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新・演劇放浪記 第7回 ゲスト:あごうさとし(演出家)

新・演劇放浪記

2017.09.20


新たな才能を次々と輩出してきた「小劇場演劇」が、たぶん今、何度目かの変革期を迎えている。その変化は現在どのような形で現れているのか。そして未来の演劇はどうなっていくのか?
国内外に散らばる演劇の現場の最前線。その各地で活躍する人たちを藤原ちからが訪ね、インタビューと対話を重ねていくシリーズ「新・演劇放浪記」。

第1回:岡田利規(チェルフィッチュ) 第2回:三浦 基(地点) 第3回:イ・ホンイ(翻訳家、ドラマターグ) 第4回:植松侑子(制作者、Explat理事長) 第5回:武田力(アーティスト、俳優) 第6回:坂本もも(制作者)

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関西の小劇場演劇において、おそらく最も重要な拠点であった劇場・アトリエ劇研が、この夏、その30数年の歴史に幕を下ろした。今回登場していただくのは、そのアトリエ劇研の最後のディレクターとなった、あごうさとし。初めての出会いは2016年の春、KYOTO EXPERIMENTのレセプション会場だった。「藤原さん、ひとつ、劇評を書いていただけませんか?」と岩渕貞太氏の ダンスの劇評 を、偶然出会ったその場の勢いで依頼されたのだが、彼独特の凄みというか覇気というか間合いに引き込まれて、とても断る気にはなれなかった。大した人やなあ、と思ったのが始まりだった。

それから京都に行くたびに何度かお会いする機会があり、彼が新しい劇場「 Theatre E9 Kyoto 」をつくろうと奔走する姿を横目に見てきた。どう考えてもラクな仕事ではなさそうだった。だが、誰かがやらなくてはならない。もちろん、新しい劇場をつくることで京都の/関西の/日本の演劇文化を救おうなどという大それた考えは、ドン・キホーテ的な思い込みかもしれない。しかし仮にそうだとしても、わたしは、意志を持って実際に行動する人物を尊敬したい。どんな妄想も、実現すれば、現実になるのだから。そしてその「劇場」という現実は、今後の100年の流れを変えるかもしれない。

さて、新劇場建設のために、何かと矢面に立って発言することが多いあごうさとしの、実はアーティスト個人としての側面をぜひ知りたいと思ってインタビューを申し込んだ。だが第1弾のクラウドファンディングの締切が迫っている。すでに100%を超えたとはいえ、お金はいくらあっても足りない状況であるらしいので、少しでもサポートしたい。そこでインタビューを前編・後編に分けて、まずは劇場関係の話をお届けすることにした。後編では、香港で過ごした少年時代のことから、やんちゃな京都学生演劇時代、劇団時代の葛藤、そしてソロ名義として活動するようになった今のことなど、彼の知られざる側面に踏み込んでいくので、乞うご期待。

(2017年9月6日&12日、京都市内にて収録)

写真1
アトリエ劇研最後の日のパーティで挨拶するあごう氏。



▼アトリエ劇研のディレクターとして

──クラウドファンディング第1弾の締切も迫っていますので、まずは新しい劇場の話をお聞きしたいと思います。あごうさんはアトリエ劇研に、支援会員制度と年間プログラムを導入することで、稼働率を上げた。そして黒字になってきた状況だったと伺っています。そのタイミングで閉館になったっていうのは、それは大家さん側の意向だったんですか?

