【連載】ひとつだけ 徳永京子編(2016/9)― 第15回AAF戯曲賞受賞記念公演『みちゆき』
ひとつだけ
2016.09.3
あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?
2016年9月 徳永京子の“ひとつだけ” 第15回AAF戯曲賞受賞記念公演『みちゆき』
2016/9/9[金]~9/12[月] 愛知県芸術劇場小ホール
photo by Hisaki Matsumoto
舞台の賞は少ないとよく言われるが、戯曲に絞るとそれなりの数がある。岸田國士戯曲賞、鶴屋南北戯曲賞、あるいは劇作家協会新人戯曲賞あたりが全国区だろうが、興味深いのは、北海道戯曲賞、九州戯曲賞など、地域の文化の育成や活性化に戯曲が着目されて設立されているケースだ。それぞれ審査員も豪華で、今後それらがどう発展していくのかが気になる。
そうした中で虚を突かれたのが、愛知県芸術劇場が主催しているAAF戯曲賞だった。今年で第15回だが、今回から「戯曲とは何か?」をコンセプトにリニューアルしたという同賞は、4人の審査員(篠田千明、鳴海康平、羊屋白玉、三浦基)のうち3人を、作・演出家ではなく、演出家で揃えていたからだ。
周知の通り、日本は劇作家と演出家を兼ねる作・演出家が、戯曲だけ、演出だけに専念する人よりも多いという、世界でもあまり類のない状況が長い。それ自体は、マイナス面もあるが悪いことではないと私は捉えているが、ともかく愛知県芸術劇場のその姿勢からは「良い戯曲とは、演出家が演出したくなる戯曲だ」という明快なメッセージが感じられ、それはとても──なぜ今までそうした戯曲賞がなかったのだろうと膝を打つくらい──真っ当だと思ったのだ。
作・演出家が戯曲を審査するのが悪い、というのではない。現に、岸田戯曲賞受賞者の大半の活躍を見ていると、優れた劇作家は戯曲の読み手としても優れていると感じている。
それと同じ理由で、優れた演出家がその嗅覚で優れた戯曲を見出すことは想像に難くない。しかもAAFは、多くの公募式の戯曲賞が、受賞作に対してリーディングやネット上での公開という──それが主に経済的な理由によるもので、主催者が良しとしているのではないとしても、やはり印象としては──消極的な展開で終わっているのに対し、審査員のひとりが演出を手がけて上演するところまで責任を負っているのがいい。俳優の肉体を通し、観客の前で演じられることで戯曲は生命を吹き込まれるわけで、書き下ろしの戯曲を募集して賞を授与するなら、なんとか上演まで持って行ってほしいといつも思う。
それを実現するAAFは、単なる賞ではなく、手付かずの魅力的な戯曲と演出家を出合わせる場になり、同時に、戯曲と観客とが出合う場所にもなるわけだ。
さて、新生AAF戯曲賞の受賞作は松原俊太郎の『みちゆき』で、地点の三浦基が演出を担う。劇場のサイトを見ると、全審査員の絶賛に近い評価を得ての決定らしい。同サイトには受賞作が公開されているが、これまで小説を書いてきた松原が初めて挑んだという作品は、戯曲の一般的な概念からかなり自由で、それでいて『ゴドーを待ちながら』や岡田利規を思い起こすような戯曲ならではの手触りを持つ。この世ならざる場所で、この世の人ならざる人(声)の会話は問いかけの重なりなのに、この国やあの事故など具体的なものが浮かび上がる。宙に刃を立て、いつの間にか透明な彫像が完成しているように。
三浦が、他の演出家が誰も触れていない戯曲に取り組むのは初めてだと思うし、前衛的な作風で知られる伊藤高志が映像を担当するのも一層の興味をそそる。願わくば松原が戯曲を書き続けたいと思う作品になるといい。
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