演劇最強論-ing

徳永京子&藤原ちから×ローソンチケットがお届けする小劇場応援サイト

【連載】マンスリー・プレイバック(2015/9)

マンスリー・プレイバック

2015.10.21


徳永京子と藤原ちからが、前月に観た舞台から特に印象的だったものをピックアップ。ふたりの語り合いから生まれる“振り返り”に注目。
* * *


▼範宙遊泳『幼女Xの人生で一番楽しい数時間』@こまばアゴラ劇場

_mg_6313
【『幼女X』撮影:加藤和也(FAIFAI)】

藤原 2本立て公演ですね。まず1本目の『幼女X』。正直な感想としては今回は若干物足りないものがありました。狭すぎず大きすぎもしない空間のサイズがそうさせたのか、あるいは俳優や演出家のモチベーションによるものなのか……。初演(2013年)は新しいことに挑戦するタイミングだったし、TPAM2014での再演は外国人に見せるチャンスだったから、比べるのは酷かもしれません。

一方の『楽しい時間』は、嫌いではなかった。それこそモチベーションという点では、作・演出の山本卓卓にも、ひとりで怪演した福原冠にも、かなりのものがあったと思う。でも何をやりたかったのか、今もわからない。別に「わかりたい」わけじゃないけど、ああいう実験を今このタイミングでアゴラ(こまばアゴラ劇場)でやることにどういう必然性があったのか……。いや、本来アゴラは、そういう実験が許されているはずの場、なのかもしれないけど。

徳永 『楽しい時間』の実験性が中途半端だったということ?

藤原 や、「実験」と言ってしまったけど、『楽しい時間』はあまりに混沌としていて、実験、つまり仮説と検証になりえたのかは疑問です。公演という形ではなくて、稽古場で煮詰めることもできたんじゃないか。

徳永 私も、あの作品で範宙がやろうとしたことを充分理解できませんでした。その点では藤原さんと同じだけど、実験をやろうとして中途半端に終わったとは考えないです。山本卓卓さんの作家性から考えると、結果的にわかりにくいものが出てくることはあっても、実験途中のものを作品としてお客さんに見せることはないだろうし、その前に、「こういうことがやってみたい」というアイデアを生のまま稽古場に持ち込むことをしないと思うんですよ。稽古場に持ち込んだ時点で、ある程度の目鼻を付けているだろうと。
 内容に関してですが、山本さんはこの数年、映像の文字や写真と俳優が完全に等価、ということをやってきて、それは演出上のギミックじゃなくて、以前インタビューでも聞いたんですけど、彼のもともとの感覚として生物と非生物に境界線がないんだと思う。だから今回の作品は、海と結婚する人間がいて、その披露宴に呼ばれた友だちのスピーチという設定なんだけど、大前提の“海と人間が結婚する”も、彼にとっては人間同士の結婚と同じような感覚だったから、そこのストーリーは全部すっ飛ばして、披露宴のネタを延々とやって、多くの観客にはよくわからないものになったと予想しています。で、作品のトーンからすると、新婦である海から幸福な空気は漂ってこなくて、何者かによって痛めつけられた存在だったし、新郎である人間も決して多幸感に包まれてはいなかった。何でも安易に東日本大震災につなげたくはないんですけど、放射能で汚染されてしまった海と、なにがしかの交感を経て結婚することになった人間がいて、その婚姻を周囲は素直に祝福できるのかという問いかけだったと私は受け取りました。
 私の感じたことが合ってるとすれば、最近の映像の導入や、今年のTPAMで発表したDemocrazy Theatreとの共同作品の“作品全体が問いかけ”であることと、ベクトルの角度は一致していますよね。ただ、さっきも言ったように、海と人間の結婚をあまりにも前段に置きすぎたのと、全体的にシニカルな色合いが強すぎて、新婦や新郎、親族や友人の「祝えるのか、幸せなのか、楽しいのか?」の揺れが届かなかったと思う。ぜひブラッシュアップして再演してほしいです。

藤原 演出や劇作をもっと練り込んでの再演、ということですよね?