そうですね。オーナーさんであり、NPO劇研の理事長でもあり、館主でもあられる波多野茂彌さんが、もう齢90を超えてらっしゃるんですね。そんなご高齢になってまで貸してくださってたんです。ただもう流石にお歳だし、旗を下ろす準備をしていかないといけない。これはもう止むを得ないですね。僕が2014年9月にディレクターに着任して、2015年の春先に波多野さんから電話がかかってきて、そういう意向を聞いていました。それがなぜ最終的にこの8月末までになったのかは、これが僕のディレクター1期目の任期の終わりであり、かつ、アソシエイト・アーティストと創造サポートカンパニーの期限でもあったんですよ。だから20枚以上の判子が押された契約書があって、さらには年間プログラムもスタートしてたから、これがなくなったらもう前代未聞の大事故を起こすし、関わった人全員がお金も名誉も信用も全て失ってしまう。誰もハッピーにならない。その具体的な根拠として契約書があったので、ここまで保ったんです。

──なるほど。契約書は大事なんですね……。

いやほんと、甲やら乙やらってなんかやらしい契約書つくって大袈裟やんけ、って感覚もそれまではあったんですけど、結果的にそれが活きましたね。

──あごうさんはそれまでは学生演劇をやって、劇団つくって、そしてソロのアーティストとしてやってこられたわけですよね。でも劇場のディレクターの仕事はそれとは全然違うはずです。オファーはどうやって来たんですか?

公募やったんです。当時は平田オリザさんのロボット演劇のツアーでアメリカに行ったりもしてたんで、アトリエ劇研でなんか公募してんなー、くらいの感じやったんですけど、帰国して、締め切り当日の日の21時過ぎくらいですよ。ビール呑んでもう寝ようとしてたんです。そしたら(舞台監督の)浜村修司から電話かかって来て、推薦出すから応募してくれへんかと。0時までにメールで送ってくれたらいいからと……。それでパッと応募書類出して、その後で理事の面接があったんですね。で、最後は4人に絞られて公開プレゼンテーションをするんです。会員30人くらいの前で。そして最後は投票で決まるという流れでした。

──民主主義的なプロセスがあるんですね。

手続きは真面目でしたね。とにかくそれで選んでいただいたのが、2013年の夏です。そして2014年に着任しました。

──じゃあモチベーションほぼゼロなところからの話だった?

俺にやらせろ!みたいな気持ちではなかったです。ただ劇場に対して思うところがあったので。それはまさに年間プログラムや会員制度があってもいいんじゃないかという、実際にやったことをプレゼンでも言うただけなんですけどね。ただ実際に選ばれた以上、さすがにこれは勉強せんなあかんのちゃうん、と思って、ディレクターに選ばれた次の日に平田オリザさんに電話して、ついては在研(文化庁芸術家在外研修員)でフランスに行って勉強したいので、推薦文を明日中にお願いできませんかと無茶なお願いをして。

──ほんま、いつも締切ギリギリの綱渡り人生なんですね……(苦笑)

もうね、全部ギリギリですわ! データで先にいただいたら明後日、新幹線で判子だけもらいに行きます、みたいな急展開で。平田さん、いい推薦文書いてくださったんですけど、1個だけ間違いがあったんです。「利賀演出家コンクール・優秀賞」って書いてありますけど、僕、優秀賞じゃなくて奨励賞です、っていう……。審査委員長が優秀賞って言うんやったらそれでええことにしたかったですけど(笑)。とにかく、おかげで在研も行けたんです。

──フランスへ。

それでフランスでアドバイスを得て、帰国してなんとかディレクターをやったんですね。在研の経験で良かったのは、「劇場でクリエイションする環境をどうやって高めていくか?」を猛烈に考えるようになったことです。クリエイションの時間をどれだけ長く確保し、クオリティを上げられる環境をどうやって整えるか。劇場を最大限に使うフランスの創造環境は強烈でしたね。

──フランスでは、劇場への研修という形で行ったんですか?

