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<先月の1本>辻村優子『乗る場のもまれ処』 文:植村朔也

先月の1本

2022.07.21


良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。

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もみほぐしがふたたびパフォーマンスになるとき:辻村優子『乗る場のもまれ処』評

 物心二元論はもちろん初めから嘘で、メンタルと身体はあたりまえに直結しており、それゆえ、一度一方が緊張しだすとどちらも循環的にがちがちになっていくことがある。それが何日何カ月も続くと、別にもう辛いことも気がかりなこともないのに心も身体も病んでいるとかいった事態にさえなりかねない。緊張し通しで自律神経がおかしくなるのだ。常識ではあるが、大事なことなのでまずはここから話を始めなければならない。
 というのも、身体をほぐせば全てが解決し革命が起きることもあるなどとは知らず、鬱気味不眠気味でありつづけているような人々が確かに存在しているからであり、先月までのわたしもその一人だった。救いとはマッサージである。

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 俳優業のかたわら、とあるリラクゼーションチェーンでセラピストとして働いていた辻村は、先輩セラピストとのある日のやり取りの中で、もみほぐしと演技の共通点に気づいたのだという。そうして生じた「見た目にはもみほぐしをしているように見えて、実は演技をしていると言うことにできないだろうか(原文ママ)」[*1]という問題意識を上演に落とし込んだのが『乗る場のもまれ処』だ。
 なお、「乗る場」というのは都内の共同アトリエ「円盤に乗る場」を指している。円盤に乗る場では6月下旬にいくつかのプログラムからなる「活動報告会’22―『遊び』から始める―」が開催され、『乗る場のもまれ処』もそのプログラムの一つとして上演されたのだ。この円盤に乗る場で、観客はひたすらに辻村のもみほぐしを受ける[*2]。

[*1]当日の施術前に配布されたテキストより。以下で鍵括弧による引用が特に断りなく行われる場合、いずれも当該テキストに基づく。
[*2]円盤に乗る場とは、カゲヤマ気象台が主導する団体「円盤に乗る派」を中心に2021年より活動を開始したコレクティブのことでもある。辻村は2021年9月3日から5日にかけて北千住BUoYで開催された、標本空間vol.1『無差別標本集』でももみほぐしを上演している。標本空間は、サンプル主宰の松井周によるスタディ・グループ「松井周の標本室」メンバーがそれぞれに発表を行う場として設けられたイベントだった。円盤に乗る場と松井周の標本室は、どちらもさまざまなアーティストがゆるやかに協働し、互いの表現を後押しするコミュニティであるが、辻村の活動は、それらがオルタナティブな実践を生み出すたしかな拠り所となりうることの証左といえよう。

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 ところで、辻村の働くようなリラクゼーションチェーンが提供しているサービスの内実は、実は曖昧である。というのも、指圧やマッサージの仕事は実は国家資格であって、資格なしの施術は違法ということになっており、そこで非資格取得者でもマッサージをやるための方便として用意されたのが「リラクゼーション」という呼称だからだ。
 リラクゼーションにおいては施術者の技量は保証されておらず、もみほぐしの技術だけが金銭の対価であるとは言えない。それゆえ辻村の述べるように、サービスは「接客、空間演出(音楽やアロマも含む)手技などによって」多方面から行われる。つまり、パフォーマンスを含んでいるのだ。
 「この世は舞台」というシェイクスピアの残酷な予言は的中し、世界はサービス経済の進展とともにパフォーマンスに包囲された。「舞台」が与え(serve)られれば「観客」はそこに拘束され、金を落とす。
 B・J・パインⅡ&J・H・ギルモア『経験経済』は、サービス経済の次は顧客の経験こそが新たな経済価値になるとして、リチャード・シェクナーらのパフォーマンス理論を援用する。パフォーマンスの方法が経験ビジネスの演出の理論として収奪されているわけだ。いまやパフォーマンスに溢れかえる都市とは無縁の空間として劇場を安易に措定することはひとつの抽象にすぎない。すべての舞台は経験ビジネスの一つとして相対化されてしまいかねないのだ[*3]。「この世は舞台」、である。

[*3]『経験経済』での用法に倣えばサービス経済と経験経済とは区別しなければならないが、本稿はこれらを大雑把に用いている。両者の境界は(特に日本において)曖昧であると考えられるからだ。