徳永 そうです。あれをひとりでやり抜いた福原冠さんが素晴らしかったし。彼の、戯曲だとか演出家の意図を大きくつかんでいる感じと、全部はわかっていない感じのバランスが、演じ手としてちょっと理想的だなと思ったんですよ。そう言うと語弊があるかな。あえて全部を理解しようとしない姿勢、というか。でも構えとしては重心が低くて「この人がやるなら何かある」と落ち着いて観ていられるものがありました。ああいう役者さんが演じるなら、ディテールをもっと魅力的に見えるようにして再演してほしい。

_mg_6587
【『楽しい時間』撮影:加藤和也(FAIFAI)】

藤原 僕もそこは肯定的です。ああいう、確たる勝算もない状況下で俳優が討ち死ににいく感じって実は結構好きだし……(笑)。福原冠という俳優への好感度は超アガりました。

徳永 討ち死に覚悟で舞台に上がった、やり切って死んだ、ように見えて、『楽しい時間』の焼け野原に倒れた彼の手には、種が握られている気が(笑)。

藤原 そしてその荒野から花が咲く感じ……。わかります。

徳永 板橋駿谷さん、北尾亘さん、永島敬三さんと新しく始めたユニットのさんぴんも含めて、自覚的、自発的に動ける役者さんですよね。福原さんを範宙のメンバーにした山本さんの気持ちは理解できる。そういう意味では、最初に藤原さんが言った『幼女X』の、安定感ゆえの物足りなさはわかる気はします。
 ただ、「初演は新しいことに挑戦するタイミングだった」という発言には反対で、というのは、観た人は少なかったけど、山本さんの映像の導入は、東京芸術劇場の「東京福袋」(2012年)で上演した『男と女とそれを見るもの(x?)の遊びと退屈とリアルタイム!暴力!暴力!暴力!』が初めて披露された作品でしたし、その前の年に京都でやった『ガニメデからの刺客』から考え始めていたそうなので、『幼女X』は特に新しいことをやろうとしたタイミングではなかったはずです。俳優のモチベーションとして、マレーシアやタイでもやっているから、もしかしたら飽きているかもしれませんけど、それを練度を上げる方向にすると、ああなるんだろうなと理解しました。ギリギリのところで緊張感は保ってたんじゃないかなって。

藤原 もちろん緊張感はありましたね。観るこちらの期待度が高すぎたのはあるかも。再演って、観客の勝手な期待とどう闘うか、どう無視するか、っていう宿命はありますね。

 あとひとつ『楽しい時間』にエクスキューズしておきたいのは、僕も徳永さんも「わからなかった」って言っちゃったけど、『楽しい時間』には良い意味での「わからなさ」があったと思うんです。そしてその「わからなさ」の中に何か大事なものが眠っていそうだという感触はすごくある。僕は演劇を観て「わかんない」っていう感想を抱くことはほぼないので、新鮮な体験でした。

 余談になりますけど、同じ日の夜に六本木で神里雄大が演出した『エレンディラ』(produce lub 89『官能教育』)を観ましてね……。俳優を文字通り裸にするっていう、これまた勝算のない闘いを観たわけですけど、むしろ彼が中南米から帰ってきてホヤホヤの感じがして、爽快ですらあった。でも、いいけど……いいのか? って気持ちにもなったわけです。これはぼんやりした話ですが、なんとなく、演劇界でそれなりの評価を得つつある若い作家たちの作品から「あなたたちのご期待に添えませんが何か?」っていう気配を感じることが最近増えている気がする。それってちょっと悲しいけど、清々しいとも思う。

徳永 『楽しい時間』の「わからない」に付け加えると、今回、目の前の『楽しい時間』を追うだけで、恥ずかしながら初演とのつながりが咀嚼できなかった。『楽しい時間』をもう1度観て、そのことも考えたいです。


▼蜷川幸雄80周年記念作品『海辺のカフカ』@彩の国さいたま芸術劇場

kafka02_7 (1)

藤原 僕は舞台は観られませんでしたが、原作から想像するに、やっぱり空から魚が降ってくる?

