【連載】マンスリー・プレイバック(2016/03)
マンスリー・プレイバック
2016.05.2
徳永京子と藤原ちからが、前月に観た舞台から特に印象的だったものをピックアップ。ふたりの語り合いから生まれる“振り返り”に注目。
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藤原 3月もあまりに盛りだくさんだったし、読む方も大変だろうから、厳選して3本だけ語るとかしたほうがいいのかなと思いつつ……。今回は「メディアとしての演劇」という切り口を提案してみたいのですがどうでしょう。観客の思考や対話を促すような作品に出会うことが、このところ続いているので。
徳永 「メディアとしての演劇」、よく使われる言葉ですが、ちょっと曖昧なので、どういうイメージで藤原さんが言っているのか教えてください。
藤原 大きなポイントは、作り手の側にひとつの正解やメッセージやイデオロギーがあるというより、作品を通して何らかの素材が提示され、それを観客それぞれに編集することで、イメージを立ち上げていく。そのプロセスによって思考や対話が促される、ということです。
▼東京デスロック『Peace (at any cost?)』@富士見市民文化会館 キラリ☆ふじみ
『Peace (at any cost?)』《5 years past from 2011.3 ver.》2016.3 富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ
photo by bozzo
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戦争時に書かれたギリシャ喜劇『アカルナイの人々』をモチーフとし、現代の「平和」を問う演劇。
座席はなく、観客は「平和の家」と称された空間に敷き詰められたマットの上に好きに座る。線の向こうには危険地帯があり、そこで俳優たちが、首相の演説、日本国憲法、ノーベル平和賞のスピーチなど、様々なテクストを朗読する。2015年夏のバージョンでは「戦後70年」を扱ったが、今回は「東日本大震災から5年」がテーマ。(藤原)
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藤原 東京デスロック『Peace (at any cost?)』はまさに「メディアとしての演劇」の最たるものでした。夏バージョンについて語った8月のプレイバックでは、徳永さんから「劇として構造的に弱いのではないか」という批判がありましたが、今回はかなり劇的な要素も追加。後半に俳優たちが床に敷いてあったマットを引き剥がすと、その下から震災関連の写真や記事のコラージュが現れるんです。
そして瓦礫のように積み上げられたマットを、観客たちが元の場所に直し始める──まるで復興作業のように──ということが僕が観た回では起きました。ただ傍観する回もあったらしいんですけど、どっちが正解とかではなく、どちらも起こりうるような演出上の設計が為されていた。いずれにしても、観客としては「問われる」感覚が強烈にあったのではないかと。
『Peace (at any cost?)』では、政治家や経済界のドンの演説、被災した高校生の作文、詩、ノーベル平和賞のスピーチ……といったテクストが引用されるわけですが、何を引用するかには当然ながら作り手の意図が介在していますよね。でも、そこから何をどう考えていくかは、観客の側に委ねられていたということです。
徳永 私は今回のバージョンを観ていないのですが、その前に、先ほどの藤原さんの「メディアとしての演劇」の定義についてもう少し確認していいですか?
一般的な演劇でも、観客は目の前で行なわれていることを観て、脳内で勝手に編集しますよね。それとの決定的な違いは何ですか。たとえば、題材がノンフィクションということ?
藤原 いや、フィクションかノンフィクションかは問題じゃないです。もちろん、ドラマのある演劇でも、家族とか恋愛とかいった人生の諸問題を観客に考えさるようなことは起きうるわけですし。ここで取り上げたいのは、劇世界の絵空事として切り離すことが難しくて、もっと身に迫る問題として語りかけてくるようなもの。そこでは観客があまり「安全」ではないというか、揺さぶられることになると思います。「メディアとしての演劇」を考えてみることで、演劇のそういう側面にフォーカスしてみたいんです。
▼チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』@ロームシアター京都
撮影:清水ミサコ
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東日本大震災後まもなく、喘息で妻を亡くした男が、新しい恋を始めようとしている。妻と暮らしていた部屋に、気になる女性を初めて招いたのだ。果たして、その女性も男を好ましく思い、休日にバスに乗ってやってきた。しかしその部屋には幽霊になった妻がいる。震災後の危機感がもたらす助け合いの気持ちや、これを機に社会を良くしていこうという機運を感じながら死んだ妻は、男に繰り返し、「この国はこれから良くなっていくのよね?」と問いかける。(徳永)
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藤原 というのは、チェルフィッチュの『部屋に流れる時間の旅』も、やはりメディアとして機能していると感じたんですね。この舞台で青柳いづみが演じたのは、震災の後すぐに亡くなったために、いわゆる「災害ユートピア」を夢見たまま幽霊になった妻の役でした。要するに、「確かに私たち酷い目に遭ったけど、隣人ともいろいろ話せるようになったし、ここから日本は良くなるかもしれない」と未来に期待できる状況で記憶が止まっている女です。彼女はまだ生きている夫に対して「ね、そうでしょ?」と語りかけ続ける。
徳永 相手に期待する答えに、よもや否定的な要素は入っていないだろうという語りかけですよね。
藤原 そうです。当然、作・演出の岡田利規はアイロニーを込めてこの問いかけを使っているわけです。実際、その後の日本は、彼女が夢見たような世界にはなってないわけですから。
京都で上演を観た夜に、居合わせた何人かで呑んだんですけど、「あの日、あの時間に何をしていたか」って話がひさしぶりに出ました。そういう意味でも、語りかけは成功していたのではないかと思います。
徳永 5年前で時間が止まっている人物を登場させることで、半ば自動的に5年前をリアルに思い出させた、ということですか。
