<先月の1本>筒『全体の奉仕者』 文:渋革まろん
先月の1本
2022.06.20
良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。
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〈実在〉に服す──筒『全体の奉仕者』に寄せて
最近、ロシアのウクライナ侵攻で市街地が戦場となり、多数の市民が犠牲になり、ツイッターでは燃やされ、埋められ、まるで蝋人形のように転がる遺体の写真が流れてくることもあるが、それでも私は他者の死というものをうまく実感できないでいる。ときおり、死のリアリティを伝えるために遺体と生前のポートレイトを並べた写真も流れてくるが、それで生前の面影を持たないほどに変わり果てた姿が強調されるのだとしても、やはり私にはある情報が欠落しているように思えてならない。
〈実在〉の重み。たとえばいま目の前にいる電車の吊り革に捕まっているそのひとが突然息を引き取り死んでしまうなんてことを私は想像できない、というような、ひとがそこにいるという〈実在〉の情報、存在と不在の落差に関わる情報である。
イメージは〈実在〉を削ぐ。ともすれば私たちは、死によって失われるそれをうまく想像できず、何を弔うべきか、何を記憶すべきかわからないまま、一瞬だけ口を開ける混沌を、口当たりの良い悲劇のイメージに変えてやり過ごしている、のではないか。
2022年5月7日〜8日、古民家を改修したシェアハウス「F/Actory」にて筒(今野誠二郎)が発表した『全体の奉仕者』は、森友学園の国有地売却に関わる決済文書の改ざんを命じられ、鬱病を患ったすえ2018年3月7日に自死した赤木俊夫の2016年4月4日(月)6:35〜7:35の朝の風景をほぼ同様の実時間をかけて「再現」する「演技」作品だった(※1)。
古民家の一室を用いたF/Actoryの上演空間に客席と舞台の区別はなく、観客は10席に満たない椅子のどれかに座ってもいいし、壁際に居を構えて立ち見してもいい。上演中に場所を移動してもかまわない。古民家の一室がサイトスペシフィックな上演空間となり、そこで筒はバナナ・携帯・財布・手帳などが置かれた幅2メートルほどの大きな机と、「相春雨不厭」などの習字をしたためている半紙が積まれたもうひとつの机、そして観客のいる場所からは目隠しされた台所と思わしき場所を行き来する。これが──いわゆる──筒のアクティングエリアになる。
そこで行われる筒のパフォーマンスは、見ていて焦れったくなるほど何も起こらない。事前に配布された「Acript」と呼ばれる「戯曲としての完成を目指さない演技のための地図」に書かれた妻の雅子との何気ない会話を基調にして、上方落語のテープを再生したり、机の上の習字を眺めたり、手足にクリームを塗ったり、バナナを頬張ったりと朝のひとときを淡々と過ごし、最後はスーツに着替えて、家用から仕事用のメガネにかけかえる。
退屈な時間──何ら心動かされることのない宙ぶらりんの時間に放り投げられた私は、しかしそれゆえにあの安倍晋三の失言が引き金となった忖度の喜劇で失われたモノの重みに打たれていた。マス/ソーシャルメディアに流通するアンチ安倍の象徴でも、官僚機構の歯車として使い捨てられた悲劇的人物としての「赤木俊夫」でもない。いま目の前で動いているモノが二度と動かなくなった、という即物的な事実に打たれていたのである。この存在と不在の絶対的な落差に感知される間隙を、私は〈実在〉という語でしるしづけてみたいのだ。
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では、どうしてそのような〈実在〉への感覚が引き起こされたのか? 筒は自身の演技の方法を「ドキュメンタリーアクティング」と呼び、それを実在の人物の徹底的かつ綿密なリサーチをもとに「演技というフレームをつかって、被演技者に向き合う」ための方法だと説明している。配布されたハンドアウトに記載されたマニフェストからいくつか抜粋して紹介しよう。
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①これはベクトルを示す仕事であり、演技自体より、そのプロセスを重視する。
②演技の公開と、観客が被演技者の視点を想像・獲得するような機会の提案は併せて行う。その際に必ず、「行われた演技は役者個人の解釈でしかない」ことを通達する。
