庭劇団ペニノ「笑顔の砦」RE-CREATION タニノクロウ インタビュー
インタビュー
2019.08.26
【撮影:山内信也】
『笑顔の砦』は、小さいけど、ずっと笑っていられる場所。
初演はそこの脆さみたいなものを書いたんですけど、
今回は砦の強さのようなものが前に出ています。
狭いストライクゾーンの先にあった、思いがけない広がり──。庭劇団ペニノの作・演出家、タニノクロウはかつて、新宿の空き地にトンネルをつくってその中に男根型の池を掘ったり、アメリカのジャズ・ピアニスト、セロニアス・モンクのアルバムジャケットを再現し、それをもとに作品をつくったりと、独自のこだわりをストイックに貫いてきた。だがその美学は国内外で高く評価され、海外ツアーはほぼ毎年、2015年にはドイツの公共劇場から新作の作・演出を委嘱され、国内では岸田國士戯曲賞も16年に受賞した。アーティスティックでありながらポピュラリティも備えた魅力は、何に依拠するのか。昨年リクリエイションした『笑顔の砦』東京公演を控えたタニノの答えは、大きく、形がなかった。
── 雑な分け方かもしれませんが、タニノさんの創作は、タニノさんの脳内に存在する強烈なビジュアルから作品を立ち上げるケースと、書きたいテーマから戯曲を書くケースに大別できると思います。それは今も混在していて、2016年の岸田國士戯曲賞を受賞された『地獄谷温泉 無明ノ宿』は後者、18年初演の『蛸入道 忘却ノ儀』は前者ではないかと。『笑顔の砦』は、2006年から07年にかけて上演されたのが初演ですが、当時はまだペニノといえばビジュアルというイメージだったので、介護問題などを含んだ内容にかなり驚いた記憶があります。どういう経緯で生まれた作品だったんでしょうか?
タニノ それが、実は結構しょぼい理由なんですよ。おっしゃるように、僕はそれまで台本を書いたことがなかったですし、基本的にはせりふも、稽古場で自分が思いついたことを(俳優に伝えて)そのまま覚えてもらう形でした。
で、あの時期、あるプロデューサーからイプセンの『野鴨』を演出しないかという話があって、それを請けたんですね。でももちろん、人の戯曲の演出なんてしたことないし、まず台本があって俳優に「じゃあ、まず1ページから5ページまでやってみましょう」とか「一場を通してみましょう」みたいな稽古の経験はないから、これはまずいと。しかも出演者に、自分よりも遥かに目上のベテランの俳優さん達がいて「やり方がわかりません」とは言えないと思った。それで、予行演習と言うと失礼ですけど、とりあえず自分で台本を書いて「何ページから何ページまでやりましょう」みたいなことを、事前にやっておこうと考えたのが、『笑顔の砦』を書いた最大の理由です。「ハリウッド脚本術」みたいなのを買ってきて、それを参考にしながら書きました。
── では、タニノさんの処女戯曲と言えるのが『笑顔の砦』ですか?
