ゆうめい『あかあか』 池田亮(劇作家、演出家)インタビュー
インタビュー
2022.05.15
残すもの、残るもの、残ってしまうもの。
家族を、演劇を、その視点から考えてみたい。
ゆうめいを最初に取材したのは、2019年上演の『姿』の稽古場だった。両親の出会いから別れ、そのもう一つ向こうの世代を生きる母の両親たち。時間を遡りながら丁寧に描かれる物語はもちろん、作・演出を手がける池田や俳優たちが、追憶するようにそこに生きる人の心を見つめていた光景が今でも心に残っている。書かれていることにとどまらず、書かれていないことに思いを馳せること。そんな眼差しを以て紡がれた演劇に、その記憶の逡巡に、私はこれまで気づかなかった感情を呼び起こされ、とても動揺した。動揺しながら、結局三度も劇場に足を運んでしまった。自分の心に在る何を確かめたかったのかはわからない。そんな経験は初めてだった。
昨年上演された『娘』もまた、2人の“娘”の人生から、それぞれの父や母、そして子どもへとやはり時は往来を重ねた。この二作を「三代記」と呼んでも良いのであれば、間もなく上演を迎える『あかあか』もまたそうなるのだろうか。2018年の初演と2020年に中止となった『あか』を経てタイトルを一新、脚本も演出も新たな形での上演となる『あかあか』。
物語の中心となるのは、今は亡き池田の祖父であり、画家であった池田一末である。出演には、一末の息子である五島ケンノ介、そして孫である池田自身の名前もある。家族を描いた物語に、実在の家族が出演する。ゆうめいにおいてそのセンセーショナルな構造が注目されることもあるが、池田は決して、家族を家族としてのみでは描かない。家族を個人や他者として見つめること。 その必要性と難しさを同時に感じながら、私はいつも客席で圧倒されてしまうのである。
池田亮氏
── これまでご自身に起きた出来事や家族との関係をモチーフに劇作を行われてきた池田さんですが、本作の執筆にあたってはどんなきっかけがあったのでしょうか?
池田 画家であった祖父は数百点の作品群を残したのですが、建物の老朽化が進み、保管先のアトリエを解体することになったんです。絵の処分という未来が見えてきたことをきっかけに、これまで家族が祖父の絵を残してきたことや、残さなきゃいけないと感じてきたこと、今後残せなくなる可能性について色々考えるようになりました。また、息子である父自身が祖父の絵の行方について悩んでいることや、同時に僕や父がその絵の価値を完全に理解し得ていないことについても考えました。「売れない絵を描き続けたのはどうしてだろう?」。そんなことを知ろうとすることで、父や祖父に対してこれまで踏み込めなかった部分にも踏み込んで行けたらと思っています。
── 初演の『あか』を上演された当時から、絵を巡る状況や家族の心情にも変化があったのですね。
池田 そんな折に生前祖父が記した雑記がアトリエからたくさん出てきたんです。そこには、「残してもらいたい」、「売れたかった」みたいなことが書かれていて…。祖父は賞を獲ったことはあるけれど、絵が売れたことは1度しかなかった。そんな出来事を元に劇作を始めました。雑記を読んでいるうちに、「売れるもの」と「売れないもの」の違いや、芸術やその価値のわからなさ、「残されるものはどうして残されるんだろう」ということを改めて考えました。舞台美術としても祖父の絵を使うんですけど、そもそも舞台美術自体、終演後は保存するか否かの判断が難しく、前作『娘』の時は舞台美術のリサイクルに回しました。舞台美術は公演というものありきというか、そこに価値がある。そんな「価値」というものを考えた時に、祖父の絵を残す・残さないということともリンクがあるようにも感じました。
── 芸術や表現というものを残すことや、残されていくことについて改めて考えさせられるお話です。そういう点では、舞台美術が残ることはあっても、演劇は形としては残らない。そんな創作の中で池田さんが大切にしていることはどんなことでしょうか?
