第61回岸田賞、勝手に大予想!~外野席から副音声
特集
2017.02.27
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藤原 去年に引き続き、岸田國士戯曲賞を外野席から予想する対談。今年はノミネート全8作品が期間限定で明日(28日)までウェブ公開( 白水社サイト)されていることもあり、独自の予想を立てた人も少なくないのではないでしょうか。では早速、我々も予想していきましょう。
徳永 ひとつ提案があります。今年の候補作は今までと傾向が違う気がするんです。なのでノミネートのセレクトについての印象を話して、それから各論に入っていくのはいかがでしょうか。
藤原 はい、大丈夫です。
徳永 どこまで遡ればいいかは難しいんですけど、もう長いこと岸田賞は、いわゆる「よく書けている」「多くの人にウケる」ものよりも「演劇界に吹いてきた新しい風」を敏感に捉えて評価する賞だと認識されてきたと思うんですね。
三谷幸喜さんや宮藤官九郎さんのように、知名度も人気も定着してから受賞した人もいますけど、岸田を受賞して他の演劇賞がその劇作家の存在に気付く、ということは少なくなかった。
でも今回のノミネート作品を見ると、社会派とエンターテインメントが目立ち、すでに高い評価や動員数が定着している人も複数いて、少なくともこの十数年はなかった傾向です。
いや、はっきり言うと、バランスが良過ぎると感じてしまったんですよね。「社会派」「エンタメ」「エッジー」「戯曲の構造」みたいに、枠がきれいに分けられる。きれい過ぎる。今年たまたま攻めてる感が減って見えるだけなのか、来年以降も枠を決めて候補作を選ぶのか……。
藤原 僕は実際に上演を観ているのが市原佐都子さんの『毛美子不毛話』だけなので、その点に関して大きなことは言えません。ただ自分の観測範囲で言うと、2016年は、岸田賞に強く推せる作品は例年より少ないと感じていましたし、ノミネートのラインナップを見てもややおとなしいという印象は確かにありました。
でも実際に8作品を読んでみると、審査員からクオリティに強い疑義が呈された昨年に比べたら、候補作の質のアベレージはキープされたように感じたし、確かにいわゆる「社会派」と呼びうる作品の存在感が目立ちますけど、それは社会的・政治的イシューと演劇とが接近しつつある近年の傾向を反映しているのかもしれない。だから何かノミネートの方針が大きく変わったとかいう違和感はそんなにはなかったです。
徳永 今年の最終候補のラインナップに異議を唱えたいわけではないんです。読んで納得した戯曲も複数ありました。
でも 「プレイバック2016」で岸田賞ノミネートの予想をしたじゃないですか。その時に名前を出した方たち──20年選手の福原充則さんや櫻井智也さんら──の仕事の充実ぶりが、私の中で2016年の非常に大きな収穫だったので、その作品が1本も入ってないことは悲しい。あとやっぱり、山本卓卓さんの『昔々日本』が入っていないことにかなり落胆しています。もちろん毎年、自分がおもしろかった作品、優れていると思った戯曲ばかりが候補に残ることはありませんが。
*
藤原 ではいよいよ予想に入っていきますが、今のお話の続きで言うと、僕は今年は混戦模様ということで、受賞作をひとつに絞り込むことが難しく、結果、ダブル受賞か、まさかのトリプル受賞になるのではないかと。
徳永 私はトリプルはないと思う。理由は、そこまで粒揃いだとは評価できないことと、これまでトリプルがあったのは、審査員が一部入れ替わった年という印象なので。矢内原美邦さん、藤田貴大さん、ノゾエ征爾さんが受賞された第56回(2012年)はそうでしたよね。でも今年は審査員に変化はありませんし。
藤原 その前のトリプル受賞は第27回(1983年)、野田秀樹さん、山元清多さん、渡辺えり子さんの時ですね。この時は井上ひさしさんが審査員に加わって2年目か……。まあやっぱり滅多にない現象ではありますけど。
ともかく今日徳永さんと議論する直前の予想では、市原佐都子さんと長田育恵さんのダブル受賞。もしくはそこに上田誠さんの入ったトリプル受賞という線で。◎◯▲で記すとこうなります。
本命◎ 市原佐都子『毛美子不毛話』、長田育恵『SOETSU -韓くにの白き太陽-』
対抗○ なし
大穴▲ 上田誠『来てけつかるべき新世界』
徳永 じゃあ、単独受賞は無しと?
藤原 うーん……。議論してから決めてもいいですか?
徳永 もちろんです。私はですね……
本命◎ 瀬戸山美咲『埒もなく汚れなく』
対抗◯ 市原佐都子『毛美子不毛話』
大穴▲ 上田誠『来てけつかるべき新世界』
藤原 なるほど。では、まずどちらも票を入れなかった4本から話していきましょう。
オノマリコ『THE GAME OF POLYAMORY LIFE』
舞台写真:牧野智晃
藤原 ポリアモリー、つまり単独ではなく複数の恋人と付き合うという、近年、注目されつつある性的指向性を持つ人々の恋愛模様を描いた物語です。このケースではバイセクシャルも含まれていますね。核となるのは同棲している男・男・女で、そのポリアモリーな関係性に対して、周囲の人たちが強烈な違和感を持ちながらも近づいていく。
僕は個人的にはわりとポリアモリーに親近感があって、もう10年以上前からそのあり方が気になっていて。かつ、実際に親しい友達にいるんですね、ポリアモリーしてる人たちが。
徳永 その人たちはカミングアウトしてるんですか?
