【連載】ひとつだけ 徳永京子編(2016/3)―ドキドキぼーいず#06『じゅんすいなカタチ』
ひとつだけ
2016.03.2
あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?
2016年3月 徳永京子の“ひとつだけ“ドキドキぼーいず#06『じゅんすいなカタチ』
2016/3/10[木]~3/13[日] 東京・調布市せんがわ劇場
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私はドキドキぼーいずをほとんど知らない。劇団の成り立ちや、主宰・作・演出の本間広大がどんな演劇体験を経てきたのか、なぜ誤解を多く招きそうな劇団名にしたかなど、それらを知る機会はまだない。客観的な事実ということで言えば、劇団のHPにある、メンバーの大半が1990年代前半生まれであること、劇団結成から5年ほどという程度しか、正確な情報を把握していない。
よく知らない劇団を「ひとつだけ」に推薦するのは勇気が要るが、思い切るひとつの理由は、本間の画(え)づくりの才能が気になるから。
最初に彼の演出を観たのは利賀演劇人コンクール2014で、野外の舞台を使った『ハムレット』だった。おそらく屋外でやることに慣れていなかったのと、現地での稽古が充分でなかったのと予想するが、空間に対する俳優の発声(声量)が調整できておらず、演出家によってアレンジされた戯曲のせりふがほとんど聞こえなかった。もしかしたら、画づくりだけを優先して岩舞台という場所を選び、せりふを聞かせることをハナから捨てていたのかもしれないが、いずれにしても観客としてストレスを感じるその上演は、決していい出来とは言えなかった。
だが、高低差を活かし、周辺に自然に生えている草や木、そして闇をうまく使った俳優達の配置が、時々とても美しかった。特に、周囲に人のいない岩場にぽつねんと立ち、濃い夜に飲み込まれないよう、精一杯無感情を装うハムレットの儚いシルエットは、今も目に残る。届くか届かないかの中途半端な声量でボソボソと、でも恨みがましいことだけは伝わってくる、髪を金髪に染めた日本の青年は、世界に対してあまりに頼りなく、また、無防備に甘えているようで、演出家の意図とは違うかもしれないが、なるほど、これは日本のハムレットかもしれないと思った。
そして2本目が、去年のせんがわ劇場演劇コンクールでのオリジナル作品『闇』だった。審査員として参加していたので他の出場団体も観たのだが、全6作の中で同作はぶっちぎりの点を獲得し、ドキドキぼーいずはグランプリ、本間は演出賞を受賞した。
『闇』は、近く、遠くつながった何人もの人々、それぞれの生活の断片をランダムに並べて、最初は無関係に見えたそれらが、ひとつの無差別殺人につながっていく=見ず知らずの人間が身勝手な理由で起こした事件も、私達と決して無関係ではないということを、言葉でなく示唆した内容だった。
その組み立ても巧みではあったが、何よりも感心したのは、やはり画だった。出てきた俳優はほとんどそのまま舞台上に残るのだが、シーンごとの移動と配置が常にフォトジェニックで、ほとんど何もない素舞台を使いながら、どこから観ても立っている人が重ならない気配りがなされていたと思う。また、次のシーンに関係なくなった人々から、関係する人々への観客の誘導が、実に自然だったのにも感心した。講評でも言ったが、おそらくどの瞬間を切り取っても、いい舞台写真が撮れるのではないかと思った。25歳でそれだけの意識をビジュアルに持てる演出家は、そう多くない。
俳優の集中力も高く、どんな人物か、どんな状況か、どんな気分かを説明するせりふがほとんど与えられていないのに、その人物だけの苛立ちや空洞が中にある身体で立っていた。これも本間の演出力だろう。
そしてもうひとつ。彼らのプロフィールから、精力的に“広い”評価がくだされる場所に自分達を置いていることがわかる。利賀演劇人コンクール、せんがわ劇場演劇コンクール、この2月には大大阪舞台博覧会に出場し、こちらは惜しくも本選に残れなかったがCoRich舞台芸術まつり!2016春にも応募と、腕試しの場を積極的に探し、果敢に攻めている。「早く売れたい」「認められたい」と口にする人はとても多いが、それを計画的に実行し続ける人は少ない。
『じゅんすいなカタチ』は、せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリ受賞団体に贈られる「劇場無料使用権」を使った、彼らの初の東京本公演。小さな選択を重ねて、いつの間にか悲劇が引き起こされる家族を描くという。アフタートークにSEALDsの奥田愛基氏を招くなど、並々ならない意欲と努力を感じる。
早く先に行きたいという熱量と、高い視覚的センスを持った本間の力を東京で確かめるチャンス。仙川(京王線のほうです。池袋に近い千川ではありません)はそんなに遠くない。
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