タニノ そうなります。と言っても、目指していたところの60%ぐらいしか書き切れなかったんですけどね。それと(動機が)もうひとつあって、『ダークマスター』の再演を06年にアゴラでやったんですけど(初演は03年)、あれが陰だとしたら陽に位置するような、『ダークマスター』と2本で裏と表になるような作品をつくって、それを全く同じ座組でできたらいいなと考えていたんです。やっている俳優さん達もおもしろいだろうし、お客さんも2本観ると何か感じられるような作品になると良いんじゃないかとか。結果的には俳優は変わったんですけど、その2つの動機でつくった覚えがあります。
── 登場するのが、小さな生活を慎ましやかに送る人々だったり、舞台になっているのが、富山県を思わせる日本海に面した漁港の町だったり、『無明ノ宿』と繋がる要素も散見されます。
タニノ それはたまたまというか、『無明ノ宿』みたいな(テーマ上の)必然性があってそうしたわけではなく、『笑顔の砦』を書く時に考えていたのは、もっと身近なことです。例えば、「そういえば久保井さん(初演で主人公を演じた久保井研)は料理が上手だな。そうか、築地で働いてるからか。だから魚をさばくのも上手いんだな」とか。そこから「『ダークマスター』が洋食だから、こっちは和食にするか」とか。同じように(劇中で俳優が)料理をして、劇場に料理の匂いが立つにしても、ケチャップとかバターの焦げた匂いと、出汁とか醤油の匂いに変わったらいいなという(笑)。題材と言うよりは、こうしたらおもしろいんじゃないかということばかりですね。
── 『ダークマスター』とセットで構想した部分が、かなり大きいんですね。
タニノ 本当に裏表みたいに考えていました。『ダークマスター』は再演を重ねて、その度にいろんなテイストになっていますけど、06年のはちょっとブラックファンタジーっぽかったので、『笑顔の砦』を人情芝居みたいなものにすれば、より対極になるなと考えたんです。
── 人情芝居とは思いませんでしたが、初演の『笑顔の砦』を観た時に感じたそれまでの作風との違いは、今のお話を聞くと納得できます。私は03年頃からペニノを拝見していますが、冒頭にも言った異なる創作方法は、振り幅と言うこともできるし、経過と呼ぶこともできるし、タニノさんが外部から「こういう作家」と固定されるのを避けているようにも見えます。そのあたり、ご自分ではどうお考えですか?
タニノ たぶんそれは、アトリエ(04年から、ペニノが美術製作、稽古、上演のための場所にしていた「アトリエはこぶね」。タニノの祖母が暮らしていた都内のマンションをDIYで改築し、クリエイションの拠点にしていたが、マンションの取り壊しによって12年にクローズした)が無くなった喪失感が大きく関係していると思います。あそこが無くなった時、もう終わったなというか、やる意味はもう無いという虚無感がすごくあって。
そのあと、セゾン文化財団が親身にサポートしてくれ、森下スタジオを理想的な形で使わせてくれて、あそこにアトリエそのものを再現しようという気持ちになれて、回転する盆の上に部屋を4つつくって『無明ノ宿』ができたんです。でもセットは使っていけば当然、劣化するので、あれも燃やしてしまって今は無いんですけど。だから、場所が無くなったことの不安感はすごく強いと思います。
もうひとつ自覚している理由を挙げれば、最近はすっかり、これを見たらみんな驚くだろうなとか、きれいだと言われるんじゃないかと思わなくなりました。
── というと?
タニノ だってそれ、みんなやっていますから。たくさんの人がおもしろい戯曲を書いているし、きれいな作品をつくっているし……。僕、(演劇をつくるのが)もうそんなに長くないと思うんです。そういう限られた時間の中で“自分なり”とか言って、おもしろさとか美しさにこだわる優先順位が下がった。昔は1番だったんですけど。それより今は、一緒にやっている人たちと仲良くなりたい。そっちのほうが重要ですね。
あと、俳優に対する見方が変わったのもあると思います。前は人形のように捉えていたと言うか。アトリエでやっていた頃なんて、それこそ「右から左まで何秒で歩け」みたいな感じで接していましたけど、今は全く違っていて、むしろ俳優ほど尊敬されるべき存在は無いんじゃないかと思いますから。180度変わったんですよね。これは僕が仏教を知るようになってからなんですけど。仏教というか、釈迦の考え方を知るようになって、自分がつくるものへの捉え方も、俳優に対する捉え方も、ガラッと変わった。
── 仏教ですか……。何かきっかけが?
タニノ 大きなきっかけがあったわけじゃなく、量子物理学に興味があっていろいろ見ていく中で辿り着いたひとつが仏教だった。今は量子物理学はどうでもよくなったんですけど。
── ペニノの作風の広がりの裏にあるのが、アトリエの閉鎖、量子物理学、そして仏教と、ひとつひとつの名詞が刺激的で、すぐにまとまりません(笑)。とりあえずもうひとつお聞きしておきたいのは、精神科医兼演劇作家だったタニノさんが医師をやめたことも、おそらく変化に関係しているのではないかということなんですが。
タニノ 医者は11年に辞めていて、重なるところは確かにあります。つまり、時間をかけてつくらないとダメなんだと自分で気が付いた。ある程度の広さの24時間使える場所があり、そこで住むようにしてつくっていかないと、僕は作品ができない。気持ちの問題でなく、体が動かない。
だから最近だと、東京では森下スタジオですし、17年に大阪で『ダークマスター 大阪版』をつくれたのも、劇場のプロデューサーが「24時間、何ヵ月でも使っていい」と言ってくださったことがすごく大きい。去年滞在した城崎アートセンターはまさにそういう場所ですし、今年3月の富山の『ダークマスター 2019 TOYAMA』も、2ヵ月間稽古場を押さえられて、セットもそこに組めたから、プロジェクトが動き出したんです。
結局、アトリエが無くなったことの焦りから、もっと演劇に時間を取らないと自分は作品がつくれないという意識が強くなっていき、もう医者をやっている余裕なんてないと考えたわけです。
── 医師を辞めた時期と、物理学的な興味が仏教的なものに変わっていった時期は重なりますか?
