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第63回岸田賞、勝手に大予想!~外野席から副音声/藤原ちから編

特集

2019.03.11



>>第63回岸田國士戯曲賞・最終候補作品は こちらから


*** 予想のまえに ***

先日、「2018年のプレイバック」でも書いたように、今のわたしと「日本の演劇」とのあいだにはとてもとても距離があって、それは岸田國士戯曲賞についてもそうなのだった。というか岸田賞こそが「日本の演劇」をそうたらしめている権威の中枢かもしれない。悪の権化とまでは言わない。むしろ、そんなにわたしは嫌いじゃない。岸田賞を外野からこの10年ウォッチしてきた身として、この賞がいろんな人の想いを呑み込んできたことに強い興味を抱いている。

 昨年、神里雄大氏が4回目のノミネートでようやく受賞したことを思い起こす。初ノミネート(2009年)からほぼ10年が経過していた。わたしはその10年のあいだ、彼の上演する作品のほとんどを観てきた。そして彼の姿を遠目に見ながら、早く「岸田賞の呪い」から抜け出てほしいと願っていた。選考委員の平田オリザ氏が昨年の選評に書いていたように、「岸田賞を受賞することによって得られる最大の果報は、もう岸田賞について考えずに済むことだ」というのはまさにその通りだ。しかし結果論として言えば、その足踏みのおかげで、神里氏の劇作家としてのスケールは大きくなっていったような気もする。太平洋を渡り、南米大陸をリサーチする中で新しい言葉や身体を発見し、そしてついに受賞作を書き上げたのだから。ただ、早く獲ったら獲ったで、それはそれで別のドラマが待っていたのかもしれない。そんなことはもう誰にもわからない。あの人は早く獲りすぎたとか、獲るのが遅すぎたとか、そんなことは誰にもわかりようがないのだ。

 今年は誰が受賞するのだろうか。そしてわたしはこの「日本の演劇」の権威の中枢に対して、どのようにアプローチすればいいのだろうか。岸田賞の候補作は、今までのところすべて日本語で書かれた戯曲である。公式サイトには特に対象が明記されていないが事実上そうなっている。まあ岸田賞はそれでもいい。しかし、日本語という極めてドメスティックな言語を使って書くことについて、これからの劇作家は意識的になる必要があるだろう。日本語で、日本の内部だけを射程に入れて書く、ということではもう、トランスナショナルな時代を生きてはいけない。

 もちろん、日本の「外」なんかに出なくてもいい、と思っている演出家や劇作家がとても多いということもわたしは承知している。今のところ、日本の中で、日本語だけで演劇をやっていても、そこそこのパイはあるのだから、それを美味しく齧っていれば楽しい、と思えるかもしれない。けれども、コンビニの店員の多くが外国人になってきたような今、つまり日本にも外国人がいる、という風景が可視化されてきた今、それでも日本語だけでやりたい、というのは、いったい何を意味するのだろうか。そのコンビニの店員は、あなたの観客として想定されていないということか。ではあなたは誰に向けて書こうとしているのか。もしも、ここは日本なんだから日本語でやるのが当たり前だろ、と短絡的に思っているのなら、そういう姿勢は、あなたが書いた戯曲の中で批判している社会の姿と変わりがないのではないか。日本社会をカッコよく批判してやったつもりでいながら、その日本社会の醜悪さに寄生し、片棒を担いでいるのではないだろうか。もしも本気で自分たちが生きる足場を見つめたいのであれば、もう、そういうドメスティックさに呪われた領域の「外」に出るしかないようにわたしは思う。

……そんなふうに考えたので、今回の「予想」においては、まず候補作に、日本の文脈の「外」に出るポテンシャルがどれだけあるのか、という点を意識した。これには2つポイントがあって、別言語に翻訳されることをその戯曲を読みながら想像できるかどうかということ、そして別の文脈に生きる観客たちにコネクトすることが可能かどうかということ。この点において、根本宗子氏、詩森ろば氏、古川日出男氏の今回の戯曲は厳しいとわたしは感じた。