藤原 特に明言はしてないんですけど、人前でも特に隠さないで振る舞っていて、まあ公然の事実ですね。3人なんですけど、全員お互いの関係性については了解しています。で、訊いてみたことがあるんですよ、「平気なんですか?」って。この『THE GAME OF POLYAMORY LIFE』の登場人物のようにズケズケと批判的に訊いたわけではないんですけど。そしたらまあちょっと不思議だけど素敵なバランスで成り立っていることがわかったし、その関係性に対して特に違和感もないんですね僕は。
で、この戯曲の話に戻りますが、ポリアモリーっていう関係性や概念が劇作の対象になるのはとても意義があることです。でも逆に、この描き方だとポリアモリーの人が誤解されてしまう、と強く感じたので、僕はまずPC(ポリティカル・コレクトネス)的にこの作品は推せません。はっきり言って、この戯曲に出てくる人たちはポリアモリーであるというより、それ以前に、ただの恋愛中毒ですよね。四六時中、恋愛のことしか考えてないように見える……。もちろん仕事もしてるんだろうし、あくまで部分を切り取ってフィクションにしてるのは当然わかるんですけど、でも彼らの思考や行動があまりに恋愛をめぐるものに寄り過ぎていて。しかも語り口(文体)のカッコつけ方は相当キツかったですね……。登場人物たちは自己陶酔が激し過ぎるように見えます。それが全体的にいけ好かない雰囲気を醸し出してしまっている。これではポリアモリーの、僕からするとごくごく「普通」の日常生活を送っている人たちへの偏見を助長してしまうように感じました。
タイトルの『THE GAME OF POLYAMORY LIFE』も、「ゲーム」だって明言してるわけで、やっぱりポリアモリーに対する揶揄のように捉えられかねない。本人が意図して揶揄的に書いているのか、それともこのようにしか書けないのかわからないですけど。いずれにしても、PC的にも劇作の力量としても推せないです。
徳永 ほとんど同意見です。私は上演を観ていて、その時も思ったし、読んでも思ったんですけど、これを観たらポリアモリーの人は怒るんじゃないですか。こんなものじゃないよって。私はポリアモリーじゃないから、その人たちの怒りを本当に代弁できるかわからないですけど、だってこれ、ごく一般的な恋愛の話ですよね、三角関係にしろ、嫉妬にしろ、経済的な問題にしろ。
例えば、ポリアモリーというライフスタイルを選ぶことへの逡巡や、周囲にどう理解してもらうか、あるいは隠すか。パートナー間の関係性の変化をどう乗り越えるかといった、ポリアモリーならではの思考や実感が、まったく深められていない。すべてが表面的で、ポリアモリーが話題づくりのネタにさえ感じられます。
「いや、ポリアモリーは特別ではない、一般的な恋愛と同じだからこう描いた」と劇作家が思っているとしても、この程度の恋愛関係なら、わざわざ新たに演劇にする必要はないでしょう。
しかも最初のト書きに「これは二〇一六年の豊かな国の話だ」と始まる、物語の設定の説明がありますよね。極めて現在の日本に近い国の状況が、それなりの文字数を費やしてこまかく書かれていますが、これが戯曲の中に落とし込まれていない。テロやオリンピックという単語も出てきますけど、それらと結び付く緊張感を引き受けてこの話を書いているとは思えませんでした。劇作家の「自分は社会情勢にコンシャスです」というアピールに感じてしまって……。なぜこれが最終ノミネートに残ったのか、今年、最も疑問な作品でした。
林慎一郎『PORTAL』
撮影:井上嘉和
藤原 「イングレス」というバーチャルな陣地取りゲームアプリにおそらくインスパイアされたもので、各地に開く「穴」の解釈をめぐって「緑」対「青」で戦っている。それが基本的な舞台設定ですね。そして戯曲には俳優の配置図などがまるで記号のように描かれていますが、「舞台レイアウト図は演出・松本雄吉氏によるもの」という注がついています。実際の上演を観てないので、かなり頑張って、舞台でどのようなことが行われうるのかを読み解かなきゃいけない。まあそれは戯曲の醍醐味のひとつではあるんですけど。
ただこの戯曲、見た目は斬新に見えるものの、中身を読んでて、その退廃的な世界観や雰囲気しか伝わってこなかった。それが自分の読みの浅さなのか、この戯曲自体の問題なのか、かなり慎重を要するなと思いながら読んだわけですけど。どうもこれはスキゾフレニック(分裂症)な饒舌に依存しているように僕には感じられるんですよね。躁状態で書かれたような。例えばもうかなり終盤である61ページの、「トイレは洋式」の後に「すわりしょうべん!」って書いてありますが、果たしてこれ意味あるの?みたいな、そういう言葉が多い。躁状態の土壌ってある意味そこに何でも乗せられちゃうけど、ひとつひとつの言葉がここに載っている必然性をどうしても感じられなかった。もちろん遊びはあってもいいんですけど。
徳永 問題は、大きく言ってふたつあると思いました。
ひとつは、いくつも差し込まれた図。おそらく松本さんによる舞台レイアウト図で、そこには、舞台上にある2枚のパネルに何が映されるか、人物の配置がどうかといったことが書いてあるんですけれども、それを戯曲と捉えるか設計図と見るか。
私は戯曲の一部として見ようと決めたんですね、別紙ではなく、せりふやト書きの間に書かれていたし、ボリュームも同じくらいでしたから。でも戯曲として考えると、せりふやト書きとの有機的なつながりがほしいんですが、それが見つけられなくて。
それで評価を、文字から読み取れる部分で判断することにしたんですけど、もうひとつの問題がそれで、テキストの深度が浅くて細切れなんです。何かありそうな単語やシーンが次々へと提示されても、同じ登場人物が出てくるのに話が深まらない。別の場所へと飛んでも世界が広がらない。
16ページ、軍用機なのか飛行機が爆音で飛び、夜まで窓を開けることができない町に住む男が苛立って、外に向かって「お前ら、この街と一緒に向かって腐っちまえ」と叫ぶエピソード(*「町」と「街」の表記は戯曲の通り)がありますよね。使われている単語はどれもヒリヒリしているんですが、悪い意味でコマーシャルや歌詞のように軽い。彼の苛立ちの背景や町の荒廃の理由を、そこから察することはできるんですけど、それは書かれていることに既視感があるからで、使い古されたイメージしか持てない。そうした単語の組み合わせで、重力のある展開や新しい景色を見せてくれたらと思いました。
平塚直隆『ここはカナダじゃない』