タニノ それはもうちょっと後ですね。仏教的な興味が出てきたのは『無明ノ宿』を書く少し前ぐらいからです。自分の年齢が上がってきて、周りで死ぬ人が多くなったのもあるでしょうし、(生まれ故郷である)富山に行くことも多くなった。それがかなり影響していると思います。
ヨーロッパツアーがどうとか、ドイツの劇場でどうとか、いろいろやってはきましたけど、結局、すげえ土着の人間なんですよ、僕は。ばあちゃんが死にそうとなったら「海外? (行かなくて)いいよ」となるので。
── それにしても、俳優を物として捉えて「こんなに長時間、腰をかがめていると、かなりの負荷が体にかかりますよね?」という体勢を、「でも、やってもらわないと困るんで」と意に介さなかった人が「役者ほど尊敬されるべき存在はないんじゃないか」と考えるようになるのは、仏教的な考え方が間に入ったとはいえ、とても興味深いのですが。
タニノ ノウハウを知らないまま始めたので、演劇をどうやってつくればいいのかなということは、もうずっと考えているんです。それは、舞台美術のアイデアを出す時もそうだし、小道具、照明をどうするか、音楽に何を使うというあらゆる点で。
そうやってしばらく自己流でやってきて、最近は、演劇をつくるというのは、たとえば照明と照明だったり、照明と自分だったりというすべての要素が、お互いにどう影響し合っているのかを想像することなんじゃないかと考えるようになったんです。
── ああ、それと仏教の宇宙観は近い気がします。
タニノ 『無明ノ宿』って、本当は出版されている本の3倍の長さがあるんですよ。というのは「ここから聞こえてくる何とかという虫の声は、俳優のどこそこの部分を刺激している」といったことを、いちいち書いたので。その刺激によって、こういうせりふが出るんだと。細か過ぎて強迫的に思えるかもしれませんけど、仮説でいいんです。そういう想像を俳優にしてほしいということで。つまり、シーンの中で全く関係ないように思えるせりふでも、何かしらの影響が自分にあると想像する。それが俳優の仕事なんじゃないかと思うわけです。
『無明ノ宿』は、もちろん、消えていく場所とか人を書きましたけど、実は、自分達がどう繋がっているかを書いた話でもあるんです。
最近の稽古でよく言うんですけど、自分の母親が死ぬのと、ここにあるグラスが割れるの、どっちが大切かと言ったら、母親が死ぬ方じゃないですか。だけれども、もしかしたら同等になる可能性がゼロではないというぐらい、このグラスに対して想像するのって、たぶん良いことじゃないかと思う。極端に言えばそういうことです。
もっと言うと、台本に書かれている話や演出だけではなくて、スタッフに対しても、プロジェクト全体に対しても、なんで自分が今ここにいるのかということも含めて興味を持つ。その行き着く先は、何が一番大切だという優先順位が無くなることだと思うんです。それはとても立派なことじゃない?と思うんですよね。
── 一見、関係のない何かと何かをつなげる、その媒介になるのが職務だとすれば、俳優という仕事は、内側で途轍もない感応と拡大を続けるわけですね。
タニノ これ、すごく単純な考えなんですけど、赤ん坊が舞台上にいたら見ちゃうじゃないですか。それと、演出家が役者を兼ねて舞台上にいる時って、やっぱり目が行くじゃないですか。極端な例えですけど、情報量がゼロに近い人と、作品の内容やスタッフに対する情報を誰よりも抱えている人に、(観客の注目は)同じように向かう。で、通常の俳優は赤ん坊のように情報ゼロにはなれないと思うんです。すでに俳優としてそこにいるわけだから。だとしたら、できるだけたくさん情報量を持つ方向に行くしかないだろう、というのが元々の考えです。演出家に近付けということではなく、自分だけの仮説でいいから情報量を持つ。……でも、実はこの2つは似ていて。
── 情報量0と情報量100が。
タニノ はい。情報量をどんどん増やしていくことによって優先順位が無くなるのであれば、それはむしろ0に近いことになるので。いずれにしても、そこを目指すのはきっとすごく良いことだと思うんですよ。
── だとすると、今、タニノさんの作品に出演している人は、そういう仮説を自主的に次々と持てる人ですか?