徳永 降りましたよ、ちゃんと。ぴちぴち跳ねてるのも何匹かいました(笑)。
先月の「ひとつだけ」に『海辺のカフカ』を推薦した理由は、書いたことの繰り返しになりますけど、蜷川幸雄の繊細さを、少しでも多くの人に認識してほしくて。繊細な世界観の舞台は少なからずありますけど、蜷川さんは1000人規模の劇場でそれをやるわけです(徳永が観た彩の国さいたま芸術劇場は約700人収容)。この作品を観たのは、2012年の初演、大半のキャストが新しくなった去年の再演、そして今回で3回目だったんですが、やっぱり何度観ても、儚さが強いんですよ。
 小さな場所で少ない人数にしか伝えられないデリケートさはあるし、限られた人に確実に伝わればいいという考えも否定はしないんですけれども、いい作品をつくったから多くの人に観てほしいと思うのは、つくり手の自然な欲求だと思うし、届かないかもしれないところまで手を伸ばし続けるのは、つくり手が自分と作品の強度を上げていくために必要な闘いだと私は思うんですね。『〜カフカ』も、戯曲をもっと観念的な内容にして、抽象的な舞台として、ひそやかに成立させる方法もある。だけど蜷川さんは、それこそ魚が降るシーンをイメージで処理せず具象でやって、観客に「君になら感じ取れるだろ?」という雰囲気に逃げない。
 今回わかったのは、蜷川さんが演出する舞台に強い詩情が生まれるのは、戯曲を具体的に立ち上げるからだということでした。大人数に伝わる具象をちゃんとやっている、だから抽象のシーンが映えるんだなと。と言うのは、舞台上に何もない時間が結構あるんです。美術セットが一切なくて、カフカ少年役の古畑新之さんだけが立っているとか。天井の高い、奥行きの広い素舞台に、照明から垂直に降りる細い白い光だけがあって、それが本当に美しくて寂しい。自分だけが世界から切り離されいてるんじゃないかというカフカくんの孤独感がその画(え)だけでわかるし、大きい空間だからそれが伝わりました。

藤原 さいたまネクストシアターの『ハムレット』の時に、蜷川さんのお話を伺ったんです。若者の繊細さに対して強い関心を持っている人なんだなと思いました。あの関心はどこから来ているんでしょうか?

徳永 たぶん蜷川さん自身が、傷つきやすかったり人一倍羞恥心が強かったりという心を80歳になっても持っているからだと思います。それと、リアルタイムで若かった60年代が、どこかでまだ終わっていないんじゃないかな。『〜カフカ』に出てくる佐伯さんの恋人が、学生運動のセクト争いに巻き込まれて死んでいるじゃないですか。そのエピソードが語られる時に、ぼろぼろの大きな旗が舞台奥で振られたり、あさま山荘事件のニュースだと思うんですけどアナウンスの声が流れたり、当時の様子を生々しく出すのは、そういうことなのかもと思いました。それは、村上春樹の原作にかなり忠実であるけれど、紛れもなく蜷川幸雄の舞台になっていることでもある。


▼ワワフラミンゴ『野ばら』@下北沢B&B

150923_065
【『野ばら』女性バージョン 撮影:佐藤拓央】

徳永 初演(2011年)を観ていて「とんでもない人たちがいる!」と思って、他にもそういう衝撃を受けた劇団がいくつか続いて、それがのちに『God save the Queen』(2013年、東京芸術劇場の「芸劇eyes番外編」)につながるんですけれども、今回観てみたら、記憶と全然違いました(笑)。やっぱりおもしろかったんですけど、あの時大きく見えた部分が小さく見えたり、記憶以上に緩かったり。また、あの頃から頑固なまでに変わってないんだなって思ったり。鳥山フキの一貫性を感じました。