⑥Acriptは創作してはならない。音声があればそれを、なければ取材をもとに正確に現実を描写するよう努める。あらゆる人が意識/無意識下で反映させる「こうあって欲しい」という理想や、記憶の変化から距離を取る。
⑦「似て見える」ということは重要ではない。異なる身体にあり得る可能性には限界があるということを自覚しながら真摯に向き合い、その過程の中で「似て見えてしまうときがあるかもしれない」といった程度のものとして捉える。
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「プロセスを重視する」とあるように、筒はドキュメンタリーアクティングを、計画されたフィクションの内部で完結するものとして捉えていない。演技する身体はあくまでも被演技者(本上演の場合は赤木俊夫)に向き合うために用いられる媒体のひとつに過ぎない。配布されたハンドアウトに即して言えば、「リサーチや、役作り、公開後の鑑賞者の対話」を通じて、自身の身体に赤木俊夫のドキュメント/記録を刻み、〈実在〉に漸近する絶え間ないプロセスが上演の全体を枠付けている。
ゆえにここでは、観客の前で行われるパフォーマンスを「本番」と呼ぶ演劇の慣例が逆転している。よく言われがちな「舞台は観客に見られることで完成する」といったたぐいの言説とは相容れない上演の形式が構想されている。観者がそこに居合わせることはドキュメンタリーアクティングにとって本質的な要素ではない(※2)。
とはいえ、筒は〈実在〉に向かう漸近的な身振りでパフォーマンスの真正性を主張するわけではない。ハンドアウトや公開後の対話の場で、筒は自分が特定の視点から「赤木俊夫」を解釈する第三者でしかないこと(当事者への「憑依」は不可能であること)に繰り返し注意を促している。筒のパフォーマンスは、あくまでも「赤木俊夫」を実演しようとする無限の試行のひとつに過ぎない。
だが、それは裏を返せば、ひとつの試行のうちに無限の実演可能性が孕まれている、とも言える。筒が「演技というフレームをつかって」と言うように、「同じ行為」の反復を前提にした演技の形式=フレームは、人物の「再現」が〈いま・ここ〉の現前に尽きるわけではないという潜在的な反復可能性をいつもすでに告知しているからである。
こうした、ドキュメンタリーアクティングの形式を特徴づける過渡性と反復可能性は、毎朝のルーティンを機械的にトリミングしてきたかのようなAcriptの構成(※3)にも反映されている。この側面から、本作における〈日付〉の反復可能性に光を当ててみよう。
「公開後の対話」では、取材から得たさまざまなエピソード、すなわち数年のあいだに「赤木俊夫」が行っていた動作や言葉をこの40〜50分に凝縮させたということが明かされていた。つまり、本作で構想されている時間は、過去から未来へリニアに進行するのではなく、まるで映画のように〈日〉というスクリーンに重ね合わせて映し出されるのだ。
たとえば、朝起きて、歯を磨いて、ご飯を食べて、植木に水をやって……という毎日のルーティンは、去年も、一昨日も、今日も、明日も、来年も変わらずに続くだろうという想定のもとで行われている。この意味で、日課としてのルーティンはただそれだけで自律した時間を形成している。言い方を変えれば、そこには「同じ行為」の反復を前提にした演技と同じ構造を見出すことができる。薄い半透明の被膜が重ねられるように、汲み尽くされることのない潜在的な反復可能性がルーティンの時間に特有の厚みを与えている。
だから、本作で観客が経験するのは「赤木俊夫」の「人生」ではない。〈日〉に厚みを与える無限の反復可能性だ。それは「赤木俊夫」の生を有意味な物語──アンチ安倍や悲劇の英雄──に祭り上げようとする解釈のまなざしを拒絶する。その代わりに、とりたてて意味もなくあったはずの、絶えざる反復を胚胎した〈実在〉としての生をそこに置いてみせるわけである。
私が打たれた「即物的な事実」が、「赤木俊夫」に向けられた解釈のまなざしを拒絶するルーティンの時間の〈実在〉に感知されるものであったことはもはや明白だろう。それゆえに筒のドキュメンタリーアクティングは──政治的立場の如何に関わらず──悲劇的な死を遂げた人物としての「赤木俊夫」から、確かに〈実在〉していた「赤木俊夫」の固有名を奪還する政治的な身振りになる。安倍内閣と財務省の加えた官僚的な支配秩序の〈暴力〉は、ひとりの公務員を自死に追いやったことだけに存するのではない。忖度の喜劇という馬鹿げた物語に巻き込んで、「赤木俊夫」の固有名をドラマの登場人物の名に書き換えてしまったことのうちにも存するのだ。
