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岸田賞、勝手に大予想!~外野席から副音声

特集

2016.02.29


>> 第60回岸田國士戯曲賞 受賞作品は こちらから
>> 第60回岸田國士戯曲賞・最終候補作品は こちらから



藤原 ちょうど今頃、岸田國士戯曲賞の審査が始まっているはずですね。ドキドキしている人もいるでしょう。これは今年で60回目となる岸田國士戯曲賞を外野席から予想してしまおう、という対談です。賞の決定まで、読みながらお待ちいただけたら嬉しいです。

岸田賞は日本現代演劇史の流れを刻印するだけでなく、時にはそのゆくすえを左右するような賞として機能してきました。しかしその重要性にもかかわらず、これまでは審査員以外の人間が候補作について論じたり、賞のゆくえを予想する……なんて動きはほとんどなかった。なぜかというと、候補作のほとんどが「上演台本」で入手困難であるというのがネックだったわけですね。そして全作品観てる人なんてなかなかいない。だから予想のしようがないという。でもやっぱり語りたいじゃないですか。そこで今回は白水社や各候補者にご協力いただき、事前に候補作のすべてを読みまして、大予想してしまおうという魂胆です。

徳永 数はそう多くないとしても、日本の演劇賞は他にもあるのに、これほど注目され、多くの人が意見を語りたがるのは、岸田を置いてありませんよね。それはこの賞が時代をアクチュアルに反映し、時に先取りし、演劇界の大きな流れをつくってきた証だと思います。
今年から戯曲の公開にトライし、藤原さんと私がこういう場を持つことも歓迎してくれた白水社と、候補者の方々のご理解に接して、岸田戯曲賞が開かれたものであることを改めて感じました。なので私達も、戯曲を読んで感じたこと、考えたことを臆せず話すつもりです。
岸田戯曲賞についての個人の考えを付け加えると、戯曲と上演台本の問題については、劇作と演出を兼ねる人が増えて初日直前まで稽古するスタイルが広まり、また、戯曲を掲載する媒体が激減している現在と、賞を設立した当初の状況が乖離していることが問題で、上演台本を提出する側に落ち度はないと考えています。また、広く公開しないという選択も、劇作家が戯曲を大切にする気持ちの表れだと考えています。

藤原 そうですね。これを機に、戯曲賞や戯曲公開のあり方をめぐる議論が深められればと思います。ちなみに芥川賞・直木賞では、豊﨑由美さんと大森望さんによる「文学賞メッタ斬り!」がよく知られていますよね。彼らの長年のお仕事をリスペクトさせていただく形で、ここでも同じく「本命◎・対抗○・大穴▲」を挙げる形で予想してみたいと思います。

では藤原から行きますね。ズバリ……

本命◎ 神里雄大『+51 アビアシオン, サンボルハ』
対抗○ なし
大穴▲ タニノクロウ『地獄谷温泉 無明ノ宿』、柳沼昭徳『新・内山』

で、神里雄大の単独受賞。もしくはダブル受賞なら、タニノクロウか柳沼昭徳にもチャンスあり、と予想します。

徳永 私の予想は……

本命◎ 神里雄大『+51 アビアシオン, サンボルハ』
対抗○ 柳沼昭徳『新・内山』
大穴▲ 三浦直之『ハンサムな大悟』

で、神里さんと柳沼さんのダブル受賞の可能性が最も高い。次が神里さんの単独受賞。三浦さんが受賞するとしたら神里さんとダブル受賞。トリプル受賞は今年は無いです。

藤原 各戯曲のあらすじは数日前に「SYNODOS」にアップされた山崎健太&落 雅季子の岸田賞予想対談を読んでいただくことにして(笑)……というのは半分冗談ですけど。戯曲の何作かは期間限定でウェブで読むこともできます。

 では、まずはどちらも票を入れなかった4本から見ていきましょうか。


▼山本健介『30光年先のガールズエンド』

藤原 「大穴▲」に入れるか迷って読み返したのが『30光年先のガールズエンド』。ジエン社(山本健介が主宰する劇団)お得意の同時多発会話です。上下2~3段にせりふが分かれて同時進行する。そのせりふが時々リンクして、カクテルパーティ効果のように聞こえてくる。それは今回だけの思いつきではない、彼らの必殺技ですね。さらには今回の、「時空が歪む」ことで18歳と30歳をフラットに行き来するアイデアも面白いと思います。18歳と30歳はまあ多くの人にとって岐路になる年齢ではあるでしょうし、そのチョイスにも一定の説得力があると思います。

 ところが、p41で「あんた震災で死んでるのよ」っていう話が副音声的に飛んできて、ある男の死因が震災だという事実が明らかにされるところで、取って付けた印象を抱いてしまった。さらに「心を開く/開かない」という話があるけれど、それはこの戯曲の作者自身のことではないかと勘ぐってしまった。つまり、この作者は心を開いてないと思った。

