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【連載】マンスリー・プレイバック(2015/10)

マンスリー・プレイバック

2015.11.29


徳永京子と藤原ちからが、前月に観た舞台から特に印象的だったものをピックアップ。ふたりの語り合いから生まれる“振り返り”に注目。
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▼ハイネ・アヴダル+篠崎由紀子『“distant voices – carry on”~青山借景』@スパイラルホール
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【撮影:森日出夫】

藤原 ブリュッセルとオスロを拠点に活動しているハイネ・アヴダルと篠崎由紀子によるサイトスペシフィックな作品。錚々たる日本のダンサーが出演していたけれどがっつり踊るシーンはほとんどないから、いわゆる「ダンス」を期待した人は失望したかもしれない。でもね、僕にはとても面白かった。
 前半は参加者8人くらいのグループに別れて、それぞれ1人のダンサーに導かれながら青山スパイラルの中をめぐっていく。カフェで食事してる人々の前に立ったり、ショップの中でしばらく立ち止まってみたりとか。その時、参加者である我々は「観る」と同時に「観られる」状態にもなるわけですね。
 後半は全グループがホールに結集。ダンサーたちが小さな箱を使って様々なパフォーマンスをするのを、観客たちは好きな位置で立ったり座ったりして観る。で、終わり方が非常に印象的だったのですが、ハイネが冷蔵庫から「イエーイ!」みたいな感じでシャンパンを取り出してきて、ポンッてそれを開けてみんなで拍手するのがエンディング(笑)。そのまま大量のシャンパンを振る舞ってパーティに突入するんです。
 ヨーロッパでもアジアの他の国でも、こうしたオープンな感覚に触れることがあります。上演が「作品」として完結するわけではなく、その外側と地続きである、というのはとても大事なことだと僕は思っています。

徳永 ツアー型パフォーマンスには、参加者が回遊する場所には日常を送っている人達がいて、そこにツアー参加者が入っていくことで、自然と観る/観られるの関係が生まれるものってよくありますよね。『青山借景』には、ガイドするのがダンサーならではの何かがあったんでしょうか?

藤原 ええ、ありました。参加者を誘導していくダンサーの動きは、身体と空間をどう溶かすか、あるいは逆にどう異物として際立たせるか、ということを常に意識していたと思います。それはダンサーの得意領域なはずですし、その意味では、演劇の俳優に連れていかれる種類のツアー型パフォーマンスとは異質な体験になりました。


▼クロード・レジ『室内』@静岡県舞台芸術公園 屋内ホール「楕円堂」
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【撮影:三浦興一】

徳永 一昨年のSPAC(静岡県舞台芸術センター)での初演を観て、かなり衝撃を受けたんですね。今回、再演が横浜と静岡であると聞いて──それで「ひとつだけ」で採り上げたんですが──、近いのは横浜なんですけど、初演と同じSPAC内の楕円堂で観たほうが絶対にいいだろうと思って静岡に行きました。
 楕円堂というのは、静岡芸術劇場から車で10分ぐらい山を登ったところにある広大な舞台芸術公園内の劇場で、1階で靴を脱いでほの暗い螺旋階段を降りてたどり着く、ちょっと特別な雰囲気の場所です。『室内』は、特殊な集中力を要する作品で、それに臨むには、やっぱり楕円堂だなと。
 『室内』は、メーテルリンクの戯曲をフランス人で今年92歳のクロード・レジさんが演出しているんですが、出演者は全員、オーディションで選ばれた日本人俳優です。一昨年、SPACが製作し、その後、ヨーロッパでツアーもしたそうです。ストーリーはシンプルで、川で子供が溺れて亡くなり、その知らせを子供の親に伝えるために家まで行ったふたりの男が、窓から一家の団らんを見てなかなか決心がつかないという話です。せりふはほぼ男ふたりの会話だけですが、レジさんの演出では2つの大きな特徴があって、ひとつは、イントネーションを平坦にして、一音一音を極限まで引き延ばした不自然な発話。もうひとつは、濃密な暗闇と厳密な静寂。特に静けさは「観劇中は静かに」という一般的なマナーではなく、明言化され、観客に徹底的に守らせるルールなんですね。どんな理由であっても1度席を立ったら途中入場はできないし、咳が出た時のために入場時に観客全員に飴が配られる。会場はすごい緊張感です。
 で、暗闇と静寂の話をすると、初演の時は目が慣れるまでに時間がかかったんですよ。誰がどこから出てきてどこでせりふを言っているのか、しばらくわからなかった。それが今回は、あっという間に闇に目が慣れたんですね。