藤原 リアルに、かというとちょっとわからないですね。蘇ったのは自分の記憶だけじゃないというか。冒頭で安藤真理が「目を閉じてください」って観客に告げるじゃないですか。しかも「目を開けてください」って時には英語も添えて。京都国際舞台芸術祭で上演されたから、外国人がかなり多い客席だった。あの「目を開けてください」は、日本語話者じゃない人たちも含めた他人がこの劇場の中にいる、って事実を観客に意識させるような仕掛けになっていたと思うんですね。
徳永 あの「目を閉じてください」はすごく重要だと思いました。ポジティブな意味でもネガティブな意味でも。
実は今も判断をしきれずにいて、と言うのは、観客に直接的に「○○してください」と協力を呼びかけるのって、ものすごく「演劇っぽい」というか、客席が舞台に対して協力的である、好意的であるということを前提にした、すごく真っすぐな行為じゃないですか。でも岡田さんは「これから演劇をやりまーす」と俳優に宣言させるというシニカルな方法で、演劇が長いこと無くすことを目指し、観客も暗黙のうちに無いもののように振る舞ってきた“演劇の不自然さ”を明らかにした人ですよね。その人が思い切り、観客の善意によって成立する呼びかけをしたことに戸惑ったんです。言ってみれば、自分で進めた演劇の時計を、巻き戻すとまでは言わないけれども、これまで開発してきた数々の武器をすっ飛ばして素手でやっている気がして……。
藤原 でも仮に素手だとしても、素手なりのテクニックはあったんじゃないですかね。例えば俳優の喋り方は──幽霊である青柳いづみと、生者である安藤真理・吉田庸とでは違っていたと思いますが──抑揚を失ったものでしたけど、ただの棒読みとは違うし、異化効果を生み出すような特殊なものでしたよね。簡単に真似できるものではないと思うんです。
徳永 はい、テクニックは緻密に磨き上げられて、さすがの成熟度でした。
私が真っすぐさを気にするのは、つまり、思い切って言うとこういうことです。『わたしたちは無傷な別人である』(10年)では「コンセプション(受粉、受胎)」というコンセプトのもと、具体的なせりふには頼らず、俳優が持つイメージが観客の脳に念写されて身体に影響を及ぼすという高度な方法を成功させたのが、近年は演劇がもともと持っている力を利用する方向に行っているのではないか、と。
昨年の『God Bless Baseball』では、岡田さんは「アレゴリー」という言い方をしていましたが、私は「暗喩」というより「置き換え」のように感じたんですね、日・韓・米の関係性などが。それでも非常に見事な置き換えで、幾層にもイメージが広がるものだったし、ボールを投げたり雨に濡れたり美術が崩れ落ちてくるといったことで、体が感じる緊張感も充分にありました。
でも今回の「目を閉じてください」は、一昨年の『わかったさんのクッキー』で岡田さんが言っていた「魔法」を、拡大解釈して持ち込んだような気がしたんです。『わかったさんの~』の「魔法」は、『わたしたちは~』の「コンセプション」とほぼ同義であることは、藤原さんの第1回の「新・演劇放浪記」で岡田さんがおっしゃっていましたよね。その、観客にとって「魔法」にかかる状態を、『部屋に流れる~』は、最初のせりふだけで実現しようとしたように思えた。
いや、音響も美術も素晴らしく作用しているんです、魔法の状態のために。でも、風が微かに動いて幽霊である妻のスカートを揺らすとか、あまりに従順に魔法の状態の補助線になっていた。場所も時間も、現実と夢のあわいに設定されていて、ストレートな語りかけによって提供されるものが、結果的に身体に響かない。それはどうなんだろうと思ったんですよね。
藤原 現実と夢のあわいにあることもまた、問題だということですか?
徳永 私もリアルに震災時の体験を思い出しつつ、また、死んだ妻の幽霊の「あんなにひどいことがあったんだから、世の中が良い方向に変わっていくチャンスよね?」という言葉に「そうなっていないです、ごめんなさい、ごめんなさい」と謝りながら、でも頭の中がどこか、霞がかっていくような感覚も覚えたんです。また繰り返しになりますけど、「メディアとしての演劇」というのは、その作品を観て自分には何が起きたか、考えることや話すことが活発に行われやすいということですか?
藤原 いや、終わった後にたままた呑んだから対話が生まれましたけど、それ以上に、劇中で舞台を見ている時に、あの日、他人に流れていたはずの時間を想像した、ということのほうが大きいと思います。
変な話、演劇を観るという行為にはまだ解明されてないことがあると思うんですよ。報道番組を観るのとはまた違って、演劇を通してあの日のことを想像する。その行為は徳永さんが仰るように、現実と夢のあわいに置かれる体験になるのかもしれないし、少なくとも観ているこちらの主体性が脅かされるものではあると思う。観客というのは不思議な存在ですよね。テレビを観ている時のように日常の誰かという役割を演じることができないじゃないですか。夫でも父でも子でも恋人でも先生でも社長でもない。そういうアノニマスな「観客」という状態になって初めて、浸食されるものがある気がするし、なぜわざわざ劇場に演劇を観に行くかという理由もそこにあるような気がします。この『部屋に流れる時間の旅』はそういう「観客」に呼びかけて、その心や記憶に浸入することを目論んでいるように思うんですね。一種のウイルスみたいに。それが発症するのがいつかはわからない。その夜かもしれないし、数年後かもしれないし。
▼地点『スポーツ劇』@KAAT 神奈川芸術劇場
撮影:松見拓也
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エルフリーデ・イェリネクが1998年に発表した戯曲『スポーツ劇』。スポーツをめぐる様々な言葉が、ドラマという像を結ばないまま書かれている。独白であり、呼びかけでもあり、「父」へのレクイエムでもあるようなその語りはほぼ意味としての連なりを持たないが、キリストや天皇のことを想起させつつ、観る者に不思議な印象を残す。三輪眞弘による蛇居拳算の合唱隊も、『光のない。』に続いて再登場。(藤原)
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藤原 地点の『スポーツ劇』はつい3回も観てしまったので語りたいことはたくさんありますが、ここでは「メディアとしての演劇」という観点に絞って考えてみたいと思います。いつもの地点作品では──あ、京都のアトリエ・アンダースローで観る時はカフェも併設されてるからちょっと違うんですけど──基本的には観終わったらガツンとやられて、別に誰とも話さなくてもいいや、となるんです、わりと。でも今回は何か猛烈に語りたいという気持ちになりました。例えば清原の話とか……。出演していた石田大が、清原の髪型をキリストにした、みたいな風貌だったこともありますけど。
徳永 えっ!? 似てないですよね?
