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第62回岸田賞、勝手に大予想!~外野席から副音声

特集

2018.02.16


岸田國士戯曲賞の予想も、このサイトがオープンしてから早いものでもう3回目。
今回はこれまでとは趣向を変え、徳永京子・藤原ちからの両名が、それぞれの「受賞予想」について、また今回の候補作品全体について、みっちりと書いています!
どうぞ、ご一読ください。


>>第62回岸田國士戯曲賞・最終候補作品は こちらから
>>第62回岸田國士戯曲賞・受賞作品は こちらから


藤原ちからの大予想! >>>>>
*** 予想のまえに ***

 今回も岸田國士戯曲賞の「予想」をすることになりましたが、わたしは予想屋ではなく批評家です。なので、これも「予想」の名を借りた批評ということになります。そもそも「予想」とはなんでしょうか? 審査員の(日本の現代演劇の)傾向を読み、受賞作を言い当てるためのものなのか。それとも、自分が獲ってほしいと考える作品・作家を推すのか。その両者を行き来しながら、批評を試みます。
 審査員には戯曲を審査する権利と共に絶大な権威が与えられています。ノミネートを受けた以上、作家はこのポリティクスに巻き込まれ、審査を甘んじて受け入れなければならなくなります。冷静に考えてみれば少し奇妙ですらある関係です。けれども、ノミネートの可能性を排除する、という選択をしたのは、わたしが知るかぎりではすでに自分の死を悟っていた危口統之さんだけで、通常はありえない。わたしは、無関係で無責任な「予想」を装って、このポリティクスに接近します。が、もちろん無力です。ただ作品に対峙することくらいしかできない。それがわたしの基本スタンスです。

*** 受賞作品予想 ***
◎ 本命:西尾佳織『ヨブ呼んでるよ』
○ 対抗:神里雄大『バルパライソの長い坂をくだる話』
▲ 大穴:山本卓卓『その夜と友達』


*** 受賞予想した各作品について ***
◎ 本命:西尾佳織『ヨブ呼んでるよ』

 こまばアゴラ劇場での上演を観た時は、正直、やりたいことがわからないわけではないけれど、うーんどうなんだろう……とモヤモヤしたものが残った。最近の鳥公園の上演がもうひとつ呑み込めていないこともある。腑に落ちたいわけではない。けれども、作家である西尾さん自身の悩みと、作品の内容との距離感が近すぎるような気がして、その迷いの先に行ってもいいのではないか、と思っていた。
 けれどもこの戯曲を読んで「あっ」となった。西尾さんは戯曲を他者に手渡そうとしている。口先だけではなく。2月末〜3月にかけて開催されるという 「鳥公園のアタマの中展」 もそれで納得がいく。
 後半で突如として挿入される「ヨブは語り尽くした(けれどわたしたちは?)」というくだりに鳥肌が立つ。そこにはこのようなト書きが書かれている。

「劇を上演する者は、このシーンのための言葉(語る言葉を持たない者の言葉)を探すこと。」

 ……不可能である。そんな言葉はこの現実にはおそらく存在しない。だが、このくだりに記されている数行の言葉を読んで、奮い立つ演出家がいるかもしれない。そう感じた。これはこの戯曲を演出する者への挑戦状だ。いや、手紙だ。この手紙を受け取った者は、このシーンに眠っているはずの言葉を探ろうとする。そして上演を試みるかもしれない。それは失敗するだろう。ありえないのだから。けれどもこの手渡されていく一連のプロセスの中に、何かとても大事なものがありそうだ。何かがあることはわかっている。だけどそれは見えないし、触れられないし、口にすることもできない。
 しかしその何かが、他の会話シーンに命を吹き込んでいく。言うまでもなくこの戯曲は、「この世の中にはこんなひどいことがありますよ!」という単なる糾弾でもなければ、露悪趣味でもない。この戯曲の作者は、「言葉を持つ者」と「言葉を持たざる者」とのあいだを行き来していて、そのどちらでもある。
 「言葉を持つ者」は確かに強者だ。しかし強いからといって「言葉を持たざる者」を代弁することはできない。登場人物の希帆はその代弁を拒絶しており、周囲の人間の「善意」さえも拒絶してしまう。そのあいだには、この現実においては、橋を渡すことはできない。夢の中を除いては。

