【特集3】「これが獲る! 予想作1作集中レビュー」(渋革まろん)
第67回岸田國士戯曲賞
2023.03.16
私は最終候補作の中から、松村翔子『渇求』の受賞を予想する、というか、受賞に値すると考える。本作だけに読みきれない謎が孕まれていると感じたからである。ただ、次点で、金山寿甲『パチンコ(上)』と兼島拓也『ライカムで待っとく』、さらに次点の次点として、石原燃『彼女たちの断片』、加藤拓也『ドードーが落下する』の二作も挙げておきたい。
こうすると全く一作に絞れていないわけだが、子供の妊娠・出産にまつわる「女性」の経験、日本の植民地支配の歴史に関わるアイデンティティ・ポリティクスをめぐる諸問題、変化する環境へのフレキシブルな適応が求められるコミュニケーション社会の病としてのメンタルヘルス、あるいは鎌田順也『かたとき』が前景化するような、メディアに媒介された「現実」で否応なく崩壊するリアルとフェイクの境界線……これらの問題系は、それぞれの作品に孤立して存在しているわけではなく、相互に響き合うかたちで間テクスト的な読みを誘発するものであり、私としては、一作に絞られることで見えなくなるものの方が気にかかる。
例えば、『パチンコ(上)』と『ライカムで待っとく』の両作品では、日本の帝国主義の支配下に置かれた朝鮮と沖縄の歴史的な記憶が呼び出されるとともに、民族的マイノリティとしての政治社会的な位置を押し付けられた人々の「現実」が抉り出される。『パチンコ(上)』は、ほとんどが在日資本であるというパチンコ屋を家業とする在日三世の劇団主宰を名乗る男のライフヒストリーを中心に、ほぼ全編ラップのリリックで書かれた戯曲である。在日差別を批判するにせよ、犠牲を強いられた壮絶な境遇を語るにせよ、世間的に糾弾される側のパチンコ屋の家業をあえて強調しつつ、嫌韓のヘイト、旧統一教会にまつわるエピソード、特殊詐欺グループの逸話をときに露悪的に、挑発的に描き出すことで、決してマジョリティ/マイノリティの二元論の構図で消費されないための敵対性を立ち上げる。1964年の沖縄で起きた米兵殺傷事件を取り扱った『ライカムで待っとく』でもまた、マジョリティの日本人による植民地主義的な同情(「不幸だと思ってるんでしょ、沖縄の人のこと」)が決定的に拒絶される。そして、沖縄の犠牲の上に成立していた戦後民主主義的な平和の欺瞞が、ある種の諦念の感覚とともに終わりなき物語=政治社会的構造として告発されるのである。
一方、『彼女たちの断片』と『ドードーが落下する』はいわゆる昭和的な性別分業のステレオタイプを作り出していた家父長制の機能不全に際して、女性と男性がどのような主体化の経路をたどりうるか──差別的な性規範に拘泥する男たちが作り出したルールになどかまっていられない「女」たちによるシスターフッドの自治的・協調的な支え合い/失敗の恐怖に駆り立てられる競争原理を内面化した統合失調症の「男」と負け組の彼を支えるホモソーシャルな絆──をコインの裏表のように描き出している(ゆえにそれぞれに共感を覚える読者は相互に批判的な見解を抱くかもしれない)。
メンタルヘルスの主題に関しては、中島梓織『薬をもらいにいく薬』が不安障害を患うバイトの同僚という傷つきやすさを抱えた知人とのケアに満ちたコミュニケーションの理想を提示している。それは『ドードーが落下する』に色濃く立ち込める、個人の傷つきやすさに配慮(ケア)する優しさだけではどうにもならないネオリベ的自己責任社会の現実、あるいは『パチンコ(上)』が突きつけるそもそもケアによる包摂を拒絶する法外なものたち──福祉による国家の生管理に寄生しつつ生き延びるパチ狂いの生活保護受給者etc.──からの挑戦を受けることになるだろう。こうしたテクスト間の響き合いそのものが非常に刺激的なのだ。