藤原 それってすでに、徳永さんは常人よりも暗闇に慣れるのが早くなってるってことですか?(笑)

徳永 いえいえ(笑)、恐らく今回、静寂の作用を私が知ったからそうなったんじゃないかと思ったんですね。つまり、無音を受け容れると見る力が増すというか。でもやっぱり勇気があると思うんですよ、私の感覚からすると。お金を払って観に来てくれる人に「声を出すな、音を出すな」と強制するのは。それで、アフタートークでレジさんに質問したんです。「世の中にはお金を出した方が立場が上という考え方がある。観客にこれだけ厳粛なルールを課すことをどう考えていらっしゃいますか?」って。そしたら「フランスでも、お客さんは劇場でテレビとか買い物の話をしている。本当にくだらないことだ。劇場に来たらそんなものは必要ない。沈黙によって考えられることや得られることがどれだけあるか」と。言外に「自分はその強制を上回る豊かなものを提供している」という高い矜恃を感じたんですよね。それがすごくショックというか、芸術家の立場や仕事の意義を圧倒的に肯定していて、それを行使する権利について揺るぎない信念を持っているんだなと。
 話が精神論にずれてしまいましたが、実際の演出の効果として、他の舞台作品では感じたことのない感覚の鋭敏化があったわけです。また、引き延ばされて聴こえる声や次第にはっきりしてくる視覚は、まるで水中にいるようで、自分が死んだ子供になって水の中から家族を見ている気持ちにもなる。また、団らんの中心にいるうたた寝をしている子供は、水の底で死んだ子供とも重なって見えました。

藤原 キャストが全員日本人というのは面白いですね。日本人俳優との相性は?

徳永 レジさんは日本人の俳優を「よく話を聴く」と高く評価していましたが、それも作品の根幹にある静寂と関係しているのかもしれません。アフタートークでは、日本人のキャストでやると決めた理由のひとつが「日本語」だとおっしゃってました。日本語は歌みたいだと。イントネーションを平かにするのに適していると思ったんだと思います。
 発話と同様、動きもかなりのスローモーションで、俳優がゆっくり空間を移動したり、生者と死者が同じ舞台上にいるのは能を思い浮かべるし、太田省吾さんのことも考えました。そういう意味では、日本と親和性が高い演出なのかもしれません。

藤原 日本人の俳優にとっても、クロード・レジにとっても、相互にインスパイアされた状態でつくってるわけですね。演技方法が多様なのは日本の小劇場の魅力のひとつだと思うので、こうやって全然異なるものが輸入され、日本の俳優の身体にインストールされるのは面白いことだと思います。

徳永 それにしてもレジさんはかくしゃくとしていて、92歳なのに、今回、フランスから横浜に行ってトークをして、静岡に移動してトークもして──しかも立ったままですよ!──最後は次回作の構想の話をされてました(笑)。

藤原 巨匠って何なんでしょうね……。

徳永 ほっぺツヤツヤでしたよ。新作もぜひ観たいです。


▼サンプル『離陸』@早稲田小劇場どらま館
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【撮影:青木司】

藤原 驚きのエロスでしたね……。徳永さんがかつて『官能教育』(徳永がproduce lab89名義で企画しているリーディング。)を松井周にオファーしたことの果実が今ここに来て収穫されたのかも(笑)。美術もシンプルだし、3人という無駄の無い配役構成も効いていた。