 というのは、ロックとかを語っているわりに、「あなた本当に音楽好きなんですか?」と問いたくなるんですね。Jリーグの12番目のサポーターが云々……という話も出てくるけど、こんな軽い扱い方、サッカー好きとしては許せないなあとフッと思ったんです。いや別にサッカー好きじゃなくてもいいんだけど、果たしてこの戯曲の作者はロックであれサッカーであれ何かしらに対して執着や思い入れがあるんだろうか。何に心を傾けているんだろうか。最後までわからなかったし、読み返してみてもわからない。これは別に作者の人格を攻撃したいわけではないんです。この戯曲を書いた人の心にはおそらく空洞があるということだと思う。そのこと自体は悪くないし、その空洞は、きっと創作のモチベーションや源泉になりうるものでしょう。だけど岸田賞を今この状態の作家に与えるかといったら、それはしてはいけないと思う。この空洞ともっと向き合うことで、この人は作家として先へ進むのではないか。もちろん技巧的には巧いですよ。戯曲の最後に「2015/12/01改訂稿」と記してあるから、岸田賞シフトで手を入れて読みやすくしているんでしょう。大事なことだと思う。だけど過去の受賞者で、例えば柴幸男や藤田貴大が受賞したのは、単に技巧的な新奇さだけでは無理だったと思う。最終的に審査員を土俵際で寄り切るか、押し出すか、というところまで行くには、何かその作家ならではの強い思いというものが必要ではないかと思います。……ちょっと長く喋りすぎました。

徳永 では私は、山本健介さんの書き手としての良さから話します。以前から言っていますけど、まず、どんなに書いてもアイデアの枯渇や書き疲れを感じさせないんですね。ひとつの作品の中に複層的にいくつもエピソードを走らせますが、全部を回収させるなんて貧乏臭いことはしない。これ、某有名劇作家さんに爪の垢を煎じて飲ませたいくらい(笑)。さらにチラシや当パンに、上演される舞台では8~9割は使われない各人物のプロフィールなどがみっしり書かれている。書き手としての脚力は充分あるし、「わかりにくい」と言われても心の折れない覚悟ができている人ですよね。
 ロックは……そんなに興味ないでしょうね(笑)。

藤原 「ロックわかんない」って登場人物にも言わせてるしそれはいいんですけどね。

徳永 つまり、好きなことや強いこだわりから話を立ち上げていくタイプではないということで、藤原さんの仰った空洞と同じ指摘になるのかもしれませんが、私はそれもいいと思っています。というのは、エモーションではなくテクニックで戯曲を推進していくことにも意味はあるし、そういう人に賞が贈られるのが悪いとも思いませんし、山本さんにエモーションがないとも思わないので。2012年のF/T公募プログラム『キメラガール・アンセム』では将棋を扱っていましたけど、それもおそらく、将棋が好きということより、将棋というジャンルが持つ形式や歴史、それに携わる人々に共通する無意識などに惹かれたんだと思います。今回のロックもそれなのだろうと理解しました。ロックというより、女子高生でバンドをやっているとか、そっちが入口だったんじゃないかな。
 それと、18歳と30歳について言うと、圧倒的に30歳のせりふの方が切実で、18歳の女の子達のせりふは浅いですよね(笑)。ロック以上に、そこが苦しそうだなと思いました。

 同時多発のせりふ劇という点では、以前から達者な人です。ある人達の会話のしっぽが、別の人達の会話の頭とつながるような言葉の配置、時折り聞き取れる単語がいくつもの意味で解釈できる絶妙なセレクトはいつも心憎い。私がジエン社を初めて観たのが2010年の『クセナキスキス』ですけど、その時からすでに出来ていて、今回が特に切れ味鋭いとは思いませんでした。

 で、続けて良くないと思った点ですが、この話の大事な仕掛けである時間軸の行き来を見せる方法が、ものすごく雑。登場人物は、自分達が暮らしている世界ではたまに時空が歪むことを知っていて、携帯電話がつながりにくくなると「今、時空が歪んでいるからかな」と、日常のこととして受け容れている。そうやってドラマ性を外すことはいいんですけど、時間が行きつ戻りつすることが、どうでもいい些末な出来事になって、同時に、作者の都合になってしまっている。せりふで説明しなくていいから、戻るなり進むなりの必然性や効果は感じさせてほしかったです。

 もうひとつの大きな欠点は、物語が展開していくライブハウスの中と外の世界が繋がっていないこと。「外はすごい雪で」というせりふが出てきたり、どうやら不穏な世情になっているらしい雰囲気はあるけど、外と中がどんなふうに影響し合っているのか、外の何が中の人間達をこんなふうに動かしているのか、あるいは留めているのかがわからない。外と中がうまくつなげられていないから、藤原さんがおっしゃったように、ある人物が震災で死んだことが取って付けたように感じられるんだと思います。

藤原 ちなみに今回から平田オリザさんが審査員に加わりますけど、オリザさん的にはこれは自分の手法(同時多発会話)の発展形ということになるから、よっぽどじゃないとOK出さないんじゃないですかね。

徳永 いや、逆に「まだ二段組みでせりふを書いてる若手がいる!」って喜ぶかもしれません(笑)。


▼ペヤンヌマキ『お母さんが一緒』

藤原 僕は上演は観てないんですけど、この色っぽい次女を内田慈が演じたであろうことはすぐに想像できました(笑)。それはさておき、戯曲として読んだ時に、特に目新しさは感じなかったというのが正直な感想です。ネガティブオーラ全開らしいお母さんとの関係や、姉妹の見栄の張り合いなんかは、「女の本音、ぶっちゃけます」的ことをやりたいのかな……? 各キャラクターも類型的に見えてしまって、ハッとさせられるような何かがなかった。「クーポンがあったからこの旅館にした」っていう所帯染みたエピソードは哀愁があっていいんだけど、印象が覆るほどではなかったです。いちばん疑問なのはあの唯一の男・タカヒロの存在。結局ああいう天然無垢な感じが素敵っていう話なんですかね?