*** 最終候補作品について ***
根本宗子『愛犬ポリーの死、そして家族の話』

気持ち悪い、というのが第一印象だった。この気持ち悪さの正体はなんだろう。3人のダメ男の気持ち悪さは古いタイプのステレオタイプ(強権的な男、マザコン、ヒモ)として認識できるのだが、問題は4人目の男、「先生」と呼ばれている作家で、この男の存在がなんとも気持ち悪い。この戯曲が最後までこの「先生」の存在を否定しきらないのも気持ち悪い。「先生」がたぶらかすこの世間知らずの主人公・花が21歳であり、つまり未成年ではないのにあたかも未成年のように幼いというのも気持ち悪い。作者の根本氏が、こうした気持ち悪さをいったいどこまで意図して描いているのか最後まで判別しがたかった、というのも気持ち悪かった。実際今の日本においては多くの恋愛関係がこんなふうな気持ち悪さと隣合わせであるのかもしれない。それを表現しようとしているのだろうか。あるいはこの気持ち悪さを窃視する愉しみを観客に与えようというのだろうか。もし海外で上演されることがあったとしたら、「で、何……?」という疑問符が頭に浮かんでしまいそうだ。それにしても根本氏は、2016年に候補になっていた作品からすると格段に筆力がパワーアップしている。ただ、いったい誰のために何を描こうとしているのか、がもっと見えてきてほしい(それは作品の意味を説明せよということではない)。あとこれは批判ではないのだが、最後のト書きで唐突に「本多劇場の緞帳が下りる」と書かれていて、あ、そういえばこれは「上演台本」だったと思い出した。ただ「劇場の緞帳が下りる」で充分だと思うので。

詩森ろば『アトムが来た日』
原子力問題、エネルギー問題をとてもよく取材して真摯に向き合っていることはひしひしと伝わってくる。イデオロギー的には、原発推進派でも反対派でも観られる内容になっているように思う。それが最終候補に残った理由ではないだろうか。現在の政府の官房長官にぜひ観ていただきたい。なんなら首相にも観てほしい。事実や歴史をわかりやすく人々に伝える、という意味では、この作品に意義はあるのかもしれない。きっとあるのだろう。ただ自分はこの作品に演劇としての魅力を感じることはできなかった。それはたぶん、観客が迷子になる楽しみ、観客が自分自身で何かを発見する余地がほとんどないように感じるからだった。それは最初の前説で、「以上がこの物語を見ていて迷子にならないために押さえるべき点です」と宣告されている時点ですでに始まっている。わたしは何かを教えられるために演劇を観たいとは思っていない。何かを知りたいとは思う。でもそれはわたし自身によって知るものだし、迷子になる自由は奪われたくない。そしてこの窮屈な情報の海を受け止めきれる観客が、日本の外にもいるというのはちょっとわたしには想像できない。

古川日出男『ローマ帝国の三島由紀夫』
古川氏の小説はかなり愛読してきたつもりだが、この戯曲はなかなか読み進められなかった。なぜだろう、とひとしきり考えて思い至ったのは、この戯曲が、古川氏のイメージをビジュアライズするために書かれているからではないか、ということだった。小説であれば、作者の世界観を言葉にして読者の脳内に伝えることは有効かもしれない。あるいはアニメや映像作品であれば、すでに作家によってビジュアライズされたものを視聴者はそのまま享受することになる。演劇はそういうわけにはいかない。戯曲の言葉を演出家や俳優が受け止めて、それを観客に手渡し、それを受け取った観客はその人なりに咀嚼していくことになる。けれどもこの作品では、この戯曲を読むであろう演出家や俳優、そして観客に、そのような解釈・咀嚼の自由の余地がほとんど残されていないと感じる。その、強固なまでの作者の意志は、ト書きの書き方にも現れている。おそらく作者の中にすでに強烈なイメージがあり、それを戯曲という形に落とし込んでいるのだと。しかしわたしが思うに、演劇はひとりでつくるものではなく、観客も含めた様々な他者が入り込む隙を持っているものではないだろうか。そしてこの「言葉遊び」に見える文体を享受できる海外の観客を、わたしは想像することができなかった。