ジュヌヴィリエ国立演劇センターというところです。国立演劇センターのミッションは、最新の作品をクリエイションして、公開し、さらにツアーで回していくこと。なので年に6~8本しか上演がないんです。ランスルーっていう名のゲネが2週間とか3週間とか続くんですよ。非効率的かもしれませんけど、一方では、全スタッフ・全キャストが徹底的につくるわけですから、強度が違いますよね。それはもう隅々まで。例えば照明家なんかも、「この赤を青にしろ、とかそんな指定はするな。イメージとコンセプトだけ伝えてくれればいい。解答を出すのは俺たちだ」と言うわけです。なぜならトライをする時間があるからです。日本だと創作の時間が限られているので、演出家も計算してパッパッパッパッと指示してやっていかなきゃいけない。そういう反射神経が要求されてるところがありますよね。でもフランスの演劇センターはそうじゃない。とにかく全員が作品のことを考える時間がある。もしかすると俳優もそうかもしれないですね。日本だと、パッパッて、反射的に返していくしかないという。

──ノリ打ち、みたいな感じで客演したり現場に入ったりすることもあるでしょうしね。

前提条件が違いすぎるんですよ。そういう贅沢で潤沢な芸術的時間を実現していくことが、果たして日本の劇場にできるのか? それは自分の中でかなり深いテーマになってますね。だから年に50本観てもらうことはアトリエ劇研で実現したし、それはそれで代え難いことやなって思ってますけど、一方で、劇場の機能としては本当にもっと腰を据えて、とびっきりの作品をつくってく環境も欲しいんですね。大空振りするかもしれないけど、びっくりするくらいの作品ができるかもしれない。新しい劇場で、それがどこまで実現できるのかは考えたいですね。

──でもそういう環境や意識の違いは、そもそもの文化的土壌の違いにも起因するじゃないですか。フランスと同じようなことを日本でやるのはやっぱり厳しいですよね?

ええ、そうはいかないですね。

──実際、アトリエ劇研では、フランス式を導入したわけではなくて、日本の小劇場としてやれることを最大限に発想されたんだと思うんですけど。

例えば稼働率でいうと、平均利用日数が4日だったところを7日にした感じです。上演の機会だけでなく、準備の時間も伸ばした。それでクオリティが上がるはずだと。小屋入りできる時間を伸ばしました。簡単にいうと、利用料の平均単価を下げたってことですね。誰も使ってないような時間が長い劇場って、意味ないですからね。

──畑だったら、土を休ませることにも意味ありますけどね。

もちろん僕がディレクターになってから、電球の消耗は激しかったかもしれませんけど、それくらい替えたらいいじゃんってだけですから。

写真2
最後のパーティにはたくさんの演劇・ダンス関係者が来場し、名残を惜しんだ。



▼新劇場へ向けてのチームづくり

──そういう経緯で劇場のディレクターに就任されて、あごうさんなりの改革をされたと。そこから今みたいに新しい劇場を作るために、場所探しから資金集めから何からずっと、長い間されてきたわけですよね。

最初は、新しい劇場をつくるっていうリアリティは全然なかったんです。このstudio seedbox(旧おおにし荘3階。劇場建設予定地の東九条に構えた新しいスタジオ)みたいな雑居ビルだったら、僕が個人で借りてるアトリエの横も空いてるし、仲間をちょっと集めたらできるかな、と思ってました。ただそういうオルタナティブスペースであれば、劇場をつくるよりはハードルが低いんですけど、ブラックボックスっていう劇場のアイデンディティというか黒い空間が、個人的にも好きだっていうのはあって……。やるならそういうものをきちんとやりたかった。それで不動産屋を訪ね歩くことはやってましたし、ホワイトキューブのギャラリーをスイッチひとつでブラックボックスに反転させる仕掛けにできないかとか、ゲストハウスを併設して共同で運営していくとか、いろいろ考えてたんですけど、やっぱり音の問題とか工事費とかの問題で、実現可能性のある話にはなかなか育たなかったんですよね。