藤原 ワワフラの作品って、どれがどれだったか混同しません? なぜかワワフラに関しては作品別に切り分ける認識がほとんどできないんですよね……。脳みそ溶かされてるのかも。

徳永 タヌキがよく出てくるし(笑)。

藤原 ただ今回は男性・女性の両バージョンを続けて観たことで、ついにワワフラの構造的な秘密にちょっと迫れた、見えた!って思った。……はずが、今またもうわからなくなっている(笑)。ウイルスか何かを仕込まれてるのかも。

徳永 それまさに、お札だと思ったら木の葉だったっていうタヌキの……(笑)。

藤原 ご馳走と思ったら実は草食わされてる、みたいな(笑)。

徳永 私も両バージョン観て、新たな発見がありました。鳥山さんは以前、鳥山フキ個人企画っていうのを1回やって(2012年、『Rのお出かけ』)、それは確か、女性のせりふしか書けないのは劇作家としてどうなんだという反省があって、わざわざワワフラと別名儀にした公演だったと思うんですけど、終わったあとご本人は「やっぱり難しかったです」と言っていた記憶があるんですよ。確かにまぁ、男性感はさほどなかった(笑)。でも今回、女優と同じ戯曲を男優に演じさせたことで、むしろ男性という生き物が前面で出ましたね。もし、男性が描けないことが本当に鳥山さんのコンプレックスなら──まったく思っていないと思いますけど──、同じ戯曲を男女2バージョンやることで、それは解消するんじゃないかな。

150925_097
【『野ばら』男性バージョン 撮影:佐藤拓央】

藤原 僕も同意見で、「男性が描けない」って鳥山さんは言ってるけど、そもそも別に女性も描いてなかったんじゃないかと……。だって人間のフリしたタヌキと、タヌキのフリしたタヌキしか出てこないじゃないですか(笑)。

徳永 その指摘は深いですね……。男性性の話をすると、男優が喋ることで、女優なら引っかかりなく聞けた単語に妙に社会性が発生するのがおもしろかったです。失恋をしたから旅に出るという話で「Tバックとかつらを買って行く」「それは冒険だね」という会話がありましたけど、女性がそれを買うのは小さな冒険だけど、男性だと、社会的な規範をわりと踏み外す冒険ですよね? あと、探し物をしていると寸劇の台本が何枚も出てきて、それを読むじゃないですか。内容がモテない男性ふたり組の会話で、それを女優同士が読むとフィクションとして「バカな男だな」と笑って終わるのに、男優が読むと「ダメな男同士の会話を、劇にかこつけて男性に再現させている」という批評性が生まれる(笑)。そういうことが何度となくあった。

藤原 男性女性について意識的に考えてみたというより、感覚的に判断してつくりこんでいったものが結果的に観客の中にあるジェンダーバイアスに迫っている感がありますね。

徳永 ワワフラの世界は強力な天然系引力が働いているから、男優が下手にそれをやったらイタいだろうと心配していましたけど、出演者はみんな冷静で、むしろ切実にせりふを言っていたりしたのもよかったです。

藤原 今回のタヌキは名児耶ゆりが臨月に近い状態で演じてて、それはもう実に最高でしたけど、今回は「男」と「女」がいるからこそ「その他」になるっていうか、人外のものに踏み込んでる感じがありましたね……。
あとですねえ、出ハケが見事で。どうやってサイン出してるのか最後まで見抜けなかった……くやしい〜。