徳永 今までのサンプルのエロスは、フェティッシュというよりマニアックだったと思うんです。でも今回は、いい意味でわかりやすく、いい意味で大人っぽかった。そう言えば、松井さんと伊藤キムさんに取材させていただいたので事前に戯曲を読んだんですが、ト書きに唐突に「フラダンスを踊る」とあって、実は心の中で「これ大丈夫か?」と心配していたら、稲継さんが完璧にエロスに昇華していました。

藤原 1回も脱ぐシーンがないのにあのエロティックさですからね。稲継さんもそうだし、松井周の新境地を観た気がしました。伊藤キムさん、後で詳しく話しますがデュッセルドルフで少しご一緒したんですけど、今は言葉を使った表現に興味があるそうですね。それで志願してサンプルのワークショップに参加したのが、この出演に繋がったと。キムさんの演技っていわゆる俳優のそれとは全然違うじゃないですか。不気味な感じでした。

徳永 決して演技は上手くない。でも、素を出しているということじゃなく、嘘が無いと思いました。嘘が無いということは、ひとつの大きなセクシーさの要因ですよね。嘘を塗り重ねていくセクシーさもありますけど、思わずこぼれたものを目撃するとドキッとする。キムさんは自分がこぼれ出ることを恐れず、また、こぼれたものに責任を持っていると感じました。

藤原 書籍版の『演劇最強論』にも書いたように「ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)」が僕が演劇を観る上での重要なキーワードになっているんですけど、ああいう身体の在り方はまさにそれだと思いました。過剰に鎧や役を着ていくタイプの演技だとそれには至れない。かといって、ただ素を出すのとも違うんですよね。舞台の上で身体を張っている。その張り方というのは何かと敵対するのではなくて、周囲から押し付けられる価値を無効化するような状態というか……。そういう身体の状態を観ていられるのはスリリングでした。終盤の「子どもになる」って言い始めるシーンは、サンプルが『永い遠足』とかでもやっていた「アイデンティティを着脱する」というテーマを継承したものだと思いますけど、今回はそのテーマが伊藤キムの身体にフィットしたように感じました。

徳永 テーブルに四角い穴を空けただけなのに、あの美術は秀逸でしたね。横から見ていると普通の横長のテーブルなのに、椅子に座ったキムさんがその穴から上半身を出すと拘束されているように見えたり、テーブルの上と穴、外という高低差や奥行きのバリエーションも生まれて、その度に3人の関係が可視化されました。杉山至さんの仕事の中でもノーベル美術賞クラスですね(笑)。

藤原 賞が新設された(笑)。客席からは見えないから、役者が穴をくぐるようになって初めて存在に気づかされるんですよね。杉山至さんの舞台美術はいつも構造が印象的です。
あとエロティックな話に追加すると、稲継美保の足の小指の演技。あれは小指、見せにきてますね。

編集部 アフタートークで、松井さんが「『官能教育』がなかったら、これはつくっていませんでした」とおっしゃっていました。合間の会話も毎日アドリブの部分があったそうなんですけど、それは『官能教育』のつくり方があったからやれたって。美術のテーブルは、まず松井さんが「スケベ椅子をつくりたい」と言い出したところから生まれたアイデアだそうです(笑)。


▼ニッポン・パフォーマンス・ナイト2015
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【松根充和&マキシム・イリューヒン『客観的なものの見方』© Matsune & Ilyukhin】