そうこうしてた時、たまたま新幹線でやなぎみわさんに会って、劇場がなくなるんで具合悪いんすわーみたいなこと喋ったら、「それやったら私もなんか手伝うわよ」と。ほんまですか、トラックとかよう入らんけどいいですか?(笑)と話して、じゃあやりましょうとなりました。ちょうどその頃にFacebookでもロームシアターの蔭山陽太さんが、「京都は今大変だ。自分も若い頃にアトリエ劇研にお世話になった。私にできることがあれば何でもやる」みたいな趣旨のことをポーンと書いてはったんです。じゃあ蔭山さん、ちょっと話聞いてもらえませんかと。それで八清(ハチセ)の西村孝平社長に蔭山さんが直接問い合わせてくださって、八清さんが持ってる物件が東九条にあると伺って、見学したら、それまで方々の物件を見て回ってきた中で完全にベストだったんですね。

ちょうどその頃に、狂言師の茂山あきらさんと童司カンパニーの關秀哉さんも劇場をつくろうと計画されてたんで、一緒にやりませんかと。劇場をつくることを主軸にして新チームで法人化して、世間と交渉していけるように準備しましょうと。そこまでの話になったのが2016年の11月頃ですね。1月23日には法人化しましたから、かなりのスピード感です。同時に、2016年の秋口から、政治学者の御厨貴先生にも応援団長という形でプロジェクトにご協力くださいとお話して。年末ぐらいには京都市さんともお話して、地域の人へのご挨拶周りも始まったんです。それと審査会の手続きですね。木津潤平さんにも2016年の秋くらいに話をして、建築の方でのやりとりもスタートしていった。

それでようやく最低限の形が整って、2017年の6月になって記者発表という流れでした。大っぴろげにやるには調整が難しい作業だし、話が一人歩きして噂になっても困るので、情報の取り扱いはすごく慎重にやってましたね。アトリエ劇研のメンバーを中心に、演劇の仲間とも準備委員会として月1回くらいは情報の共有をしながら、最低限の話はしてましたけど。

写真3
新しい劇場の説明会。舞台関係者のみならず、地域の人も来場していた。



▼新しい劇場は、地域に根ざしたものに

──目の回るような話ですね……。とにかくそういう経緯によって、 一般社団法人アーツシード という法人ができたわけですね。その新しい劇場づくりはまだまだ予断を許さない状況ですけども、もしうまく完成したとして、どういう性格の劇場になるんでしょうか? アトリエ劇研の後継になっていくのか。京都駅の南西部ということで場所も違いますし、環境も違いますけど。

本当にどこまで実現できるのかまだわからないですけど、アトリエ劇研の後継としてのブラックボックス、これはやっぱりベースにあります。アップグレードできるところはしていきたいですね。もちろんハード的な設備もそうだし、ソフトとしてもクリエイションにもっと貢献できるような、あるいはその後ツアーで作品を回していけるようなサポートまでやりたいなと。会員制度ももちろん想定はしてます。劇場にちゃんとお客さんが付いているような状況にして、若い人がチャンスを掴むための劇場に、っていうのもあります。

あとは地域にどこまで根差せるか、っていうのはありますね。たぶんどの劇場にしても、劇場文化をいかに定着させるかは念頭に置いてると思いますけど、やっぱり市民が日常的に劇場に通うような風土を現実化してないと、愛好者だけの世界になってしまう。それでは説得力がないので、どこまで地域にひらいていけるか。これはアトリエ劇研ではできなかったことやったんです。そこの可能性にチャレンジしたいなと思いますね。ただ作品つくってばっかりでは駄目でしょうけどね、それは。

──それは具体的には、地域の人向けのワークショップをしたり、アウトリーチで劇場の外とも関係を持っていったりするようなイメージですか?

