【連載】ひとつだけ 藤原ちから編(2016/3)―地点『スポーツ劇』
ひとつだけ
2016.03.2
あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?
2016年3月 藤原ちからの“ひとつだけ“ 地点『スポーツ劇』
【京都公演】2016/3/5[土]~3/6[日] 京都・ロームシアター 京都サウスホール
【横浜公演】2016/3/11[金]~3/21[月祝] 神奈川・KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ
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ある町の美術館に行った。芸術への敬意に満ちた良い美術館だった。来場者は芸術作品を腕組みして鑑賞するというより、美術館という環境それ自体を楽しんでいるように見える。小さな子どもが、どこか遠い町の映像をじっと見つめている。背広を着たおじさんが、人工生命の心臓音を聞いて、俺の心臓もこんなんかな……とつぶやいている。若い女性が、1960年代のタイポグラフィを熱心に見つめている。
不意に中庭で、上品そうなマダムたちの歓声があがる。「わーすごいすごいすごい!」機械仕掛けの人形がゆっくりと立ち上がったのだ。何の変哲もない、単に大きなものが動いただけのことだった。いったいそこにどんな芸術性があるというのだろう。しかしその巨大人形の動きは、彼女たちの心にある何かを刺激し、その唇をして「わーすごいすごいすごい!」と言わしめたのだった。
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芸術が、一部の教養ある人間の嗜みとされた時代は、とうの昔に終わっている。芸術は今や様々な形をもってこの世界の中に埋め込まれており、異種交配を繰り返しては進化し、時には新種を生み出し、そのネットワークを全世界にひろげている。
それは人間が生み出したものだし、今後も(たぶん)人間が生み出していくものだと思うが、それでいて、増殖や発展を続けるこの芸術というものは、どこか別種の生命体のようでもある。そう、例えば、宇宙人だと考えてみるのはどうだろう。芸術は宇宙人である。だとしたらそれは人類の敵だろうか? 友だちだろうか?
宇宙人なのだから「わからない」のは当たり前だ。しかし「わからない」ことを怖がる人間は多い。自分の何かが侵略されるという危機感からか? 芸術に恐ろしい力があるのは確かだ。だけど怖いだけのものではない。それは遠い未来からの使者かもしれないし、過去の滅びた文明からの呼び声かもしれない。忘れるな。私を、忘れるな。芸術はそうやって、人間の身体に眠る感覚を呼び醒ます。暴力。哀しみ。ノスタルジー。憧れ。恋。悦び。そしてそうした名前でまだ呼ばれていない、何かを。
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さて本題。地点とイェリネクのコンビは大ヒット作(いや場外ホームラン作)『光のない。』以来となる。あの作品もかなり「宇宙人」感があった。ブラックホールに吸い込まれるようにして彼らは去っていったのだった。そして数年後、彼らは再び『スポーツ劇』という妖しげな名前の戯曲を携えて戻ってきたのだ。この戯曲は1998年に書かれたもので、オリンピックを題材にしているらしい。当然、今上演するとなると観客は2020年の東京オリンピックを意識せざるをえないだろう。しかし単純なオリンピック批判を地点やイェリネクが展開するとは思えない。きっと人類の歴史を省みるような壮大な物語であると同時に、今を生きる人間にも何かしら響くものになるに違いない。平和の象徴としてのオリンピック。戦争の代替手段としてのオリンピック。それは野蛮な代物なのか。それとも、洗練された人類の知恵なのだろうか。
宇宙人なのだから「わからない」のは当たり前だ。しかし「わからない」ことを怖がる必要はない。初心者も玄人もない。宇宙人との交信のきっかけは、ふとした瞬間に訪れる。怖くはない。ただしそれは人生を決定的に変えてしまうかもしれない(わたしがはるか昔に地点の『三人姉妹』を観てそうなってしまったように)。わたしの人生は変わってしまった。しかし、わたしはわたしの人生に芸術があってくれてよかったと心から思っている。未知との遭遇をどうか楽しんでほしい。
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