藤原 いや、よくよく見てください似てますから!(笑)でもなぜ清原を語りたくなったかというと、薬物という問題は清原個人のものというより、そもそもスポーツに根本的に付きまとうものだと思うんですね。ドーピングとかも。
徳永 賭博とか、最近いろいろ出てきていますね。
藤原 そうです。そういうのをナシにして「スポーツは健全です!」とか謳ってるけど、そんなわけないだろう、清原は必然的に生まれたのだ……とかいうことを、イェリネクの膨大で意味不明な言葉の洪水を浴びた時に言いたくなったんですね。そういう気持ちにならなかったですか? 清原とか思わない?
徳永 すみません、清原のキの字も思い浮かばなかったです(笑)。そこを掘って喋りたくなるという感覚は、共有できない……。
藤原 いや清原は一例にすぎなくて。例えばシュワちゃんことアーノルド・シュワルツネッガーはその後、政治家に転身したわけですけど、トランプが大統領になることに最近反対してたな、とか……。日の丸や君が代も含め、いろんなイメージが散りばめられていて、それらが乱反射していく。ひとつのテーマをじっくり考える、というものではなかったけど、観た人それぞれの記憶に眠っているリソースと結びつく、いわば受粉することで、何かが生まれるという感じが僕はすごくしました。だから3回も観に行ったと思うんです。毎回違う感覚を受粉できて新鮮だったので。
イェリネクのテクストが、そういう意味で説教臭くなかったというか、ひとつのメッセージを啓蒙的・プロパガンダ的に押し付けるものではなかったのも重要だと思います。むしろ「みなさんが拍手して帰りたいのはわかってる。だけどもう少しだけ待ってほしい」みたいなお茶目な顔も見えて可愛いとすら思いました(笑)。
徳永 私が観た日はたまたま演出の三浦基がひとりで話す、というアフタートークがあったんですけど、そこでヨーロッパにおけるイェリネクの嫌われ方を聞けたのは、とてもプラスになりました。「彼女はキリスト教圏にいながら“救いは来ないよ”と言っている、キリスト教を否定しているわけで、そりゃ嫌われますよね」と。また『スポーツ劇』で、イェリネクが父親のことを書いているという話ですね。そこからもう1度、この作品を観たいと思いました。
なので私が惹かれたのは、『スポーツ劇』のスポーツの部分ではないんです。ちょっと邪道ですが、東京オリンピックについてなにがしかの示唆があるのかとうっすら考えていて、あったのかもしれませんけど、私のアンテナは届かずでした。
前もって戯曲を読んだり、劇作家や演出家について知らなくても楽しめる、何かを感じられるというのが演劇の基本ではありますが、ことイェリネクにおいては、事前にキーワードがあると思いもよらない広がりがあるんだと思います。アフタートークでなくて、プレトークがあったらいいですね。それこそ、ひとつの「メディアとしての演劇」になりそうですし。
▼小鳥公園『ペルソナ』@森下スタジオ
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多和田葉子の同名小説が原作。ドイツに留学している姉弟が、ドイツ人や現地の日本人コミュニティの中にあって感じる齟齬や、無邪気な(だがそれゆえに深刻な)差別を描いている。小鳥公園は、鳥公園の実験的企画。今回は若手演出家コンクールでの上演などを経て何段階かに分けて上演されたワークインプログレスの最終公演。(藤原)
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藤原 完成された作品を観ることだけが演劇ではないので、こうやってワークインプログレスとして、作品が生成していくプロセスに観客が立ち合うのも面白いですね。ただアフタートークで出演者の山崎皓司が、「俳優としては今回が最後という気持ちでやった」と言っていて、それはそれで甘えがなくていいなとも思いました。彼は演技もとても生き生きしててよかったんだけど、たぶん武井翔子という、役や語りのベクトルを変幻自在に使い分けることのできる共演者を目の当たりにて、燃えたんじゃないかな。
徳永 途中経過の発表は私も大好きですし、意味あることだと思うんですけど、ワークインプログレスそのものがまだ流通していない。もちろん、人や作品によって内容が大きく変わるものだとはわかっているんですけど、まだ一般には認知度が低いので、それなりの工夫がやる側に必要ではないかと『ペルソナ』を観て思いました。
複数回あったとして、それを全部観られる人は多くないと思うので、この前の段階ではどうだったとか、ワークインプログレスにする理由とか、効果といったものが、もう少し可視化されるといいですよね。しかも今回、鳥公園の実験的企画だということで、「観終わってモヤモヤした気持ちだけど、ワークインプログレスだから仕方ないのか、実験だからそういうものか」としか考えられない。
西尾さんは考えながら作品をつくっていく、その経緯も作品であるというタイプのつくり手だと思うのですが、だからこそ、思考の軌跡を体系的に見せる工夫がほしいです。
私は用事があったのでアフタートークは聞かなかったので、そういう話がそこで出たのかもしれませんが。
藤原 アフタートークは、演出家よりむしろ俳優と観客が対話するためのトークで、先月このプレイバックでも語ったように「俳優の自立性」を促す意味でもすごく大事なものでした。ただその場でも発言したんですけど、トークの内容が演技や演出の話に傾きがちなのはもったいないなと思った。異国で生きることとか、移民のこととか、語り合いことでもあったから。それを日本人の観客や俳優がどう感じているのか、もっと知りたかったです。
