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岡崎藝術座『イスラ! イスラ! イスラ!』神里雄大インタビュー 【後編】

インタビュー

2015.12.30


≫前編はコチラ

▼自分の考えを「主張」するのではなく
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──さて前編は取材で行かれた島々での奮闘ぶり(笑)を伺いましたが、後編では、神里さんの演劇観について掘り下げてみたいと思います。前編の最後に、ご自身の演劇を「政治」だと思う、と話してくださいましたが、だとするとお訊きしたいことが2点あります。
 まず、例えばA・B・C・Dという役がいて、それぞれが違う意見を持っていて、そこで論戦させる演劇もありえますよね。これの方がある意味ではわかりやすく「政治」を連想させます。ところが神里さんが選んでいるスタイルは、「私」ひとりによる超絶な長ぜりふですよね。どうしてですかね?


神里 演劇はお客さんを含めての「政治」なので、僕の考えに対して、観客のあなたは何を考えるのか、っていうふうに舞台作品と観客が対話すればいい。別に舞台上で対話そのものを見せることで、当事者性を観客から奪う必要がないと思うんですよ。

──なるほど観客に向けて言葉を投げかけることで、対話相手という形で観客が当事者でいられるということでしょうかね。となるともうひとつの質問が。神里さんの作品ではメッセージ性が単純ではない形で提示されるじゃないですか。ある事象、例えばヘイトスピーチのことを取り上げても、それに対して作家自身がどういう立場なのかすぐには受け取れない。つまり一人称であったとしても、作家自身の主張を提示するのとは違っていると思うんです。

神里 どちらかというと「主張」とは逆かもしれませんね。メッセージ性を出すことに意味を感じないんですよ。もっと言うと、「みんなが正しいことを言う」ってことにうんざりしてるんです。ひとりひとりの正しさがある。アメリカが一番それをやってますけど、相変わらずネット上でもそうなっているのを見て、またかって思うのがもう嫌なんですよ。別に他人が間違ってること言っててもよくね? っていう。や、自分が正しいと思うことを僕も普段は言いますよ。でも他人の正しさは見せつけられたくないっていう、わがままな感じなんですけどね。
 ただ作品において、僕は常にかっこつけたいんですよ。だからかっこよくないと思う。メッセージ性で人を変えようとすることは。そんなことで人は変わらない。ヘイトスピーチも、そりゃ、人種差別なんてダメに決まってるじゃないですか。そんなことわかってんだよ。それわかっててやってる人に「そんなのは恥ずかしい」って言ったって、自分の溜飲下げてるだけになってしまう。「俺は言ったぞ」っていうアリバイにしかならないんじゃないか。じゃあヘイトスピーチする人がどういう気持ちなのかを考えて、自分もヘイトスピーチ書いてみようっていうことなんです。


▼俳優の「役」は「ルール」?
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──あと、俳優は5人いますが、どうやってあの独白を演じ分けるんですか?

神里 適当に、雰囲気で分けてます(笑)。

──誰がどの役で、ってことじゃないんですね?

神里 えーと、じゃあ、コンセプトの話をしますね。今やろうとしてるのは、「島は喋らない」ってことです。「島」の言葉を書いてみたけど、「島」は本当は喋らないじゃないですか。じゃあこれは何かって考えたら卑弥呼的なものだと思う。だからシャーマンっていう感じでやろうと。俳優たちは自分の言葉じゃないことを喋らされている、なのに実は自分自身の言葉でもある、っていうことをやりたいんです。

──今回、盟友と言っていい武谷公雄さんや、何度か登場されている稲継美保さんもいますが、新たに組む俳優さんもいますね。選んだ理由は?