▼木ノ下歌舞伎『心中天の網島』@こまばアゴラ劇場

15-301
【『心中天の網島』京都公演 撮影:東直子】

藤原 今回はFUKAIPRODUCE羽衣の糸井幸之介の演出。箪笥のシーン、泣かされちゃいました……。旦那が遊女に惚れて身を持ち崩し、心中の約束までしてしまった。でも奥さんは良き理解者で、「あの子とあなたを死なせるわけにいかないからこの箪笥の中のものを売りなさいよ」って言う。これまでの作品でも遊女がよく出てきたし、遊女通いする旦那とその妻っていう関係はあったけど、今回の伊東沙保(妻・おさん役)のあの寛容さは現代人の感覚としては自然ではないはずなのに不思議な説得力がありました。

徳永 夫と恋仲になった遊女が死を覚悟していると悟って、大事な貯金と思い出の品々を売って身請けのためのお金を工面する妻、ですね。あのおさんを演じた伊東さんは本当に素晴らしかった。あうるすぽっとプロデュースで、ロロの三浦直之さんが演出した『ロミオとジュリエット』の乳母役の好演を思い出しました。大きな悲劇の入口で、精一杯、踏ん張る姿が重なったんです。
 本家の歌舞伎だと、旦那である治兵衛と遊女の小春に焦点を当てるためにあの夫婦の描写は薄いし、おさんと治兵衛はいとこ同士の結婚という設定で観客も何となくわかった気になりがちですけど、一組の男女が夫婦になるまでには歴史があって、幸せな時間がたくさんあったという当たり前のことを、木ノ下歌舞伎はちゃんと教えてくれました。そのディテールは、演出・作詞・作曲の糸井幸之介の面目躍如でしたね。劇作のセオリーとして、不幸を効果的に描くにはちゃんと幸福を描くということがありますけど、糸井さんはそれが機械的でなくて、本当に初々しく生々しく幸福を描く。だから針が逆に振れた時が切ない。治兵衛がいかにおさんを愛したか、おさんがどうそれに応えていったかが、ステレオタイプなエピソードの羅列なんだけど、ひとつひとつに血が通っていました。

藤原 「クリシェ(紋切り型)をどう扱うか?」ってかなり大事だと思うんですね。ありがちなシーンやセリフをどう舞台に乗せるか、に作家や演出家や俳優の技量が如実にあらわれる。例えば松井周や岩井秀人はクリシェを舞台に載せるのがほんとにうまい作家ですが、今回の糸井演出も、中学校の廊下で告白だなんて、もう超スーパープレミアム平凡クリシェなのに、どうしてこんなに心を鷲掴みにされるのか? FUKAIPRODUCE羽衣でずっと糸井さんと一緒にやっている日高啓介が「愛しいバカになりきれる」っていうのもかなり大きいし、相手役の伊東沙保や島田桃子がその「愛しいバカ」をますます調子に乗らせたのもよかったと思う(笑)。そしてそれをああやってシーンと歌でたたみかけていくのって糸井幸之介の必殺技というか真骨頂ですね。

徳永 歌舞伎というものが型で出来ているというか、リアリティを裏付ける説明をばっさりカットして、瞬間の形にそれを込める。だから、それでもなお言外のドラマを感じさせる役者に出会うという楽しみがあるわけですけど。その意味では、木ノ下歌舞伎もまた、独自の型を開発して武器にしているのかもしれません。

藤原 キノカブの醍醐味のひとつは、現代とは価値観の異なる時代を扱うことですよね。今も「心中」っていう概念はあるし、自分もまあ考えたことがないとは言いませんけど、あの最後の橋を次々に渡っていくシーンを観て、別に死ななくてもいいじゃん、そのまま駆け落ちしてどっか逃げちゃえばいいじゃんと思うわけですよ、現代的な感覚としては。だけど、現代において正しいとされている価値観では判断できないというか。自分がいる「今ここ」と、遠いどこかのパラレルワールドとが、時空を超えて、一瞬つながったような感じがしたんです。現代の善悪とか美醜の感覚では判断できない異質なものが、異質なまま舞台にあがってこちらの身に迫ってくるというか。