池田 作品を残すことと同時に、感情や記憶、体験といった「形はなくとも残っていくもの」について考えています。どうしても残さなきゃいけないものって、人の中に残っていくものなんじゃないかと僕は思っていて。演劇は生まれたそばから消えていくものですが、観に来て下さった方の中に残るものがあるって、すごく大きいことだと思うんです。それは自分自身もまた同じで。祖父の体に限界がきて文字も書けなくなった時に「芸術に泣きつきたい」というような言葉を祖父が言ったことがあったんです。それは雑記にも書かれていないし、形としてはどこにも残ってない。でも、僕の記憶にはすごく残っているんですよね。だから戯曲にも書きました。
── 池田さんの紡がれる演劇には“その瞬間のもの”が閉じ込められていて、記憶を追体験しているような気持ちになります。そんな手触りある記憶に触れた時に、ごく私的な記憶が一緒に呼び覚まされたりもして…。
池田 絵や雑記といった形として残っているものと同じくらい、その一瞬にだけ発せられた言葉や現れるもの、そんな記憶だけを信じて、残したくて、演劇を作っている瞬間があるんですよね。そして、それを目撃して下さる方がいることで、現実と地続きになるという有難さが演劇にはあって。「池田家はこういうことになっています」という発表にご一緒していただき、そこに何か残るものがあれば嬉しいです。形として残すという意味では、「祖父の絵をピンバッチにしたらどうか」というアイデアを舞台監督の竹井祐樹さんが出してくれて。確かに形の変換というか、別の残し方もあるかもと考えてみたり…。そんな風に視野を広げたり、欲張りなこともたくさんしてみようかなと。
城崎国際アートセンターでの稽古風景
── 城崎(国際アートセンター)での滞在制作と試演、神奈川・三重でのツアー公演。今回はゆうめいにとっては、初尽くしの公演でもありますよね。
池田 滞在制作で最初に驚いたのは、城崎まで運んだ祖父の絵を見た時でした。アトリエの押し入れの中で見たときとは全然違うものに見えたんです。場所によって、作品も人も変わるということを痛感しました。「試演」と言いつつ、その中には城崎でしかできないクリエイションがあると感じています。滞在期間は一週間じゃ足りなかったですね(笑)。クリエイションの内容として足りないのではなく、冒険や実験、時には脱線もしてみていいのかなと思えるすごくいい環境だったので。
── 充実した制作期間だったのですね。滞在中に他に印象的な出来事はありましたか?
池田 稽古場と寝る場所が近いという効率面での幸せだけでなく、作品と生活が身近なところにあることもこの作品にとっては、何より貴重な時間だと感じました。キャストの佐野剛(江古田のガールズ)さんが「本読みして、稽古して、温泉に入っただけで80%くらい完成してる気がするね」って言って下さって。本当にそうだなと思いました。本作にはお風呂にまつわるシーンもあるので。
── とても大切なシーンですよね。
池田 みんなにも話したんですけど、城崎で父が体を洗っているのを見た瞬間、すごく不思議な気持ちになったんです。舞台上で体を洗うシーンがあるんですけど、そのまま鮮明に現実に現れた感じで…。稽古場にも生活の中にも父がいて、現実と芝居を同時進行しているような感覚があり、そんな体感をクリエーションメンバーと共有できることも、それを元にみなさんが様々なアプローチをして下さるのも刺激的でした。同時に、この環境に甘えず、どんどん冒険もしていきたい。髪をゴシゴシと洗っている、その白さが泡なのか白髪なのかわからない父を見ながら、そんなことを思っていました。
── 今回は、父である五島さんだけでなく、池田さんご自身も出演されます。俳優としての共演も、池田さんご自身の出演も久しぶりですが、本作に出ようと思ったきっかけがあればお聞かせ下さい。
池田 絵という家族が残したものを前に「受け継いでいく行為ってなんだろう」って、ふと思ったんです。父が舞台に出ていて、その背後には祖父の絵があって。生きている人と死んでいる人の境目じゃないですけど、そんな風にも感じたりして。祖父が残したものを父が受け継ぎ、父が残したものを自分が受け継ぐ。そんなことを意識した時に、いずれ訪れる父の死を考えたりもして。僕自身に子どもが生まれたこともあり、そういったことをより考えさせられるようになりました。人類でいう繁殖、家族でいう子孫、「子どもが生まれていく」という行為の中には何が残るんだろうって…。そんな歴史の部分もドキュメンタリーとして、そして延長線にあるフィクションとして残しておきたいと考えた時に、本作は自分が出て完成する作品なんじゃないかと思ったんです。
城崎国際アートセンターでの試演会ゲネプロより
── 『あか』から『あかあか』への変遷はもちろん、『姿』と『娘』という三代記を経ての『あかあか』で、また新たな角度で家族の物語に触れられるのも楽しみです。
池田 今回は音楽劇の要素も取り入れたいと思い、その楽曲提供を春日部組というバンドをやっている実兄にお願いしました。兄については劇作にも少し盛り込んでいます。これまで自分や家族の実体験をたくさん描いてきましたが、今後はより他者へ広がっていきそうだなと感じています。来年は池田家から離れた話にしようか、という計画もあったり…。そういう意味で『あかあか』は、今までゆうめいがやってきたものの一つの区切りになるかもしれません。ただ、家族であってもやはり個人だと感じることは本当に多くあって。『姿』や『娘』で、母を母として、父を父として見ない瞬間を描いてきたように、今回も祖父を祖父として見ない瞬間があります。池田一末という画家がいて、五島ケンノ介という俳優がいる。血縁を関係なく、家族とはまた別の文脈で描きながら、家族としての一面も描く。そんな中で今回ご一緒して下さる、血のつながらないキャストの方々の力をお借りして、他者へと大きく拡がっていくような表現ができたらと思っています。
── ありがとうございました。開幕を楽しみにしています。
『「夕と明」「幽明」人生の暗くなることから明るくなるまでのこと、「幽冥」死後どうなってしまうのかということから。「有名になりたいから“ゆうめい”なの?」と普段思われがちの名前から、由来のように「物事には別の本意が存在するかもしれない」という発見を探究する』
これは、「ゆうめい」というカンパニーの名前の由来である。ゆうめいの演劇を語るとき、私はどうしてもこの由来を添えずにはいられない。
取材・文:丘田ミイ子
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