しかし、それでも受賞作を予想せねばならないのがこの企画の辛いところである。受賞作の予想とは、受賞しない作品を予想することでもあるから、最低限、両者を分かつ判断基準を示してみせる必要がある。
原理原則に立ち返ってみるならば、岸田國士戯曲賞は、劇作家の系譜において日本の演劇を歴史化するとともに、業界の内外に演劇の現在を周知する役割を担ってきた。かつて別役実は、60年代の唐十郎、70年代のつかこうへい、80年代の野田秀樹の登場は言語感覚の変化において劇的な印象を与えたと述べていたが、その後も90年代の平田オリザ、松尾スズキ、00年代の岡田利規、宮藤官九郎、10年代の柴幸男、藤田貴大、神里雄大、松原俊太郎といった同時代の言語感覚・現実認識を反映した──ときに批評的な関係を切り結ぶ──劇言語が岸田國士戯曲賞を通じて日本の演劇の歴史を刻んでいった。より踏み込んで言えば、そこでは同時代の危機的課題に応答する劇言語/演劇的思考の「現在」が問われてきたとみなすべきであり、それが問われているからこそ岸田國士戯曲賞には、多様な言説と議論の空間を活性化する「演劇の公共圏」を創出するための「権威」が仮託されてきたと言わなければならない。
ゆえに私が重視したのは、その戯曲が未来の争点を作り出しているかどうかである。未来の争点を作り出すとは、「わたしたち」がすでに共有している社会的課題を追認することではない。「わたしたち」の支配的な価値観(現在)を相対化する〈外〉の視線を仮構し、「わたしたち」の内部に走る亀裂や矛盾を露呈させること。あるいはその〈外〉の只中で、国籍、文化、言語、思想的な文脈を共有しない〈他なるものたち〉との接触・交渉・抗争を生起させ、未来を構想する媒体になること。畢竟、そうした戯曲は、読者の常識ないし無意識を逆撫でるような挑発性を帯びることになるだろう。
したがって、例えば、上田久美子『バイオーム』のように、封建的な家族制度に抑圧された「本当の母性愛」と、子供の死を「変化」として包むこむ八百万の自然(アニミズム)を称揚することで、狂った現実や社会的・政治的な亀裂を癒合する現状肯定的なメロドラマは、どれだけ多くの人を楽しませるのだとしても、同時代的な「現実」への批評的な応答を求める(はずの)賞の性格にはそぐわないと私は考えるわけである。
松村翔子『渇求』もまた、戦後日本的な核家族イデオロギーの中で、一方的なケア労働を強いられてきた母の「悲劇」を描いた作品であるが、そこで抉り出されるのは、もはや亀裂を縫い合わせることなど不可能なほどにあらゆる制度/規範の自明性が崩れ落ちた過酷な「現実」である。
主人公の鏡子は子育てに協力的な夫をパートナーに持つ「男女平等」の意識が浸透した中流家庭の女性である。しかし、息子のミノリが自閉症スペクトラム症と診断されてから、母親に何ら愛情を向ける素振りを見せないミノリの世話に疲弊し、愛しいはずの我が子に「悪魔」を見てしまう。「負の塊」を産んでしまったという絶望感、そして「不幸」なミノリから産んだ責任を問われているような罪悪感に蝕まれる鏡子は、救いを求めて新興宗教の「アサアビ会」にのめり込み、ミノリの世話よりも神への祈りを優先するようになる。子供を産んだら母性に目覚めるという怪しげな母性神話の無根拠性が徹底的に暴露されるとともに、産むか・産まないかの決定権を持つ親の権力性ないし「罪」が執拗に問い直されるのである。