先行事例はたくさんあるので、それらを勉強したり、あるいは実際にやってくださる方とも協働したりはしていきたいです。今度の劇場には、カフェやギャラリーという、アトリエ劇研にはなかった機能もあるので、その機能をどこまで最大化できるかもテーマになっていくでしょうね。ただ今はまだ、本当にそんなこと考えられるのかどうか、の前段階なので……。そこがクリアされないと何もまだ言えないですね。

写真4
稽古場やサロンとして機能しそうなstudio seedbox。あごう氏(中央)と蔭山陽太氏(右)。


──余談ですけど、先日、青年団が豊岡に移転するって話が神戸新聞に出たじゃないですか。で、その直後に平田オリザさんがブログで極めて論理的に補足説明されてたんですけど、その中に、豊岡に来たい劇団員は来ていいと、「なお、豊岡市内には、演劇人が常勤・非常勤で働ける多くの雇用が存在する」って書いてあって、ウワッと思いました。どういう種類の雇用かはまだ明らかにされてませんでしたけど、とにかく雇用は大事ですよね。誰だって生活せなあかんし。そして劇場というのは、演劇人の雇用を生むシステムでもあるわけです。例えば世田谷パブリックシアターでも、ワークショップ事業(学芸部門)を設けることによって、ファシリテーターやアシスタントの仕事を生んでいますよね。そして、舞台俳優がその仕事に就いていたりもする。

公的助成をある程度の規模でとって、仕事を生み出せるようにはしていきたいですね。東九条は、京都駅東南部エリア活性化方針の 対象地区 なんですけど、このエリア全体で、あるいは京都全体で、場合によっては海外も含めてのネットワークの中で、どこまでそれをやれるか。具体的にアーティストがここに住めるのか? そのための仕事をどこまで劇場が提供できるのか? それをどう持続可能な仕組みにしていくか? ……ってことを考えると、このエリアの中である種の基金をつくることも考えてはいますね。その基金によって、アーティストがここでクリエイションして、ここで仕事して、ここでいろいろ触れ合って、旅立っていくという……そういう仕組みをつくりたいという妄想というか青写真はあるんですけどね。まあそれより、まずは劇場ほんまに建つんかっちゅう話が先にあるんで……。

──京都駅東南部エリア活性化方針というのは、京都芸大(京都市立芸術大学)が京都駅の東に移転することが決まっていて、「文化芸術」と「若者」を機軸にしたまちづくりをしていこう、という方針のことですよね。在日コリアンの人たちが住んできたエリアでもあり、長いあいだ差別を受けてきた地域でもありますが、僕はこのエリアにすでに好きな人たちもいますし、これから入ってくるであろう若いアーティストたちもきっといい出会いをしていくものと信じたい。ただそれは簡単なことではないとも思いますし、下手したら、歴史を忘却してイメージをクリーンにしよう、みたいなひどい話にも堕ちかねないわけですよね。でも新しい劇場は、きっとそこでこの地域の歴史と芸術とを丁寧に結んでいくハブというか、繋ぎ目になるんじゃないかと思います。

ええ。このクラウドファンディングが終わってからも長い闘いですので、劇場が建つまでどうかご支援いただけますとありがたいです。

──まずは今回のクラウドファンディングは、劇場設立の初期段階である調査費のためのものですよね。(※なぜ調査費に1400万円も必要なのか、については こちら で説明されている。


これが達成されれば審査手続きに入れます。大手を振って、劇場をつくるってことを言えます。よろしくお願いします!


(後編へ続く)

藤原ちから Chikara Fujiwara

1977年、高知市生まれ。横浜を拠点にしつつも、国内外の各地を移動しながら、批評家またはアーティストとして、さらにはキュレーター、メンター、ドラマトゥルクとしても活動。「見えない壁」によって分断された世界を繋ごうと、ツアープロジェクト『演劇クエスト(ENGEKI QUEST)』を横浜、城崎、マニラ、デュッセルドルフ、安山、香港、東京、バンコクで創作。徳永京子との共著に『演劇最強論』(飛鳥新社、2013)がある。2017年度よりセゾン文化財団シニア・フェロー、文化庁東アジア文化交流使。2018年からの執筆原稿については、アートコレクティブorangcosongのメンバーである住吉山実里との対話を通して書かれている。