藤原 ドイツのデュッセルドルフに3週間滞在してきました。ヨーロッパではロンドンとパリに次いで日本人が多く住んでいる都市で、めっちゃ美味いラーメン屋があるんですけど、そこで「ニッポン・パフォーマンス・ナイト2015」というフェスティバルに参加してきたのでその話をさせてください。
 このフェスティバルはFFT(Forum Freies Theater)という劇場が主催していて、その芸術監督であるカトリン・ティーデマンと、デュッセルドルフ在住の岡本あきこさんとがディレクターを務めています。ヨーロッパ圏で活動する日本人アーティストのほか、日本から招聘したアーティストがそれぞれ作品を発表します。ディレクターたちはTPAMにも来日していて、それで『演劇クエスト』が2016年に招聘されることになりました。
 2015年に日本から招聘されたのは、山下残と伊藤キムの『ナマエガナイ』。あとは主にヨーロッパ在住の日本人によるパフォーマンスや現代音楽が上演されたのですが、特に感銘を受けたのは、ウィーンを拠点に活動している松根充和とロシア人のマキシム・イリューヒンによる『客観的なものの見方』。アルファベットのA から Zにちなんだものを舞台の上で示しながら語っていくパフォーマンスです。例えば「C=Cola」では、ロシアにはコカ・コーラがなかったという話が披露される。なぜならコカ・コーラはアメリカ資本主義の象徴だから、冷戦時代のソ連にはないわけですね。でもペプシはあったよ……みたいな話と、日本ではコーラを呑むと歯が溶けるって言われてた、みたいな素朴なエピソードが重ね合わされていく。細かい記憶の話をしながらも、それが大きな世界のありようと繋がっているんです。
 最後は「Z=Zero」ということで、60から0までカウントダウンする(0は発話しない)んですけど、それまでは英語での上演だったのが、そのシーンではロシア語と日本語で一緒にカウントされていく。それはとても美しいラストシーンでした。
そこで思うことが2つありました。ひとつは、僕は今回の上演を観るまで恥ずかしながら松根充和さんの存在を知らなかった。つまり日本から離れてヨーロッパで活動している人に対してアンテナが張れていなかったわけです。日本で受動的に待っていても得られる情報は限られているということをあらためて痛感しました。
 もうひとつは松根さんたちのこのパフォーマンスが、母語を大切にしているということです。これに関連することで印象的だったのは、アーティストトークで伊藤キムさんが「自分たちの作品は日本のかなりローカルな問題を扱っていたけれど、理解できましたか?」っていう問いを投げかけたんです。『ナマエガナイ』はオスプレイ、安倍首相、パチンコ、ヤンキー、豆腐の絹や木綿とかについてつらつら語るパフォーマンスだから。キムさんの問いは、「外」に出ていこうとする日本人にとっては死活問題にも思えます。けれど、その場にいたドイツ人たちにはその問いかけ自体がピンと来てないようでした。「豆腐が絹でも木綿でも、何となくわかるから大丈夫」みたいな。しかしそれだと、極東から来たエキゾチックな日本人がちょっと珍しがられるというだけで終わってしまうのではないか。未だに我々は大航海時代以来のヨーロッパのヘゲモニーの中に置かれているのではないか。もっと相互に文脈を接続できないものだろうか。そう思うとあらためて岡田利規さん(チェルフィッチュ)が『地面と床』や『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』をヨーロッパで上演していることの意義が身に沁みるわけです。

徳永 岡田さんは日本語の存続に悲観的ですけど、海外で活動してるからこそ感じる切実な危機感なんでしょうね。そう言えば、英語がほぼ世界の共通語になっていますが、それに伴ってなのかどうか、英語を母国語とする人に使われる英語も昔より単純になっているんですって。構文とか形容詞とかの複雑さ、細やかさが排除されていく傾向は、世界的な傾向なのかもしれません。

藤原 言葉が単純化していくわけですね。

徳永 何となくわかればいい、あるいは結果だけわかればいい、それ以上は気にならない、という気分が蔓延していくのかもしれないですね。

藤原 ちなみにデュッセルドルフは外国人が人口の1/6を占める町で、シリアからの難民も来ていました。

徳永 外国人が住みやすい?

藤原 多様性があるのは確かです。ある程度、存在を尊重されているとも感じる。なんだけど、それぞれの民族・言語・文化の背景まで充分に理解されているわけではないと思います。

徳永 多様性の先にある固有性の問題ですね。藤原さんが映像を見せた発表会はどんな感じだったんですか?