▼遊園地再生事業団+こまばアゴラ劇場『ワークインプログレス・子どもたちは未来のように笑う』@こまばアゴラ劇場
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9月の本公演に向けたワークインプログレス。妊娠や出産にまつわるテクストを引用して様々なスタイルで朗読。後半はやはり同じテーマで、いくつかのエチュード的なシーンによって構成されている。青年団の松田弘子のようなベテランから、無鄰館の若手まで、出演俳優の世代も幅広い。(藤原)
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藤原 3月は妊娠・出産・育児にまつわる作品が特に多かったように感じましたが、やはり今の日本にとってすごく大事なイシューなんでしょう。ベテランの松田弘子さんが朝までセックスしまくる(?)というユーモラスなシーンもありつつ(笑)、ダウン症の子供を産むかどうかというかなりシリアスな場面もありました。
徳永 私はこの作品を、痛恨のうっかりミスで見損なってしまったのですが、どうして(コンセプト・構成・演出の)宮沢章夫さんが、今、育児とか出産の話を扱おうと思ったのかが気になっていたんです。そのあたりは作品から感じられましたか?
藤原 そうですね……少なくとも、宮沢さんはいわゆる「当事者」ではないように見えるし、こういうテーマに飛び込んでいくのはリスキーではありますよね。僕は、宮沢さんは俳優の声や身体に興味がある人だと思うんですね。今回こまばアゴラ劇場と組んでいるのも、その探究のためなんじゃないかなあ……。あと引用の中に転位21の山崎哲の戯曲もあったんですが、明らかに異質なテクストで。そういう異物を取り込もうとしている気もしました。
徳永 声や身体に興味があるのは今回に限ったことではないでしょうから、やっぱりなぜこのテーマなのかが気になりますね。アフタートークで、育児中の俳優たちだけで話す回もあったようですし。
藤原 ラストシーンで、ウェイトレス役の大場みなみがあることを起こすんですよ。それはナチュラリズムでは絶対に起こらないような異質な会話で。コント的な発想から生まれたシーンかもしれないけど、シリアスすぎてとても笑えない。でもありえないことが起きるのは演劇の醍醐味だし、宮沢さんはこういうシーンを通して、今の日本に潜在的に眠っている感情を炙り出そうとしているのかなと思いました。
徳永 とすると、転位21の戯曲や、それまでのナチュラリズムに反するシーンなど「異質さ」がキーワードのひとつなのでしょうか。本公演は必ず観ます。
▼世田谷パブリックシアター「地域の物語」『生と性をめぐるささやかな冒険』@シアタートラム
撮影:小林由恵
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世田谷パブリックシアター学芸が毎年開催している「地域の物語」。一般公募で集まったメンバーとワークショップを長期間重ね、できあがった劇をシアタートラムで上演する。今回のテーマは「女性の生と性」。参加者たち自身のエピソードを元にシーンをつくり、それらを繋いで構成されている。(藤原)
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藤原 とても感動的な上演で、驚きました。プロの俳優ではない人たちによる市民劇で、これだけの強さを持った演劇が生まれるなんて。認識をあらためる必要を感じました。それこそ「当事者性」がものすごくある作品だけど、彼女たち当事者だから心を打たれたわけではないと思います。
徳永 内容はどんなことなんですか。
藤原 幼少期の服の話とか、元キャリアウーマンの矜持と悲哀とか、初めての生理とか、付き合っていた人に妻がいたりとか……。特に「障害とアート」を謳っているわけではないのですが、障害者も何人か参加していたので、障害者のセックスという問題にも踏み込んでいましたね。世田谷は障害者の自立生活運動が盛んな地域で、劇場にもいつも車椅子の人たちが出入りしている。そういう関係の積み重ねがあったからこそできたことでもあるでしょうね。
もちろん進行役であり、構成・演出を担当した、花崎攝と山田珠実の手腕に拠るところは大きいと思います。ワークショップの現場ではわりと放任主義みたいなんですけど、最終的にどのエピソードを舞台に載せるか、個々のシーンをどう繋ぐかについては、やっぱり彼女たちのハンドリングが大きいでしょう。花崎さんは黒テント出身で、フォーラムシアター(役を演じることで思考と対話をする手法)の実践等もされてきた人。山田さんはダンス寄りで、身体や振りから考えていく、とてもオープンな人に見えます。
象徴的だったのはアフタートークで、参加者のひとりが「やっぱり女性ならではのつらさはあるから、それをナシにされるとめっちゃムカつく」という主旨の発言をして、会場の一部から拍手が起きたんです。とても切実だし勇気ある発言だったと思うんだけど、やはりそれを言った瞬間に「男性vs女性」の構図が生まれてしまうじゃないですか。するとすぐに進行役のふたりが「この場にいる人が女性のすべてじゃないし、男性/女性という性別で割り切れない人たちもいる」ってフォローしたんですね。そういうバランス感覚が、この作品を「女性=当事者」の語りというだけでなく、もっとひらかれたものにしていたと思います。