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……次にわたしは、この「予想」にあたって、戯曲という制度自体に対して批評性があるかどうかも意識した。岸田國士戯曲賞は、常にその時代の最先端をいくような戯曲に授賞されてきたとわたしは思っている。それは必ずしも、目新しいものに授賞する、という意味ではない。戯曲、という制度に乗っかるのではなく、それを食い破っていくようなパワー、知性、アイデア、そういったものがあるかどうかだ。この点において、瀬戸山美咲氏と山田百次氏の作品は、もう一歩、それを食い破る意志が足りないようにわたしは感じてしまった。
***

瀬戸山美咲『わたし、と戦争』
近未来ライトノベルのようなこの作品を最初に読んだ時は、心を動かされたのだが、一巡して、他の候補作と比べながら2回目に読んだ時は、少し色褪せて見えてしまった。その理由を考えてみると、おそらく登場人物(脇役)たちに葛藤が無さすぎるせいだと思う。主人公の2人は戦争帰りの若者ということで、あまり饒舌にならずに虚無を抱えている、ということでも充分に機能するのかもしれないが、だからこそ周囲の人々が重要になってくる。ところがその周囲の人々は、この物語に奉仕するようにキャラクタライズされている、という感じがしてしまった。例えば反戦作家だとか、逆に戦争を称賛したいメディアの記者だとかが登場するのだが、もっと複雑な葛藤があってもいいのではないか。もちろん現代においても単純なイデオロギーなり正義なりを持っている人が多いとはいえ、複雑に丁寧にものを考えている人たちもいるわけで、ではなぜ、そのような複雑な人物が登場せず、平板な人物が登場するのだろう。そのほうが戯曲を書く上で好都合ということなのだろうか。それは、戯曲という制度に寄り掛かりすぎではないだろうか。人間を描くためなら、戯曲として破綻してもいい、くらいの覚悟で書かれたものを、今のわたしは読みたい。

山田百次『郷愁の丘ロマントピア』
ダムの底に沈んだ炭鉱の町・大夕張を舞台にした物語。おそらくこのまま忘れ去られていくであろう、失われた町の存在を書き留めたという点で、非常に意義がある仕事だと思う。もしも受賞して、この戯曲が岸田賞の歴史に名を残すと共に、書籍としても出版されれば、その意義はより強まるだろう。受賞してくれれば嬉しいと思う。ラストの、橋の名前に記憶が込められたシーンも美しい。ピースするシーンで世代差を視覚化しているのもニクい。ただわたしはシビアに見てしまった。おそらくは現地にも行ってかなり詳細に取材していると思うのだが、その取材によって得たものがそのまま戯曲になってしまっている感じがする。もちろん物語として昇華されているとはいえ、取材の気配が残りすぎている。それはそれで、そういう形を通して観客に事実を伝えるというのも、演劇のひとつの効用ではあるだろう。ただそれならば、昨今流行りのレクチャーパフォーマンスのほうが、戯曲よりも直接的でしかも自由なスタイルではないかと思ってしまった。この作品は、旧来の戯曲のスタイル(リアリズム演劇)に寄りかかりすぎている。それで何が悪いのかといえば、悪くはないだろう。ただ、戯曲=物語としてパッケージされている、という安心感が、わたしにはどこか物足りない。わたしは、脅かされたかったのかもしれない。大夕張の、ダムの底からやってくる声に。わたしの人生とは無縁ではないはずの声に。上演ではもしかしたら、俳優の力がそれを助けたかもしれない(山田百次氏自身が、とても優れた俳優であることをわたしは知っている)。ただこれは戯曲賞の「予想」だから、戯曲のみで判断するしかない。この戯曲に出てくる老人たちはずっと何かを待っている。しかし、得体の知れないものがやってくるという感じはしなかったのだ。戯曲からは。