 この不可能さを超えていくためには、現実が、社会が、変わればいいのだろうか。どのように? もしもそのビジョンが明確にあるならば、政治家やアクティビストがその課題にアプローチすることは可能だ。そしてそうした活動は大事なことだ。けれども、どんなに明るい未来が訪れたところで、暗闇は残るのであり、解決できないものがその暗闇に吹き溜まっていく……。この戯曲は、その吹き溜まりを見つめ続けようとするものだとわたしは思った。
 西尾さんは彼女が作・演出を務めてきた鳥公園の活動において「できなさ」を扱い続けてきたのではないだろうか。ただそのテーマが彼女自身の「できなさ」と結びつくかぎりにおいては、「甘え」に見えてしまうことも正直わたしにはあった。だが、ここにはその意味での「甘え」はない。他者への届かなさに佇むしかないこの劇作家は、その佇んでいる自分に甘んじているわけでもなく、手を伸ばそうとしている。「言葉を持つ者」として。あるいは、「言葉を持たざる者」として。

 ところで、この戯曲に書かれている言葉はこの世界にとって必要なものだ。少なくとも、必要としている人はいるはずだ。だが劇場に来る観客たちのほとんどは、大なり小なりそこそこの強者である。観劇に費やせるお金を持っており、多くの場合は足があり、上演される言葉が理解でき、目が見える。見た目もそんなに醜くはないし、異臭もしない。しかし西尾さんのテクストは本当にその人たちに届けたいのだろうか。誰に、何を届けたいのだろうか。鳥公園の上演を観に行くといつもそのようなディレンマを感じる。いやそれは演劇(劇場)そのもののディレンマでもある。だが岸田國士戯曲賞の受賞によって本が出版され、彼女の知性に権威が付与された時、彼女にできること、届けられることは、もしかしたらもう少し増えるかもしれない。才気ある女性作家が書いた眩しい言葉、とは違う形で、暗闇に届くかもしれない。
 余談だが、彼女は10年ほど前に劇団・乞局で俳優として舞台に立っていた。乞局はもう解散してしまったけれども、やはり、吹き溜まりとそこに生きる人々を描いていたなと、ふと思い出す。

©中才知弥(Studio Cheer)



○ 対抗:神里雄大『バルパライソの長い坂をくだる話
 KYOTO EXPERIMENT2017での上演を観るかぎりでは、この作品が圧倒的に受賞に値すると感じた。ただ今回あらためて戯曲(正確には上演前に「新潮」に掲載されたものをスペイン語に翻訳し、それでアルゼンチンの俳優たちとの実際の上演を踏まえ、日本語台本を推敲したもの)を読んでみて、若干の懸念が残った。それはこの戯曲が読者に集中力を要求するということだ。上演であれば、俳優や字幕が、その言葉のスピードを測りながら観客に言葉を伝えていく。しかしテクストを読むとなると、読者はみずからその言葉との関わり方を探っていかなければならない。小説であればまだ、読者との約束ごとがある程度は成立しているが、戯曲はそうではない。読者が戯曲を読む経験は圧倒的に不足しているし、ことに、このような種類の戯曲を読むとなると、多くの人が手を焼くのではないか。小説のようにスルスルと読もうとすると言葉が離れていってしまう。どうやって手繰り寄せるかを図らなければいけない。それは悪いことではない。新しい読書体験が問われているということ。