タニノ それはわかりません。あくまでも本人が体感することだから。でも、そうあってほしいとは言うし、演出していても全部拾います、その俳優がやっていることが、どこから来たのか想像して。演技に対して否定することは全くないですね。ただ、なんでそうなったのか一緒に考えようっていう時間。それはもう、笑いながらです。僕はとにかくいろいろ想像するので。
── 3年に1本ぐらいしか新作ができないのは、そういう理由があるかもですね。アトリエの喪失感の大きさというお話もありましたが、稽古場で起こるさまざまな事象について話し合うことの豊かさに興味が行き、それを楽しんでいるのなら。
タニノ 『笑顔の砦』のリクリエイションは、まさにそういうつくり方でした。
── 戯曲に関しても伺いたいのですが……。
タニノ アパートの隣同士の部屋で、一方に寝たきりの老人がいるという基本の設定は同じですけど。初演からほとんど書き換えています。でも、去年の城崎で稽古を始める3ヵ月前ぐらいには書き上げていました。最近、僕、早いんです(笑)。
── 俳優さんに対する認識だけでなく、戯曲に対してもに変わったということですか?
タニノ そうです。やっぱり台本は早い時期にあったほうがいい。俳優にとってと言うよりも、スタッフの準備に余裕ができるから。それなりに距離のある人達もいるわけで、その人達が考えやすいじゃないですか、台本があると。最近それに気付きました(笑)。
だから、どんどん早くなっていて、2年後にやる作品の台本もそろそろ書き上がりそうですからね(笑)。
── それはすごい(笑)。内容に変化が出たのは、介護の問題や家族のあり方が、年月を経てタニノさんの中で変わってきたからでしょうか?
タニノ と言うより、酒飲んで、気の合う仲間とろくでもない話をして、ひっそり死んでいきたいなって思うようになった。初演と違うのは、その思いが強くなったところです。年を取ってきたし、実家のほうから聞こえてくる、親戚の誰と誰が仲悪いとか、誰が死にそうだとか、もういいよっていう気持ちになっていまして(笑)。
計算したんですよ。僕、安い酒でいいんで、ブラックニッカの4ℓなら1000円ちょっとですし、あれを100本買っておけば死ぬまで飲めるんじゃないかなって。それぐらいのお金ならあるし。確かに介護問題とか、両親の老いとか、地方の衰退だとか、考えていることはありますよ。現実と照らし合わせるようにそういった要素はあるわけですけど、初演と最も変わったところは、そこなんですよね。
── 残りの人生を日割りして、楽しく過ごせる時間を1日単位で考えていくような切実さですか?
タニノ はい。『笑顔の砦』というタイトルも、要するに、小さいけど、ずっと笑っていられる場所という意味で付けたんですけど、現実はそうは行かない。何事も変化するし、いずれは無くなってしまう。初演の時はそこの脆さみたいなものを書いたんですけど、今回は砦の強さのようなものが前に出ています。「俺は絶対に笑って死んでやる、ババアが死のうがお袋が死のうが親父が死のうが、俺は絶対に酒飲んで笑って死んでやる」という思いが、今の僕はすごく強くなっているんです。
── ある意味、タニノさんの遺書ですね。
タニノ ああ、そうかもしれません。処女戯曲で、遺書ですね。
インタビュー・文/徳永京子
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