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……この時点でわたしは3作品に絞り込むことになったが、悩みに悩んで、坂元氏の作品は推さないことにした。
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坂元裕二『またここか』
テレビドラマの脚本で培われたであろうさすがの力、とはいえ、あくまで演劇ならではの魅力(例えば2階を見えない領域として使うとか)があり、戯曲を読みながらウルッときたし、おそらく上演を観たら滂沱の涙を流してしまっただろう。けれども何か腑に落ちないものが残りもした。それはなんだろう、としばらく考えてみた。テレビドラマの名手に岸田賞を持っていかれるのは悔しいとでも思ったのだろうか。いやいやそんなことを自分が感じる必要はないだろう……とかとか。で、考えた結果、それは中盤以降になって急速に明らかになっていく「近杉」の危険性について腑に落ちないのだという結論に至った。はたと冷静になって考えてみると、え、でもそんな人がなぜガソリンスタンドなんていう超危険な場所で働いてるんだろう、しかも店長として……と疑問に思えてきたのだ。彼は充分にうまく生きてきたじゃないか、それなのになぜ急に……と。それは「近杉」を危険人物に仕立て、「ふつうの人」から乖離するためのトリックだったのではないか。そしていつの間にか話が、そういう絶対的に共存不可能な他者とは暮らせないということになり、けれども「小説」というフィクションならばそれが可能だ、というレールが敷かれていく。このレールはあまりに美しく、もう、泣くしかないのだが、しかしやっぱりこれは、作者によって都合よく敷かれたレールという感じがしてしまう。実際には「近杉」はこれまでいろんな人と生きてきたはずで、ガソリンスタンドに火をつけることもなく商売をしてきたのだから、これからだって、やっていけるのではないだろうか。とにかく坂元氏が技巧的に優れた劇作家であることは間違いないので、もしも彼が(ドラマの脚本ではなく)戯曲を書き続けるとしたら、今後も岸田賞の有力な候補のひとりになりうると思う。

