【連載】ひとつだけ 徳永京子編(2015/11)―ロロ いつ高シリーズvol.1『いつだって窓際であたしたち』
ひとつだけ
2015.11.1
あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?
ロロ いつ高シリーズvol.1『いつだって窓際であたしたち』
11/12[木]~23[月・祝] 横浜・STスポット
©西村ツチカ
地区大会など高校演劇の審査員に、小劇場の若手劇作家、演出家が多く携わっている。その顔ぶれが驚くほど幅広く、また、審査を通して彼らが受ける刺激が小さくないことは、Twitterに流れてくる感想を見ていると伺える。かく言う私自身、去年と一昨年、東京都の高校演劇中央発表会の審査員を務めさせてもらい、噂に聞いていたレベルの高さ、そして問題点を感じ、その一部をTwitterで連投した(すぐに高野しのぶさんがまとめてくださった。深謝。)。
こんなおせっかいをしたのは、高校演劇に極めて高いポテンシャルと可能性、その時期限定のエネルギーやきらめきに触れて感動し、と同時に、それらが無駄使いされてしまう危うさがあることも気になったからだ。
これはまったく勝手な予想だが、三浦直之も似たようなことを、私よりもずっと強く感じたのではないか。ロロが始めた新プロジェクトの詳細を聞いて、そう思わずにはいられなかった。「いつだって可笑しいほど誰もが誰かを愛し愛されて第三高等学校」を舞台にした連作=「いつ高」シリーズと名付けられたそれは、高校演劇のフォーマットに合わせて作品をつくっていくという。つまり、仕込みは10分、上演は60分。それだけでなく、戯曲をネット上で無料公開し、上演料も無料、さらに自分たちがどう仕込みをするか、その様子まで公開する。物語はすべて高校を舞台にした内容というから、徹底的に高校生にとっての使いこなしやすさ、身近さを考慮している。
前述の私が感じた「危うさ」の内訳はいくつかあるが、戯曲の問題はまず大きかった。「高校生が直面する出来事」「高校生らしい悩み」「いかにも高校生の言葉使い」などが扱われていても、それは大雑把でリアリティのない高校生像なのに、当の本人たちが気付いていない。ビビッドでない言葉によって、ビビッドな身体が古臭いものに見えてしまうことに何度かショックを受けた。
もし三浦が近い感想を抱き、そうした悲劇が上演時間60分という条件のもとに生まれるのなら、その条件に即したビビッドな戯曲を書けばいい、と考えたとしたら──。この想像は私を興奮させる。他の誰でもない三浦なら、そのせりふを言うことで俳優の身体にある若さが純度を増して、リアリティを凌駕する圧倒的なフィクションを書いてくれるはずだから。そこには、無敵の高校生らしさが生まれるだろう。
さらにこのシリーズ、昨今一般的になった高校生割引からさらに進んで高校生はチケット代無料(枚数は限定)、さらに、子どもが演劇をすることへの理解を深めるため、保護者のチケット代も1000円引きする(通常の一般料金は2800円)という。まるで、演劇の未来を一劇団で担う自負すら感じてしまう至れり尽くせりぶりだ。
そして、つらつらと書いてきた上記の社会的意義のようなものとはまったく別に私が『いつだって窓際であたしたち』を推すのは、劇作家としての三浦の著しい成長を感じるから。遅筆で知られていた三浦だが、前作『ハンサムな大悟』から、書いている筆に油が回っている様子がはっきり感じられた。それと無関係ではないだろう、内容は非現実的なのに物語の骨格は太く懐は深かった。早い段階から戯曲が書き上がっていなければ進まないプロジェクトをスタートさせたのは、そういう意味でもたくましい。
そしてそして冒頭に戻ると、気鋭の若手作・演出家を次々と審査員に起用している人が確実に中にいるわけで、それを考えると、高校演劇はやはりあなどれない。