徳永 ただ私は、Twitterにも書いたんですけど、平均台を模したあの美術に疑問を持っています。そんなに見てはいないようで、やっぱりほとんどの役者が、足を引っ掛けずにまたげるよう、踏み外さずに歩けるよう、靴を落とさずに揃えられるように視界の端で確認するコンマ数秒の無駄な時間があったと思う。自分たちが生きているのは、ちっとも安定していない場所であるとか、絡まった運命の糸とか、あの美術に託したものはわかるんですけど、それを伝える時間はもっと短くてよかったのでは。板が張られるまでなかなか集中できなかった。

藤原 僕はあの舞台美術のアイディアは面白く感じましたけど、前半集中できなかったのは、歌が……。まあ歌が下手でも、最終的には無問題という地平に連れてかれたんですけど。


▼マームとジプシー『カタチノチガウ』@北京公演

IMG_0146
【『カタチノチガウ』北京公演】

藤原 北京はいかがでしたか?

徳永 私、町はほとんど歩かなかったので、その様子はあまり話せないんですけど、北京の若い観客の話はしたいです!
 マームは、北京フリンジフェスティバルという演劇祭に招かれて、『カタチノチガウ』(日本では今年1月上演)を3ステージやったんですね。どの日も客席の集中度がすごくて、どんどん前のめりになっていくお客さんが何人もいたし、ラストシーンに近くなると会場のあちこちですすり泣く声も聴こえました。それだけなら想定内なんですけど、驚いたのはリテラシーの高さです。初日はいわゆる普通のアフタートーク、2日目は中国の若手演出家やジャーナリストとの懇親会みたいな時間を設けたんですけど、そこで聞いた感想や質問がどれも鋭かったんですよ。初日のトークで、日本語の勉強をしている大学生から「太宰治の『斜陽』を思い出した」という感想があって、藤田(貴大)さんが「姉妹の屋敷が没落していく感じは、確かに『斜陽』のイメージが頭のどこかにあったと思う」と答えていたし、2日目の懇親会では、若い男性演出家ですけど「繰り返しながら変容していくのがポストロックの影響を受けていると思った」と。もちろん藤田さんは「そうです」と言ってましたけど、感性というか、感覚の時間差がない。
 3月に柴(幸男)さんに同行して北京に行った時、若い観客が集まる劇場に行ったんですが、その時に私が受けた印象は「今、デートでこの劇場に来るのがおしゃれ」みたいな軽いノリで、作品も一見不条理だけど軽かったし、それなりに収入がありそうな20代から30代の観客は、爆笑の合間にスマホをいじっているという感じだったので、ここまで伝わる人が多いのかと驚きました。マームの作品のクオリティはもちろんありますけど、日本の演劇がもっと北京に行っても理解されると思いましたね。かつてフェスティバル/トーキョーの公募プログラムに参加したロロが「アニメやラノベの元ネタがハイコンテクスト過ぎる」と言われたことがありましたけど、とんでもない、ツーカーで伝わりますよ。

藤原 僕も6月に北京に行ってあっちの若い人たちと話した時に、めちゃめちゃアニメに詳しい娘とかいたし、ロロはぜひ海外進出したらいいのにって思いました。中国にかぎらずアジアに広く日本のサブカルチャーは浸透しているし、いろんな「橋」を架けられる可能性がまだまだこの世界にはあるんじゃないかな〜。

▼多摩1キロフェス

kenpou-33
【ままごと×パルテノン多摩『あたらしい憲法のはなし』】

藤原 今回初めて行ったんですけど、まず全体的な印象として「めっちゃ人がいる!」って思いました。

徳永 私も初めて行ってお客さんの多さに驚きましたけど、同時に驚いたのが『あたらしい憲法のはなし』の客席でした。なかなかパル多摩まで足を運ばないであろうベテラン劇評家の方や新聞社の方がたくさんいらして。やはり題材が題材だったので、注目度が高かったんでしょうね。

