FUKAIPRODUCE羽衣『イトイーランド』糸井幸之介インタビュー
インタビュー
2016.03.30
「妙なミュージカルで妙—ジカル」というキャッチフレーズも浸透し始め、中毒者が続々と増加中のFUKAIPRODUCE羽衣。糸井幸之介は、座付きの劇作家、演出家であり、音楽面のすべて(作詞、作曲、アレンジ、演奏)を担当する、いわば“羽衣工場”の工場長だ(社長は主宰で女優の深井順子)。そこで生産されるのは、大胆な性描写も含む、さまざまな形の愛の物語。だが人気の秘密は、その真ん中にある圧倒的な生の肯定力だろう。作品の印象とは裏腹に、柔らかな物腰と控えめな発言に徹する糸井が、自らの名を冠した新作について語った。
── このタイトルからは、ある夢の国を思い浮かべてしまいますが、そこにこだわりはないですよね?(笑)
糸井 あ、違います(笑)。そういう「資本主義の娯楽施設に物申す!」って意識は全然ありません。どんなタイトルにしようかと考えた時、最初に、ランド風なものにしたいと思ったんですね。だから「健康ランド」でもよかったんですけど(笑)、何かこう……自分の国……と言ったら大げさですけど、そんな名前がいいなと。そしたら、お風呂に入っている時にこのタイトルが浮かびまして。ふふふ。書き下ろしが久しぶりになるので、心機一転というか。
── 改めて“糸井幸之介的なもの”を見つめ直す?
糸井 はい。
── 糸井さんの作品は恋愛と性愛がいつも重要なポジションを占めていますが、事前にいただいた今回のあらすじは、7人の既婚女性が出てきて、全員が不倫をしている、とありました。“糸井幸之介的なもの”を煮詰めていったものがそのあたりにあると受け取っていいでしょうか。
糸井 何年か前、息子が公園に遊びに行くと、落ち葉とかを僕に拾って来させて、それを自分で重ねたり、枝なんかを刺したりして、彼なりのランドをつくっていたんですね──今回のチラシのデザインは、そこから出てきたものです──、彼のそのブームはもう去ったんですが、それを見ていつも「いいな」と思っていたんです。好きなものを集めてひとつにして、自分の国にするというのが。それで、もし僕が好きなものを集めて好き勝手に台本を書いていくとして、取っかかりに何を持って来るかと考えたら、女性だったんです。
例えば、街で女性を見かけて、それが彼氏と喋っている時だったりすると“僕があの女性の夫だったら”と妄想することがありまして(笑)。そういう、相手の浮気も込みで女性を描いて、僕のランドをつくっていけばいいのかなと(内容を)決めていきました。
── 息子さんの落ち葉が、糸井さんにとって男と女だった?
糸井 神様がつくった自然のものという共通点しかありませんけど。ただ、それ(男女の話)はあくまでも取っかかりで、そこから本物の落ち葉にどうやって迫っていこうかと考えています。
── 露骨にエロティックな表現も多いので誤解されがちですが、羽衣の作品の核には常に大きな生の肯定、人間讃歌がありますよね。不倫の話から「いかに落ち葉に迫るか」というのは、確かに“糸井的”かもしれません。すごく大変そうですけど(笑)。
糸井 そうなんです。でも本当に(新作は)久しぶりなので、どこかにフォーカスを絞ってというよりは、大風呂敷を広げて飛び込んでみようと思いました。
── それにしても、なぜ糸井さんが繰り返し男女の愛と性を描き続けるのか、改めてお聞きしたいと思いますが。
糸井 愛と性、ですか……。実際は臆病だし、そういうことに関しては慎ましいほうなんです(笑)。(劇作家として)現実に斬り込んでいって、何かを生々しく追求するようなことはできないので、自分にできることをやっていくとこうなる感じですかね。
── では、演劇との出合いから伺えますか。
糸井 えーとですね、幼い頃から絵を描いたり、工作したりするのは好きでしたね。中学生ぐらいから、音楽を聞くようになってバンドとかに興味を持って。演劇はそのあとです。高校で演劇部に入って。
── そこで深井さんと出会われたんですよね。
糸井 はい。それ以前は演劇を観たこともなかったですし、どちらかと言ったら、人前で演技をするとか、すごく遠い世界のことでした。自分で作・演出をするようになったのは大学に入ってからです。高校は完全に、顧問の先生の演出で既存の戯曲をやる形だったので。
── 最初から今のような、歌が必ず入っている構成だったんですか?