藤原 カナダに旅行したはずの日本人男性ふたり。ひとりは海外旅行が初めてで、もう1人は過去に韓国に1回だけ行ったことがある。要するに海外に不慣れである。で、ドキドキしながら名古屋から成田経由で14時間かけてカナダに行ったはずが、あれ、どうもここはカナダじゃない……。実は名古屋に戻ってしまっている。それを認めたくないがために「ここはカナダだ!」と言い張ろうと奮闘する話ですね。
僕はけっこうおもしろく読んだんですけど、大きな問題点がふたつありました。ひとつは、まあ早々にネタバレするわけじゃないですか。実はここは名古屋である、ってわかってからが、失速しちゃったなあと……。もっとおもしろく書けるんじゃないですかね。でもそれが名古屋の観光地とか、喫茶のモーニングとか、ひつまぶしとか、味噌煮込みうどんとか、表層的に名古屋っぽい名前だけ並べて終わるので、もったいないなあと。
もうひとつの問題は、ナショナリズム、愛国心の話が出てくるんですよね。21ページあたりで、タクシー運転手が「日本人の誇り」になぜかすごくこだわってるんですけど、旅行会社の人が「愛国心なんて偶然の産物に過ぎないですよ。結局環境ですね」って言う。でもこの言い方だと、愛国心やっぱ大事!って考えている人に対しての説得力が大きく欠けるんじゃないでしょうか。この後に何か展開やフォローがあるならいいんですけど、靖国神社って名前もポロッと出てきたりして、脇が甘い感じがする。もちろん靖国の話しちゃいけないとかでは全然ない。そんなのはセンサーシップ、自己検閲ですから。でもセンシティブな問題に対して、書くならもっとしっかり鮮やかに書いていただきたいなと。
徳永 最初、ワクワクして読み始めたんですね。こっちの勝手な期待ですけれども、これは滅多にお目にかかれない“陽性の不条理劇”かも、と思って……。
藤原 え、別役実さん!? みたいな感じですよね、冒頭は。
徳永 そうそう! でも、わりと早々にその期待は削がれてしまいました。
もともとハードルの高い設定ですよね、カナダに行く飛行機に乗ったはずなのに名古屋空港に着いて、名古屋であることを認めない時間をいかに引き伸ばすか、という話ですから。
そういう場合、私は大胆な嘘をつくほうが得策だと思うんです。大胆な嘘をつくと、劇の器が大きくなる。そうすると細かい瑕疵(かし)が目立たず、ナンセンスや不条理劇になる。だけどこの話は早い段階で、小ネタで笑いを取るコメディに舵を切った。名古屋だってことを言わないために、金のシャチホコを「お城の屋根には、金でできた伝説の魚が飾られていて」と説明するとか、ローカルネタをフィーチャーする方向ですね。
コメディよりナンセンスや不条理劇が上等と言いたいわけではないんです。ただ、戯曲賞を前提として考えたら、後者のほうが評価されるだろうし、何よりこの話は「今、私たちはどこにいるのか?」「私がいるのは、本当に自分が思っている場所なのか?」という、とても魅力的で哲学的なテーマに触れているんですよ。それを考えると、なんとももったいない。もうちょっと踏ん張ってほしかったなと。
かつて同じ目に遭った女性が出て来て、ずっと住んでいた場所なのに飛行機に乗って戻ってみたら、以前とは風景の見え方が違うと言って男性ふたりを励ますエピソードも、それなりの落とし方ではあるんですけど、小さいんですよね。一本勝ちじゃなく、有効。
藤原 「部屋がすげー散らかってる」とか、ちょっとした気付きは描かれてるんだけど。
徳永 平塚さんはとても真面目な方なんでしょうね。
山縣太一『ドッグマンノーライフ』
撮影:高木一機
徳永 ある夫婦がいて、はっきりとは語られないけれども、おそらく夫がリストラによって鬱病的な状態になり、家から出られなくなってしまった。しかも、まるで四足のように手にも靴下を履くようになってしまった。妻は夫に代わって生活費を稼ぐべく近所のスーパーにパートに出て、若い男性の同僚にちょっかいを出されたり、女性の同僚に嫉妬されたりしつつ、日々を過ごしていく。夫から見ると、自分が家に閉じこもってからの方が妻が生き生きしてきた……という話です。
藤原 この駄洒落的なものを多用する山縣太一さんの言語センス、とても気になるんですけど、ではここからどんなイメージを立ち上げて何を読み取ればいいのかが、ちょっとまだ掴めなくて。もしかしたら、小説の世界に舞城王太郎が出て来た時もこういう感じで受け取られたのかもしれないな、とはちょっと思いました。つまり何か捨て置けないものがあるんだけど、文壇が彼の文体に追いつけてない、みたいな。まあわかりません。山縣さんのこういう語り口が表層的な言葉遊びで終わるのか、もっと深みに行く作家になるのかは、現時点では自分には判断できないです。チェルフィッチュの看板俳優として活躍してきた彼が、ある種こうして独立して、何を成していくのかは注目したいですけど。
徳永 駄洒落の部分については、上演を観ていた時も、もちろんそれが客席に爆笑を生むことはなく(笑)、まずは戸惑いと、少し慣れてきて失笑、みたいな感じだったんですけど。戯曲を読んで思ったのは、せりふがスムーズに語られることが良しとされる一般的な風潮に対しての「ちょっと待ってくださいよ」なのかもしれないということでした。あえて、お客さんが聞くスピードを落とす、ノッキングを起こさせて、簡単に物語に入らせない効果を狙ってるのかなと。
藤原 なるほど。それを聞くと少し狙いがわかるような気もします。
徳永 でも、私のその想像が当たっているとして、その効果の先に何があるのかはわからないです。
藤原 一方でこの言葉遊びが照れ隠しとして機能してしまう恐れもありますよね? 表層的な遊戯に向かった結果、何を伝えたいのかがどんどん後ろに隠れて行ってしまうという。言いたいことが表に出なきゃいけないとは全然思わないけど、観客に対して何をしたいか、伝えたいかを、僕はこの戯曲からは読み取れなかった。上演のイメージもあまり立体的に見えてこなくて。
徳永 上演のほうが、つまり演出があった時は感じなかったんですが、戯曲は私も平面に感じたんです。と言うか、平面がやりたかったのかな、とさえ思いました。
例えば9ページのト書きで「男3、男4、女4の話の途中で密着しながら登場。同じ風貌の二人。舞台奥に同じ姿勢で並んで立つ。立った状態で四つん這いの格好をする。」というト書きを読んで私がイメージしたのは、スーパーの入口で、よく犬が繋がれてご主人様を待っているじゃないですか、あの光景を上から見たところなんです。それが頭の中に浮かんだ瞬間、小さなスーパーと小さなマンションに場所が限定されて「あ、平たくて小さい」と思ってしまった。
