KUNIO15『グリークス』杉原邦生インタビュー
インタビュー
2019.11.5
神様と人間の関係が変わっていく、
それを描くにはやっぱり10時間が必要なんです。
他の誰とも似ていない。過去をたどってもこんなキャリアの構築をした演出家はいない。言ってみれば、杉原邦生は演劇界の特異点だ。ストリートカルチャー発、木ノ下歌舞伎経由の古典と現代を貫く感覚は、歌舞伎俳優・市川猿之助との仕事で大空間を埋める力を備えた。これからますます広がっていくであろう活躍が、ここでひとつ、大きな句読点を打つ。長年の願いだったという『グリークス』を演出するのだ。イギリスの演出家、ジョン・バートンと翻訳家のケネス・カヴァンダーが作者の異なる10本のギリシャ悲劇をまとめ上げてひとつの物語にした本作は、三部すべてを上演すると約10時間を要する大作。翻訳、キャスト、劇場と、頼もしいチームを得た意欲作の上演が、いよいよカウントダウンを始めた。
── 上演時間が約10時間の作品、稽古の仕方も工夫が要ると思いますが、どんなふうに進めていらっしゃいますか?
杉原 5月半ばから7月20日ぐらいまで約2ヵ月、第一期稽古と呼ぶものをやって、第二期が10月9日から始まっています。その稽古も、1日ごとに時間割を決めてやってます。
── 一期と二期に分けた理由は、やはり通常の1ヵ月の稽古では大変ということでしょうか?
杉原 いえ、僕のスケジュールの都合なんです。8月の納涼歌舞伎(で『東海道中膝栗毛』構成担当)と10月のスーパー歌舞伎Ⅱ(『新版オグリ』で市川猿之助と共同演出)をやることになり、物理的な制限で二期に分けて稽古することになりました。もちろん、1ヵ月や1ヵ月半では難しいと思いますけど。
── 『グリークス』を全三部通しで上演(※第一部「戦争」、第二部「殺人」、第三部「神々」と三部構成になっている)というのは杉原さんのご希望ですか?
杉原 KAATの白井晃芸術監督から、劇場と一緒に作品を創作しましょうとお話をいただいて、最初に「杉原さんが今、純粋にやってみたい作品は何ですか?」と聞かれたんです。その時に第一声で僕が答えたのが『グリークス』でした。
── 舞台をご覧になったことがあったんですか?
杉原 大学に入学してすぐの2001年、NHKの放送で蜷川幸雄さんが演出した『グリークス』(2000年シアターコクーン)を観たんです。僕は高3まで演劇なんてやろうとは思ってもいなかったから、そういう公演があったことも知りませんでした。僕が抱いてたステレオタイプなギリシャ悲劇のイメージは、その前に授業で見た蜷川さん演出の『王女メディア』ですでに覆されていたので、その人が演出した10時間のギリシャ悲劇ってどんなだろうと興味があって見始めたら、とにかくおもしろくて。ジョン・バートンとケネス・カヴァンダーが現代的な感覚で編集して書き換えたものだから余計にわかりやすかったし、僕らにも共通するような人間ドラマがいろいろ見えてきた。しかも、こんなに長時間の舞台が飽きずに観られるんだということが衝撃的でした。僕は大きな物語が好きで、『グリークス』はその代表格としてそれからずっと興味があって、いつかやろうと思っていたし、「やりたい」とたびたび口にもしていました。だけど、この作品を上演するには演出家としての筋力がある程度備わってからじゃないと難しいのはわかっていたので、タイミングを見計らっていたんです。で、今回、いろんなきっかけが重なって「えいやっ!」と踏み切れた感じです。
── 「えいやっ!」のあと、何から手を着けたか教えていただけますか?