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……というわけで、ついにこの「勝手な予想」は2作品に絞られたのだった。しかしわたしはここまで書きながら、一種の徒労感に襲われた。「予想」のために、なぜこの作品を推せないのか、というマイナスの要素を書かなければならないのは、辛い。ふだんは、良いと思った作品について言葉にしようとしているので、それとはだいぶ違う行為になる。自分からむざむざ嫌われにいっているようなものである。それにどんなに「予想」をしたところで、授賞を決めるのはわたしではない、という残酷な事実がある。わたしはただの外野の人間でしかない。そしてさらに言えば、これまですでにこの「予想」を3回やってきて今年で4年目なのだが、どんなにこれが「予想の名を借りた批評だ」と宣言したところで、多くの読者=観客にとっては単に誰が受賞したかしないかの結果のほうが重要なのである。それはそうかもしれない。しかし批評というのは、こういう徒労感と隣り合わせの営為なのだろう。作家が喜ぶようなことを書いてあげれば喜ばれるのはわかっているのだが、そういう報酬を期待して書くのは、幼稚なことだと思う。批評は、時には目に見える結果や報酬とは無縁の領域でいわば潜水艦のようにじっくりと身を沈めて進み、ある時不意に、海面に姿を現すこともあるのだ。わたしがやりたいのはそういうことかもしれない。……さて!
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「▲ 大穴」は……松村翔子『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』
セリフのひとつひとつの言葉が生きていて、読んでいて身体が動き出すような感覚に浸った。8つの候補作のうちで最もポリフォニック(多声的)だと思う。これは果たしてひとりの劇作家が書いたのだろうか、と訝しんだほどだ。出演俳優たちが街頭で1000人インタビューを行った、ということも関係あるのだろうか。(でも戯曲はその前に書き上げていたのかしら……?)
 近年の日本の劇作家にはあまりない種類の成熟さを感じた。2013年に上梓した『演劇最強論』で、わたしは日本の小劇場演劇の特徴のひとつとして「ネオテニー(幼形成熟)」という用語を使った。オトナになりきれない状態を擬態することによって、オトナの社会を批判することも可能になり、同時に、観客に受け入れられるための可愛げを保つこともできる。そういう側面が、その頃の若い演劇作家の作品にはあったように思う。わたしはその言葉をどちらかといえば肯定的に使ったのだが、このネオテニーはしかし、一種の甘えと隣合わせでもあった。この戯曲にも「あゆむ」という、まだジェンダーとしてこの先どうなっていくかわからない中学生が登場しているし、その存在をネオテニーと捉えることも可能かもしれないが、戯曲全体として言えば、むしろ非常に成熟した印象を受け、甘えがないと思った。2000年代後半からしばらくの「日本の演劇」が、「男の子の演劇」あるいは「女の子の演劇」であったとすれば、松村氏の戯曲はそこから一歩抜け出ているように感じる。
 その成熟さは、この作品が「お金」をテーマにしていることと無縁ではないのかもしれない。ビットコインの上げ下げを云々するデイトレーダーや、金銭と引き換えに性的奉仕をするデリヘル嬢、大金を積んで顔を変える整形、不妊治療、ローン、そして偽札づくり……。「お金」と共に生きている人たちの群像劇とも呼べるこの戯曲では、それぞれの人々の語りが流れるように繋がっていき、やがて同時代に生きていることが明らかになっていく。ここでは「お金」は、現代の都会に生きる人々の、虚無的な、しかしそれでしか繋がることができないようなネットワークの媒介物となっている。やや古びてしまった感のある現代思想の用語で言えば、消費社会におけるシミュラークル(模造)の循環が生まれているということになるだろう。このシミュラークルの循環の中で人々は「ぼんやり」生きながら、なんとなく何かを信じようとし、けれども、何に対しても本気にはなれないでいる。そして、まだ自分でお金を稼ぐ力がないがゆえにこれらのシミュラークルの循環から取りこぼされ、だからこそ「本物」と「偽物」の区別に悩んでしまう「あゆむ」に、最後、シミュラークルの究極の生産物であるアレが手渡されることになる……。
 街頭インタビューはYoutubeの映像という形で劇中に登場している。いわば劇場の「内」と「外」とがこのインタビューによって繋がっている。松村氏が1000人インタビューを行ったのは、市井の人々の声を拾いたかった、あるいはそこに近づきたかったからかもしれないのだが、作家がその人々の声をネタにしようとしている、という悪い印象は、少なくともこの戯曲からは受けなかった。むしろインタビューを通して、世の中が実際どうなっているのかを同時代の人間として知りたい、という劇作家・演出家としての意志を感じた。それは例えば、ある種のインテリ層であったかつての作家が、その正義感や贖罪意識のために市井に降りていって人々の声を拾い集めた、というのとはまったく違っていて、松村氏は、あくまでも同時代の人間として同じ地平に立っている。そんな感じがする。
 ただ、劇作家としての松村翔子が、今後どういう世界や人々を相手取ろうとしているのかが、今のわたしにはまだ掴めない。そこで「◎ 本命 」や「○ 対抗」ではなく、「▲ 大穴」としてこの作品を推すことにしたい。都市に生きる人々にフォーカスしているこの作品が湛える一種のニヒリズムは、東京で生きる観客たちには届きうると思うのだが、一歩その外に出ればどうだろうか。何らかの繋がりを「お金」以外のやり方で生み出したり、新しいコミュニティをつくろうとしている人たちがすでにこの世界にはたくさんいる。東京の中にだっている。けれどもそういう人たちはこの戯曲には登場しない(強いて言えば、芸術家を名乗る「げん」がトリックスター的に登場する)。そうした人々はもう「お金」によって媒介されるシミュラークルの空虚さを見抜いていて、その循環システムの外へ出ようとしているし、そしてある程度はその脱出に成功している。それらの人々がつくろうとしている新しい世界に対して、松村氏は今後どのようなスタンスをとっていくのだろうか。今回の1000人インタビューで示されているように、松村氏の作家としての野心や好奇心はただ「内」に籠もるものではないと感じるので、ここで彼女が受賞することにまったく異存はなく、むしろ岸田賞はここで早く獲っていただいて、その解像度の高い言葉でいろいろな世界を見つめ、次なる戯曲を書いてほしいと願う。