徳永 私は舞台を観ていますが、タカヒロ役の加藤貴宏さんが絶妙な“でくのぼう感”を醸し出している人で、説得力がありました(笑)。役の人物造形は、おそらく稽古をしながら、ペヤンヌさんが加藤さんにインスパイアされて書いた部分が大きいと思います。

藤原 戯曲からはその面白みは充分には読み取れませんでした。次女が結果的に彼を微妙に誘惑しちゃうじゃないですか。ああいう描写がもっとそこはかとなくエロくてもいいのでは? あと、隣の部屋にお母さんがいるけど最後まで姿が見えない……という構造も面白いけど、もっとその「不在」から引力が働いてもいいのにな。引き寄せられなかった。

徳永 同感です。実演を観て、劇作も演出もすごくうまくなったと感じたのは確かなんですが、去年、『男たらし』でノミネートされて、その時に複数の審査員に指摘されたことは、根本では直っていませんでしたね。岩松了さんの「どこかに落とし穴があるはずだと思って読んでいったが、最後までなかった」、松尾スズキさんの「どんな男たらしが出るのかと思ったら、たらされる女の話だった」、つまり、クセがありそうな人物が最初に次々と出てくるので、さぞ毒のある展開になるのかと思いきや、結局はみんな懸命に生きている善人だということが明らかになるばかりだという。

 もうひとつ、ペヤンヌさんの悪い癖で、人物のキャラクターや関係性の説明を、とにかく最初に全部やりたがる。それは書き手として堪え性がないということです。劇作家は、ジョーカーは途中まで出さない、あるいは、持っているふりを最後までし続けないと。
 その点で、途中からタカヒロというよくわからないキャラをぶっこんできたのと、彼が実はバツイチで子持ちだったことがあとからわかるのは、これまでにない展開でいいと思いました。


▼古川健『国境(ライン)の向こう』

藤原 第二次世界大戦後に朝鮮半島で起きた南北分断が、もしも日本で起きたら……という想像力が起点になっているストーリー。韓国と北朝鮮の分断について日本人観客に想像を促す、という意味ではいいチャレンジ……のはずなのですが。物語が説明的なナレーションでしか動かないのは、致命的です。

徳永 古川さんが去年書いた戯曲だったらon7(オンナナ)の『その頬、熱戦に灼かれ』の方が段違いに良かったと思うんですけど、なぜこっちが選ばれたんだろう?
 この作品は、描こうとしていることの複雑さに比べて、言葉がどれも直接的なんですよね。その温度差が、最後まで読み手を戸惑わせる。この舞台も観ていますが、客席にいた時もその戸惑いはありました。それと、誰かが何かを決断する時に前提とするものが、どれも二択に見えてしまう。「アカ(共産主義)か、アカでないか」「家族か、政治的思想か」「喧嘩するか、仲良しか」みたいに。本当はもっとこまやかなもの──たとえば親戚同士の主婦ふたりのライバル関係とか──が用意されているのに、それがせりふとしてうまく出てきていない。いつもの史実ものではなく一種のSF的な構えにした分、せりふのディテールに気が回らなかったのかもしれません。

藤原 戦争を遠景に置くこと自体は悪くはないと思う。でも、これだと戦争は誰かエラい人たちが勝手にやっていることで、無知な庶民はそれに翻弄されている……という描き方に見えてしまう。そういう戦争の描き方を、混迷の21世紀を迎えている今もなお続けていていいのか。僕は、いいとは思いません。

徳永 国境が引かれている「緊張」の場所でありながら、中央から遠い分、「弛緩」しているという設定は、本来はコメディですよね。だとしたらもう少し軽やかさがほしかった。


▼根本宗子『夏果て幸せの果て』

徳永 この候補作にも「なぜこれが選ばれたんだろう?」と首を傾げました。根本さんは去年も相当数の上演をしているのに、とりわけ分が悪いものが選ばれた気がします。だってこれ、ミュージシャンの大森靖子さんが出演することありきの公演ですよね。大森靖子1と大森靖子2が出てきて、本物のほうが大森靖子の持ち歌を歌う時点で、戯曲として汎用性が著しく低い。

藤原 はい、そう思います。というか、どうしてこの作品を白水社が最終選考に選んだのか本当に謎です。「岸田戯曲賞への道」っていう連載を書いている(「MONOQLO」誌上)からノミネートされたのかな。だとしたらゴネ得じゃないですか?

徳永 さすがにそれは無いでしょう(笑)。

藤原 もちろんファンサービス溢れるお芝居もあっていいし、自分が目立ちたいという欲望も悪いとはかぎらない。上昇志向も結構でしょう。東京芸術劇場でこんなことしちゃってごめんなさい、恋愛もうまくできません……的にダメダメな自分というキャラを晒すことで、むしろそうして甘えることによってファンを増やすとか、まあそういうの僕は別に観たくないですけど、世の中に一定数存在するのはしょうがないと思うんです。偶像(アイドル)崇拝はどうしたって生まれるから。でも岸田賞の最終選考に残す意味がわからない。読みながら「下読みしたやつ誰だー出てこい!」と発狂しそうになった瞬間もありました。それならもっと残してほしい作品・作家はあったなあ……。

 これだと観客に媚びて甘えてるように見えませんか。そこらへんのおじさんはちょっと甘えたら何かくれるかもしれない。でも岸田賞はくれないよ。根本さんは俳優として目立つ人だなあと思ったことはあるけど、もしも本気で岸田賞を獲りにいくつもりなら覚悟し直してほしいです。

徳永 私は「ダメな自分をさらして肯定してもらう」作品をつくっているのではなくて「ダメな自分をさらしているように見える」ものをつくっているんだと思いますよ。根本さんの書く芝居にそういう内容が多いのは、そのほうがインパクトがあってウケがいいからではないでしょうか。『演劇最強論』の拙稿「さよなら、子宮で考える女性劇作家たち。」にも書きましたが、若い女性がその手の話を書くと「勇気を持って赤裸々に自分を出してすごい」と喜ぶ男性は一定数います。根本さんご本人はきっとダメ人間なんかではなくて、プロデュース能力とマーケティング力に非常に長けていて、求められるものを冷静に考え、それが書ける人。2年くらい前に1度拝見していますが、むしろ非常に器用な、そういう意味ではウェルメイド系の作家だと感じました。