徳永 そういうハンドリングはとても大切ですね。個人史をうまくすくい上げた演劇は、出演者に解放感を与えるから、つい「ほらね、女は/男は/老人は/障害者は、こんなに大変なんですよ」という話になりがちですけど、それを出されると、そうでない人は謝罪するか反発するしかなくなって、いつまでも中に入れない。
藤原 そうなんです、当事者性に端を発しながらも、依存はしない。「地域の物語」は、公共劇場がいかに地域の人々にひらかれるかという実践の、最前線にある好例だと思います。市民劇を「舞台の上にあがれてよかった!」というレベルを超えて、観る人にこれだけ何かを問いかけるものにまでするには、こうして劇場やスタッフにしっかりとした思想があり、進行役にも力がないと、なかなか難しいとは思いますけど。けれどここには確実に、未来の演劇のひとつの形があったように感じます。
徳永 去年、福井市文化会館で上演された『Miageru─ミアゲル、女、モラトリアム─』を観たんですが、やはり公募した市民の方の個人史をひとつの作品にしてみんなで演じるというもので、ほぼ同じコンセプトだと思うんです。
その作品を観たのは、総合演出が多田淳之介さんだったからで、タイトルから出演者は女性だけの作品をイメージしていたら、男性も出ていて、小さな個人の人生を扱いながら、射程が広かった。出演者の皆さんの演技も自然で、演劇作品として予想以上に質が高くて驚きました。市民劇も「やった、頑張った、楽しかった」の時代から、「誰がどう演出するか」「上演を何に役立てるか」を考える時期に入っているんですね。
▼ヤリナゲ『緑茶すずしい太郎の冒険』@王子小劇場
『緑茶すずしい太郎の冒険』/撮影:村田麻由美
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教師をしながら、たまに小劇場演劇にも出ている20代後半のうだつのあがらない女。同僚と不倫をしているが、ある日、妊娠が発覚。自分に子供ができないのは精子の問題だと思い込んでいた不倫男は感動し、妻と別れて結婚すると約束。ところが出生前診断により、赤ちゃんが80%の確率でドーナツ化(ダウン症がモデル)していることが判明。その赤ちゃん「緑茶すずしい太郎」は、生まれる前からすでに別の胎児に恋をしつつ、果たして自分が生まれていい存在なのかどうか煩悶する。そんな中、弟の恋人であるじぞみの謎の活躍によって事態は急展開。ハッピーエンドで終わるかと思われたが、ずっと二階にひきこもっていた姉が、実は……(藤原)
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藤原 「CoRich舞台芸術まつり!2016春」の最終候補作品ですが、あまりに面白くてびっくりしました。作・演出の越寛生は90年代生まれの若い作家で、いくつかの先行劇団の影響は感じますが、ただのフォロワーではないオリジナリティを感じます。
どんでん返しもあり、伏線の張り方もすごく緻密。不倫相手の奥さんの側の事情のように「目に見えない部分」を観客に伝える時に、説明的な言語を使わないのも巧みでした。そもそもまだ産まれてない胎児が主人公、というのも面白い。彼がお母さんのお腹を蹴るしぐさをするシーンとか、愛おしかったです。
徳永 私は拝見していないので、これも「メディアとしての演劇」だとしたら、普通の演劇とどう違うんだろうって思ってしまうんですけど。
藤原 あ、これが「メディアとしての演劇」で、あれがそうじゃない、みたいに分類したいわけじゃないんです。演劇にそういう側面があることを再認識したい、ということでしかないので。だからヤリナゲのこの作品を無理にその枠に入れようという気持ちもなくて、なんなら単にどうしても言及したくてここに挙げた、と思っていただいてもいいです(笑)。むしろ超オーソドックスな劇芝居ですから。ただ、出生前診断などの社会的なテーマを扱う時の感覚に、新しいものを感じるんですよね。
おそらく、自分たちがリアリティを感じられる身近な生活を描くことと、社会的・政治的なイシューを扱うことが、彼らにとっては地続きなんじゃないでしょうか。例えば平田オリザの『東京ノート』や『ソウル市民』では、身近な日常を描きながら、その遠景に戦争とかの大状況が置かれていた。あるいはチェルフィッチュも『三月の5日間』でも、遠くにイラク戦争があるけど、渋谷のラブホテルで若者はセックスをしているという。つまり「政治・社会の問題=大きな物語」と「日常のリアリティ=小さな物語」に断絶があるわけですね。むしろその断絶こそが、彼らが当時描きたいものだったと思うんです。でもヤリナゲのこの作品では、今ここでセックスすること自体が、社会的・倫理的な問題と分ちがたく結びついている。生きる上で当然に絡みついてくるものとして、様々なイシューを肌身に感じてるんだろうと思うんですね。そして、深い闇を抱えたこの社会に対して、まっとうに絶望しているんだと思わせる、戦慄のエンディングだったんです。
▼ドキドキぼーいず『じゅんすいなカタチ』@調布市せんがわ劇場
撮影:坂根隆介(ドキドキぼーいず)
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介護が必要だった母が亡くなった家に、長年、家族のもとを離れていた父が帰ってくる。工場に勤めている息子、フリーターの娘との関係を、ゆっくり取り戻そうとする父、それを受け容れる子供たちに、死んだ母の妹は苛立ちを隠さない。息子には同じ職場の恋人がいるが、ふたりには温度差があり、日に日にそれは広がっていく。恋人がケーキを持って家を訪ねてきたクリスマスの夜、息子は誰にも理由を告げず自殺する。息子とその恋人が勤めていたのは、ミサイルの部品をつくる工場だった。一方、娘には、不満を言い続けながら別れない男がいる。母親の仏壇を中心にした彼らの家で、いくつかの時間が巻き戻り、すでにいない息子の眼差しが、流されていく人間の弱さやズルさをあぶり出す(徳永)