5ページで女1が「夫のことを主人と呼ぶなんて、飼われているわけでもないのに」と言いますから、この作品の「主人」という言葉には「夫」と「飼い主」のふたつの意味が掛けられているのは明白ですけど、逆に言うと、夫が引きこもっているケージのようなマンションの一室で、一家の稼ぎ手=ご主人様になった妻を待つという、主従の逆転はあるけれど、他の登場人物のエピソードも含め、それ以上は広がらなかったんですね。
*
藤原 ではここからは、どちらかが票を入れた4作品について論じていきましょう。
上田誠『来てけつかるべき新世界』
藤原 大阪に実際に存在する、通天閣や串カツや将棋で有名な「新世界」というエリアと、未来のロボットや人工知能が人間の生活を支えつつその仕事をどんどん奪っていくという、一種のディストピアとしての「新世界」とのダブルミーニングになっている。僕はかなり楽しく読みました。連続ドラマのように5話まであって、それぞれのエピソードが短編の様相を呈しているわけですね。
徳永 構成がうまいですよね。「2度漬け禁止の串揚げ屋」が主な舞台で、1話ごとに少しずつ時間が経過して、SF度合いもそれに伴って深まっていく。最初は食べログとドローン程度だったのが、ライフログとクラウド上のデータといったふうに。
藤原 で、この作品はかなりエンタメ色が強いわけですけど、一方で岸田賞がよく喩えられるのが、「演劇界の芥川賞」というキャッチコピーで……。
徳永 この戯曲は直木賞という感じですよね。
藤原 ええ、まさに。でも「エンタメお断り」の看板が掲げられてるわけではないので、この作品に対して今回の岸田賞がどういう判断を下すかは興味深いところです。少なくとも「エンタメだから駄目です」とは言えないはずだから。なので僕は、トリプルもあるなら上田さんも受賞するということで票を入れました。
とはいえ僕はこの作品に対して、ただウェルメイドなエンタメ、って判断を下しているわけではないです。いくつか印象的なシーンがあって。例えば飛田新地という遊郭に通って贔屓の娘に貢いでいるおじさんがいるんだけど、実はもうそこは空き地になっていて、入口で気絶させられてバーチャル世界に繋がれて、実際はやり手婆にお相手されていたというエピソードとか、かなりシュールな絵が浮かびますよね。で、しかも単に騙されたという話で終わるのでもなく、バーチャルな娼婦が実際に人格を持ち、現実に介入してくる……。そういう話は荒唐無稽のようだけど、案外もうすぐあるかもなって時代に僕らはもう生きているんだと気付かされます。そういう説得力がある。その一方で、「ソースの二度漬け禁止!」みたいなコテコテの大阪あるあるネタもあったりして、見ている世界の射程が広いなあと。あの界隈は好きでよく泊まるし呑みにもいくんですけど、なんならこの串カツ屋見覚えあるわ、ってくらいのリアリティもある(笑)。ほんと、連続ドラマになったらおもしろいんじゃないかなあ……。
徳永 ずいぶん昔ですけど、『2丁目3番地』とか『ありがとう』とか、小さな商店街のお店を舞台にしたドラマが、日本のテレビドラマの黎明期にあって、上田さんがそれをご存知かはわかりませんが、そういうご近所もののホームドラマにSFをインストールするのがこの戯曲の狙いだと思うんですね。
上田さんは今回の候補の中で1番キャリアが長い方ですが、やはり手練れだと思うのは、エンタメでありながら哲学的な問いをうまく折り込んでいるところ。自分のライフログをコピペしたもうひとりの私、いわゆる「二重存在」の問題を、つくってしまった以上ご飯を食べさせて養わなきゃいけないという生活感のある問題と、そのコピー人間と自分はどこまで同じでどこから違うのかという人間の本質論、倫理の問題を、ほとんど同時に提示している。ただのドタバタSF町内喜劇ではなく、非常に余韻と言うか、残響が残ります。上演時に非常に良い評判を聞きましたが、むべなるかな、と思いましたね。
藤原 第2話の終わりで、ロボットのパトローが1回壊されるんだけど、データだけ抜き取ってあって、それを同じ形の新しいロボットに移植するシーンがあるじゃないですか。そこのト書きに「ワカマツ、いいのかな……となりつつも、なんとなく新しいパトローを抱きしめる。古いパトローに、ちょっと気を遣いながら」とか「音楽。やんやと盛り上がっている一同の傍らで、古いパトローがぽつねんと。溶暗していく。」とある。くどくどと哲学的な議論を展開するのとは別のやり方で、観客に問いを投げかけているんですよね。
徳永 回を追うごとに、テクノロジーも倫理的な問題もディープになっていくのを、大阪のコッテコテのおじさんおばさんたちが受け入れていくじゃないですか。その受け入れ方が、ズルズルなんですよね。何も考えていないわけではない、でも、自分たちが納得できる答えを出すまでのスピードよりも、技術が発達して世の中が変わっていくスピードのほうが上回っていて、その結果がズルズル。そこがリアルだと思いました。私たちはもう、このおじさんおばさんたちになっていますよね。
藤原 最初は食べログの点数を気にしたりドローンが飛んだりしている程度だったのが、いつの間にか人工知能が発達していって、バーチャルな存在が実態を持つようになって……。そういう意味でも、5話構成でだんだん時間が進んでいくことにも説得力がありますよね。
徳永 そう思いました。さっきの芥川賞、直木賞のことで言うと、「シアターガイド」3月号で白水社の和久田賴男さんに取材させていただい時、かつて井上ひさしさんが「岸田は芥川賞でもあるけど、直木賞でもある賞にしたい」と仰ったと。それは井上さんご自身が直木賞受賞作家だからというのもあるんでしょうけど、白水社的には、岸田賞が直木賞的であってもなんら矛盾はないと思います。
長田育恵『SOETSU -韓くにの白き太陽-』
写真提供:劇団民藝
徳永 思想家・美術評論家の柳宗悦が、朝鮮の文化の保存に捧げた時間を中心に書かれた戯曲ですよね。
藤原 1915〜31年のその日帝時代の朝鮮での葛藤と、1940年の、沖縄の方言保存運動を撤回せよと軍人に迫られているシチュエーション。大きく分けるとその2つの時間軸を行き来します。
こういういわゆる評伝的な演劇は、正直、そんなに好きじゃないんですよ僕は。もちろんその人生を後世に伝える意義は認めるけれども、演劇の自由度は狭まるんじゃないかと。でもこの戯曲を読んだ時に、まず丁寧に調べて書いていることがわかる。例えば18ページに宗悦の子どもたちの誕生年について、「実際は☓☓年生まれ」ってちゃんとト書きに記してあるんですよね。誠実な態度だと思います。