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 『乗る場のもまれ処』のラディカルさは上演内容のおそろしいまでのシンプルさにある。上演時間いっぱいもみほぐされるだけなのだ。
 たとえば、実際の鍼師を演者に雇い鍼灸の施術を行った百瀬文のパフォーマンス『鍼を打つ』(2021)では、観客はイヤフォンを装着し、事前に録音されたテキストを耳にしながら鍼を打たれた。そのことで、語られる言葉と施術行為との関係/無関係を解釈しながら上演を経験することができた。
 対して『乗る場のもまれ処』では、もみほぐしの前後にかんたんな説明があるだけで、いわゆる台詞の類は特にない。施術中にわたしが耳にしていたのは、同じ会場の別プログラムで俳優の日和下駄が来客と繰り広げていた、もみほぐしとはまったく無関係の他愛のないおしゃべりだけである。それはもはやパフォーマンスとは呼びえないように思えるほど、現実のリラクゼーション行為に接近していた。実際、『乗る場のもまれ処』は厳密にはそもそもパフォーマンスを自ら名乗ってさえいない。
 しかし、両者にはやはり違いもある。リラクゼーションサービスはセラピストに制服の着用を義務付けることで、店舗の劇場的性格を高めるものだが、辻村はさっぱりとした私服で対応していた。普段は舞台の稽古が行われるようなアトリエにパーテイションとベッドが設置されているだけの素っ気ない設備は、もの静かで薄暗く清潔感のあるリラクゼーションのそれとは比較にならない。つまり、リラクゼーションサービスが利用する演劇的な効果がことごとく取り払われていたのだ。リラクゼーションのパフォーマンス的性格を解除しつつも、これを円盤に乗る場へと転位させることで、新たにパフォーマンスとして収奪し返すこと。

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 さらに付け加えなければならないのはその異様に破格な価格である。実はわたしは『乗る場のもまれ処』へ足を運ぶ数日前に、偶然にも、辻村の働くのと同じリラクゼーションチェーンの一店舗で施術を受けていた。身体が限界に達したのであわてて飛び込んだのだ。そこでは肩・首周りを中心に20分の施術を受け、2000円程度を支払った[*4]。少し物足りなかったが、それ以上支払う金銭的な余裕はなかった。
 一方、辻村は10分~40分の幅の施術時間に対して一律1000円という価格体系を設定した。施術時間は観客が任意に選択できる。40分コースを選択したわたしは、単純計算で、数日前の半額の料金で、その倍の時間の施術を受けたことになる。おかげで、背、首、頭と問題個所を広範にほぐしてもらったわたしの身体は今度こそ徹底的にほぐされ、全快した。合計一時間の施術で全快だなんてかんたんな身体だな、と思われるかもしれない。でも、そんなものである。
 小劇場のパフォーマンスでは、チケット発売時点で上演時間が確定していることは稀である。よほど極端な場合でなければ、観客も価格と上演時間の比にはそれほど拘泥しない。時間の長さという量的な尺度とは別のところ、別の質にお金を払っているという明確な意識がそこにはある。実際、多くのパフォーマンスはむしろ時間というものの変質にこそかかわっている。
 しかし、こうした慣習に倣うかのような『乗る場のもまれ処』の価格体系は、俳優という労働者の不合理的な境遇をこそ逆説的に照射するものだった。労働時間に対する金銭的な見返りのあまりの少なさをはっきりと形式化する『乗る場のもまれ処』は、「量より質を」とか言った風に上演行為の修道院的な潔癖さを称揚するのではなく、あくまでそれを経験ビジネスの海に投げ返し、問い直すのだ。

[*4]当該チェーンの特定を避けるため、価格やサービス内容について正確は期さない。

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 辻村とは施術後に話を交わし、その演技観をいくらか伺うことができた。同月上旬に円盤に乗る派『仮想的な失調』に出演した辻村は、観客を癒すもみほぐしとしての演技をそこで遂行しようとしていたのだという。「見た目にはもみほぐしをしているように見えて、実は演技をしている」状態を探る『乗る場のもまれ処』の試みは、「一見、台詞劇の演技をしているように見えて、実はもみほぐしをしているという方向」へと続いているのだ。
 台詞劇を演ずる俳優は、それぞれの観客に直接触れることはできない。演技により人を揺さぶることは遠隔作用の術と考えられるのが普通だから、「もみほぐしとしての演技」は一見自家撞着にも思われる[*5]。しかし、辻村が自らに課した、このほとんど公案のような難題は、真剣に検討される価値がある。
 というのも、パフォーマンスにおいて「癒し」はもっぱら心理主義的に理解されるからである。もちろん、人間が生きていくうえで癒しは必要である。しかし、心理的な癒しの次元で問題解決を図ることは、悩みや辛さを引き起こした当の問題から人の目を逸らさせる。すべてを個人の内面の問題にしてしまい、ことによると新自由主義的な自己責任のポリティクスをも補完して、人を苦しめる存在や構造がはびこるのを手伝う論理になってしまいかねないのだ。
 同じ癒しでも、辻村の言う「もみほぐしとしての演技」は即物的な印象が強い。その実践は、過度な緊張を強いる環境にさらされた自身の身体に受け手の意識をさし向ける。なぜなら、最初にも書いた通り、もみほぐしとは、メンタルと身体との循環的な過程において、そのこわばりを解いていくことだからだ。