藤原 駅から入ってきてすぐにスイッチ総研のパフォーマンスがあって、特に都市部の受動的な観客に対して、とりあえず巻き込んじゃうっていうのはかなり有効なんだろうと思いました。ただ僕はスイッチそれ自体は好きだし、面白い発明だと思っていますけど、以前から「連打」には疑問があって、客がひたすらスイッチを連打する状況に陥ると演劇の何かを感じる余白はもはやないし、独特のユーモアも損なわれてしまうと思う。スイッチ総研所長の(光瀬)指絵さんはガッツ派(?)だからたぶんもう全然連打OK、カモンやってやるぜ、って思ってるんだろうけど、僕はやっぱり連打は嫌いです。相手が小さい子どもだと、連打にどう応えるか/応えないかもひとつのコミュニケーションだとまだ思えるんだけど、高校生以上の、言い方悪いけどバカップルとかが、俳優たちへの敬意もなく大騒ぎする状態とかになってくると、いい歳してこのやろう〜どうせ別れるなら早く別れろ〜って呪いたい気分に僕はなっちゃいますね。僕は俳優ではないから、自分の演技で人を喜ばせたいという欲望が皆無で、それよりも人間が人間としていられる状況をいかにしてつくるかのほうに興味があるし、あと、誰かが汗かいてこれだけ頑張ってます、的なのを見ても特に感動を覚えない性質のせいもあるのかも。

徳永 スイッチの連打問題は、藤原さんは六本木アートナイトの時から指摘していますね。私はアートナイトも今回のも体験していないんですが、サービス精神旺盛なのはわかります。今回、夜のツアー型スイッチに参加したんですけど、ひとつひとつのスイッチが設置されている間隔が思ったよりも短くて──前後のツアーの声が聴こえない距離は厳密に検証してつくられてたと思うので、それは本当にすごいんですけど──、もうちょっと余韻を楽しみながら夜の公園を歩いてもいいなと思いました。スイッチ総研ができたばかりだからそうなっているのか、光瀬さんや大石(将弘)さんの指向がそうなのか、わからないですけど。

藤原 ままごとの『あたらしい憲法のはなし』は、安保法案が通った9月19日にあの上演があったのはもはや反則というか、ああ、この人には演劇の神様が降りてるんだね……と脱帽でした。雨が降ってくるタイミングまで完璧だった。そうした偶然まで味方につけうる領域で彼らはクリエイションをしているんだと思います。

徳永 確かに、あまりにすごいタイミングでした。内容は、ある意味、牧歌的と言えるものでもあったけど、あの日に、あんな“憲法・基礎の基礎”みたいなものを見せられると、ラストに用意されていた希望を素直に信じたいという気持ちになりました。

藤原 ところで今回のフェスを見て、これは大事な話なのですが、ああ、自分は別に「外に出る演劇」を肯定してるわけではないんだってことがハッキリしました。それは「10月のひとつだけ」で『青山借景』について書いたことでもありますけど、劇場の中のほうが有利なことはいっぱいある。じゃあ外に出る時に何を考えるか、何をどう「借景」するのか、今後かなり問われると思うんです。

 Contact Gonzoはその点とても面白かった。殴り合いをするだけなら劇場内のほうが密度はあるけど、あの階段広場で観客がゆるーく観ているというある種の退屈さも味方につけることに成功していた。なんといっても去り方が見事でしたよね。柵を超えて殴り合いを続けながらフェードアウトして、たまたま自転車で通りがかったおじさんをギョッとさせた。あのおじさんには気の毒だけど、観客はそこで「舞台」があの柵の中から多摩センターの町へと拡張される瞬間を目撃したわけですよね。

徳永 私も藤原さんと同じ日に行って、Contact Gonzo ×環Roy、鳥公園、ままごと、スイッチ総研のツアーを観たんですが、Contact Gonzoが一番良かったですね。海外にもたくさん呼ばれていて経験値も高いんでしょうけど、自分たちの内側に集中することで外側を引きつける強さが段違いで、野外で観ていても、こっちの集中力もぐんぐん上がりました。