モノに語らせているのもいい。花瓶を変えてくれ、と女将に頼むシーンは柳宗悦の民藝運動の思想の核に触れるエピソードですが、もっとさらりとしたところ。27ページ、妻の兼子が宗悦としばらくやりあった後に、「上野でカルピス買ってきますね」とさりげなく言う。白いカルピス、という視覚イメージを導入することで、言葉ではないものによって多くを語っていると思うんですね。
あとこの戯曲は、日韓の歴史という、第一級に難しい問題に取り組んでいるわけですが、その鍵となる女将の人物造形が素晴らしい。
徳永 最終的に宗悦を裏切る人ですね。
藤原 そう、裏切るといえばそうなんだけど、彼女は朝鮮人で、日帝時代の日本軍に殺されそうになって、でもそこで助けてくれた日本人と結婚したという経緯があり、日本に対して非常に複雑な感情を抱いている。宗悦の思想に対してもかなり微妙な距離感ですよね。で、最後に女将は宗悦を批判する。それは彼女の本音でもあるけれど、同時に、自分が悪者になって娘とその恋人の命を救うためにわざと言っていることでもある。ひとしきり思いの丈を喋った後で、彼女は去り際に振り返り、「宗悦に鮮やかな笑顔を見せる」んです。そういう黒にも白にも落とし込むことのできない人物を、単に中途半端なグレーではなくて、かなり鮮やかな存在として描いてみせた。実はこの戯曲は宗悦より以上に、この明珠という女将を描いた物語かもしれないとさえ思いました。周囲の登場人物が宗悦を引き立たせるためだけに描かれていたとしたら僕は全くノーサンキューですけど、この戯曲はそうではない。
この女将・明珠は、「朝鮮には我々日本人の失ったものがきっとある」という宗悦のドリームを崩していくわけですが、若い朝鮮人たちのドリームに対しても距離をとっている。40ページですけど、若者たちが「廃墟」という雑誌を発刊することに対して、「いっそ、京城が、ほんとの廃墟になっちまったら楽なんでしょうが。でも私らはしぶといですから。どんなに街が壊されても、私らは暮らしていきますからね。廃墟になんかなりっこないんです」と言う。僕はこのせりふをとても大事なものとして受け止めました。こうした名も無き人々の「しぶとさ」によって連綿と続いていくのが歴史であり人間の営みである。そういう考えがこの作品の根っこを貫いているように感じたんですね。
徳永 これまで何作か長田さんの作品を観たり、脚本を読ませていただいたりして、良い作品ももちろんあったんですけど、いつも感じていた欠点が「書き過ぎる」ということでした。
評伝劇や史実を扱う劇作家が陥りやすいのが、調べたことや取材でわかったことをそのまま投入することで、でも長田さんは、取材の中で触れたことによってイマジネーションが広がっていくタイプなので、学術書のような表現にはならないんだけれども、それでも全体が重いことが間々あった。
でもこの『SOETSU』は、良い意味で書いていない。切れ味がいい。たぶん、2年ぐらい前の長田さんだったら、同じ内容を書くのにこれより原稿用紙20枚近く多かったんじゃないかな。といった感慨もあって評価は高いです。
でも私が受賞を予想している瀬戸山さんがやはり評伝劇で、長田さんとのダブル受賞はないと思うので、選外とさせていただきます。
藤原 ええ。そこはきっとどちらか1つでしょうね。
徳永 質は高いと思いつつこの作品を推さなかったのにはいくつか理由があって、まず、南宮壁という朝鮮人の弟子がいるじゃないですか。彼が、宗悦が朝鮮民族博物館を総督府の施設の中に作ると知った時に、「先生も結局は日本人だったというわけですか」と言い捨てて、あっさり去るところです。宗悦が「どこに建てるかではなく、肝心なのは、集めた朝鮮の民具を、この先の世まで守っていくことだ」と言っても、自分には納得できないからと。それまでに長く宗悦と苦楽を共にして、日本と朝鮮の間で、ある時は煮え湯を飲み、ある時は憎まれ役にもなって、柔軟に問題に対峙してきたと思うんですよ、彼は。もちろんその間に宗悦の人柄や思想、哲学、美学に触れ、慕ってついて来た。そういう人にしては、あまりにもあっさりだなと。劇作家がちょっと手を緩めてしまったなと感じてしまいました。
藤原 僕もそこは引っかかったところなんですよ。でも1回そうなる前にやり取りがあるんですよね、宗悦と南宮壁との間には。48ページかな。「総督府の力を借りるのですか?」と、ここで南宮はかなり強く宗悦に抵抗している。「それでは芸術ではなくなります。政治としての飾りだ」とまで言っていますよね。もちろんその描写で充分なのかっていう問題はあるんですけど。
徳永 そこを長く書けばいいのかっていうことでもないですしね。
藤原 ええ。あと文化的風土として、韓国ではパスンといく時はパスンとはっきり自分の意見を言うし、あくまで相対的な話としてですが、日本人に比べると自分の感情を強く出すところはあると思って。それで僕的にはこのシーンはアリ、と判断しました。
徳永 あと1点、これも大きな瑕疵とは言いませんが、62ページに女将の娘の栄美に子どもが出来たという話が出てくるじゃないですか。未来の象徴である新しい命を登場させたいのはわかりますけど、あまりにいいタイミングで「あの人の子よ」という話が出て来ると、ご都合主義的な印象が生まれてしまうし、それが全体の印象に影響してしまいます。
瀬戸山美咲『埒もなく汚れなく』
徳永 大竹野正典さんという、ずっと大阪で活動されていて、2009年に48歳の若さで亡くなった劇作家の方の評伝劇です。劇中に絹川蘭子というプロデューサーが登場しますけど、あれは実在するオフィスコットーネのプロデューサーである綿貫凛さんをモデルにしていて──名前がもじりですよね(笑)──、その綿貫さんが、大竹野さんはもっと評価されるべきだという思いから、瀬戸山さんに評伝演劇を書いてほしいと依頼して、この企画が実現したようです。
瀬戸山さんの作品は2、3作観ていて、代表作の『彼らの敵』はすごく良いと思いましたけど、それ以外は正直、ごく普通の芝居という印象でした。
でもこの戯曲を読んでびっくりしたんです。とにかくト書きが巧い。実際には観られなかったんですけど、読んで興奮しました。この話は時間や場所が頻繁に行き来しますけど、よほどダメな演出家でない限り、1回も暗転しないで上演できますよね。前のシーンのイメージの残し方、次のシーンのイメージのつなげ方が、さり気なく確固としている。