 神里さんはこれが4回目の岸田賞ノミネートとなる。前回は2016年の『+51アビアシオン,サンボルハ』で、選評を読むかぎり「これは戯曲なのか?」とかなりの物議を醸し、同時授賞が検討されながらも惜しくも逃した。選評を振り返ってみよう。 (第60回岸田國士戯曲賞選評)
 岩松了氏は「移動しているのだが、実は移動していない」。野田秀樹氏は「戯曲と呼ぶには、劇作家本人のなかでの、書き捨てなければいけない部分が沢山あるように思われた」。平田オリザ氏は「自己の経験(取材などを含む)を戯曲の言葉とする際に、劇作家が行なうべき作業について考えさせられた」とそれぞれ批判している。岡田利規氏と宮沢章夫氏はこの作品を強く推したようである。そしてケラリーノ・サンドロヴィッチ氏は最初は推しながら、最終的にはこの作品の「強引さ」を考慮して推すのを止めたと記している。いずれの審査員の言葉も真摯に書かれたものだとわたしは受け止めている。

 では今回の『バルパライソの長い坂をくだる話』はどうだろうか。わたしが思うに、これら審査員の批判は乗り越えたのではないか? 自己の体験の吐露のようにも見える『+51アビアシオン,サンボルハ』と違って、今作は様々な伝聞(これについては、「戯曲について考えること」という文章の中で、「メッセンジャー」という言葉を使って彼自身が語っている。)が交錯し、それでいて透徹した詩的言語にもなっている。心を閉ざしている母と、その息子、亡くなったその父と何らかの関係があるらしい饒舌な男と、何も喋らずゴミ呼ばわりされている男、というシンプルかつ奇妙な設定で、あいかわらずひたすらモノローグが続くのだが、読者・観客を未知の世界へと連れていく力を持っている。「強引さ」とは違う。ぐいぐいと単一の物語が押し付けられるわけではない。そこに展開されている言葉の海の中へと、観客=読者が入っていってみずからつかみとらなければおそらく何も受け止めることはできないような。
 前回の審査員の批判の中では、岩松氏のそれが最も痛烈だった。「移動しているのだが、実は移動していない」。……今回はどうだろう? わたしは『バルパライソの長い坂をくだる話』にはまぎれもない「移動(モビリティ)」の痕跡を感じる。いや、痕跡という言葉はふさわしくないのかもしれない。それは明確に過去に属してしまう言葉だから。この戯曲に記されているのは、過去だけではないのだから。

神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』 2017 京都芸術センター 撮影:井上嘉和 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局(Studio Cheer)



▲ 大穴:山本卓卓『その夜と友達』
 大穴、という言葉には失礼な響きがある。意外性がある、みたいな。でも、山本さんが受賞したって意外でもなんでもない。彼が岸田賞の受賞にふさわしい劇作家であることは、多くの人がすでに認めているはずだ。
 『その夜と友達』はわたしは上演を観ていないし、TPAM2018で上映された映像も観ていない。戯曲を読んだだけ。一度目は無心で。二度目は初演時のキャスト(武谷公雄、大橋一輝、名児耶ゆり)を当てはめて読んだ。正直なところ後者のほうが脳内で結ばれる像が圧倒的にはっきりしていて、この戯曲が、声を大切にしているのだと伝わってきた。まあ戯曲ってそういうものかもしれない。
 複数の場所や時間を同時に混在させることを、いとも軽々とやってのけている。凄いなと思う。が、山本さんならこれくらいできるよな、とも正直思ってしまう。こういうのも賞の難しさで、なまじ彼/彼女の過去作品を知っているがゆえに鮮烈な印象を失ってしまうとしたら、どのようにそれは評価に反映されてしまうだろうか。これがもしわたしにとって初めての山本卓卓/範宙遊泳の作品だったら、もっと衝撃を受けていたのは間違いない。彼ならもっと深い闇の世界へと潜っていき、そして還ってくる。そんな期待をついしてしまう。
 しかし、もちろん審査というものは公平に行われなければならない。批評もまた公平に行われなければならない。印象ではなく、目の前にあるものを見つめること……!