 で、その作品でも今回の作品でも思ったんですが、話の展開が遅すぎる。私が感じる最大の欠点はそこです。『夏果て』は一方にコンビニのバックヤード、一方に帰って来ない恋人を待っている若い女性の部屋があり、途中まで交互にそこで起きる話が描かれますけど、コンビニで働いているのがおかしな人ばかりだとか、彼氏の携帯に連絡を入れまくる女性のイタさとか、個々のキャラクターや話の構成が早々にわかるのに、それを繰り返して描いて話がなかなか進まない。さっきも言ったように器用なので「こう書くとウケる」というエピソードがどんどん浮かんで、書いていて楽しくなってしまうのでしょう。でも、それこそ「岸田戯曲賞への道」を目指すなら、劇作家は観客をリードしないと。こちらの予想のスピードより遅い戯曲は退屈です。


▼タニノクロウ『地獄谷温泉 無明ノ宿』 藤原:▲

藤原 ここからは、我々が予想に入れた4作品について熱く語っていきたいと思います。

徳永 いや、客観的に見て、すでに熱いと思いますよ(笑)。では『地獄谷温泉 無明ノ宿』から行きますね。なぜ私がこの作品を予想に入れなかったか。理由は根本さんと同じことなんです。

藤原 ……わかります。

徳永 これはマメ山田さんというキャスティングありきの戯曲ですよね。マメさんでないとしても、カリスマ性を持った小人の俳優が出演しないと成立しない。それがまず賞に不向きだろうと。それと、全体のレベルは非常に高いと思うんですけど、ストーリーも構造も、スタンダードの枠内での高得点だと思います。スタンダードがダメと言っているのではないんですよ。でも普段のタニノさんの実力を裏付ける作風ではないというところで、推せませんでした。

藤原 「普段の実力を裏付けるものではない」というのは?

徳永 『大きなトランクの中の箱』や『誰も知らない貴方の部屋』など、悪夢とユーモアが拮抗している一連の作風が示す、タニノさん独自の言語感覚や、空間の造形力という点が薄いということです。それらは基本的にせりふが少ない劇なので、岸田の候補にはなりにくいと思うんですが、どちらかというとそっちが彼の本領で、たとえば過去の候補作なら『星影のJr.』だとその流れとの乖離は感じません。『無明ノ宿』は、最初に「故郷・富山県に。宇奈月温泉と八尾の町に。北陸新幹線の開業により消失した多くの生命に。その戦いに。」とあるように、全体に直接的な真面目さがある。

藤原 僕はそんなに真面目と思わなかったんですが、真面目ですか? 僕は上演を見逃していたこともあってワクワクして読んだし、実際すごく面白かったんです。ページをめくるのが本当に楽しくて。文学作品として強い力を持っていると感じました。ひなびた温泉宿の情緒を描いているけれど、ただそれっぽい雰囲気によりかかることなく、そこに生きているか死んでいるかわからないような人物たちと、その所作とを、丁寧に描いている。しかもそれが説明的に感じない。時折入ってくるナレーションもまた、ひとりの登場人物の声として実に魅力に溢れている。もしも自分が俳優だったらこのナレーションの役やってみたい、あるいはそう思う俳優はきっといるだろう、と想像しました。

 そして他のタニノさんの作品とも通底するものとしては、「性欲」を描いていますよね。でもタニノさんの場合、よくあるステレオタイプの関係性による性欲に依拠するんじゃなくて、「え! どうしてそこに欲情するの?!」って一見思うようなことを、しかし不思議な説得力をまとわせて描く。それは、まだ名付けられていない人間の感情や関係に触ろうとするような試みではないでしょうか。今作で言うなら、目の見えない松尾なる人物が、マメ山田さん演じる人形師・百福の身体に触れたいともぞもぞし始める感じなんかが、身に迫って来るわけです。2階にいる老婆の中にある何かが目覚めて発情しちゃってるのとかね。そういう彼らの有り様にそそられて、心の芯がゆらめくような感触がありました。ト書きの描写もね、「その意味を求めて首から脳天がよく動く」とか、え、どういうこと?!っていう。

 だけど、やっぱりマメ山田さんなしで上演できるのか? もうひとつはあの特殊な回転舞台。そう簡単には再現できないと思うんですね。まあ、まだそっちは何か他の演出方法が見つかるかもしれない。でも、マメ山田は無理やで……。

徳永 ですよね。マメ山田的な異形の人を主人公に据えているところがタニノ作品らしいと言えばそうなんですけど……。性欲に関して言うなら、アブノーマルではなく原始的な衝動、深沢七郎の『楢山節考』的なものと私は受け取りました。そういう意味では確かに文学的なんですが、岸田の役割のひとつだろうと私が考えている“戯曲の新しさへの推進”は少ない。他の誰にも手の届かない舞台を多くつくっているタニノクロウが「この作品で岸田を獲っていいのか?」と思うわけです。

藤原 依頼されてきたはずなのに依頼主がいないのはカフカの『城』だったり、蜘蛛に掛かった蛾の死骸とかは志賀直哉の『城崎にて』へのオマージュだったりするのかな。文学的であるということが、むしろ“戯曲の新しさへの推進”からすると後退に見えてしまう可能性はあります。でも、まだ名付けられていないものを描写する、という点では、戯曲賞の価値があると僕は考えます。