一例として12ページ、映画マニアで映画監督になることしか頭にない大学生の大竹野が、初めて演劇に衝撃を受けるシーン。芝居を観に行こうと誘われても「俺、映画撮りたくて死にそうや」「こんなとこに劇場あるんか」とゴネる大竹野に、一緒に歩いていた友人が「劇場ちゃう、天王寺公園でやるんや」、続けて「あ! あれや。あの赤いテントや」と言う。そして次に1行、短いト書きで「空間が真っ赤に染まる」。これでもう、大竹野が運命的に演劇と出合ったとわかる。そして次のページに出てくるのが、別役実の同名タイトルの戯曲から着想を得て書いたという大竹野の『マッチ売りの少女』の話で、赤いイメージがつながります。
藤原 ああ、わかります、繋ぎがシームレスですよね。
徳永 これはすごい力量とセンスです。しかも全編に力んだ様子がない。
あと、大竹野さんの妻である小寿枝さんの描き方もいいと思いました。彼女もそうですし、ご友人とか、大竹野さんの不倫相手とか、まだ生きてらっしゃる方がたくさんいるので、もしかしたら瀬戸山さんの中には、遠慮して書き切れなかったことがあったかもしれない。でもむしろ、抑えた言葉が小寿枝さんの造形をつくったというか……。ベタにお尻を叩いているように見えて、どんなに好きでも尽くしても、才能はそれとは別のところにあることを知っている知的な人ですよ、小寿枝さんは。彼女の言葉は、人と人は分かり合えないという虚しさを内包している。大竹野さんとの会話は、その虚しさを巡る非常にスリリングな駆け引きです。
小寿枝さんがただの奥さん兼制作ではないと、はっきり描かれているのは41ページです。大竹野さんは海で行方不明になるわけですが、それから日が経った時、小寿枝さんが夜いきなりひとりで外に行こうとして、知り合い2人がそれに気づいて止めるシーンがありますよね。そこで崩れ落ちた小寿枝さんが「海が見たいのだ」と言う。「海を見に行きたいんや」とか「大竹野くんに会いたいねん」じゃなくて。そこで私は頭の中に石を投げ込まれたような感じがしたんです。口語では言わないゴリゴリした男言葉がいきなり出てくる。それは大竹野さんと小寿枝さんが同期した瞬間ではないかって。そのあと夜の海に向かって「おーーーーーーーーーーーーーい……おおたけのくーん……」と呼ぶシーンが圧倒的に生きてくるし、その時の小寿枝さんは妻でなく恋人だと思いました。夜の海に向かって死んだ人の名前を呼ぶという極めてクサいシーンが、鳥肌が立つぐらい浮き上がったなと。実はそこで泣いてしまったんですよね、私。
藤原 実は僕は、さっきの徳永さんの判断と逆で、長田さんと瀬戸山さんとでかなり迷って、長田さんを選んだんです。だから僕もこの『埒もなく汚れなく』はかなりいい戯曲だと考えています。例えば、53ページ、小寿枝さんが悩むじゃないですか。自分の存在意義は、単に作家が孤独を感じるためのものだったんじゃないかと。そこで広瀬という友人が、「孤独を感じるために、人は人と長く一緒におったりせん」って小寿枝さんに言う。これも下手するとクサいせりふですよね。でもクサさを感じさせないだけの筆致が、そこまでの流れの中に生きていた。。
徳永 たぶんそれは、他で決めぜりふを我慢しているから、クサさを感じないんですよ。品性ですよ。決めぜりふをやたらと書かないのは。すごく大事なことだと思う、劇作家にとって。
藤原 そうですね。ただ僕が最終的に長田さんのほうを予想として選んだのは、瀬戸山さんのこの作品は、プロデューサーが瀬戸山さんに話を持ち込んだ経緯も含めて、やっぱりこの大竹野正典という演劇人の存在を知って欲しいという動機が作品の根底にありますよね。だから終盤、引用が出てくるじゃないですか、大竹野さんの文章の。もちろん別にそれは、岸田賞を狙って書いたわけじゃないだろうから全然いいし、瀬戸山さんはオファーに対してすごく良い仕事をしてると思うんですね。この引用はオマージュのあらわれですから。ただ引用が最後の見せ場になるというのは、戯曲賞として見た時にはどうか。さあどっちだ、ってなると、僕は長田さんの方を選んだと。
徳永 ああ、まさに私は「こんなにいろいろ大竹野さんのことを書かれたら、戯曲が読みたくなるよ」と思ったタイミングで引用が来たんですよねー、術中にハマってますねー(笑)。
長田さんと瀬戸山さんの両方に感じたのが、評伝劇ではあるけれども、芯に劇作家自身が自問せざるを得ないテーマが置かれていることですよね。『SOETSU』だったら、美は世界を救うのかとか、書くというのはどういうことかとか。『埒もなく汚れなく』では、人に認められるとはどういうことか、あるいは、好きなことを続けていく時に何を守るのかといった。それは単語を置き換えれば、多くの人にとっても自分の問題として考えられますよね。
市原佐都子『毛美子不毛話』
徳永 本皮のパンプスに憧れを抱いている、合皮しか履いたことのない若いOLが、本皮のパンプスが売っているらしいという噂を聞いては路地裏を彷徨うことを繰り返し、もしかしたらそれは勤務中に見ている白日夢か、自宅に戻って見ている本当の夢かもしれないんだけれども、とにかくその先々で出会う自己主張の強い人に、心理的にも物理的にもプレッシャーをかけられる話です。
藤原 体毛の濃い「もう一人の私」や、ひそかに巨根であることにすがって生きている会社の先輩、その巨根が胸に移動し腹話術を操るおじさん、謎の中国人歌手マオ・メイジーの怪しい代理人など様々な人物が登場しますね。しかし冒頭のト書きに「出演者は二人。「私」は俳優A、それ以外の役は俳優Bが演じる。」とはっきり書かれているので、途中で出会う彼らは基本的には1人の俳優が演じるわけですね。この戯曲、徳永さんが◯で、僕が◎ということで、かなり高評価ということになりますが……。うーん。これがまた今まで語ってきた他の作品とはだいぶ毛色が違って、比較評価するのが難しいところです。
あらためて戯曲を読んでみて、おもしろかったんですよねえ……。僕自身が現代演劇に期待しているものがここにあるようにも感じます。まず今回の候補作の中でいちばん得体が知れなかった。例えば、この物語の舞台となっている「路地裏」とは何なのか? 冒頭のト書きでは「子供がするおままごとや殺し合いごっこのように、実際の出来事がゆがんで変形している」場所だと指定されていますが、これは演劇的な虚構の場であるという宣言でもあり、と同時に、不穏なもの、まがまがしいものを呼び起こす言葉でもあって、そのあとに紡がれていく内容ともリンクしていると思います。