糸井 そうです。高校の卒業後に深井さんが唐組に入ったこともありましたし、やっぱりその年頃は、アングラに興味が出るんですよね。それで観に行くとアングラって、素朴と言ったら失礼ですけど、お芝居の中で(ストーリー上の必然性や自然な流れを用意せず)いきなり歌が出てくるじゃないですか。「登場しました、歌います」みたいな。それに影響を受けたんですね。
── その頃から男女の話を?
糸井 最初は違いました。僕、モノローグは抵抗がなかったんですけど、お喋り(会話)を書くのが苦手というか、何をどうすればおもしろくなるのかがさっぱりわからなくて、全然上手く書けなかったんですよ。でも、それじゃあ話も進まない。そんな中で、かろうじて、男の人と女の人がいちゃいちゃしながら喋るシーンは抵抗なく書けた。それが最初のきっかけかなあ。で、徐々に増えていったんです。
── 確かに今も、3人以上の会話はほとんどないですよね。群像劇ではあっても、カップルが順番に出てきてふたりが話している構成になっている。大きい物語を考えるより、恋人達の設定を考える方がお好きなんでしょうか?
糸井 設定を考えるのが好きって、あんまり考えたことはなかったです。まぁ、歌って踊ってという内容なので、とりあえずカップルの設定ぐらいはしっかりしておかないと何もなくなっちゃうぞと思ってはいますね。俳優さんが言えば伝わることですし(笑)。あとは、カップルの話がいくつも続くので、曲とかリズムとかでムードを変えていく中で、そのトーンに合った設定というのが自然と出てくるのかもしれません。
── 曲が先行して出来て、それに引っ張られて歌う人物のプロフィールが決まっていくというのは、作・演出・作詞・作曲をひとりでやっているからこそですね。男女のいちゃいちゃだったら会話が書けたというのは、何か原風景みたいなものはあるんですか? 好きなドラマとか漫画、あるいは実際の経験とか。
糸井 うーん、何かあるかな……? 親は僕が幼い頃に離婚しちゃっているので、実体験ではないですし……。ただ、ざっくばらんになれる、という感じがあるんですよ、男女が気を許し合っている時に生まれる言葉って。その感じがいいなと思って。
── 特に原風景はない、ざっくばらんになれる関係性がいいとしたら、恋愛の話でなくてもいいのでは?
糸井 ああ、いや、やっぱり妙ージカルというか、ミュージカルなので、俳優さんに色気が出た方がいいということがありますね。舞台の上にいる俳優さんの、フェロモンというかオーラが僕は好きでなんです。それによって言葉が浮かんでくることがすごくあるんです。
── 糸井さんのクリエイティブ・スイッチを押すのが恋愛?
糸井 そうです。そうなんですけれども、そういうスイッチが本当にあるのかなって、最近は思い始めています。昔の作品を思い出して「そこまでいやらしい感じにしなきゃいいのに」と思ったり、「うわあ、どぎついことしているな」と思ったり。親の世代の人が観にいらして、眉をしかめていた理由はすごくわかりますし……。だから、どちらかと言うと「行け行け!」という感じでやったわけではありません。
── そう言いながら、今回の『イトイーランド』は、7人の女性が全員浮気しているところから始まるんですよね? 具体的な描写がどこまで出てくるかは別にして、考え方として、糸井さんは「浮気は恋愛のデフォルト」として捉えているのかと思ったのですが。
糸井 例えば自分の生活で、恋人なり奥さんなり、パートナーに浮気されたらショックですし、「浮気はデフォルトだからね」と言われたらもっとショックでしょうけど、だからと言って「自分は絶対にしない」とは、とてもとても言えないですね。「良いことですよ」とはもちろん思わないけれども、誰しも、何が起きるかはわからないじゃないですか。だから……、そうですね、なんだかんだでデフォルトだと思ってるかもしれません。
── 名作『観光裸(かんこーら)』も不倫カップルの話で、それも「別れよう」とか「離婚してほしい」といったレベルでドロドロしていない。あくまでも一方の結婚を、変えることができない、変えるつもりのない前提として、ふたりの恋愛がある。そしてそれはとても愛おしいものとして描かれていました。
糸井 ははは。そうですね。
── それにしても、出てくる女性7人が全員というのは大胆ですね(笑)。
糸井 7というのはキレのいい数字で、響きもいいから好きなんです。でも実際(の舞台)は、女性がただ単に電話しているのを見て、イトイーが勝手に「浮気している」と妄想しているだけかもしれません(笑)。全員が○○夫人ということではなくて、ただ、街の雑踏にいる、恋愛している人達を勝手に人妻に見立てる感じになるかもしれません。
── ところで私もずっと「男女」と言ってきましたが、糸井さんの描く恋愛は、おそらく男性同士でも女性同士でもいいんですよね?