 実は「対抗○」に推すかどうかギリギリまで迷ったんですよ。これを最後まで推す審査員もいるかもしれない。少なくともきっとマメ山田問題は物議を醸すでしょう。近年は特に岡田利規審査員が岸田”戯曲”賞の意味を問うような問題提起をされているので、他の演出家や俳優での上演が可能なのかどうかは確実に問われるに違いない。ただその議論の結果、「優れた上演のアーカイブとしての上演台本も岸田賞を受賞できる、なぜならそれもまた演劇史として貴重なものであるのだから」という結論が下される可能性もあるかもしれないと思い、「大穴▲」に推しました。

 個人的には今回の岸田賞の選考によって、「戯曲はもはや他人が演出することを想定するのが当然であって、「作・演出」が無自覚に前提とされる時代は終わったのだ」ということにしていただきたいと思っている。にもかかわらず、この作品は捨てがたい……。そういうアンビバレンツな気持ちです。

徳永 なるほど……。大穴の理由はよくわかりました。私も大好きな作品であることに変わりはなく、藤原さんの願う理由で受賞されたら素直にうれしいです。


▼三浦直之『ハンサムな大悟』 徳永:▲

徳永 「大穴▲」です。ボーイ・ミーツ・ガールをフックに群像劇を描いてきた三浦直之が、ひとりの人物の誕生から死までを描いた話でありながら、主人公の心情は一切表現せず、彼と触れ合った人々の内側の変化を詩的なせりふで描いていて、とてもおもしろい構造だと思ったんです。 
 もともと三浦の作品は、形容詞を付ければ最初に「ポップな」が来るけれども、内実としては「消えていく時間(若さ、肉体、関係性)」と「それに抗って消えまいとする想い」の戦いを書いていて、キラキラしているけれども糖度は低い。それが『ハンサムな大悟』では一気に苦味走って、飛躍した感がありました。漫画のラブコメやラノベに出てきそうなリズミカルなせりふも、重りが付いているような暗い迫力があります。

 でも改めて戯曲を読んでみるとマイナスの発見も少なからずあって。というのは、劇団員だけでやったことの油断が、戯曲に如実に出てしまった。制作が言う開演前のアナウンスがせりふになっているわけですけど、そのト書きに「制作役が」ではなく、実際にアナウンスを担当した劇団制作の名前そのまま「ももちゃんが」と書いていたり、板橋駿谷役の板橋駿谷さんがYouTubeを観ているシーンのト書きに、カギカッコ無しで、実際に板橋さんがやったひとり芝居のタイトルをそのまま書いていて、この戯曲で初めてロロに触れる人を想定してない。些末なミスに思えるかもしれないけれど、これは結構、大きいマイナスです。上演台本とは言え、提出前に手を入れる時間はみんなもらえているはずで、その間に出来る限り、戯曲に近い体裁に整えるべきですよね。審査員は戯曲を読む能力に長けている方ばかりですけど、こういうミスで「子供っぽい」「内輪っぽい」という印象を与えてしまうと、以前、一部の大人に言われたように「若者文化のハイコンテクスト作品」と片付けられる可能性が出てくる。

藤原 僕は今回戯曲を読み返すまでは、この作品は「本命◎」か「対抗○」になるだろうと思っていたんです。そして戯曲として読み始めてみると、1ページめに書いてある登場人物表を見て、ああ、なんてネーミングセンス素晴らしいんだろうって思うし、数行目に出てくる「ずいぶんと苦しさがマウンテンだぜ」ってせりふに、こりゃ名作の予感だぜ、って唸る。そして「日めくりカレンダーをめくってよ」というのが時を進める意味だとわかったところで、ああこれはただのリアリズム演劇ではないのだとワクワク感が高まる。このあたりまでは大変いい感じです。いいぞ、その調子! でも次のページで「さいとうたかを」とか「楳図かずお」が出てきて雲ゆきが怪しくなり、まあでも日本人ならほとんど知っている名前だし、さしあたり外国での上演可能性には目をつぶってもいいか……などと自分を慰めていると、数行後に「期待も高まるマーケット」ってフレーズが出てきて──つまり「はなまるマーケット」の駄洒落ですけど──、うーむこれはちょっとハイコンテクストすぎるわ、抑えて抑えて、みたいな気分に……。

徳永 それ、まだ2ページ目ですよ(笑)。

藤原 まあ元ネタがハイコンテクストってだけなら批判の矢は交わしうると思っていたんです。それだけの強さが戯曲に備わっているならば。けれど「内輪じゃないか」という批判が来た時に押し返すだけの強さを担保できてないと言わざるをえない。なにしろ誤字が多すぎる。誤字脱字をナメてはいけません。推敲してない証ですよ! それでは言葉を扱う作家としての資質に疑問符がついてしまう。例えばジエン社の山本健介氏はさっきも指摘したようにおそらく岸田賞のために改訂稿を練り上げたわけです。馬鹿正直に、当日会場で手売りした上演台本そのままを提出しなくていい。どこまで改訂が許されるのかは知りませんよ。でもおそらく前例から察するに、「上演台本」を「戯曲」に近づけるためにブラッシュアップするという程度であれば問題ないはず。ト書きを、稽古場でのメモじゃなくて、インストラクションに昇華させること。