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藤原 今話したようなリアリティは、徳永さんが「ひとつだけ」で推してくださったドキドキぼーいずもそうですよね。作・演出の本間広大もやはり90年代生まれ。戦争やデモ、介護といった問題が、身に迫ることとして描かれる。アフタートークのゲストにSEALDsの谷こころさんを呼んでいたのも象徴的です。少し前に範宙遊泳の山本卓卓さんが「社会的テーマはダサいとか言ってられない」とCINRAのインタビューで語ってましたよね。もう俺はやらなきゃいけないという宣言だった。そして今や、その感覚はデフォルトになってきたのかもしれない。
徳永 先日、本間さんと話した時に印象的だったのがまさにそこで「上の世代は、作品の中で最後まで答えを示さない人が多いけど、それは僕たちには歯がゆいところなんです」と言っていたんですね。「自分たちはこう思う、ということを作品の中ではっきり言いたい。もし観客に、それは違うんじゃないかと言われたら、そこから先で考えていきたい」と。それを聞いた時に、「ダサいとか言っていられない」と決意する世代の下に「社会的じゃないほうがダサい」と考える世代が出てきているんだなと感じました。
藤原 ただ、意見を言うとはいえ、芝居自体に押し付けがましさがない、つまりプロパガンダになってないのはいいなと思うんです。妹の役はむしろ、問題を避けて通りたい人ですよね。それは本間さん自身の政治的意見とはむしろ逆かもしれないけど、そういう人物を登場させることによって彼らの演劇をオープンなものにしている。そして、安易な希望を入れてごまかすようなことをしていないのがいいなと思いました。
徳永 ずっと上の世代にも社会派はいますが、せりふを削ぎ落としているのが、若い世代の大きな特徴ですよね。
その代わり、人の動作や動線、発話のテンションや物の配置で、人物の政治的ポジションを伝えるのがうまい。政治的ポジションと言うのは、反原発とかではなくて、親戚関係やご近所付き合いの中での上下関係や立ち位置も含めた広い意味です。
それと、去年、せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリを受賞した『闇』もそうでしたけど、絵づくりがうまい人だなと改めて感じました。
藤原 舞台面がやたら客席から遠かったのが不思議だったんですけど、なるほど、絵として見せるという意味ではうまく機能してましたね。
徳永 おそらく、常に全体が見える絵をつくりたかったんじゃないかと思います。床面に段差をつけていましたから、見やすさに留意しつつ、平面的な間取り図の中で右往左往する人間を見せて、日本人ぽさを出しているようにも思いました。
藤原 あと発話の仕方も面白かったですよね。山崎健太さんとツイッター上でさんざんやりとりしたのでここでは簡単な言及に留めますが、感情を内に秘めて隠すような演技ではなく、いやいや実はここには苛立ちや戸惑いがありますよって事実を、せりふと、俳優の声とを、不自然に乖離させることによって表現する。しかもだんだん後者が大きくなって、しまいには日本人が普段絶対に言わないようなせりふを喋り出す。「見送らなくて結構です! 死んだ彼とあなたたちをセットで思い出にはしたくないので!」なんてことはふつう言えませんよね。これは今まで「言わぬが花」とされてきたことを口にするための、演劇的な発明だと思います。
徳永 親戚のおばさんが父親を責める、その調子がずっと同じ不機嫌で攻撃的なもので、リアリティがあるかどうかと言ったらないんですけど、同じ調子でひとりが延々と喋ることで、黙って聞いている周囲の人物の気持ちがあぶり出されるし、そこで通されているひとつのテンションが、おばさんの感情の中で1番大切な部分であり、同時に、そのテンションに隠れて出さない部分があることも想像させる効果がある。観客に一定の忍耐を強いますが、あるポイントを過ぎてからの情報量がとても多い。
藤原 そうですね。もちろんこれからまだまだ切磋琢磨されていくんでしょうけど、彼らの世代がどんなふうに「未来の演劇」をつくっていくのか、楽しみです。
▼ミクニヤナイハラプロジェクト『東京ノート』@吉祥寺シアター
撮影:前澤秀登
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201X年(もとの戯曲では2014年)の、東京のある美術館。ヨーロッパで戦争が起きているため、戦火を逃れて多くの名画がアジアに集まっているが、この美術館もその恩恵に浴している。併設されたレストランで1年ぶりの親戚の集まりを開く一族、父親から譲り受けた大量の絵を寄贈しに来た青年とその友人、微妙な距離感の恋人同士、卒論を書くために訪れた女子大生など、それぞれの理由で訪れた人々のそれぞれの物語が、時に交わり、時に交わらないまま、館内を行き来する。(徳永)
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徳永 世代との違いということで『東京ノート』を考えたいんですけど、この戯曲を書いた平田オリザは、言うまでもなく「静かな演劇」をベースにした「現代口語演劇」という手法で、ナチュラリズムに重きを置いた演劇を成立させました。
