【連載】ひとつだけ 藤原ちから編(2016/9)― 遊園地再生事業団+こまばアゴラ劇場『子どもたちは未来のように笑う』
ひとつだけ
2016.09.3
あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?
2016年9月 藤原ちからの“ひとつだけ” 遊園地再生事業団+こまばアゴラ劇場『子どもたちは未来のように笑う』
2016/9/3[土]~9/25[日] 東京・こまばアゴラ劇場
『子どもたちは未来のように笑う』はまずタイトルがいいと思う。希望を感じさせながらも、ただ楽観的なものには思えない、どこか不穏な気配が漂っている。そもそも「子どもたち」って誰のことなんだろう? いろんなイメージがここからひろがっていく。
3月に上演されたワークインプログレスでは、妊娠と出産をテーマに、前半は様々な小説やエッセイや戯曲から引用がなされ、後半はというと、いくつかのシチュエーションによる会話劇によって構成されていた。コミカルなものも含めて印象的なシーンがあったのだが、特に最後の「障害を持った子どもを産むかどうか」について話すシーンには、かなり、震撼させられるものがあった。
わたしは客席であのシーンを観ていて、「障害を持つ人にも生きる価値や権利は当然ある」と思いながらも、同時に割り切れない複雑な思考や感情を呼び起こされた。たとえば自分の中にもおそらくある差別意識や、他者をヘイトすることによってしか自らのアイデンティティを保てない人々のこと、そしてその彼/彼女をそうさせている背景のこととか……。
あのシーンは、障害を持って生まれてくる子どもの命を肯定するかどうかという問いを、欺瞞的な装飾を剥ぎ取る形で突きつけるものだった。そこでは演劇は「メディア」として機能した。人々がひとつの場所(劇場)に集まり、共に考える機会になったという意味で。けれども、あくまでもあれはディベートではなく、演劇だった。わかりやすい論理的対立軸には回収しきれないような、複雑な感情やイメージを捉えることが、演劇にはたぶんできるのである。そこには簡単な「解決」はない。だからワークインプログレスから半年経った今、わたしは『子どもたちは未来のように笑う』を、白黒のつけられない断片的なイメージの集合体として記憶している。断片、つまり俳優たちの表情や、声、といったものとして。
しかし、この半年のあいだに状況は大きく変わってしまった。7月に相模原で起きた事件は、最悪の「解決」を図ろうとするものだった。もし今回の公演にもあのシーンが残っていたとしたら、観客は、この凄惨な事件を思い起こさざるをえないだろう……。物議を醸す(controversialな)上演になることが、子どもたちの未来や命について考えようとしているこの作品にとって、幸福なことかどうかはわからない。わたし自身、もしも観たとしたら何を感じるだろう? というのも実は今、ドイツに向かう飛行機の中でこの文章を書いていて、11月まで日本に戻らないから、今回の公演は観られないのだった。機内のモニターによるとさっきサンクトペテルブルグ上空あたりを通過したらしいのだが、こうして今の日本の言説環境からぐんぐん離れていくことに、正直いくらかホッとしている自分がいるのは否めない。とはいえ、やっぱり今回の上演に立ち会えないのはとても残念だ。せめて遠くからでも意識していたいと思い、「ひとつだけ」に推すことにした。
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ドイツ、デュッセルドルフに到着した。去年ここに来た時と同じように、ヒジャブを着た女性が普通に町にいるのを見て、まずは安堵した。テロとかそういう暴力は、どこか別の世界で起きているのかもしれない。そうあってほしいと思う。だが現実はそうではない。今わたしの目の前にさしあたり実現されているように見える多文化共生の姿も、一寸先はどうなっているかわからない。
トラムの中で、やんちゃなムスリムの子どもに出会った。彼は、遠いどこかのことを想像しているような、賢そうな目をしていた。そして、笑った。
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