そして「◎ 本命」は……松原俊太郎『山山』
キレキレの知性と言葉で〈真実〉を語ろうとする、まっとうな劇作家の誕生を目の当たりにした、と思った。もちろんAAF戯曲賞を受賞したデビュー作『みちゆき』でその名はすでに知られていたし、『忘れる日本人』でその作家としての地力はある程度は証明されていたと思うのだが、この『山山』ではこれまでの作品に感じられた(良くも悪くもの)青さのようなものが消え、怒りは知性へと昇華され、それが演劇的な遊戯性と結びついて、2011年3月11日を指すであろう「あの日」以後のこの国の姿を鋭く射抜いている。
 一種のロボット演劇でもある。「ブッシュ」と名付けられたロボットが「山山」と呼ばれる場所で作業員たちと共に仕事をしている。「山山」は、放射線によって汚染された立入禁止区域の原発や廃棄物を指すものと思われるが、具体的な用語は一切登場せず、あくまでも象徴として描かれており、その正体は最後まではっきりとはわからない。この象徴的な描き方に対して不快に思う人はいるかもしれない。実際にその地域に住んでいた人や、近しい人を失った人たちが、この戯曲を読んだり上演を観たりして、どう感じるだろうか、とわたしは考えてみた。そして何度か読み返してみて、わたしは、最終的にはその人たちの心にもきっと何かが届くはずだと信じるに至った。
 この戯曲はいわゆる当事者性には背を向けているように思える。原発の作業員や、その妻……といった人たちの立場がある程度ベースになってはいるが、その人たちの主張や心情を必ずしもドキュメンタリーとしてそのまま代弁しているわけではない。これらの登場人物=俳優たちは、当事者の代弁ではない何かを語ろうとしている。それは何だろうか。作者の思想信条を? 否。そうではないだろう。論文やエッセイという形では表明できないような言葉がここに書かれているのは一目瞭然だ。ではいったいこれは誰の言葉なのだろうか? 確かに役名は「社員」や「作業員」や「夫」や「妻」となっているのだが、彼らはこの戯曲の中で演劇的なメタモルフォーゼを果たしており、もはやそれらの役名を超えた何かとなり、蠢いている。つまりこの戯曲は、当事者自身による自白でないのはもちろん、俳優によるその代理表象でもなく、作者の意見表明でもない。俳優は、当事者からはずいぶんメタモルフォーゼを遂げてしまい、ある意味でズタボロになっているその役名という衣装を借りて、この戯曲=演劇の中でお互いに作用し合いながら、何かを口にしようとしているのだ。どんな言葉を? それは、この国がずっと隠蔽しようとしてきた言葉たちであり、この国に生きる人々がみずからの感情を日々殺しながら、その圧殺に慣れていきながら、諦めていきながら、心の底に沈めてしまった言葉たちではないだろうか。わたしはそれを〈真実〉と呼びたい、という衝動を抑えることができない。〈真実〉なんて言葉が危ういのは重々承知しているし、このポスト・トゥルースとやら呼ばれる時代にあってそんなものはありもしないと嘲笑されるかもしれないが、そしてわたし自身もそんなものは少なくとも日本語圏においてはとっくに滅びてしまったと諦めていたのだが、なんとここに、この『山山』に、わたしはそれを目の当たりにしている、そんな気がしてならないのだ。もしも今、あなたがこの『山山』が掲載されている「悲劇喜劇」2018年7月号を手にしているなら、この戯曲が書かれているどのページでもいい。開いてほしい。わたしが言っていることが多少は伝わるのではないだろうか。そのページには、あなたがこれまで目にしてこなかった種類の言葉が書かれているはずだ。わたしも、こんな言葉は初めて見たと思う。