その世界では、多くの登場人物は、強く感じていること、深く考えていることほど言葉にしない。そして観客には「人間とはそれ単体で考えるのではなく、他の人との関係性や、遠景に置かれた社会とのつながりで考えるものであり、閉めた蛇口から漏れてくるものを感じ取り、そのしずくを集めて答えを想像するのが現代演劇のたしなみである」という新しい作法が求められました。
それは今も機能していると理解しつつ、矢内原美邦の演出を観て私は、『東京ノート』を静かな演劇として演出することがいかに不自然だったのかを気付かされた気分です。
もとのストーリーを知らない人にこの舞台がどれだけ伝わるのか、という問題はひとまず置いておいて、ほとんどの人間が競歩のような早足で歩き、ケンカ腰のような早口で喋り、時には相手を小突き、時にはふたりの俳優でひとりの役を演じるというエネルギッシュな演出は、充分に戯曲を成立させていた。ということは、書かれた役の中にそれだけの感情や動きが内包されていたということですよね。
もちろん平田さんが演出した『東京ノート』は、リアルタイムでは静かな演出がきっと正しかった。特に初演時は、崩壊した狂騒のバブル期に対して、「言いたいことはある、言葉にする知性もある、でも言わない」という振る舞いは知的でかっこよかったと思います。でもそれは、あらゆる時代に通用するナチュラリズムではなかったということがこんなにもはっきりわかってしまった。観ながらかなり興奮しました。
藤原 実は今回のミクニヤナイハラ版でいちばん楽しみにしていたのは、かつての教え子と家庭教師が「あのあとね、子供できたんですよ」「え?」「あかちゃん……(沈黙)……うっそー」っていう、あの現代口語演劇屈指の名シーンをどう上演するのかだったんです。オリザ版だと「A.ほんとに妊娠してた」「B.嘘だった」のどちらを真実と考えるかは観客によって分かれてくれればいいという論理で、そのために沈黙の間(ま)を機能させるわけですよね。
ところがミクニバージョンはまずまったく間がないし(笑)、しかもその後に「私、自殺しようとしたんですよ」っていうせりふが加わってたんですよね。真実を口にすることで、ぐさりと観客を刺してくる。でも演じた稲継美保と沼田星麻は、粘着質にはならずに上手と下手にサーッとハケていく。残酷だけど鮮烈。ラストシーンで立蔵葉子が「泣いたら負けなの」って言ってサッと終わるのも鮮やかでした……。
徳永 レストランで会食するために美術館に来た一族も、かなり印象が変わっていましたね。次男の妻が義姉に「自分たち夫婦はきっと離婚するから、もうお義姉さんとは会えない」という話をしますが、その役を複数人で演じることで、夫から「他に好きな人ができた」と別れを切り出された女のつらさ、みじめさ、孤独、これからの暮らしへの不安、そして強さみたいなものが、染みるように伝わるのではなく、乱反射して見えました。
それと『東京ノート』が書かれた1994年はまだ、日本は豊かで平和で知的であるという認識で物語が書けたんですよね。ヨーロッパで戦争が起きて東京に名画が集まっているという設定なわけですから。今だったら、そんなふうに対岸の火事には扱えない。矢内原さんは、山本卓卓さんや本間広大さんよりも2まわりぐらい年齢は上ですが、振付家として身体と向き合ったり、このところアジア各国を回っている中で得た嗅覚みたいなもので「もうスノッブではいられない」と感じ、若い世代の感覚とシンクロしたのではないでしょうか。
藤原 あとあらためて驚いたのは、原作にも「福島」や「ブリュッセル」の地名が出てくるんですよね。今回は福島出身の笠木泉さんが、あるギョッとするようなせりふを言うシーンがあって、えぇぇ美邦さん、鬼かよ……とも思いましたけど、そういうリスクを負ってでも観客に突き付けたかった現実があったんだと感じます。
徳永 そうそう、初めて『東京ノート』を観た人に内容がどれだけわかるのか、という問題ですが、きっとわからないと思います。でも矢内原さんの演出は『東京ノート』でなくても、戯曲が聞き取れること、スムーズに理解できることは少ない。せりふの聞きやすさより優先させたいことがあり、それによって戯曲を立ち上げられると判断しているわけで、今回も、静かで知的とされる美術館が、実はこんなにも生々しくて騒々しいという提示をしたと思います。
▼ピンク・リバティ『艶やかなマチルダ』@明大前キッド・アイラック・アート・ホール
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大学のサークル仲間の男女が、ひとりの男子の家で飲み会を開いている。おしゃれなその一軒家は、破格の家賃だという。「わけあり物件じゃないの?」と冗談を言い合う彼らだったが、その家の洋服ダンスは本当に、この世とは違う世界とつながっており、そこからマチルダという謎の女が現れる。マチルダには、触れた人間がエロくなるという能力があって……。(徳永)
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藤原 この作品については特に「メディアとしての演劇」は意識せず、でも「未来の演劇」の担い手として触れておきたいです。冒頭は若者の呑み会シーンで、うわー、ポツドールっぽいイヤ〜なリアリズムを見せつけられるのかなーと思って一瞬身構えたんですけど(笑)、途中で完全ファンタジーなマチルダが登場するあたりから俄然面白くなりましたね。
徳永 マチルダを演じた億なつきさん、衣裳がビキニでしたけど、決して太ってはいないのに、お腹まわりだけがボリューミーで、その体型を活かすためにあの役が書かれたのではないかというハマりぶりでした。
藤原 ある種の妖艶さの権化ですよね(笑)。