糸井 ええ、そうなんです。そういう限定はないつもりです。
── つまり糸井さんにとっては、誰かと誰かがお互いに好きになれば、一方、あるいは両方が結婚していたり、性別が同じであったりしても、それだけで美しく愛おしいと。別れた恋人を悪く言う人物がほとんど出てこないのも、そういう理由からかと思うのですが。
糸井 どう言えばいいですかね。人間って「これで決まり」ということはなくて、死ぬまで常に変化していますよね。(早く死ぬか遅く死ぬかの)何十年の違いで最後は同じように終わっていくんでしょうから、あまり悲観的にならずに、目の前の存在をお互いに見ていれば……自然とそう(自分が描くような関係性に)なるんじゃないかと思うんです。だから、嫌な方は嫌でしょうね。僕も、たとえば「浮気しましょう」と推奨しているわけではないんですが、ドラマというよりは、様(さま)しか描けないので、こういう話になっていくというか。
── 音楽についてお聞きします。いつも、糸井さんは苦労せずに曲を書いている印象があるのですが、実際のところは?
糸井 本当は、やっぱり、苦労しています。実は、すごく苦労しているとも言えまして(笑)。特に長い曲は、絶対に悩みますね。最初に閃いても、それを一定の長さにするのは──メロディは比較的大丈夫なんですけど──、詞はなかなか。いや、メロディも、思いついたと同時に苦労も出てくるかな。
── 湯水のごとくメロディが湧く、メロディが出たらアレンジもササッと、という感じがしますよ。
糸井 じゃあ、そっちのイメージで押した方がいいですかね。ふふふ。確かに、若い時はそういう時期もありましたし、今も、瞬間としてはそういうことがまだ時にはあります。自分だけの世界でですけど、スペシャルな瞬間、高い集中力が出る瞬間が、1曲中1個ぐらいないと(曲として)全然ダメなんですよね、逆に言うと。かといって、その一瞬で全部が出来るわけではないので、さっき言ったように(苦労する)。
── 歌詞とせりふは、どういうふうに分けていますか。同じフレーズを両方に使う人もいますけど、糸井さんはどちらかと言うと、あまりそうしないですよね?
糸井 もちろんその都度の判断なんですけど。すごくざっくり言ってしまえば、せりふの方は具体的なことで、歌詞の方はもうちょっと普遍的なことになっていると思います。と言っても、他のお芝居のリアルなせりふに比べたら、僕のは全然具体的なことではないかもしれないですけど、
── それと「このシーンは作品の山場だから、あとで盛り上がる曲をつくって入れよう」というような、いわゆる職業的なつくり方はしていないように感じます。戯曲も頭から順を追って書いていくし、曲もその流れの中で、入れる順番通りに書いている印象を受けるのですが。
糸井 大体はそうですね。ただやっぱり曲の場合は、繰り返す部分が、Bメロ2回目、とかになって、そこで思い浮かんだ歌詞を最後にした方がいいかなとか、そこだけ最後に取っておいて、その間の歌詞を新たに考えようとか、そういうことはよくあります。普通のミュージカルのつくり方をよく知らないので、これが少数派なのかどうかはわかりませんが。
── 普通のミュージカルをつくることに興味は?
糸井 すごく、あります。それこそ羽衣自体も、妙ージカルと言ってはいますけど、やっぱりミュージカル劇団だという気がするんです。だからもしかしたら、組織のあり方とか、ミュージカル劇団から勉強した方がいいのかもしれないと思います。
── そういえば「妙ージカル」は誰が言い出したんですか? 観たことがない人に羽衣を説明するのに、すごく伝わりやすい言葉ですよね。
糸井 僕です。羽衣の前にも劇団をやっていたんですけど、その時からですね。コンクール的なものに応募する時とか、何か書かなきゃいけないじゃないですか。
── でも、ミュージカル劇団だとしたら、俳優の歌唱力の問題があると思いますが、そこはどういうふうにお考えですか。
糸井 ははははは。そこはですね、俳優さんにはほとんど罪はないんです。皆さん、そこそこ上手いんですよ。人によりますけど、まあまあ上手いんです、みんな。だけど、いろいろありまして。
── 備わっている歌唱力が発揮出来ない理由が?