 三浦直之さんが岸田戯曲賞を獲るのは、演劇界にとってはすごくいいことだと思うんです。彼らが去年から始めた、高校演劇にアプローチする「いつ高」シリーズにしても、岸田賞受賞によって箔がつくことでもっと波及力も高まっていくでしょう。そういう野望はあるけど、下心はなく、芸術を真摯にひたむきに愛しており、受賞に値する人物なのは間違いない。でもこの戯曲の書き方はアカン! もったいない……。でも今回がダメでも、受賞前夜までは来てると思います。必ずチャンスは巡ってくるだろうし、いずれ獲る人だとは信じています。

徳永 そうですね。大穴に入れているくらいですから、私は受賞の期待を捨てていません。だって、読んでいて浮かぶ絵や触感が非常に有機的なんですよ。大悟は、亡くなった父親が埋まっている地面に固執し、触ったり寝転んだりするだけでなく、排泄物を埋めて交わろうとしますが、そのシーンで立ち上がる地面と心情的な乾き、粘度とか。大学に入って演劇を始めると、まず手だけが単体で認められて観客の視線と賞賛を集めますけど、ひとつの先端が広く外部と交信する様子は、電波のようであり、一夫多妻制のセックスのようにも思える。それと大悟が唯一、気持ちを漏らすシーンが、腐敗した女の体内にもぐりこんだ時ですけど、性が温かな穢れであることを、こんなにファンタジックに描ける人はいないと思う。そうした点を評価してくれる審査員が複数いたらいいのですが……。


▼柳沼昭徳『新・内山』 藤原:▲ 徳永:○

藤原 僕は柳沼さんの舞台を観たことがなくて、今回初めてその世界に触れたんですが、とても面白く読みましたし、何度も鳥肌が立った。舞台もぜひ観てみたいと思いました。まず主人公の内山が多用する「ああ」という口癖がうまい。肯定にも否定にも聴こえる「ああ」を実に効果的に散りばめることで、意志のない人間「内山」が「新・内山」へと変貌する姿を描いていく。意志を持たないお役人がある若い女性との交遊をきっかけに変貌する話は、黒澤明の映画『生きる』もそうでした。あれも元ネタは『ファウスト』ですけど。そういう偉大な先行作品の名に恥じぬような強さがある。

 序盤のおばあちゃん相手のインチキ健康器具商法も、つかみとしてのただのオモロイエピソードかと思いきや、実は「騙す側」と「騙される側」の双方が内山家と因縁のあることがわかり、それが伏線となって血族の呪いの話にまで繋がっていく。あるいは、奥さんとの関西弁で交わされる会話も絶妙で、シチュエーションに関する説明なんか一切ないのに、会話のニュアンスだけでその微妙な関係性が伝わってくる。実に巧みです。でも、ただ巧いだけの作家ではない。

 白眉はやはり恋人の相原さんではないでしょうか。主人公・内山との関係は、単なる上司と部下の不倫という紋切り型の関係で済ませられないものがある。しかもきっとこの戯曲を上演つまり解釈する演出家や俳優によって、2人の関係性の機微は変わりそうです。そんな幅を持っているけれど、決してただ放任しているわけではない。例えば呑み屋の代金を奢る奢らないのやり取りをするシーンで、おつりの千円札が1枚足りないとかを細かく書いている。それは日常の生々しい描写であるだけでなく、そのおつりをもらうまでの時間を送らせているわけですよね。そこに生まれる時間の「たわみ」の中に、観客の想像力が働く余地が生まれていると思います。

 そしてこの恋人・相原さんが、津波の映像を観ながらエッチしたがる昔の彼氏を回想して、「地獄に落ちたくないです」とつぶやくあたりで、うわあ……となりました。

徳永 わかります。腰の入っているせりふ、多いですよね。私、読んでいてワクワクしっぱなしでした。あと100ページあってもいいと思った(笑)。

藤原 いやほんと、腰入ってるなーこの人、と感じました。会ったことも舞台を観たこともなくて、この戯曲を通して初めて出会ったけど。それでこちらも真剣に読むわけです。例えば、近親相姦だったことが示唆されるあたりから、あの広島の平和記念式典のスピーチをバックに新・内山が叫び続けるまでのシークエンスも一気に持って行かれるじゃないですか。デモのシーンもね、「原発要らない!」「再稼働反対!」「未来をつくろう!」「子どもを守ろう!」とシュプレヒコールが起こっている。ところがこの戯曲の作者が、原発反対デモに肯定的なのか否定的なのかは最後までわからないわけですよ。それでもそのデモ隊の中で、この時代に生きている内山や相原さんの声が、確かに聞こえるような気がするんですよね……。

徳永 私はこれを「対抗○」に推していて、神里さんとの同時受賞の可能性が高いと予想しているんですけど、もしかしたら柳沼さんは、この作品でノミネートされたのはうれしくないかもしれないなと思ったりしました。というのはこの作品は京都芸術センターの事業の一環で「二幕ものの悲劇をつくる」というお題から出発した戯曲なんですよね。私が1本だけ観ている柳沼さんの作品は、烏丸ストロークロックの劇団公演の『神ノ谷 ?二隧道』で、これがまた素晴らしくて観た直後に興奮してツイートをしたんですが、それとは相当違うつくり方をしたんだろうなと思ったからです。深読みが過ぎるかもしれませんが、劇団公演の作品でノミネートされたかったのかもしれないなと。

 『神ノ谷 ?二隧道』のアフタートークでおっしゃっていたのは、烏丸ストロークロックは、拠点にしている京都近郊を舞台にすることが多く、実在する土地をベースに架空の短い物語をつくり、完成したら、次はそこに出てくる別の人物のエピソードで短いシーンをつくり、それを繰り返してある程度の長さになったら上演するスタイルだと。だから、全体としてはひとつの土地から派生したサーガみたいになっていて、個々のエピソードにも力がすごくある。わかりやすく言ってしまうと、車谷長吉の文体で中上健次の路地ものを観ているような気持ちになりました。対象をつぶさに見つめて冷静に描いて、その徹底した観察眼から土着的な官能性が立ち上がってくるような。

