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【連載】ひとつだけ 徳永京子編(2017/09)― さいたまゴールド・シアター第7回公演 『薄い桃色のかたまり』

ひとつだけ

2017.09.27


あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?

2017年09月 徳永京子の“ひとつだけ” さいたまゴールド・シアター第7回公演 『薄い桃色のかたまり』
2017/9/21[木]~10/1[日] 埼玉・彩の国さいたま芸術劇場 インサイド・シアター(大ホール内)




  若い女性定番のフレーズに「可愛いおばあちゃんになりたい」がある。多くの場合、「こんなことを言う私は可愛い」のバリエーションのひとつだが、少し掘り下げれば、「おばあちゃん」になった時点でも「可愛く」いられるのは、その前に成功した、少なくとも悔いのない人生を送ったということで、何気なく使われるその言葉に、穏やかな老境をゴールに設定する人間の無意識が現れている。
 その一方で、たとえば30歳になって「子供の頃、30歳はもっと大人だと思っていたのに」と驚く感覚は多くの人が共有していて、40歳になっても50歳になってもそれはその都度、更新されていく。おそらく60歳でも70歳でも同じで、実年齢に気持ちはずっと追いつかない。
 倉本聰脚本のドラマ『やすらぎの郷』が、制作サイドの「ゴールデンタイムは若者向けのドラマばかりだから、シルバー世代が観たくなるものを放送する」という狙いに反し、若い世代に広く人気を博しているのは、自分たちの両親、もしくは祖父母世代の中にある生々しい、荒々しい、瑞々しい感情のほとばしりが、驚き以上に説得力をもって届いているのもひとつの理由ではないか。

 けれども私は、あのドラマ以上に生々しく、荒々しく、瑞々しく、凶暴なくらいひたむきで不器用で、誇り高い高齢者たちを知っている。
 それがさいたまゴールド・シアター(以下、ゴールド)だ。故・蜷川幸雄が、彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督に就任する際、その重責を引き受ける条件のひとつとして出したのが「高齢者による演劇集団の設立」で、1200名の応募者全員と蜷川が直接面談して選んだメンバー48名を、大事に厳しく鍛えてきた。大半が演技未経験者だったため、2006年の発足から1年間の座学(演劇史や日本舞踊、マイムなど)とワーク・イン・プログレスを経て、本格的に活動したのが07年。健康上の理由などで少しずつ人数が減り、現在は38名、平均年齢は78歳となった。これは大した数字だと思う。ちなみに最年少は66歳、最高齢は91歳である。

 蜷川がゴールドに課した路線は興味深いもので、ゴールドの代表作で、パリや香港に招かれて現地で絶賛された『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』は71年に発表された清水邦夫の戯曲だが、本公演のほとんどは、岩松了、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、松井周という、気鋭の才能による書き下ろしを充てた。
 やはり蜷川が彩の国さいたま芸術劇場に設立した若手俳優育成のための、さいたまネクスト・シアターの公演が、シェイクスピアなどの古典中心ということを考えると“俳優にとって、より遠い言葉”と向き合わせ、演劇の視野を広げ、演技の筋力をアップさせるための作戦だったのではないかと思う。
 もちろんゴールドの面々がシェイクスピアに近い時代に生まれたわけではなく、彼らが抱く演劇のイメージ、親しんできた作品が、いわゆるオーソドックスな古典ということ。4年前に 『我らに光を──さいたまゴールド・シアター 蜷川幸雄と高齢者俳優41人の挑戦』(河出書房新社 ≫詳細 )という本を私は執筆していて、メンバー全員に半生と応募の動機などをインタビューしたのだが、これから演じたい作品という質問に対して出てきた答えのほとんどは著名な戯曲で、自分より若い劇作家の舞台に積極的な人は皆無だった。
 その話を蜷川にすると間髪入れずに「それは自分が有名な作品の主役をやりたいってだけなんだよ。あの人たちは主役がやりたいの」と返され、さすがの洞察力と感じ入ったのだが、今になって思えば彼は、群像劇を高齢者でやることの意義を考えていたのかもしれないと気付く。若くして死んで伝説になることも、長く生きても巨匠やカリスマになることもない、名もない市井の人でありながら、ふと目を留めれば魅力的なエピソードが詰まった個人が集まった群像劇を、揺るぎないリアリティをもってつくることを、ゴールドを通してそれを夢見ていたのかもしれないと思う。

 そして事実、劇作家に優れた群像劇を書かせる集団として、ゴールドほど機能する人たちを私は知らない。岩松、KERA、松井がそれぞれ彼らに書いた戯曲は、彼らのキャリアの中でもとりわけ素晴らしいもので、普段はほとんど念頭に置くことのない「高齢者」で「大人数」という条件(蜷川が演出ということも当然あっただろう)が劇作家に与える刺激の豊かさを、ゴールドの公演を観るたびに感じてきた。
 そしてそれ以上に強く感じるのが、全身全霊で瞬間にぶつかるゴールドの不器用さが生む創造性だ。物理的に衰えていくせりふ覚えや筋肉と向き合いながら演技をすることもそうだし、ゴールド入団までの人生でつくられた体型や動きの癖が、いわゆるプロの俳優とは異なる無骨な存在感となり、次々と舞台上に動線を描いていく。それらが積み重なっていくと、この集団にしかない緊張感と余白が生まれているのだ。
 誤解してほしくないのだが「お年寄りが頑張っている、だから感動する」という安っぽさは微塵もない。なぜならゴールドの面々は、常に毅然としている。せりふを言いよどんでも、ゆっくりしか歩けなくても、不思議なくらい堂々としている。その誇り高さはどこから?現時点で私が考えられる答えは、蜷川幸雄に選ばれたことと、第2の人生に自ら演劇を選んだことだ。

 上演中の『薄い桃色のかたまり』は、岩松による3作目の書き下ろしで、企画時は演出するはずだった蜷川がいないため、岩松自身が演出を手がけている。被災から6年経った福島のある町が舞台になった物語で、放射能汚染と、現地に暮らす人々の疲労と、時空にねじれた恋が描かれているのだが、被災地に渦巻く混沌が、分かちがたい詩情と身体性で迫ってくる。『泡──流れつくガレキに語りかけたこと』(13年、兵庫県立ピッコロ劇団)、『少女ミウ』(17年、M&Oplays)でも東日本大震災と原発事故について書いてきた岩松だが、今作が最も、地に足の着いた戯曲と言って間違いない。
 そんな岩松戯曲の深淵をのぞこうとはせず、その切っ先に「与えられたせりふを正しく言う」ことに集中して立つ俳優たちの、魅惑的な野蛮さたるや。
 実は初日の3日前に稽古場を見学させてもらったのだが、せりふが不完全な俳優が複数いて「今回ばかりはプロンプター大活躍か」と覚悟していたのだが、本番はそんな状態を微塵も感じさせない充実した内容だった。本番に仕上げてくるとは、やはりこの人たちは只者ではない。


≫ 『薄い桃色のかたまり』 公演情報は コチラ

岩松了

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