徳永 久々に「正しいファンタジー」を観たな、と感じたんですよね。「正しい」というのは、丁寧に大胆にウソがつけている。
演劇はファンタジーが得意だ、みたいなことを油断して言う人が時々いますけど、本当は相当キツイと思うんですよ、生身の、そんなにキレイではないかもしれない(笑)役者さんたちが汗をかきながらやるわけだし、戯曲にも照明にも衣裳にも、たくさんの技が必要で。でも今回の作・演出の山西竜矢は、人をだますために必要なことがわかっている。美しさではなくて毒で酔わせられるということを知っていて、それを遂行している感じがかっこいいなと思いました。
藤原 本家・子供鉅人の益山貴司座長とはまた違うオリジナリティを感じますね。
徳永 山西さんはもともと芸人をしていたということですけど、ストーリーテリングのセンスを感じるから、演劇をやってよかったのではないでしょうか。
益山貴司さんとの違いで言うと、益山さんはどんなにハチャメチャな話でも人間を見ているけど山西さんは人間そのものにはあまり興味はなさそうな……。
藤原 まあ完全に妖怪の世界でしたしね(笑)。演出面でも、狭い劇場だけど見えない空間を使うのがうまいなあとか。子供鉅人の劇団員だけじゃなくて、客演の呉城久美や葉丸あすかにもかなり身体を張らせてて、男優陣も含めて俳優の新たな一面を引き出していたんじゃないかと思います。
徳永 衣装にセンスを感じました。異性を意識し、同性に反発されない程度の、家呑みファッションの選び方が絶妙でした(笑)。
藤原 そういうやらしい細部にこだわったリアリズムと、荒唐無稽なファンタジーが同居してるんですよね。そういえば千秋楽に、舞台で使ってた小道具の人形を売ってましたよ、一個500円くらいで。商魂たくましいなー(笑)。でもなんか憎めないのは、まさに子供鉅人ゆずりですかね。
▼三月企画『GIFTED』@のげシャーレ
撮影:加藤和也
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新菜ちゃんはもうすぐ保育園を卒園する。卒園式の出し物の練習をしなければならないのに、保育士の先生にはよくわからないこだわりがあって、演目がなかなか決まらない。ある日、同じマンションに住んでいる車椅子のおばあさんに手を握られて怖い気持ちになった。そのおばあさんは、家にある本がなぜか毎日少しずつなくなって困っているらしい。とうとう卒園式の日がやってきた。(徳永)
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藤原 何度かこのプレイバックでも「未就学児童の回」とかの重要性を話してきましたけど、今回の三月企画もまさに。受付で子供にチケットを手渡されたりとか、子供と一緒に性教育を受けるシーンがあったりとか(笑)、すごく幸せな環境に思えました。こういう環境はもっと広がる余地があると思う。
徳永 そうですね。作・演出・出演の野上絹代をはじめ、出演者が全員、育児経験者であり、ユニット名も野上さんのお子さんの名前をもじっていたりと、最初から「親と子」という眼差しありきの企画でした。
ただ、事前のそうした情報から「子育て、大変だけどいいよね」という話なのかと思ったら、実は人間がいつまでも抱える不安が物語の中心にあり、老いてからの問題も出てきて決して「親と子」オンリーの話ではなくて、いい意味で驚きました。
人間の不安を最も端的に表していたのは若い男性の保育士で、毎年園児が卒園していく寂しさから「自分は何が残せるんだろう、自分とは何なんだろう」と考え過ぎ、卒園式の出し物を悩みまくるという。Twitterで「あの保育士が謎」という話題がありましたけど、私は彼の気持ちがよくわかったんですよね。職業的に誠実になろうとするがあまり完成を遅らせる感じとか、真剣に考えるあまり、保育園児にビッグバンの話をやらせるとか。
藤原 それは徳永さんに遅刻癖があるがゆえのシンパシーなのでは……?(笑)え、あのビッグバン、わかります?
徳永 誰とどう出会って仲良くなっても絶対に寂しいとか、仕事や学業がうまく行っても埋められないものが自分の内側にある、ということを考えていくと、最終的には宇宙ぐらいまで考えないと答えは出ないですよね? いや、答えは出ないんですけど、宇宙の寂しさを考えて、それでようやく諦められるというか……。で、宇宙のことを考えるとビッグバンに思いは至るでしょ? 私には持論があってですね、今、宇宙で起きていることをひとつの場所とひとつの時間に集めると、ビッグバンなんです。地球や人類の歴史は、それが広がっていっている過程なんです。
藤原 え?
徳永 時間を流さないでぎゅーっと集めると圧がすごいかかってビッグバンになるんですよ!
藤原 はあ……。
徳永 ビッグバンによって宇宙に派生した流れはいくつかあって、そのひとつが時間で、それに乗って私たちは歳を取っていくけど、同質のものが薄まりながら広がっていく現象の中にいるんだから、赤ん坊の時も年寄りになってからも、心の中にある不安は同質のものなんですよ。そういう意味では、『GIFTED』におばあさんのエピソードが出てきたのはすごく示唆的だと思う。保育士のお兄さんが考えた出しものが、結果的にではあると思うんですけど、宇宙の闇がお母さんのお股の形で、明かりが性器の形になって、出産=誕生が宇宙の始まりと重なるのは、非常に正しい話であり、だからこれは出産の話でも子育ての話でもなく、人間という孤独な存在が宇宙に生まれ落ちましたよっていう話なんです!
藤原 「メディアとしての演劇」を切り口に、最後はなぜか宇宙の起源に遡る話になりました(笑)。ではまた来月~。