杉原 まずは翻訳を新訳にしようと思いました。『ハムレット』を’14年にやって以降、僕は基本的に翻訳劇は新訳を使おうと考えているんです。そのほうがやってる僕らにもお客さんにも近い感覚の言葉が生まれやすいので。去年の『オイディプスREXXX』も、僕らの公演のために訳されたわけじゃないけど、河合祥一郎さんの翻訳での上演は初演だったし、いろいろと相談にも乗っていただきながら創作しました。ずっとそういうスタンスでやっていきたい、だから『グリークス』もまずは新訳にこだわりたかったんです。
── そして小澤英実さんに依頼された。
杉原 この作品は、ご覧になったり読んだりしたことのある方はわかると思うんですけど、ずっと女性のコロスが出ていて、女性の視点がひとつの大きなポイントになっている作品なんです。それで翻訳も女性の方がいいなと思って、いろいろな方に相談したところ小澤さんのお名前が出て、お願いすることになりました。小澤さんは批評のお仕事もされているので、僕の作品もいくつか観てくださっていて、快諾していただきました。
── 物理的に長いだけでなく、大きなうねりも小さなうねりもあり、同時に、神話に基づく理不尽な展開もありと、相当大変な翻訳だったのではと想像します。小澤さんとのトーンの擦り合わせなどは……。
杉原 めちゃくちゃしました。まずプロローグの試訳を3パターン上げていただいて「この方向でいきましょう」という前提となる擦り合わせをして、そこから一幕ごとに上げていっていただきました。その度に僕がWordでコメントを入れていきました。「この言葉、わかりづらいです」とか「ここの語尾、こうしたらダメですか?」「原文ではどうなっていますか?」とか。純粋な疑問を解消したり、こちらのイメージを伝えるために必要かつ有意義な時間でしたね。幕を追うごとに英実さんも感覚を掴んでいっていただいて、僕からのコメントもどんどん少なくなっていきました。
でもあれだけ血眼になって翻訳を読んで必死に小澤さんとやり取りしたのに、今、稽古場で(せりふが)変わっていっています。やっぱり俳優さんに演じてもらって「あ、この言葉は、こっちに言ってるせりふだったんだ」とか、新たな発見も多いんですよね。
── 最初に意識されたという“女性ならではの視点”は、どういうふうに戯曲の中に散りばめられていて、また杉原さんが実際に演出する時に、どう気をつけようと思っていらっしゃるんでしょうか。
杉原 小澤さんがおっしゃっていたのは「語尾を女性言葉にしすぎない」ということでした。女性性をアピールしている役に関してはあえて女性言葉を使っているんですけど、それ以外は、言葉だけ見ると男役か女役かわからないくらいです。そこが僕はとても良いと思う。たぶん男性が訳すと無意識に“女性の役は女性言葉で”としてしまうと思うんですけど、小澤さんのは言葉によっての性差を出していないんです。
── 「◯◯だわ」「◯◯なのよ」という言葉を使う女性は、今ほとんどいませんよね。それをリアルに反映させた訳によって、かえって女性が生きているという感じになっている。
杉原 そうなんです。そのほうがきっと、女性ならではの選択とか考え方がわかるんじゃないかと思います。言葉でカムフラージュされていない分、芝居で見えてくるというか。稽古していても、その人物を芝居でどうやって見せていくかに集中して稽古できていると感じるので、そこは大事にしたいなと思います。
── キャストの若さにも杉原版らしさを感じます。
杉原 若い人でということを意識してではなかったんですが、この演目を大スタジオで一挙上演したいというモチベーションのひとつに、自分がこれまでKUNIOというカンパニーでやってきたことの、ある種の集大成的なものにしたいと思ったことがあるんです。それはある意味、僕が小劇場で活動してきた総決算というか。今回のキャストはこれまで一緒にやってきた人達だけではないですけど、小劇場というフィールドの人達と一緒にこんな大きな作品をつくることができると提示したいというのが、僕がこの企画をやる大きな動機になっています。ただもちろん、これまで一緒にやってきた人達だけでは企画として新しさがないし、せっかくKAATとの共同製作でやらせてもらう意味も無くなってしまうから、初めてのご一緒する方と半々ぐらいの割合になりました。
── 女性達が女性言葉を話さない新訳、小劇場で活躍されてきた俳優のキャスティングと、それだけでもいわゆるギリシャ悲劇のイメージが刷新されそうですが、杉原さんご自身はそれらの作業や稽古の中から、『グリークス』をどんなふうに再発見されていますか?
