちは無数の「リツイート」と「いいね」を、身体を伴った現実世界でも繰り返している。
劇が終わった後のトークの中で、観客の一人から、言葉は暴力だという話が出る。言葉は暴力だからSNSは見ないのだと。その時はそういう人周りにもいるなあ、と思っただけだったのだが、後からそのことを思い出して、色々とまたこの劇を通じて考えを巡らせる。例えば実際に誰かを殴ったり無理やり性交渉に及んだりするのは、それは暴力だよね。そうそう。例えばフィジカルな接触が無くても誰かを罵ったり嘲ったりしたら、やっぱりそれも暴力だよね。そうそう。じゃあ心や身体を踏まれて「やめろこのクソが!」と叫んだらそれは・・・暴力?うーん。私は自分が何か痛い目にあった時に上品に痛がることなんて、できるだろうか?じゃあ「やめろこのクソが!」という人の言葉遣いや態度を咎めたら?それは批判?いやそれはトーンポリシングでしょう。じゃあ、自分が被害にあったわけでは無いけれど、被害者を守る仕組みを作ろうとする人が、汚い言葉を使ったら?これはどうなる?でもそうしないと届かないのだとしたら?何をしても届かない相手に、言葉を届かせるには、相手を刺激するという方法しかないのだろうか。
私たちのいるSNSでは、今こういうことがしきりに話題に上がっている。この中に入らない、と決めることは、確かに一つの心を守る方法だろう。ただそれが必ず暴力に加担しないことになるのかと言われると、そうだとは言い切れないと思う。だって被害はSNS以外のところでまず、たくさん起きてきた。そして現実世界で被害者が救済を求めることのできる窓口が十分に無かった、あるいは機能していなかったので、SNSがその駆け込み寺となってきたのだ。
今やSNSは、本やニュースと同じぐらい重要な情報源であり、発信場所だ。でもそれを「自分の考えを代弁してくれる場所」として機能させることについて、この舞台からはこんな言葉が付与される。
「正しいエビデンスによって裏付けられた正しい価値観に基づいて生まれる正しい感情による正しいコミュニケーションを行う正しい存在 それが私だ そして私は正しいのだから 私は私たちであらねばならない」
これを聞いた時、私だ、と私は思った。私は確かにこのように思って、「リツイート」や「いいね」をすることがある。私は確かにこのように思って、いかに正しくあろうか、いかにその正しさを証明しようか、そしてそうやって完璧な正しさで人をねじ伏せようかと待ち構えている。まさに、そうそう、私が言いたかったのはこういうことなんだ、そうそう、である。
登場人物の中に一人、人間、と言うのがいる。人間には性別や所属がない。ただ、人間としてそこにいる。彼女はいう。「あなたが言いたかったのはこういうことじゃないないものたちで、集まりましょう」
人間は常に、代替可能である。けれど人間と人間の間に生まれる関係性は、どうだろうか。その関係を簡単に言語化しないことで、それは個別具体的なものとなり得るかもしれない。でもそれは、「言わなくっても、わかるだろ」ということではない。言おうとする。でも簡単には行かない。頑張って私と言う個別具体的であることを証明する「名」のもとに捻り出す。間違える。修正する。謝る。また言う。この繰り返しで醸造されていく。私たちはこの行為を忘れてはならない。それこそが「人間」のなせる技である、と私は受け取った。
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やまぐち・あかね/1977年生まれ。劇作家、演出家。合同会社stamp代表社員。主な演劇作品に、トリコ・A『私の家族』(2016)、『へそで、嗅ぐ』(2021)、サファリ・P『悪童日記』(2016)、『透き間』(2022)、トリコ・A×サファリ・P『PLEASE PLEASE EVERYONE』(2021)など。
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【上演記録】
うさぎの喘ギ 第8回公演・ウイングフィールド30周年記念事業『はらただしさ』
2022年5月4日 (水)~6日(金)
ウイングフィールド
作・演出:泉宗良
出演:中筋和調 宇津木千穂 髭だるマン(笑の内閣)
望月ほたる(猟奇的ピンク) 吉田凪詐(コトリ会議)
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