藤原 たぶん、文脈が違う人たちと一緒にやっていくことを想像してるんだと思います。あと鳥公園『火星の人と暮らす夏』。武井翔子が美声で歌いまくるアイデアは、屋外で声が聞こえにくい状況への打開策でもあると同時に、J-popの歌詞を重ねるだけであたかも男女の恋愛の何かを語っているかのよう聞こえるという、皮肉を含んだ演出でもあったと思います。ただ、懸念として、最近の鳥公園の関心が男女問題に寄り過ぎているのではないかというのはあります。もっと違うスケールのものを扱える人たちだと思うから。個人的に自分が今「日本人」の「現代」の恋愛関係にはほとんど興味を持てないのもありますけど。

 あとこれは多摩1キロフェス全体についての話なんですけど、行ってみて、多摩センター界隈のことが特に好きになれなかったんです。大昔に恋人が住んでいたので時々通ってましたけど、そこからイメージを更新してくれるものはなかった。ニュータウンにも歴史はあって、もちろんやりづらさはあるんだろうけど、でも誰もそこを扱わないのはどうなんだろう?

徳永 私たちが観てないカンパニーがやったかもしれないですけど。

藤原 だとしたら、(観た人、やった人が)そう指摘していただければ。

徳永 多摩センターの歴史は興味深いですよね。東京のベッドタウンとして開発された多摩の団地は、高度経済成長の象徴で、近代的なライフスタイルが実現する憧れの場でもあったわけですけど、今は住民の高齢化が進んだり、空き家が増えたりして、それもまた、日本の状況とシンクロしている。

藤原 凄まじい歴史ですよ。東京都の、ひいてはほぼ国策としてつくられたわけですから。

徳永 藤原さんが言った「町のイメージが更新されなかった」というのは、個々のつくり手の問題? それとも多摩1キロフェスのディレクションについて?

藤原 うーん、きっとあれだけの規模で集客しなきゃいけないとなると、ステークホルダーも増えるし、しがらみもあるでしょうね。今、自分自身、本牧アートプロジェクトのディレクターをやっていて、コンセプトを維持することがいかに難しいかは痛感します。ただ、果たして今のアートフェス乱立の流れで、みんな幸せになる……のか? 何か、底が抜けていく感じがする。明るく薄くなったアートは、結局誰も救わないんじゃないかと思う。

徳永 多摩1キロフェスは、町全体のアートフェスではなく、パルテノン多摩主催の演劇祭なので、そんなに複雑なしがらみはないと思いますよ。
 演劇祭とアートフェスを混合するのは避けたいですけど、昨今増えつつある町おこしとしてのアートフェスに、演劇作品や演劇の視線が求められていくと思うので、つくり手の意識や覚悟がシビアに問われることが増えるでしょうね。その時に、町の歴史をどこまで作品に反映させるかという問題は、主催者側のディレクションが大きく影響すると思います。それと、フェスの参加者にとってその町の歴史は新鮮でも、住民にとってはもうおなかいっぱいで、そうじゃない視点がほしいというケースもきっとありますよね。

藤原 ああ、それはたまに耳にする話ですね。土地の歴史を扱えばそれでいいという話ではないです。最終的には個々のアーティストの構え方が問われるんだと思う。

徳永 呼ばれればうれしいから参加したくなると思うんですが、ひとつひとつのフェスティバルについて、冷静に判断してほしいですね。「どこも同じ顔ぶれ」「どこも似たようなコンセプト」という状況には、観客も敏感になっていくはずなので。

(2015/10/4、収録)
⇒過去のマンスリープレイバックはコチラ

演劇最強論枠+α

演劇最強論枠+αは、『最強論枠』の40劇団以外の公演情報や、枠にとらわれない記事をこちらでご紹介します。