<先月の1本>劇団おやすみのじぎく『もしかしなくてもラブゲーム』 文:山口茜
先月の1本
2022.10.22
良い舞台は終わったあとに始まる。強く長く記憶されることが、その作品を良作に成長させていく。けれども人間の記憶は、記録しないと薄れてしまう。「おもしろかった」や「受け入れられない」の瞬間沸騰を超えた思考と言葉を残すため、多くの舞台と接する書き手達に、前の月に観た中から特に書き残しておきたい1作を選んでもらった。
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「演技はどの様にしてうまくなるのか」
今回、私が拝見した劇団おやすみのじぎくの旗揚げ公演「もしかしなくてもラブゲーム」では、脚本回とインプロ回がそれぞれ2回ずつ、設けられていた。私には小さな子供がいるので、土日の公演を観ることのできるチャンスはたった1回。それで、脚本回とインプロ回、どちらにしようか・・・と悩む余地もなく、脚本回を選んだ。それは、脚本があった方が、稽古を重ねたより良い作品を拝見できるのではないかと思ったからだ。けれども脚本回を観た後に、これはインプロ回もきっと面白かったんだろうなと想像することができた。
脚本はぬまたぬまこさんが執筆した。演出の名前は無い。ぬまたさんの書いた言葉を、出演者である千瀬梓月さん、左京ふうかさん、九反月海さん、そしてぬまたさんが受け取り、各々で表現していくということが、あれだけの質の高さを保って出力されたことを考えると、演出がいなかったことが信じられない。
一般的な話として、どれだけ稽古を積んだにも関わらず、また、俳優本人がどう思っているかにも関わらず、演技をした時に、セリフを拒否する身体、とか、相手役の言葉を聞いていない身体、観客の存在に圧迫される身体、というものはよく、舞台の上で散見される。要するにそれが「演技が下手」ということなのかもしれないが、今回の「もしかしなくてもラブゲーム」では、上手いとか下手という言葉は上演中、一度も脳裏をよぎらなかった。4人ともが、役を自分自身として生きていた様に感じ、私はただ、偶然、彼らの生き様を目撃したというような気持ちになったのだった。
例えば演技における「自分が発するすべての言葉は他人に書かれたもの」と言うこと。そして「同じ舞台上にいる他者もまた、他人に書かれたものを発語している」ということ。それを「他者の集まりの前でやりとりして見せる」と言うこと。それらをうまく、出演者たちがものにしていたのだと思う。
ところでこの3つのことは、私たちの人生でもしばしば起きる。私たちは、本で読んだ言葉、誰かの考えた文章、なんらかの集団でよしとされること、誰かの期待を受けて、まるで自分の言葉のように実は他者の言葉を話している。疲れていても、心配させない様にとあえて笑顔になってみたり、本当は好きだけど素っ気なくしてみたり、特に美味しいと感じなくても、美味しいと言ってみたり。私たちの人生は演技に満ち溢れているし、それは悪いことばかりではないのも事実だ。
では、演劇の上での「演技が下手」を、日常生活に置き換えるとどういう状況のことを言うのだろう。本当は言いたくない言葉を言ってしまったり、やりたく無いことをやらされたり、他者に緊張したり、他者を信じられなかったりすることに該当するのだろうか。あるいは自分自身が演技をしていないと信じるために、現実を指摘してくる友人を遠ざけたりすることを言うのだろうか。
そういうことを考えていくと、どうして今回の出演者たちがあんなにも「うまく」演技をして見せることができたのかというのは、稽古をたくさん積んだとか、物語が考え抜かれていたと言ったこと以上に、この集団の、人間関係が成熟していたからではないか。そして、ぬまたさんの書く言葉が、総じて人間讃歌であるからではないか。と思うに至った。
改めて手元にある脚本を読み直してみる。
恋をする人、チョコミントアイス、本を読むのが好きな人、テレパシーが使える人、ヘッドフォン、ラジオ、嘘もごまかしもできない人、突然歌い出す、幽霊部員、クスノキ、ゴミのおじさん、80年代音楽、アカペラ、テニスボール。
出てくるものは何一つ、尖っていたりすることがない。加えて少し、懐古的。タイトルだけ見てもつい、80年代の歌謡曲、「男と女のラブゲーム」とか「もしかしてPARTⅡ」を思い出したりする。せっかくなので、劇中、話題にのぼった80年代音楽を聴いてみる。強い動悸を覚える。私が、とても生き難かった時期に聴いていた音楽だからだ。