それから、第二部の鏡子は、女性同士の絆に支えられながら、「女」を家庭に縛り付けていた夫への経済的従属から解放され、シングルマザーとして経済的に「自立した女性」の道を歩み始めるという、リベラルフェミニストが措定していたような「男女平等」の主体性を獲得する。しかし、それは予見不可能なリスクと暴力に晒され続けるネオリベ的な「自由」の主体として不安定な〈生〉の只中に身を投じる事であり、同時に、その不安に満ちた現実を忘れさせてくれる動物的な快楽消費の絶え間ない供給を受けて、政治的な抵抗の回路をあらかじめ予防=管理された身体の〈腐敗〉を生きることでもある。「アサアビ会」で出会ったアヤカの助けと励ましで、擬似ユートピア的共同体から抜け出した鏡子は、キャバクラの職を得ることで確かに経済的な自立を果たしたように見えるのだが、ミノリを預けていたキッズホームから匙を投げられたことも相まって、女性用風俗のセラピスト・ユウヤに与えられる“痛み”の快楽とドラッグへの依存を深めていき、ミノリという恐怖の「現実」から逃避し続ける。そして恐るべきことに、鏡子の膣からは「哀れな臓器」が漏れ出してくるのである。ト書きから引用する。
「彼女の壊れた骨盤から緩んだ臓器が重力に負けて膣からはみ出てくる。重力は正義だからもはや無能な臓器はそれに従う他ない。哀れな臓器が生臭い異臭を放ちながら図々しくも彼女のマンコから顔を出し生まれ出でようとする。」
畏怖を覚えさせるほどのあまりにも生々しい恐怖のイメージ。もはや身体は暴発もしない。意味不明な慄きを溜め込み〈腐敗〉していく。鏡子のネグレクト(育児放棄)は、ほとんどセルフネグレクト(自己放棄)である(その観点から、「鏡子」という名前の意味を考えてみることもできる)。本作の巧みなドラマトゥルギーは、核家族のジェンダー規範(夫は育児に協力するがその責任は引き受けない)、ネオリベラリズムの政治・経済体制によるフェミニズムの主体化言説(「私のことは私で決める」)の転倒的簒奪、あるいは生存権を保障する社会福祉制度の貧弱さなど、「女」をネグレクトの主体に仕立て上げる政治的な諸権力の布置を極めて分析的に浮かび上がらせる。戦後日本における核家族イデオロギーの理想からは受け入れがたい「なぜ母親は子供を愛するようになるのか?」という挑発的な問い──しかもその問いを示すのは怪しげな新興宗教の会員であるという皮肉──から、「誰が子供を遺棄したのか?」という政治的な争点の振り幅の中で「わたしたち」の思考と情動はかき乱され、激しく揺さぶられていくのである。
こうした戯曲の内容もさることながら、引用したテクストが「ト書き」であることからもわかるように、本作が仕掛ける“挑発”は戯曲の形式にも孕まれている。観客からは見えないト書きとして書かれた散文的なテクストを、上演の担い手はどのように引き受けるのかといった点に加えて、そもそも「ミノリ」という自閉症の子供を舞台に登場させることができるのか、いや、そんなことは不可能なのだと言わんばかりに、ミノリは「人はみんな夜の訪れが怖い。暗がりでは自分の手すら見えなくなってしまうから」と、唐突に喋りだすのである。
このありえないシチュエーションの導入は、ポストモダン時代における演劇の本質的な困難(他者の現実を何の権利があって代表/代弁できるのか)を逆説的に照らし出す。上演主体がその倫理的な問いかけに応答しなければそもそも上演が成立しないのだ。そしてその上演不可能性が、ミノリという理解不能な他者といかにして向き合うことができるのかという本作の問いと重なり合うことは明らかだろう。この戯曲は内容/形式の両面において、他者へのまなざしの倫理を「わたしたち」に問いかけてやまないのである。
テクストの挑発とはすなわち応答を待ち望む〈他なるものたち〉からの呼びかけである。本作が構成する問い、魅惑はこれに尽きるわけではなく、鏡子の身体的な変容の意味、ミノリという得体のしれない“異物”の多義的な象徴性(鏡子は何と向き合っているのか)、あるいはどの場面のどの言葉を“真実”として解釈するかによっておそらく相互に対立的なかたちで読者の解釈と意見は分岐する。それゆえに本作は、時代や場所を超えて繰り返し上演の欲望を駆り立てるものになるに違いないと私は確信するのである。
しぶかわ・まろん/批評家。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。