杉原 英雄がいっぱい出てきますけど、本を読んだ最初の時点から「名の通った男達ってみんな間抜けでしょうもねえな」とは感じていました(笑)。それに比べて女の人が──全員というわけじゃないですけど──地に足が着いていて逞しい。世界創造の話から始まりますけど、2パターン出てくるエピソードが両方とも女性、女神が始まりになっているところも象徴的ですよね。英雄達も「俺は女無しじゃ生きていけない」と言ったり、結局、男達は女性がいないと生きていけないというか、存在し得ないような感じすらしてくるんです。余談ですが、木ノ下歌舞伎『東海道四谷怪談ー通し上演ー』の再演(2017年)の時にある方から「なよっちい、ダメな男を演出させたら、杉原の右に出る人はいないね」と言われたんです。「そうか、オレ、得意なのか!」と驚いたんですけど、今回そんなことを思い出して「ダメな男がいっぱいいるから、やったあ!」と思っています(笑)。
── 女性の強さにしても男性の弱さにしても、神様がやたらと人間くさいですよね。
杉原 神様に関しては発見がありますね。『オイディプスREXXX』をやった時は「ギリシャ悲劇って神様、神様うるさいなあ」ぐらいにしか思わなかった。でも『グリークス』は後半になっていくと、神を否定するようなせりふが出てきて、改めて考えざるを得ないんです。
これはあくまで僕の考え方ですけど、神というのは、人間が生きていくためにつくり出したものだろうと。今は科学によって解明されていることも、昔はなぜ起きるのかわからなかった、例えば地震とか雷とかそういう自然現象ひとつに対しても不安や恐怖が大きかったと思うんです。そんな中で、拠りどころにするものが無いと生きていくのが大変で、それでつくり出したのが神様という存在ではないかと思うんですね。
『グリークス』は将軍アガメムノンが戦争に勝利するために神託を受け入れ娘を生け贄にするというところから始まりますけど、それくらい神を信じている。コロス達も「神よ、なんとか災いが起きませんように」と祈っていたのに、「神々が私たちを滅ぼした」とディスりはじめて、後半になると「(災いが起きるのは)神ではなくて私達が悪いのかもしれない」と言い出す。その、神に対する人間の態度が変わっていくところにすごく惹かれる。結局のところ、神という存在こそ、人類が生み出した最大の演劇のように思えてきたんです。それが『グリークス』の一番おもしろいところなのかもしれません。
── それ、すごくおもしろい視点ですね!
杉原 女性的な視点であったり、10本のギリシャ悲劇が巧みにまとめられているとか、いろいろな良さはあるんですけど、神と人間の関係性が変わっていく、神の物語こそが演劇であるということが示されるのが、このお芝居の1番おもしろいところかなと思って、そこを軸に全体を構成していけたらいいなと考えています。
で、それってたぶん10時間ないとなかなか表現できない。これを2時間で見せられても、「最初から神様なんて信じてなくていいじゃん」みたいになっちゃう気がして。だからそれが10時間やる意味のひとつかなと。
── だから三部一気に通しで観るのを推奨したいと。(※第一部11時半、第二部15時、第三部18時半と、別々の観劇も可能)
杉原 タイムテーブルが「通しで観てください」という脅迫状みたいになってますよね(笑)。もちろん、いろんな都合があるでしょうし、体力的に無理してでも通しで観てほしいとは思っていないですけど、やっぱり通して観ることに意義がある戯曲はあって、これはそのひとつだと僕は思っているんです。木ノ下歌舞伎でやった『東海道四谷怪談ー通し上演ー』や『三人吉三』も、普段やられない幕まで全部通して上演することで、より深くわかることがたくさんあるじゃないですか。戯曲も全部上演されることを前提に書かれたはずですし。なので、できたらというか、ぜひ、何としてでも(笑)、通して観てほしいです。
── もともと杉原さんは舞台美術家という一面もお持ちですが、今回、10時間の演出も担いつつ美術も担当されます。アイデアは固まりましたか?