私が演劇を始めたのは90年代だ。それまでの他者に対する激しい恨みを発散するという方法で創作をはじめた。それは意識せずとも自身の回復のための箱庭療法のようなものだったと考えられるのだが、そう言うことが必要なぐらい生きるのが下手だった私とのクリエイションは、仲間にとって、おそらく快適ではなかっただろう。自分を癒すための手段の過程で、他者を苦しめていたかもしれないと考えると本当に申し訳なくて胸が苦しくなるのだが、そうしなくては当時の私は生きていけなかったし、その切実さが伝わりタッグを組めた相手がいたことも確かだ。やるしかないのでやっていたし、今、そう言う風にお芝居を作る人のことを、私は心から応援したいと思っている。
一方で劇団おやすみのじぎくは、メンバーのやりたい!が集まって、双方の信頼と楽しいが積み重なって、それらが観客に届いていると感じられた舞台だった。だからこそ、同じシーンは2度と稽古することができないインプロ回でも、あの4人なら、十分に楽しめたのではないかと思ったのだった。インプロは、出演者と観客との信頼関係なしには成立しえないからだ。
今、この歳になってこの劇団に出会えて良かったと思う。もし同世代だったら、世の中そんなクリーンなことばかりじゃない、と興味を持てなかったかもしれない。もちろん、現実は今でも厳しい。生まれたそばからひどい環境に置かれる子供はたくさんいる。本人に一つも責任がなくても、生き延びるのが難しい環境に置かれ、あるいは差別的な状況に追い込まれ、そのせいで死に直面したり、生き延びたとしても精神障害を負う様なことは、無くならない。それでも、生きるよすがとなるのはやはり、この劇団が体現する、他者と信頼関係を結ぶことでは無いか。ぬまたさん演じる阿部が劇中でいう。「友達とくらい、自分の本音で話そうよ」。本音とはなんだろう?私の本音はどこにあるんだろう?それを探るのは、自分一人では難しく無いだろうか?なぜなら気持ちはコロコロ変わるからだ。
心は、変化を好む。だからこそ、自分の本音を探るためには、変化を好まない身体を用いることが重要になる。自分の身体と他者の身体を突き合わせて、なんとか自分の言葉で思いを伝えようとして、なかなかうまくいかない中でもあきらめず、少しずつ、言語化を頑張り、相手の言葉を受け止め、どうやら本音というのはこの辺にあるかもしれない、とあたりがつけられる様になる。その不器用だが誠実なプロセスを、このお芝居はキャスト・スタッフ全員で見せてくれていた様に思う。
もう一つ、脚本のなかで面白かったのは、言葉の意味を、耳から音として受ける第一印象を利用して誤解させ、実際の意味を劇中で明かし、その差異を楽しませると言った工夫に満ちていたことだ。例えば「ラブゲーム」というのは恋愛ゲームのことではなく、一方が無得点のまま、決着がつく試合のことだそうだ。恋愛話を期待して観に来たら、ラブゲームの意味を明かされ、学生たちの友情が熟していくのを見せられるのだが、しかしそれは最終的に、観客の期待を裏切らず、学生たちの恋愛話に集約されていく。ぬまたさんの遊び心は相手を辱めることがない。そこが信頼できる。
演出者はいなかったものの、演出という観点からみても、校庭の裏のベンチを舞台に、全部で19個のシーンをつくり、それを1つ約5分ぐらいに圧縮して、実際には考えられないほどのスピードで展開させていくと言う、エンターテイメント性の高い舞台だった。ちなみに19個すべてのシーンに名前がついていて、それぞれ1シーンとしても成立しているのだが、それらが合わさって大きな物語に集約されていく様も見事で、やはりそこにもぬまたさんの脚本家としての能力を感じた。
ところで先日、6歳になる子供と対戦型のゲームをした後に「どっちかが勝つゲームより、一緒に協力して難関をくぐり抜けていくゲームが好きやな」と息子が呟いたことをここに記しておく。時代も私も、間違いなく進化している。
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やまぐち・あかね/1977年生まれ。劇作家、演出家。合同会社stamp代表社員。主な演劇作品に、トリコ・A『私の家族』(2016)、『へそで、嗅ぐ』(2021)、サファリ・P『悪童日記』(2016)、『透き間』(2022)、トリコ・A×サファリ・P『PLEASE PLEASE EVERYONE』(2021)など。
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【上演記録】
劇団おやすみのじぎく『もしかしなくてもラブゲーム』
写真:じゅらこ
2022年9月10日(土)~11日(日)
音太小屋T-6
作:ぬまたぬまこ
出演:千瀬梓月、左京ふうか、ぬまたぬまこ、九反月海
劇団おやすみのじぎく公式サイトはこちら