糸井 まず僕が、上手そうに振る舞う人が嫌いだということがありますね。僕が中学生ぐらいの頃にカラオケボックスが流行り出して、みんなが歌が上手い人みたいになっていった。今もそうですよね、みんなカラオケ、上手いじゃないですか。ああいう感じで、歌が上手そうに振る舞えることはできるんです、羽衣の人達も。でも俳優さんのパフォーマンスの質として、僕はちょっとそれ、苦手なんです。
それと物理的に、羽衣はユニゾンで男女が歌うことが多い。そうすると、キー自体がどちらにとっても不利になっていくしかないんです。そういうことも、たぶん俳優さんの歌唱力が感じられない理由かもしれません。
あとやっぱり、歌を歌うのが、その役をやっている人の1番のポイントになるよりは、言葉を発していることの方がまず第一になってほしい。音程を気にするぐらいなら、せりふを大事にしてほしいんです。同じように踊りも──最近は木皮成くんという人が振り付けしてくれていて、彼はもちろん、全部の俳優さんがちゃんと踊れることを気にしますけど──、僕は上手い下手は全然気にならないんですよね。一所懸命やってるのかどうかのほうが、大事に思えてしまうんです。
── 他の人が演出した作品を観ても?
糸井 ですね。「上手くてすごいな」ということはあるんですけど、どちらかと言うと、気持ちですね、はい。
でもやっぱり、少し広い場所でやるようになったりして、昔に比べたら考えるようにはなりました。広いホールでやる時に下手に歌いまくるわけにもいかないし、本当に下手だとお客さんの気分の致命傷になると思うので、上手げに、というのは嫌なんだけれども、下手に聞こえないようにとは考えるようになりました。「羽衣、叫び過ぎ事件」とか「何言ってるかわからない事件」とかを経て(笑)、「マイクを通しましょう」「ゆっくり喋りましょう」と。
── これから、羽衣はどうなっていきたい、どうなっていけばいいっていうのはありますか?
糸井 繰り返しになりますが、なんだかんだ言ってミュージカル劇団だと思うので、ひとりひとりが粒立って、それこそ人気がもっと出て、たくさんの人に観てもらいたいというのは素朴に思います。劇団のメンバー達も、歳を重ねていい味が出て来ていますので。
じゃあ自分は出なくてもいいのかと言うと、そうではなくて、自分の持ち味とか、あるのであれば才能とかが、上手く何かと結びつくポイントみたいのが、ぼんやりとですけど、あるのかなっていう気もするので、広がっていけばいいですね。
── 最後に、この世界がどうなればいいと思いますか。
糸井 この世界ですか?
── だって、そういうレベルの話ですよね、羽衣の作品って。
糸井 そうですね。……何て言うか、いろいろな力がせめぎ合い、今のこういう世の中が出来ていると思うので、ある意味、これしかないんでしょうし、誰が悪いと言っても始まらないのかもしれませんが、やっぱりもうちょっと、自然のものを大切にするようになるといいと思います。僕はあんまりお金がないので、何をして楽しめばいいか考えた時に、自然ぐらいしか思いつかないこともあるんでしょうけど。
もちろん自然には、地震とか寒さとか、厳しさを思い知ることがついて回るわけですけど、そういうことは地球に住んでいる限りみんなあるだろうから、そこは考えつつ、みんなのものをみんなで楽しむようになればいいと思います。
── 『イトイーランド』のプレスリリースに、「自然への眼差しを意識する」と書いてありましたが、そういうことなのでしょうか。
糸井 そうなんですよ。「自然を大切にしましょう」というと、何だか簡単過ぎてアレですけど、人間がつくるものは自然に近づける余地があると思うんです。実際に稽古していても、僕はそれが楽しいんです。具体的に自然のモチーフを出していくかどうかはわかりませんけど、自然はすごく意識しています。
── 息子さんの木の葉の話に戻りましたね。今までの羽衣は「人間讃歌」だと私は捉えていましたが、今度は「自然讃歌」にまで行くのでしょうか。
糸井 はい、そうですね。楽しみにしてほしいです。ふふふ。
取材・文:徳永京子
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