杉原 はい。僕はこれまで、何かの意匠を具体的に美術に持ち込むことはあまりして来なかったんですね。木ノ下歌舞伎『勧進帳』の初演(2010年)は道路表示をそのままバンッと取り入れたりしましたけど、基本的にはいつも空間は抽象的でシンプルなんです。でも今回はもうちょっと具体的なものを入れてみようかなと。言ってしまうと、能舞台みたいなイメージにしようと思っています。
── モチーフではなく、はっきり打ち出す?
杉原 その方向で行く予定です。この先何か大きな気持の変化がなければ(笑)。さっきもお話ししましたけど、今回の作品では神様というものが僕の中で大きなテーマだと思っているので、祭壇とかそういうイメージが最初にありました。演劇はそもそも神様に捧げるために発生したものですけど、日本で最も古い演劇とされている能もまさにそうで。能舞台には必ず松羽目(まつばめ)がありますが、あの松は春日大明神が降臨して舞を舞ったと言い伝えられている松らしいとか、神は木に宿るとか、神様のことを日本だと「柱(はしら)」と数えるなとか、いろんなことが繋がったんです。能のことを知らなくても、あの空間を見たら何か神聖な気持ちになるところがあるじゃないですか、日本人のDNAで。松を見ると何となくおめでたい気持ちになるとか、綺麗な板の間を見るとおごそかな気持ちになるとか。そういうDNAをくすぐることができたら、僕がやりたいことも明確に伝わるかなと考えているんです。能舞台そのまんまにはしないですけど、あのイメージをガツッと持ち込んでみようかと目論んでいます。
── では、一部、二部、三部で美術を変えるのではなくて、基本的に同じセットで物語が進行するんですね。
杉原 幕ごとに多少の展開はあるんですけど、基本的にはそうです。同じ空間だからこそ見えてくる違いもあるんじゃないかと思います。
── 最後に「コロス」についてお聞きします。『グリークス』に限らずギリシャ悲劇にはコロスが付き物で、たくさんの演出家が重要だと位置付けていらっしゃいますが、日本人にとってと言っていいのかわかりませんが、生理的な理解がなかなか難しい存在だと思うんです。フィットする日本語もありませんし。杉原さんはどんなふうに捉えてらっしゃいますか?
杉原 それもまた『オイディプスREXXX』の時とは全然違うと思っていて。あの作品の構造では、ある意味でミュージシャンという位置付けに置き換えられたんです。だからラップもできた(笑)。ミュージシャンって、ある種の大衆性を担ってるじゃないですか。だから、コロス=大衆の象徴=ミュージシャンというふうにしていったんです。今回はそう簡単ではなくて、何かひとつの扱いにはまとめられない。というのは、幕によってコロスの扱われ方が違うんですよ。第二幕の「アキレウス」では、コロスがひとことも喋らなくて、ただ見ているだけですし。それで考えたのは、今回のコロスは戯曲の指定通り全員女性なんですけど、彼女達が変わっていく様(さま)をきちんと見せていくことが大事なんだなと。『グリークス』はコロスで始まりコロスで終わる物語になっているので、彼女達が──物語の中で、国籍が変わったり、立場が変わったりするんですけど──コロスという1本通った存在として、どんな時間を過ごしてどう変化していったのかを描きたいです。逆に、それが見せられないと、幕ごとのエピソードはわかったとしても、全体としてはちんぷんかんぷんな芝居になってしまうと思うので、そこはしっかりつくっていきたいと思っています。
インタビュー・文/徳永京子
KAAT・KUNIO共同製作 KUNIO15『グリークス』公演情報は ≫コチラ