 今のわたしに書けるのは残念ながらここまででしかない。この戯曲が到達している地点は、わたしの批評家としての力量をはるかに超えてしまっているように思われるので、とても、それをわかりやすく噛み砕くなんていう余裕がないことを、今はご容赦いただきたい。この戯曲を咀嚼するためには、わたしにはまだまだたくさんの時間と経験が必要だと思う。
 小難しいことを書いてしまったが、いっぽうで、この上演を観る観客はいわゆる「難解さ」をほとんど感じないで済むだろうと思う。言葉のひとつひとつは実にシンプルだ。例えば、アメリカへ行くかどうか迷っている「娘」への「社員」からの最後のセリフは、システムの歯車でしかなかった「社員」が人間であることを取り戻した瞬間に発せられたものであり、この退廃した国からギリギリ絞り出された「希望=遺言」でもあると思うのだが、この言葉を聞けば、多くの観客が思わず涙してしまうのではないだろうか。それは共感の涙とは異なるものだとわたしは思う。その言葉は、ほとんどの「日本人」がその心を日々じっくりじわじわと殺していく中で忘れてしまった〈真実〉を取り戻すためのトリガーであり、その涙は、それをようやく取り戻していくことへの歓喜の涙なのだ。
 実は1回目にこの戯曲を読んだ時は、松原氏の書く言葉の饒舌さが、日本語の文体の流れや躍動感に依存しているのではないかと思えてしまった。何しろ流れるように書かれているので。しかしもう一度丁寧に読んでみた時、実はこの戯曲が饒舌さとはまったくの無縁であることをわたしは悟った。ひとつひとつの言葉が詩やアフォリズムのような強度を保っている。試しにいくつかのセリフを抜き出して、別の言語(わたしは今のところ英語しかできないので、英語)に訳してみたのだが、それが字幕に投影されていたり、あるいは外国人の俳優が発話していたりする絵を想像することができた。戯曲の内容も、日本の特殊な事情を体現していると同時に、搾取の構造や家族関係のような越境可能なテーマを含んでもいる。仮に戯曲のすべてを翻訳して字幕上演するのは難しいとしても、演出家や翻訳家の工夫によっていかようにも上演は可能だろう。そう、この戯曲には、作者自身の手を離れ、誰か別の人に託されていくという気配がものすごく漂っている。同時代の演出家や俳優に。そして未来の誰かに。10年後、30年後、100年後の日本でも上演されるかもしれない。もしもその頃、日本がまだ滅びていなければ。あるいは、滅びていたとしても。

*** 受賞作品予想 ***
◎ 本命:松原俊太郎『山山』
○ 対抗:なし
▲ 大穴:松村翔子『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』


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藤原ちから Chikara Fujiwara

1977年、高知市生まれ。横浜を拠点にしつつも、国内外の各地を移動しながら、批評家またはアーティストとして、さらにはキュレーター、メンター、ドラマトゥルクとしても活動。「見えない壁」によって分断された世界を繋ごうと、ツアープロジェクト『演劇クエスト(ENGEKI QUEST)』を横浜、城崎、マニラ、デュッセルドルフ、安山、香港、東京、バンコクで創作。徳永京子との共著に『演劇最強論』(飛鳥新社、2013)がある。2017年度よりセゾン文化財団シニア・フェロー、文化庁東アジア文化交流使。2018年からの執筆原稿については、アートコレクティブorangcosongのメンバーである住吉山実里との対話を通して書かれている。