神里 巡り合わせです。オーディションをやったんですけど、うーん……。ここ数作、テクストを喋るにあたっての俳優の実力が如実に出ちゃうようになってて……。校長先生の演説とか、聴いてられないって思う時もあれば、聴いてられる校長もいるじゃないですか。

──魅力的に演説できる人はいますね。

神里 残念ながら人間の魅力って言葉の内容じゃないなって思う。俳優も、いくら技術を高めても、今までの人生がそのまま出ちゃう。魅力ある人はほっといても魅力あるから。僕も演出家を名乗る人間として、そこに同居させてもらおうとは思いますけど。最近わかんないんですよ、残念ながら。

──でも神里さんは、「俳優を良く見せる演出家」として知られてきたじゃないですか。

神里 や、良い俳優じゃないと良く見せられないです。当たり前です。僕も昔は図に乗ってたんで(笑)そういう賛辞を甘んじて受けてましたけど、これを機に訂正したい。良い俳優を良いままにしてるだけなんです。

──メキシコで何かヒントを得てきたとも聞きましたけど……?

神里 ああ、こないだメキシコで『アンティゴネ』を観た時にハッと思ったんです。マスク被って何も喋らない役がいて、終盤、もうすぐ殺されるアンティゴネに対して、そのマスクの男がいきなりマスクを脱いだ。そしたら男が、お前ちょっと黙れよくらいの勢いで喋りまくるんです。で、たぶん普段からこの俳優はこういうふうに喋りまくるんだろうなと感じた時に、「あ、なるほど、役ってルールなんだ!」と思ったんです。つまり、君は普段いっぱい喋りすぎちゃうからここは喋らないでねっていうのが「役=ルール」なんだって。
 それって僕が感じたペルーの交通ルールと似てるなと思う。社会のルールのあり方が、とにかく抜け道を探そうとしてくるっていうか。放っておくと自己主張で滅茶苦茶になるから、秩序をつくるためにルールを設定するっていう考え方です。それは日本の、これに従っておけば安心だからルールを守りましょうみたいな、安心のための、すがりつくための灯台のようなものとは、全然捉え方が違うんですよね。でも日本もビール会社は前者かもしれないですね。ビールがダメなら発泡酒だぜ! 第三のビールだぜ! みたいな抜け道探してくる企業の感じ(笑)。まあ、ラテンアメリカはとにかく抜け穴を探すんです。ルールがあるけど行けるなら行っとけ、みたいな。
 つまり、それを取っちゃったら大洪水っていうのが「ルール=役」。だから、ほんとは喋りたくて動きたくてしょうがない俳優を押さえつけるっていうことを、演出家として僕はやりたいんだと思う。出ない釘は打てないけど、出る釘は打てるから。ところがワークショップとかやっても、日本の俳優であんまりそういう人いないんですよね。物足りない。

──その違いは根深いかもですね。育ってきた環境が違いすぎるから。

神里 だからもう僕は役をルールとして考えたい。全然まだそこまで行けてないですけどね、みんな役にハマるためにどうすべきかってことになっちゃってて。喩えていうなら僕には、大量のチャーハンを埋め込むための型が役なんですよ。だけど俳優さんは、先に型があって、そこに詰め込む何かを探そうとする。これじゃあうまくいきませんね。僕がやってる場所が間違ってるのかもしれない。

──その意味では、海外の俳優とやりたいとは思わない?

神里 やりたいですね。そのためにもスペイン語を勉強してるんで。英語はキツイんでね。rとlの発音分けなきゃいけないのが納得できない! 「ロバート・デニーロ」って何度言っても伝わらないのが困るし。

──(笑)

神里 や、もちろん冗談ですよ。英語もいいんですけど、まだピンと来ないんですよね、英語話者の演技に。これはただの感覚か。もしくはスペイン語が好きすぎるのか。

──スペイン語には魅力を感じる?

神里 (満面の笑みで)いいな♥︎……喋りたいなって思いますね。耳慣れしてるせいか、心地よいですね。聴いててイライラしないっていうか。スペイン語は「なんで?」って言葉が「ポルケ?」っていうんですけど、いいですよね♥


▼拠点はひとつでなくてもいい
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──最後の質問です。今回4都市ツアーですけど、九州に毎年のように行っているのはなぜですか?

神里 たまたまなんですけど、熊本で地道にやってきた結果、もう4回目で。そして今回は熊本が初演だよ! っていうところにぜひ注目していただきたい。

──熊本を初演に選んだのは?