しかしその意味では、筒もまた「赤木俊夫」の固有名を書き換える名付けの暴力を加えているのではないか? 当然、その暴力を敏感に感じ取っているからこそ、ドキュメンタリーアクティングという方法論が要請されるのであり、上演のいたるところで、ドラマの生と〈実在〉の生の相克・分裂が可視化されることになる。
たとえば、観客が出入りする入口側の柱に貼り付けられた「財務省近畿財務局 管理部 統括国有財産管理官(1) 上席国有財産管理官 赤木俊夫」と書かれた名刺は、目の前の人物が「赤木俊夫」ではないという端的な事実を浮かび上がらせる。また、上演空間を覆う透明ビニールは、上演の芸術実践に真実らしさを付与するサイトスペシティフィの詐術を暴露し、この上演が虚構であることを示唆し続ける。さらに台所という設定の通路へ頻繁に退き、観客には聞き取ることが困難な妻・雅子との会話を展開させる筒の演技の構成は、そのまま私たちと赤木夫妻の距離をしるしづけるものだ。こうして筒は、ドラマ的なフィクションとの距離を物質化し、可視化することで、観客が感情移入する同化と共感の回路を用意周到に断ち切っていくのである。
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一般的に、演劇には共感を生み出す能力があると思われている。しかし、他者に共感しないことが可能である時に、私たちは初めて共感する自由を獲得する。少なくとも、ドキュメンタリーアクティングは、〈実在〉への漸近を追求する孤絶した身振りにおいて、観客の共感しない自由を確保した。それは「赤木俊夫」という名が投げ込まれたオンライン・プラットフォームの情報環境、すなわち、人々の注意を惹きつける扇動的な言説とイメージが絶え間なく循環し、24時間体制で私たちをネットワークしようとする共感と慈愛に満ちたつながりのなかでは、決して実現することのないある時間に居場所を与える。
追悼である。
悼むこと。喪に服すること(私たちは追悼の仕方を忘れている)。
この暗い時代に最も困難な、静かに死を悼む時間を筒は確かに示してみせたのである。
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(※1)本上演は2022年4月にANB Tokyoにてクマ財団の第5期奨学生作品展 「KUMA EXHIBITION 2022」で発表された作品の再演である。筆者はこの再演が『全体の奉仕者』を目にする初めての機会になった。後述するステイトメントやAcriptが記されたハンドアウトは、「KUMA EXHIBITION 2022」の際に配られた印刷物と同じものである。
(※2)「見せる」ことが本質ではない、つまり観客がいてもいなくても遂行される上演の形式としては、昨年、Dance New Air 2021への参加でも話題になった武本拓也の「歩行」パフォーマンスが挙げられる。武本は観客がいてもいなくても、ほぼ毎日、「歩行」のパフォーマンスを続けている。
(※3)Acriptは、主に、赤木雅子さんへの取材をもとに書かれた。スーツを着替えるときにはまずベルトをズボンに入れてから……というような細部にわたる緻密な事実の積み重ねで構成されている。「公開後の対話」を拝聴した限りでは、筒と雅子さんの共同作業とも言えるようなプロセスを踏むことで練り上げられていったようだ。
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しぶかわ・まろん/批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。
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【上演記録】
『全体の奉仕者』
2022年5月7日(土)、8日(日)
F/Actory
筒 | tsu-tsu : 今野 誠二郎
被演技者:赤木 俊夫
セノグラフィー:板倉 勇人
赤木雅子役(声):永楠 あゆ美
撮影協力:久保田 徹
音響技師:安齋 励應
制作協力:赤木 雅子
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