【連載】ひとつだけ 徳永京子編(2016/11)―新国立劇場 演劇『ヘンリー四世 第一部 ‐混沌‐・第二部 ‐戴冠‐』
ひとつだけ
2016.11.11
あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?
2016年11月 徳永京子の“ひとつだけ” 新国立劇場 演劇『ヘンリー四世 第一部 ‐混沌‐・第二部 ‐戴冠‐』
2016/11/26[土]~12/22[木] 東京・新国立劇場 中劇場
長く感じる芝居は言うまでもなく嫌い。でも、長い芝居は意外と嫌いではない。と言うか、むしろ好きなほうだと思う。よく「理想の上演は90分」とか「2時間以内が絶対条件」という意見を聞くし、体への負担などを考えると一理あるとは思うものの、とんでもなくおもしろい芝居を観ているうちに痛みを忘れる、心身の調子が良くなるという経験を何度もしているので、上演時間に対する私のこだわり度はとても低い。
逆に、椅子が固くても時間が経つのを忘れるおもしろさをつくり手には目指してほしいし、均された快適さのもとでお手軽にゲットできる感動はたかが知れているし、そもそも、短時間で結論を確認して安心する風潮と異なるところに演劇の醍醐味はあるのだから、一定の長さ以上の体験を劇場でさせることに、なんの遠慮がいるだろう。
何年か前にも書いたことがあるけれど、今どき、客に足を運ばせて椅子に体を固定して「むやみに動くな、連れがいても話すな、飲食するな、携帯もいじるな」という強制力を発揮しているものは演劇以外にないと思う。その強気だけでも格好いいのに、その上なお、長い拘束時間を奪おうというのは、よほど本気で観てほしいこと、実感してほしいことがあるか、あるいは単にどうかしているかだが、その場合はちょっと期待したい“どうかしている”だ。
新国立劇場の『ヘンリー四世』は、シェイクスピアが15世紀のイングランドを舞台に書いた史劇で、もともと二部構成のものを今回は「第一部─混沌─」「第二部─戴冠─」と名付けて同時期に上演する。正確な上演時間はまだ出ていないが、どちらも観たら6時間前後になることはほぼ確実。一方だけでも成立するが、やはりここは両方観ておきたい。
あまり慰めにはならないかもしれないが、今回の二作同時の端緒となったのは09年に上演された『ヘンリー六世』で、そちらは三部構成、合計9時間あった。当然、回数も多くなかったのだが、瞬く間に評判を呼び、この年の演劇賞の多くをさらった。そして同じスタッフとキャストで12年に『リチャード三世』(こちらは3時間)が上演され、今回へと続いていく。最初の『ヘンリー六世』で演出の鵜山仁は「100年単位でなく、1000年単位で人間や世界を考えていきたい」と話していたが、その大局の眼差しは、敵と味方が何度もひっくり返りながら壮絶な戦いを繰り返していく様子を生々しい近距離で、そして月を望遠鏡で眺めるような俯瞰で見せた。
ストーリーは史実に基づいているのでややこしい。が、だからこそ演劇で観る意味がある。大河ドラマで日本史が立体的になるように、生きた人間が何度も名前を呼ばれ、その名前の人間として誰かと会話し、企み、裏切られ、浮き沈みする様子は、文字で読むよりも話で聞くよりもずっと歴史を身近に感じられる。先に「ややこしい」とは書いたが、そこはシェイクスピアのこと、架空の人物を登場させたりキャラクターに陰陽のメリハリをつけて、観客を惹き付ける大小いくつものうねりを用意する。そして、ひとつの舞台を長時間見続けると出てくる“優れた観察者成分”も分泌され、体は椅子に固定されていても、歴史の荒波の微細なひだと全体図を同時に視界に入れる快感を得る。
また最大の見どころは、7年前の『ヘンリー六世』と4年前の『リチャード三世』と同じスタッフ、同じキャストが再々集結すること。時代を遡るので全員が同じ役ではないが、たとえばヘンリー六世を演じた浦井健治はその父となるハル王子(のちのヘンリー五世)を演じるなどの工夫がある。そして多忙な面々が奇跡のように揃ったのには、多くの俳優にとって前2作が、以降の仕事に影響を与える新境地を開いたという理由もあるだろう。特に、無能呼ばわりされた非戦の王・ヘンリー六世を演じた浦井、醜い外見と醜い心を持つリチャード三世を演じた岡本健一、運命に翻弄されながらも未亡人から妃へのステップを昇るエリザベスを演じた那須佐代子は、もともと高かったポテンシャルを大きく上書きしたので、彼らに再会できるのはうれしい。
『ヘンリー六世』と『リチャード三世』が高い評価を得た分、プレッシャーもあるだろうが、それを乗り越える鵜山の指揮に期待したい。続いている話とは言え、異なる大作2本を連続で上演するなんて、やはりどうかしているのだから。
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