神里 これだけ熊本でやってても、まだ「東京から来てくれた」みたいなのがある。確かに「来てやったよ!」とは思うけど(笑)、逆に「観てやるぞ、早く来い!」みたいな関係で作品を生み出せるのがいいんじゃないか。もちろん緊張感もありつつ、リラックスしてやれるので、だから継続できてるんじゃないかな。

──東京で上演する時とは違いますか?

神里 なんとなく東京って緊張するんですよね。常に臨戦態勢でいないといけないのが東京で、いつでもリーマンと刺し違える覚悟で電車に乗らないといけない。ただ最近は、東京イヤだってことにアイデンティティを持つのもよくないとは思ってます。別のところに行く理由のために、東京を貶める必要はないとも思います。

──今後、ホームタウンを置きたい都市ってありますか?

神里 活動の拠点はここ(東京)でいいです。というか、1カ所にする必然性が感じられない。それはそれで不満抱えちゃいそうで。どこに行ったって、いいところもあれば悪いところもありますからね。リマにも気軽に戻りたいし。今も、靴とか服とかリマの家に置いてありますしね。沖縄も小笠原も行きたい。でもすでにプロフィールに「神奈川・東京」って書いてあるし、これでいいと思ってます。1カ所に限定しなくてもいい。ただ、自分は良くも悪くも自前のアトリエとかを構えるような状態ではなくなってしまったな……。

──積み重ねをどうするかってことですよね。同じ俳優とやり続けるのか、とか。

神里 移動するのは良くも悪くもですね。でも変えるつもりはなくて、むしろもっとガンガン移動したいんですけど。

──移動を続けていく中で、今回みたいに、何度か一緒にやってきた俳優がいるのは心づよいんじゃないですか。

神里 これ、変な意味に取らないでくださいね。どの俳優とも、もうこれっきりかもな、っていう気持ちもどこかにあるんです。

──それはイヤになったっていう意味じゃないですよね?

神里 そういうことじゃないですね。ただ、もしもそうなってしまったら諦めるしかない、というドライな気持ちを持っていないとやれないところもあるんですよ。でも、実は僕はかなりウェットなんで、いざ、これっきりということになったら、泣きますね。

神里雄大(かみさとゆうだい)
1982年、ペルー共和国リマ市生まれ。
父方は沖縄出身のぺルー移民、母方は札幌出身という境遇のもと、神奈川県川崎市で育つ。10代の数年間にはパラグアイ共和国、アメリカ合衆国などでも生活。
2003年の早稲田大学在学中に岡崎藝術座を結成し、オリジナル戯曲・既成戯曲を問わず自身の演出作品を発表。
日常と劇的な世界を自由自在に行き来し、俳優の存在を強調するような身体性を探求するアプローチは演劇シーンにおいて高く評価されている。
ここ数年間は、自身のアイデンティティに対する関心の延長線上で、移民や労働者が抱える問題、個人と国民性の関係、同時代に生きる他者とのコミュニケーションなどについて思考しながら創作をしている。『亡命球児』(「新潮」2013年6月号掲載)によって、小説家としてもデビューした。


【photo: Takuya Matsumi/『イスラ! イスラ! イスラ!』京都公演より】

取材・文:藤原ちから

≫岡崎藝術座『イスラ!イスラ!イスラ!』公演情報はコチラ

岡崎藝術座

2003 年、演出家・作家の神里雄大の演出作品を上演する目的で結成。南米の照りつけるような太陽のイメージや色彩・言語感覚、川崎ニュータウンの無機質さが混在する作品を創作し、独自の存在感を持つ。2006 年『しっぽをつかまれた欲望』で第 7 回利賀演出家コンクール最優秀賞演出家賞受賞。フェスティバル/トーキョー(2010-2012,東京)やTaipei Arts Festival2012(2012,台湾)など国内外のフェスティバルで公演を行なう。『ヘアカットさん』(2009)、『(飲めない人のための)ブラックコーヒー(2013)が 岸田國士戯曲賞最終候補にノミネートされた。 ★公式サイトはこちら★