【特集3】「これが獲る! 予想作1作集中レビュー」(河野桃子)
第67回岸田國士戯曲賞
2023.03.16
演劇は今ここにあり、そして戯曲は未来に届く──第67回岸田戯曲賞、最終候補レビュー
「生きづらさ」という曖昧な言葉が、最終候補作数作を読み進めていた時によぎりました。状況をあらわすような、環境をあらわすような、特性をあらわすような、感情をあらわすような、さまざまな意味でふと口にされる言葉。それをある個人の背景として盛り込みながらも、私小説的にせず、客観的な作品として形にした……つまり、個人的な切実さと客観性と作品性が同居し読み応えのある戯曲を、手にとることができました。
これは、コロナ禍2020年の岸田戯曲賞選評における野田秀樹さんの言葉を借りれば「私たち劇作家は大きな歴史的事件や厄災から、いかに距離をとって作品を創るかに腐心してきた。それらの出来事のなかから普遍的な要素を抽出し言葉を紡ぐのが演劇の役割だろうと私は思う」ということをいくらか実践している作品が多かったように思います。(距離をとって普遍的要素を抽出するのが演劇の役割なのかどうかは、再考の余地があるとして……。また、当時、“距離感”について波紋を生んだことを受けて「戯曲ってなに?岸田戯曲賞ってなに?」という切り口のコラムを書きましたので、よかったらご一読ください)
岸田戯曲賞候補作を読み続けて数年が経ちますが、「今回はこれだ」という作品にフォーカスすることは、さまざまな形態の戯曲が並ぶなかで難しいなと毎年思います。そのなかであえて一作推すとすれば、兼島拓也さんの『ライカムで待っとく』です。
『ライカムで待っとく』は、沖縄で過去に起きた米兵殺傷事件の調査依頼からはじまり、かつて生きた人、そして今そこに生きる沖縄の人々が登場します。その構成が、演劇であることの可能性が感じられ、そのうえでドキッと残る魅力的な台詞がいくつもあり、まずは作品としてワクワクしました。また、沖縄をめぐる複雑さを、わかりやすくありながら、物語という設定によって簡略化しすぎない。そしてわかった気にもさせない。誠実さや畏れのようなものが端々から感じられて掴まれました。さまざまな視点や立場が登場するので、ともするとどこにも着地せずふわっとさせてしまったり、あるいは特定の主張にもなりえる題材ですが、「今」のこととして、どこか俯瞰したようななかに切実さが滲み出ているようで。過去も、今も、未来も続く、全員の現実に対し、フィクションの持つ力で向き合った一作が沖縄本土復帰50年である2022年に上演されたことに身が引きしまります。
冒頭の「生きづらさ」という点で言えば、なかでも、松村翔子さんの『渇求』はその力強さに引き込まれました。メインの登場人物である鏡子の苦しさ、そこからの選択ひとつひとつに共感し、どうしようもなく身に詰まされる息苦しいまま読み進めました。とくに女性向け風俗セラピストのユウヤとのやりとりが印象的でした。その切実さは個人に寄りすぎているようにも思えましたが、たとえば小説などではなく演劇が生み出せる余白や距離感も戯曲の構造として書き込まれており、効果的に演出できる余地を感じます。この叫びが、戯曲として読まれた様々な世代の方に届くことを願います。
加藤拓也さんの『ドードーが落下する』は、失踪した夏目をめぐる3年のこと。夏目は30代後半になって、いろんなことをうまくできない芸人志望で、その言動は、まぁ、いわゆるクズなのですが、本人が自分で自分を追い詰めてどんどんクズさに拍車をかけていってしまう状況もわかるのが苦しい。同じシーンを繰り返しているのに、どんどん苦しく見えていく戯曲の構造と描写がより、人生のままならなさや、生きるための壁を浮き彫りにして恐ろしかったです。ただ、基本的には男性目線で描かれていると感じるシーンや会話が多く、登場人物が多いぶん女性の心理も描けるとリアリティが増しそうだなと感じました。
金山寿甲さんの『パチンコ(上)』は、四世代にわたる在日コリアン一家を描いたミン・ジン・リーの同名小説を思わせながら、そこにいるこの劇団の公演の観客に向けた作品となっていて、劇団上演の前提ありきの台本で、前回ノミネート同様とても楽しみました。“在日”という言葉や存在をとりまくさまざまな生々しさと同時に、風呂敷を広げて、たたむのではなく宙に投げて新たな絵を描いたようで、人によっては晴れやかな気持ちになったり、または心許ない気持ちになったりもしそうに感じます。上田久美子さんの『バイオーム』は、ある一族のドメスティックな生活のなかに、様々な立場や目線(特性や環境もふくむ)が散りばめられていて、ドラマとして楽しみやすかったです。令和の設定ながらすこし古い感覚もありましたが、実際には政治家や古くからの家柄だとこういうリアリティも世の中にあるのだろうなと思います。鎌田順也さんの『かたとき』は子どもの目線も入れながら、自治や町のそれぞれの主張が入り乱れていて楽しみました。
中島梓織さんの『薬をもらいにいく薬』は、丁寧で優しく、会話やコミュニケーションを重ねることが少しずつ物事を前へ進めていく。苦しいと声をあげるだけでなく、今とこれからを生き抜くために、私たち一人ひとりが大切にしなければいけない実感を提示されたよう。この時代に手渡された大切な薬のような一作だと受け取りました。
石原燃さんの『彼女たちの断片』は、個人の苦しみから社会の苦しみと、課題へ。説明的なシーンが続くけれど、人数の入れ替わりや歌などのシーンがバランスよく、場の空気を変えていくことで演劇として空間が動いていく。あえて女性だけが登場してさまざまな中絶の背景と背負い方を示していきますし、基本的には実際に堕胎薬を飲むために集まった人々という設定なのでお互いに会話が成立し、なんらかの実感を持ちやすく、理解し合えることが多い人物たちが登場します。これがいつか、性別年齢問わずみんなの話になればいいな、と願いながら読みました。原田ゆうさんの『文、分、異聞』はかつての文学座を舞台に、実際のエピソードやネタも登場。こちらも説明的なシーンが続きますが、個々人のドラマと組織としてのドラマが重なることで物語として読み応えがありました。とくに身体がウソをつくシーンが良かったです。
それぞれの言葉の強さを持ち、次の時代に残したい、今を描く戯曲が並びました。すでに出版されている戯曲も数作ありますので、ぜひ手にとって、想像の上演を試みていただきたいです。
かわの・ももこ/大学にて演劇、舞台制作、アートマネジメントを学び、卒業後は海外・日本各地を移動する生活をしながらライターに。雑誌・テレビ・IT企業などを経てライター・編集者として活動後、ふたたび演劇の世界へ。現在は演劇を中心にパフォーミングアーツ全般のインタビュー・関連記事の取材・執筆・公演パンフレットの編集などをおこなう。