[*5] 実際、辻村の「もみほぐしとしての演技」は依然研究途上のものと思われ、だからここでもそれ自体の方法や内実について推測的に記述することは避けている。5月24日に俳優のキヨスヨネスクは円盤に乗る場で声についてのレクチャー&ワークショップを開催した。声の聴取と発声のプロセスを通して相手の身体を内的に模倣することの可能性を、ミケル・デュフレンヌやイェジイ・グロトフスキなどを引きながら探るものであって、キヨス自身の論旨から外れはするが、遠隔もみほぐしの術としての演技を考えるに資するものだった。しかし、同レクチャーに参加していた辻村は、それとはまた別の方向での演技を模索したいと上演後にわたしに語った。
  
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 『乗る場のもまれ処』で試みられたのは「もみほぐしとしての演技」ではなく、「演技としてのもみほぐし」の方だったわけだから、最後にこれについて書きたい。
 もみほぐしに表現意図はない。愛も死も(おそらく)表象できない。実際、ここまでの議論も形式についての議論に終始し、内容にあたるものについて語ることはほとんどできていない。やはりそれはふるまいのレベルでは純然たるリラクゼーションなのだ。だからこれを演技として語ることは難しい。
 難しいが、たしかに似ているところもある。事実、『乗る場のもまれ処』の観客はリラクゼーション経験とパフォーマンス経験の境界をさまよう。受け手がじっとしているのが似ているのだ。もちろん例外も山ほどあるが、普通演劇の観客はじっとしていて、多少不愉快なことをされたり言われたりしても、なにもできない。
 伊藤亜紗『手の倫理』は坂部恵の議論を援用しながら「さわる」と「ふれる」を区別する。「さわる」は一方的で、伝達的、物的なコミュニケーション。対して「ふれる」は相互的かつ生成的な、人間的コミュニケーションだという。相互性のコミュニケーションである「ふれる」にも「接触のデザインに関して主導権を持つ」主客の区別がある。そして、「ふれる側が抱える不確実性は、ふれたことによる相手のリアクションが読めない」ことであるのに対し、「ふれられる側の不確実性とは、ふれようとしている相手のアクションが読めない」ことである。これらの不確実性が互いに受け入れられたとき、はじめて相互の「ふれあい」が成立する。
 もみほぐしとパフォーマンスとが交差するのは、不確実性を分け持つ信頼の場のデザインにおいてではないだろうか? しばしば忘却されてしまうことだが、客席で身動きもとれない観客たちもまた、劇場の不確実をつねに経験しているわけなのだから。リラクゼーション行為をパフォーマンスと名指すことは、後者に内在するこうした根本的な不確実性にかたちを与えるものだ。
 伊藤は書く。「あらためて気づかされるのは、私たちがいかに、接触面のほんのわずかな力加減、波打ち、リズム等のうちに、相手の自分に対する『態度』を読みとっているか、ということです。〔…〕接触面には『人間関係』があります」(同 p. 8)。このように「態度」や「人間関係」を感得することには、どこか演劇の鑑賞のモードに近しいものが感じられる。しかし、伊藤自身は述べていないが、接触面にそれらを子細に読みこもうとする上で、その基底を成しているものはふれあいの相互信頼だろう。
 かくして観客の意識は、もみほぐしをパフォーマンスとして読んでみるとき、リラクゼーションという経験ビジネスにおいてひそかに培われている、ある還元不可能な経験にも差し向けられることとなるだろう。


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うえむら・さくや/批評家。1998年12月22日、千葉県生まれ。東京はるかに主宰。スペースノットブランク保存記録。東京大学大学院表象文化論コース修士課程所属。過去の上演作品に『ぷろうざ』がある。

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【上演記録】
乗る場のもまれ処

撮影:辻村優子

2022年5月4日 (水)~6日(金)
2022年6月20日~24@円盤に乗る場
2022年6月25日、26日@おぐセンター

円盤に乗る場公式サイトはこちら

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