 それに比べると今作は明らかに違うつくり方ですよね。とは言え、ほとんどすべてのせりふが、途中から始まって途中で終わっていて、この徹底した日常語、口語ぶりはすごい。主語なんて見当たらないのに、でも何の話かわかるし、次の1行を読みたくなる。出てくるエピードが、老人相手の詐欺まがいの商売、姉と妻の板挟み、部下との不倫、コンビニを経営する苦しさなど、目新しくはないですけど、その間に出てくる言葉がリアルで刺さるんですよね。斎場のジャグジーバスの話とか、コンビニの経費の項目と値段とか、突拍子もないんだけど、切実で。
 それと、ここがどこなのかわからない感じ、シーンごとに役所とか居酒屋なのはわかっても、おそらく彼岸のような場所と地続きになっていることがト書きから伝わってきて、それにもゾクゾクしました。瓦礫の山をどうするのかとか、美術家や照明家が読んでも腕まくりをしたくなる戯曲だと思います。

藤原 ああ、「闇」が印象的ですからね。

徳永 闇は、ト書きとせりふだけでないところにも潜んでいますね。内山さんを見つめるだけの少女、何度も出てくるお経、NHKの福島応援ソングの『花は咲く』がそうです。それが出てくるたびに舞台上に生と死が交錯する。死が生き生きと描ける、というのは矛盾にした表現になりますけど、これだけ縦横無尽に生と死を走らせる書き手はあまりいないと思います。

藤原 僧侶に対して「人は……」みたいな目線で語るのはやめてくれと言った途端、その僧侶はじゃあ俺目線で話しますと言って盗人に変貌する。そして立ち入り禁止区域の空き家で梅干しを発見して食べる。書かれてないけどこの梅干しはどれだけ放射能に侵されているのかって読者(観客)は考えざるをえないわけですよね。かと思うとその梅干しを漬けるために買い物した時のレシートを盗人は見つけて、それで「あー。つながった!俺の口と舌がっ、名も知らぬ人とつながったっ!」てなるシーンとか、ちょっとヤバイですよね……。

徳永 話をしながら、神里さんの『アビアシオン』とのダブル受賞という気持ちがますます強まってきました(笑)。

藤原 僕も『アビアシオン』が獲るのはほぼ間違いないと思ったので「対抗○」はナシにして、『新・内山』は「大穴▲』にとどめたんですけど、ダブル受賞はあるかも……。

 ちなみに「SYNODOS」の山崎・落対談では、中国人グループが花見をしているシーンが問題になってましたけど、僕はあのシーンはあれでいいと思いました。つまり内山は最後、中国人グループに向かって「シンアンジン(静かにして)」と言わないといけないと思う。茶化してる職場の人間にキレて正義感を発露したところで、それはコミュニティの破壊にしかならないじゃないですか。そして中国人に対する蔑視もなくならないでしょう。でも内山はそこで、外を選ぶ。「壁」のこちら側ではなく、「壁」の向こう側にいる異質な他者に声をかけるんです。その結果中国人グループがどう反応したのかは、戯曲には書かれていませんよ。だけど「内山」が「新・内山」になったことはわかる。

徳永 離婚して「新・内山」になるのではなく、引きつりながらも精一杯の笑顔で「シンアンジン」と言えたから、脱「ああ」=「新・内山」になるんですよね。それとあそこで内山さんは、あとで相原さんの妊娠を知って「一緒に戦おう」と言える下地ができたんだと思います。
 あともうひとつ感心したのが、原発反対のデモや津波の映像、瓦礫など、明らかに東日本大震災をベースにしているのに、関西の方言で書かれていることもあり、また内容的にも、阪神淡路大震災が何度も頭をよぎって……

藤原 「え、どの地震?」というせりふもさりげなく入ってましたね。

徳永 そう、いつの、どこの震災の話かがわからなくなる。『花は咲く』が歌われているのに、輪郭がほどけて普遍性を持ってしまう。「グラグラ」という言葉が何度も出てきますけど、読んでいて体が揺さぶられるようでした。


▼神里雄大『+51 アビアシオン, サンボルハ』 藤原:◎ 徳永:◎

藤原 2人とも「本命◎」ですね。神里さんは3度目のノミネートですが、いよいよ時が満ちたのではないかと感じています。この戯曲の冒頭に付されたのは、たった1行のト書き。「俳優のみが演ずることができる」。そんなの当たり前じゃんと思うような言葉です。どんな戯曲だってそうだろうと。ところがこれが最後のせりふと輪のように繋がっている。それでハッと気づいたんです。ああ、この戯曲を読むあいだ、俳優の姿が見えていたし、声が聞こえてたなって。

徳永 私もあのト書きにハッとしました。チェーホフの「かもめ 四幕の喜劇」を思い出して、劇作家の宣言だなと。

藤原 文章の強度については一目瞭然ですね。躍動する言葉のグルーヴ。豊かなボキャブラリー。広大なフィールド。モノローグの長さへの批判はありえなくはないけど、掛け合いも魅力的だし、ところどころでユーモアが効いている。驚くのは例えば「急速に悪化する米露関係、君ならどちらにつく?」というせりふの直後に「太陽を求めてわたしは沖縄に行くことにしたのだった」って続くことで、何の脈絡もないはずなのに奇妙な説得力を持っている。それはたぶん……なんだろう、本当にこの語り手が太陽を求めている、ってことが感じられるからかなあ。