藤原 『演劇クエスト』デュッセルドルフ編を2016年につくるにあたって、今年はその前哨戦として、滞在中につくった10分くらいの映像を見せてディスカッションしました。30人くらい来てくれて、6割くらいは現地の日本人。二人称の「あなた」をドイツ語でどう訳すかで議論が紛糾したし、質問も鋭くて、非常に知的な貪欲さを感じましたね。英語ではなく、通訳に入ってもらってドイツ語と日本語でやれたので、日独の参加者同士がお互いを知る機会にもなったかもしれません。
 とにかくヨーロッパで生きている日本人に今回たくさん会えたのは良かったです。長くあちらに住んでいる人たちは「日本はこうだから」とかではなくて「私はこう思う」という意識で話してくれる。気が合う部分が多かったです。


▼Ingo Toben『QUARTIERE(隣人)』
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【撮影:Iskender Kökce】

藤原 デュッセルについてはもうひとつだけ。FFTが主催していたIngo Tobenによる『QUARTIERE(隣人)』を観ました。取り壊される予定の集合住宅の一室で上演されたものです。かつてその建物には移民も含めた低所得の労働者層が住んでいたそうで、作家がその旧住人たちにインタビューして、その生活を「再現」するという作品です。しかしその「再現」の仕方が面白かった。ドイツ語のみの上演だったので細かい意味は理解できなかったのですが、語りが抽象化され、詩的になっていることは感じられました。そして演じているのは15歳前後の子供たちなんです。サマーキャンプでワークショップをして参加したとか。いくつかの部屋をぶち抜いてつくったフロアは迷路のようになっていて、そこで子供たちも観客も、好きなところを歩いたり座ったりする。何台か譜面台が置かれていて、そこにテクストが置かれているんですね。子供たちはそれを読んだり、楽器で演奏したりする。インスタレーションとパフォーマンスが合わさった70分くらいの上演でした。

徳永 中高生のワークショップがさかんに日本でも行われているけど、そういう発表の場があるのとないのとでは大違いですよね。

藤原 この喩えがふさわしいかはわからないけど、『不思議の国のアリス』の中のアリスは非常にヴァルネラブルな状態に置かれていますよね。あれにちょっと近いかも。子供たちは背伸びをしている。けっして彼らの等身大のものではない、異質な世界なわけですから。でも、とてもリラックスしてその世界を楽しんでいるように感じました。ナイーブさも感じなかった。サマーキャンプを通じて、演出家やスタッフと良い時間を過ごしてきたのだろうと想像します。


▼THEATRE MOMENTS『遺すモノ~楢山節考より~』@調布市せんがわ劇場
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【撮影:Prayer】

徳永 素晴らしい作品だったので、ちょっと話をさせてください。THEATRE MOMENTSは、もう10年以上活動されている集団なんですけど、私が存在を知ったのは一昨年、審査員をさせていただいたせんがわ劇場演劇コンクールがきっかけです。特徴は、ひとつの小道具を徹底的に使いこなすこと。たとえばトイレットペーパーを手紙や包帯、立ち入り禁止のテープ、あるいは積み上げて柱、ジャンクな商品のシンボルなどさまざまなものに見立てて戯曲と絡め、俳優さん達がすごく高いスキル──伸ばしたトイレットペーパーを誤って切ってしまうことが絶対にないんです──で見せていく。既存の小説や戯曲をベースにしているのでせりふはありますが、ノンバーバルでも行ける感じ。
 つまり印象としては、演劇よりパフォーマンスに近い。演劇のほうがパフォーマンスより高尚ということはないので、それで全くいいと思っていたんですが、新作の『楢山節考』が、手法はこれまでと同じなのに、完全に演劇でした。かつて日本にあった姥捨ての風習と、貧しい山村の暮らしが、登場人物それぞれの鮮やかな描写とともに見事に立ち上がっていたんですよね。俳優さんの身体能力が高いことはわかっていましたが、実は演技力が相当高いこともわかりしまた。今回の小道具は、さまざまなサイズの木枠だったんですが、引き戸や家具、体を縛る縄、姥捨の山の道を覆う木々などになって、こちらも見事でした。
 小説とも映画とも違う、舞台ならではの『楢山節考』だったと思います。観た人がきっととても少ないので、国内外で上演を重ねてほしいと強く思います。

藤原 THEATRE MOMENTSはどこを拠点に活動されているんですか?

