【連載】ひとつだけ 藤原ちから編(2016/6)―中野成樹+フランケンズ2016『えんげきは今日もドラマをライブするvol.1』
ひとつだけ
2016.06.5
あまたある作品の中から「この1ヶ月に観るべき・観たい作品を“ひとつだけ”選ぶなら」
…徳永京子と藤原ちからは何を選ぶ?
2016年6月 藤原ちからの“ひとつだけ”中野成樹+フランケンズ2016『えんげきは今日もドラマをライブするvol.1』
2016/6/18[土]~26[日] 東京芸術劇場シアターイースト
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中野成樹+フランケンズ、通称ナカフラの最新作が東京芸術劇場で上演される。「新劇継承」を公言しているとおり、ユーモアとウィットに富んだ「これぞ演劇!」であり、誰が観ても大いに楽しめると思う。デートで観に行ってもきっと話に花が咲くことでしょう。ぜひ安心して楽しんでください。
……というのは嘘ではないけれど、それはナカフラの魅力の、ごくごく表層的な部分に過ぎない。以下、本題に入りたいと思う。
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「中野成樹はパンクである」と最初に評したのは、2012年頃、書籍『演劇最強論』執筆時の徳永京子さんだったと思う。今、あの本が手元にないので、中野さんへのインタビュー記事を再確認できないのだが(ごめんなさい)、たしか彼はあの時、「演劇を盛り上げようとか間口をひろくしようとかいったことは無意味だと思う」といった主旨の発言をしたとわたしは記憶している。文言はこの通りではないかもしれないが大体そんな意味のことを彼は言った。わたしはインタビューの場、あれは確か池袋のいい感じに古びた喫茶店の2階だったが、そこでそう淡々と語る彼の(ある種の諦観を含んだ)言葉に、ああ、この人は時代の流行り廃りとか毀誉褒貶には動じないんだな、と痛感したのだった。
この彼の諦観のようなものの正体は何だろう? きっと彼らが「誤意訳」と称して海外古典戯曲を現代に蘇らせてきたこととも関係あるのではないかと思う。「誤訳+意訳」というこの名称が示すように、それは原作の形を大きく改変しかねない危うい手法ではある。しかしわたしはナカフラのこの誤意訳という手法を、古典の「肝」の部分をグッと掴みとるためのアプローチだと捉えてきた。つまり、いつかの時代に生きた人間がいて、喜怒哀楽のすったもんだがあって、やがて消えて死んでいくということ。そしてその生と死のサイクルが、人類の歴史において何度も何度も繰り返されてきたということを。
ナカフラは誤意訳によって様々な「恋」と「死」を描いてきた。風景が走馬灯のように流れていく『寝台特急“君のいるところ”号』(原作:ソーントン・ワイルダー)、不条理な死を皮肉に描く『スピードの中身』(原作:ブレヒト)、そしてラブコメディの傑作『マキシマム・オーバードライブ改』(原作:モリエール)……。彼らが古典を継承してつくる演劇の世界は、とても豊かであり、おかしくて、愛おしくて、でも、どこか物哀しい。
どんなに熱い恋をしようが何しようが、いつか人間は死ぬ。もちろんわたしも例外ではない。……てことを、演劇を観るたび思い知らされるわけだが、自分のこの人生もまた、いつかの誰かの人生のリプレイにすぎないのだろうか。特に古典作品を観る時、わたしはその時間の隔たりの中に、無限に繰り返されてきた人生の悲しみを見てしまうのである。
しかし演劇の面白いところは、なんといっても、今この同時代を生きている俳優がそれを演じるということ。俳優の肉体には、この時代ならではの叫びや欲望が必ずあるはずだ。そしてそれを観ている観客の肉体もまたそうであるだろう。我らの劇場において、その俳優と観客は一堂に会し、現代における(何回目かの、だが唯一無二の)リプレイを共犯することになる。
これ、つまり演劇は、人間が発明した最高の愉楽だということを、ナカフラの演劇は感じさせてくれる。
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近年は劇団名をもじった「外の刺激+フランケンズ」名義での企画も増えており、その活動の全貌を捉えきるのは簡単ではないのだが、今回の東京芸術劇場での公演はナカフラの入口としては最適なものになるだろう。……なんてことを言ったら、中野さんは「入口とか別にいらねーし」と言うかもしれない。
今回はA「森のカヴァー」とB「戯曲のノンストップ・ミックス」。おそらくAがいわゆる誤意訳をベースとしたオムニバスで、Bはかなりナカフラとしても実験的な試みになるのではないかと思うが、いずれも古典世界に独特のアプローチになるだろうから、もちろん両方合わせて観たいところ。ABのセット券もある。25歳以下の若者向けチケットや、親子向けの特別公演もあり、さらにはライブ席・ドラマ席も用意されている。チケット情報は こちら。 前から観るか、横から観るか。ライブ席、楽しそうやん。
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