 テーマを詰め込みすぎというふうにも見えるかもしれないけど、映画でいうロードムービーだと考えると腑に落ちる。ひとつのわかりやすい問題意識や対立構造があるわけではなく、いろんな人や場所を旅していくロードムービー。そこには海を超えていろんな島々を渡っていった人々の物語があり、そして、俳優の姿がある。物語と俳優! なんてシンプルなんでしょうかね。この2つがこの戯曲を支えている。ここがポイントかもしれません。つまり、俳優がこの戯曲の中に生きているということ。といっても誰か特定の俳優への当て書きという意味ではなくて、あくまでもアノニマスな「俳優」です。それは未来の誰か、この戯曲を演じるかもしれない人間のことです。そういう意味では、この戯曲は神里さん個人の体験をベースにしているにもかかわらず、他人に対してとてもひらかれたものになっている。他人、要するに、これからやってくる人に対して。

徳永 『新・内山』について、読みながら体が揺れたと言いましたけど、この『アビアシオン』は内容ではなく文体が肉体的ですね。時々、「戯曲の身体性」みたいな言葉を聞きますけど、これは「一節一節が肉体を持った」戯曲で、わかる/わからないの前に、確実に「ある」。だからぶつかっていかないわけにはいかない。実際に上演を観た時は、よく理解できないまま遠くに連れていかれましたけど、戯曲を読むと、違う実感とグルーヴが生まれて、遠くまで連れていかれた道程が、舗装のないラフロードではあったけれども、よく考えられたコースだったことがわかりました。
 これが戯曲かという問題は、書いた本人が「戯曲だ」と言っている時点で充分だと私は思いますが、最初の1行だけでなく、全編が演劇について書かれたものであり、「わたし」の視点がずっと演出家なんですよね。それも、上演を意識している演出家の視点。
 今言った道程も、乗り物は「演出家」という車だとわかると、俄然、見えてくる景色のフォーカスが絞られてきます。

藤原 舗装のないラフロード(笑)。文体ということで言うと、麻薬のようにファンを虜にする文章もあると思うんです。でも神里さんのはちょっと違う。ずっと耽溺させられるわけではなく、ふっと我に返ると、「ひとりひとり老人たちはリマの街に散っていった」とかいうせりふが目の前にあって、不意に置いていかれたような気分にさせられる。それも、地球の果てにね……。

徳永 世界観は明らかにマジックリアリズムですけど、それを目指して書いたんじゃなく、書いたらマジックリアリズムになってしまったんでしょうね。
 おもしろかったのは、NHKが何度か出てくるじゃないですか。日本から遠い場所で、時間差のある番組を習慣的に観ている人達のことが。そのNHKが、この物語の中で行なわれている旅の中継局のように感じられたんです。移民の第1世代の人達が懐かしむ日本、その象徴がNHKだから、すごくアナログなんですけど(笑)。でもかえって、それがこの戯曲を“地球の話”にしていました。SF的な時空の飛び方じゃなくて、ここにある地球の、ここにいた人とここにいる人のやり取りという。

藤原 「歴史」というものをついに掴んだのではないでしょうか。ある年齢から下の世代の作家が「歴史」を捉えることは、これまでかなり難しかったと思うんです。もちろん知識としては、お勉強したりウィキペディアを見たりすればまあわかる。だけど彼らは……僕の記憶が正しければ、2009年の「キレなかった14才?りたーんず」の頃は、そういう知識や情報としての「歴史」を彼らはまったく信用していなかったと思う。でも神里氏はきっと作品をつくり続けながら追いかけていたんでしょうね。時々「演劇なんて別にどうでもいい」みたいに嘯きながらもなんだかんだ演劇を続けてきて、そしてこの作品で彼自身のルーツをたどったり取材でいろんな人に会ったりしていく中で、ついに彼は発見したんじゃないですかね。「歴史」と呼ばれてきた、時空を超えた繋がりを。そしてその繋がりをたぐり寄せる手段として、演劇があるということを。

 メキシコ演劇の父と呼ばれた亡命家・佐野碩との出会いは特に大きかったんじゃないでしょうか。「わたし」と「セキサノ」のやりとりはユーモラスで一見ふざけてるようにも見えるけど、実は世代を超えた演劇論の対話であり、演劇の大事な核心に触れるものになっている。とても好きなシーンを最後にひとつ、引用させてください。


セキサノ 君もすぐ忘れるだろう、横浜港を出てから数年、二十六歳だった僕は三十四歳になって、傲慢な島に閉じ込められ、故郷に送還されるかもしれないという矛盾におびえている。新しい時代の演劇をつくりたい。政治、戦争と無縁の、自由な思考を謳歌して俳優の肉体にのみ向き合い、舞台のうえで汗を飛ばして走り回る……

わたし てっきり政治活動をするつもりで演劇しているのだと思っていました、それは敗北とは違うんですか。

セキサノ ぼくは演劇を作っているだけだよ、作りたいんだ。



徳永 大きな骨付き肉を塩コショウで焼いたような戯曲かもしれません(笑)。最初は食べづらいけど、演劇について考え抜かれたシンプルなものだという意味で。

藤原 あと、どうでもいい話ですけど気づいちゃったんでいいですか。岸田賞、今年で60回目の節目ですよね。そこにこのタイトルにある「+51」(ペルーの国番号)を足してみてください。するとあら不思議、なんと縁起のいい数字……!(笑)


 では受賞者の決定を待ちましょう。戯曲を提供してくださった白水社と8人の候補者のみなさんに感謝します。

演劇最強論枠+α

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