それから、何度か繰り返される「踊り」というのは、踊らされているのか、みずから踊っているのか。「私」は、自分のドッペルゲンガー的な存在であるらしい「もう一人の私」の肉を喰らえば「最強の私」になれる、という噂を聞きながらも、結局はそれを食べない、という選択をするわけですよね。そこに人間の生き方が見える。つまり社会的に支配されて踊らされている状況(合皮のパンプス)は認識しているけど、その対極に個人の解放された自由(最強の私、本皮のパンプス)を置くのではなく、このひどい現実を引き受けて生きていくという意志を、ひとまずこの戯曲から読み取ることは可能だと思います。ただ、そういうスッと読み取れるような構造的分析からは、むしろ自分が「得体が知れない」と感じているものがこぼれ落ちていくような気もするんですよね。例えば「私」は、「食べないという選択をした」のではなく、「食べるという選択をしなかった」とも言える。そういう弱さを捨てていない。だからラストシーンは、人間のたくましさと弱さとを内包したアンビバレンツなものに見えるんです。
徳永 選択の問題はよくわかります。……いや、藤原さんの話の趣旨と合っているかわかりませんけど(笑)、この話に出てくる「私」以外の人物は、全員がかなり強烈な性のメタファーで、「私」は常にその人物との関係では弱者、虐げられる者ですよね。でもそれは「私」の運が悪いのではなくて、「私」がそうなることを選んでいるんだと途中から感じました。
一般的には、マゾヒストがサディストに奉仕すると位置付けられがちですけど、本当の本当は逆ですよね。マゾヒストの喜びのためにサディストは声を荒げたり、罵る言葉を考えたり、叩いたり蹴ったりしてエネルギーを使うわけで、実はサディストがマゾヒストに奉仕している。「私」は虐げられることを自ら選んでいて、その状態は「私」が合皮のパンプスを履いている限りは続くんですよね。冴えないOLの象徴が合皮だから。蔑まれる身分証明のための合皮。
そのあたりの「私」のアンビバレンツさは、非常に巧みに描かれていると思いました。
藤原 あるいは、「カチコンおじさん」という登場人物。27ページあたりで、このおじさんが腹話術のように女の頭部の形をした人形を操りながら、「猫ちゃーん」と猫なで声を発しつつ、みずからの人生について反省するわけですよね。自分は巨根のせいでろくに努力もせず、お金もなく、こんなになってしまったから、猫も呼べず、寒さを暖めてやることもできなくてごめんな、って泣き始めるんだけど、そこで人形が「いいのよ……」って慰める。グッとくるシーンなんだけど、かといっていわゆる人情のお涙頂戴みたいな浅いものではない気がしていて。というのも冷静に考えたら、この腹話術のおじさんがひとりで泣いて自分で慰めているにすぎないわけですね。なのに、なぜかセルフィッシュに感じない。それはここに、我々、つまり読者や観客にとっての「他者」が生きているからだと思うんですね。だからこの戯曲は、なぜ人間が他人と生きていこうとするのか、そういう根源的な問いに触れていると僕は感じています。
徳永 私は単純に、次のせりふが楽しみになるせりふが続いていく快感がありました。モノローグの長い芝居は最近増えていますが、この作品は上演を観ていてもそうだったし、戯曲を読んでいてもワクワクしましたね。
強烈な単語や言い回しがよく出てきますけど、次の行がそれに負けない。でまた次の行に行っても、フレーズや切り取り方のおもしろさがさらに大きくなっていく。……「先輩」や「私2」の言っていることはめちゃくちゃで突っ込みどころ満載なんですけど、それよりもおもしろさの方が勝ってしまう。戯曲の読み手として、純粋な衝動をいちばん刺激されたのはこれです。
藤原 確かにぐいぐい引っ張ってくれる言葉の魅力があるんだけど、躁状態でバーッと書きなぐったわけでは全然ないと思うんですね。さっきも言いましたけど、躁状態の土壌には何でも乗せられちゃうわけですけど、これはそうではない。
徳永 ええ、冷静だと思うのは、「私」と「私2」が会話していているけど、「私2」は「私」とは別人格なんですよね。12ページに、永久脱毛に行った「私」と分裂して、行かなかった「私2」が生まれたとあるので、確かに「もうひとりの私」ではあるんですけど、「私2」には自由で大胆な人生があって、突き放した「私」との関係性がそこにはあるな。
藤原 そもそも「私」にしても、よくあるのは、どこかしら劇作家自身を投影することになりがちじゃないですか。他人のこと書いているはずなのに私自身のことしか書いてないっていう劇作もたくさんあるわけですけど。でも、この作品は「私」をかなり突き放して観察していると思う。だから登場人物が生きた言葉を持っているし、それを2人の俳優が演じることでまた別の「他者」が入ってくる。どんな俳優がどう演じるかでもまたさらに世界が広がっていくという余地が、この戯曲には大きくあるんじゃないですかね。
徳永 最初に「出演者は二人」とありますが、役の数だけ俳優が出てもいいと思います。
藤原 やろうとすればこのト書きのインストラクション(指示)を裏切る手もあるわけですからね。ただこの作品の場合、同じ俳優が様々な役を演じることで一本の連続性が見えるというのも大事だとは思います。
徳永 「私」と誰かの会話っていう構造でずっと話が進んで行くと、相手が変わる度に「私」が変わってしまう無責任な戯曲もあると思うんです。でもこの『毛美子不毛話』に描かれている「私」の背負わされている十字架はずっと重い。
最初に「私」はあえて虐げられる立場を選んでいると言いましたけど、そこには快感と同じくらいの罪悪感があり、それで率先して罰を受けているとも受け取れる。そしてその罪悪感は、多くの人が身に覚えのある無意識的なものではないかと感じさせる。ふざけた内容だと受け取られがちですけど、やっぱり浮かれて書いてはいないですよね。
弱者の立場を捨てて本皮のパンプスを履いたところで、その十字架は消えない。でも本皮のパンプスを求め、手に入れる手前で罪悪感の甘さに痺れて合皮を履き続ける……、深いですね。
▼最終予想
藤原 さて、最終予想を出したいんですけど、うーん、瀬戸山さんと長田さんのどっちをとるか、は議論が噛み合うんですけど、市原さんはどうも噛み合ないんですよね……。
徳永 そうですね、系統がまったく違うので。
藤原 いったいどういうふうに選考会の議論が展開されるか読みきれないんですけど、僕はやっぱり、市原佐都子&長田育恵のダブル受賞一点張りにします。上田誠さんも強く否定する要素が見当たらないとはいえ、もうひと踏み込み、得体の知れないものを見たいということで……。
徳永 私は瀬戸山美咲さんの単独受賞。次の可能性として、瀬戸山美咲&市原佐都子のダブル受賞。3番目の可能性で、瀬戸山美咲&上田誠のダブル受賞かな。
藤原 瀬戸山さんを、単独受賞もあるとして、より優位に置かれる理由は?