徳永 東京だと思います。演劇コンクールで優勝してから、せんがわ劇場で上演する機会が増えているようです。中心メンバーは、構成と演出の佐川大輔さんと俳優の中原くれあさんで、集団創作をしているようです。


▼トリコ・Aプロデュース『つきのないよる』@伊丹AI・HALL
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【三重公演より/撮影:堀川高志(kutowans studio)】

徳永 もうひとつ10月は収穫がありました。西日本を拠点に活動しているトリコ・Aプロデュースの『つきのないよる』で、伊丹のアイホールで公演を観てきました。1999年から活動しているそうなので、すでに中堅で、作・演出の山口茜さんはOMS戯曲賞や利賀演劇人コンクールの受賞歴もあります。『つきのないよる』は一昨年、上演して評判がよかったのを、さらに良くするためにとブラッシュアップして再演した作品で、交際男性が次々と不審死を遂げた木嶋佳苗被告をモデルにした女性の話です。
 戯曲はまだ弱いところがありましたが、一新したというキャストは、劇団☆新感線の村木よし子さんはじめ力のある人が揃っていて、空気が緩むところがありませんでした。特に印象深かったプランニングは南野詩恵さんという方の衣裳で、背中側が全員、黒く塗りつぶされているんです。それはその人物の二面性でもあり、たとえば帽子を被って背中向きで出てくると別の人物を演じていることがわかる。洗練されたアイデアだと思いました。山口さんは来年度、サファリ・Pという新ユニットでアゴラ劇場で公演をするそうです。


▼野田秀樹・演出 モーツァルト/歌劇『フィガロの結婚』~庭師は見た!~ 新演出~@東京芸術劇場プレイハウス
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【提供:東京芸術劇場、2015/10/22東京芸術劇場公演より、撮影:Hikaru.☆】

徳永 有名なオペラ作品を野田秀樹さんが演出、井上道義さんが指揮を担当した作品で、野田さんの演出らしく俳優のアンサンブルがたくさん出演したり、重要な登場人物のひとりである庭師を、ナイロン100℃の廣川三憲さんが演じ、歌いました。『フィガロの結婚』って、お金持ちのご主人様夫婦と、その家で働いている若いフィガロ(この作品ではフィガ郎)とスザンナ(スザ女)の2組のカップルが対比して描かれているんですよね。片や、すっかり冷えきったカップルで、一方は結婚を目前に控えてラブラブで。で、主人が女たらしでスザンナにちょっかいを出そうとし、奥さんはそれを嘆いていると。
 実は私、ラストの直前までムカムカしていて。その家の奥さんがずーっと「夫の愛は冷めてしまった、あの愛はどこに行ったの?」と過去のことばっかり言っているのが鬱陶しくて(笑)。それなのに最後は大団円でめでたしめでたしになる。……と思っていたら、最後の最後にどんでん返しがありました。奥さんが旦那さんに銃を向けるんです。撃ちはしないんですけど、裏切りを重ねた夫を、そんなに簡単には許せないと。それはもちろん野田さんの演出です。それこそ現代の自然な解釈だと溜飲を下しました。
 もともとの設定も、原作はスペイン人同士の話なのを、野田さんは江戸時代の長崎に舞台を移して、日本に屋敷を構えた外国人と、その家で働く日本人の使用人にした。イタリア語の原曲と日本語が混じり合う構成もそれに従えば自然で、同時に、オペラと演劇がいかに共存するかという問題にもシンクロさせたのではないかと思います。日本語の歌詞も野田さんが手がけていたんですが、リズミカルな言葉遊びがモーツァルトの茶目っ気と合っていると思いました。演劇の演出家が取り組んだ成果を上げたのではないでしょうか。

(2015/11/5 収録)
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