徳永 ……あのー、これはすごくうがった見方なんですけど、最初に言ったように、今回、社会派とエンタメ派が複数入っているのは、エッジーな市原さんを際立たせる効果があるなと。
藤原 白水社の陰謀?(笑)
徳永 と考えたりしたんですよ(笑)、ノミネートが例年と違う理由をあれこれ考えるうちに。でも全部を読んでみたら、瀬戸山さんの巧さに驚いた。単に社会派と言えない仕掛けがあった。それは審査員のみなさんの心もくすぐるんじゃないかと考えを改めたんです。社会派の受賞がずっとなかった中で新鮮に映るのではないかと。
これは市原さんを否定するのでは全然ないんですけれども、市原さん的なおもしろさは、この数年、ある意味スタンダードになっていた気もするんですよ。市原さんは突出した個性を持っていらっしゃるけれども、勢いとスピードとインパクトが「若い文体」で片付けられる可能性もあるかもしれない。一方、瀬戸山さんは真面目さと巧さ、そしてある種の隙がある。
藤原 隙があるっていうのは、詰め詰めじゃない、って意味ですか?
徳永 はい、良い意味での抜け感があるということです。
藤原 そういう意味では、僕は瀬戸山さんや長田さんが今後「社会派」って呼ばれない方がいい気もしています。どうせ括られるなら、新しい言葉……「ネオ社会派」なのか何なのかわからないですけど、
徳永 今、私もその言葉が頭に浮かんだけど言うのやめてました(笑)。
藤原 ダサいネーミングセンスしかなくて申し訳ない(笑)。とにかく新しい呼び方をされるぐらいの実力を持った人が現れてきている、と捉えてもいいのかもしれないですね。とはいえ、僕はまだ、市原さんのような書き方、つまりスタンダードなリアリズム演劇ではない書き方の戯曲が充分に評価されているようには思えないんです。ではそれが、ある程度リアリズムに則った作法で書いていく長田さんや瀬戸山さんのやり方とどっちが優れているのか? あるいは、どっちが優れているかって考え自体がナンセンスなのか? そういう議論が、まだ充分になされていない。そのあたりに、今回の審査会での議論が踏み込んでほしいし、議論の結果、やっぱり最終的にどっちとも言い切れないから、ダブル受賞という結論は十分あるのではないかというのが僕の読みです。
徳永 なるほど。評価が充分でないという意見には大賛成です。
藤原 で、上田誠さんもその俎上に乗りうると思うんだけど、でも上田さんを強烈に推す審査員がいるかというと、見当たらないんですよ。
徳永 そうなんですよね。笑いと言っても、KERAさんや宮沢さんの笑いではないので。またSF的なものにも、今の審査員の方々は積極的な興味が無さそうに思うんですよね。平田さんはアンドロイド演劇をやっていらっしゃいますけれども(笑)。
藤原 あと、穴=弱点は市原さんの方が探しやすいかもしれない。つまり「完成度」という尺度では、かつて「社会派」と呼ばれた系統やエンタメ色の強い作品の方が判断しやすいですよね、よくも悪くも。そういう意味で、瀬戸山さんも長田さんも上田さんもかなりのクオリティを今回キープしていて、穴が少ない。ただし、これはもう審査員予想の領域ですけど、今の審査員が社会派ラインを推したい人たちかというと、そうでもないですよね。それは他の賞がすでにやっているとも言える。戯曲という言語にどういうバリエーションを持たせ、岸田賞がどこにどう権威付けをしていくか、ってことをそれぞれに考えて判断がなされていくはずなので。その議論が最終的に拮抗してどう転ぶか。
徳永 市原さんの作品が、藤原さんが期待するように、いわゆるコンテンポラリーな戯曲の代表として、欠点の少ない「完成度」の高い作品に対抗し得るか、ですね。藤田貴大さん以降の現代口語の、そしてまだ岸田「一軍」にはなっていない山本卓卓さんを始めとする予備軍の代表として。
藤原 これは難しいところなんですが、もし山本卓卓さんの作品がこの場に出てきたら、「完成度」という尺度でまだ判断しやすいと思うんですよ。もちろん山本さんもものすごく得体の知れないものにチャレンジし続けている素晴らしい劇作家ですが、少なくとも彼やその劇団(範宙遊泳)が表現したい何かは強烈な「匂い」としてあって、その「匂い」を手がかりとして、彼らの狙いがその都度の作品にどの程度効果的に出ているかの評価はまだしやすいと思うんです。あくまでも相対的に、ですけど。それに比べると市原佐都子さんの作品は、過去作を思い返してみても、かなり素晴らしかった作品であっても、「完成度」という判断基準がうまく機能しないのではないか。それがいいことなのかどうかはわからないですけど、前回惜しくも受賞を逃した神里雄大さんの戯曲にもそういう傾向があるような気がします。もしかすると、演劇の可能性をひらく新たな批評言語を開拓しないと、「真っ当」な作品ばかりが評価されていくことになってしまうかもしれない。……そこも含めてどう審査員のみなさんが今回のノミネート作を捉えるか、見守りたいと思います。
===最終予想結果===
★藤原
市原佐都子&長田育恵のダブル受賞
★徳永
1.瀬戸山美咲の単独受賞
2.瀬戸山美咲&市原佐都子のダブル受賞
3.瀬戸山美咲&上田誠のダブル受賞