 わたしがどうしてもひっかかっているのは、カズが夜に対して反射的に叫ぶ、あの台詞である。わたしは自分の身体の中を、脳みその中を、あるいは記憶の中を探してみたのだが、この台詞にシンパシーを覚えるようなものは見当たらなかった。世間的にはどうなんだろうか、2017年の日本においては。少し前に保毛尾田保毛男騒動があり、フジテレビが謝罪した。この騒動については様々な意見があるだろう。ただ、同性愛者をホモ呼ばわりすることが2017年においてはすでに古いものになっている(解決したという意味ではなく)、という感覚はある程度共有されているのではないか。カズが夜に叫んだのは2019年。そこで果たして、誰かをホモ呼ばわりする生理感覚が、大学で映画を撮っているようなそれなりに文化資本の高い人たちにどれくらいあるものなのか。そしてこの台詞を、劇作家である山本さんは、どのような距離感でもって見つめているのか。そこが気になったし、正直に言うとノレない部分でもある。

 ただ、この戯曲が漂わせている「声」の気配はすごく好きだ。TPAMで映像だけを観た友人たちが、記録映像なのに本当に素晴らしい2時間だったと口々に語っていたが、ラジオドラマにしてもいいのではないかと戯曲を読んで感じた。「声」だけでも充分だ。範宙遊泳はプロジェクターに字幕を投射するその手法で台頭したわけだが、山本卓卓の本質がそうした視覚的な技術やアイデアだけによるものではない、ということはこの戯曲によっても証明されている。エンディングも素晴らしい。そして最後のト書きにある「ゆっくりと優しい闇が彼らを包む」という言葉に、この劇作家が積み重ねてきた時間を感じる。


◆今回の全ノミネート作品に関して
 以上の3作品は他と比べて頭ひとつ抜けていると思った。まず、誰か他の人物によって上演される可能性が考慮されている。「自分の世界観を表現してみました」という自己満足に留まらない豊かさを感じる。
 3者共に海外での経験が豊かということも無関係ではないのかもしれない。神里雄大、山本卓卓の両氏はすでに海外公演だけではなく国際的なコラボレーションも経験しているし、滞在制作を行い、日本ではない場所で多くの時間を過ごしている。西尾佳織さんも海外でのカンファレンスに参加した経験があるし、また幼少期にはマレーシアで過ごした経験もあるらしい。異なる環境に身を置いた経験の有無は、劇作家としての力量にも大きく影響するだろう。演劇は、観客との何かしらの関わりを求める。そこで想定される観客はいったい誰だろう? 細かい話だが、 山本卓卓『その夜と友達』 において、「頭にデのつくとことか ハのつくとことかじゃないよ?/電通 博報堂 のことね」とあるのは、蛇足に思われるかもしれないが、この補足があるかないかで、言葉の届く観客層は大きく違ってくる(仮に他言語に翻訳された場合でも、ああそういうのがあるんだな、と観客が想像できる余地が膨らむ)。ドメスティックな文脈だけに閉じていないのだ。これからの日本の劇作家は、日本語で書くことの意味も問わざるをえないだろうが、彼らはすでにその点においてもパイオニアである。

 他の作品についてもひとことずつ触れておきたい。
 山田由梨『フィクション・シティー』 は、前作の『テンテン』にもすでに見られていた、複数の話法を共存させる彼女の特徴がよりくっきりと現れていた。ドラマ演劇と、ポスト・ドラマ演劇、その両者を行き来できる資質を彼女は持っている。ただ、特にそのドラマの部分には既視感が否めない。そして、山田さん自身がその劇作家人生において追いかけたいものが何なのかを感じることもできなかった。冷たい言い方をするなら、まだファッションに留まっているように見える。そこが、最初に名前を挙げた3人の劇作家との大きな違いだと思う。そういう意味では、彼女が、彼女自身の話法を発見するのはこれからではないだろうか。ただし同世代の中では野望の大きさもタフネスもすでに頭ひとつ飛び抜けていて、先日も中国の杭州・南京・武漢で『みんなよるがこわい』のツアーを終えて動員的にも大成功を収めてきた彼女たち。その『みんなよるがこわい』を杭州で観たある中国人が、彼自身の深い孤独をわたしに語ってくれた。どうして彼がそんなことを急に語り出すしたのかはわからない。酔っていたのかもしれない。だけど、彼女の作品がそれ(中国に生きる青年の、ある秘められた孤独)を触発したのは間違いない。
 松村翔子『こしらえる』 は上演を観た。素晴らしかった。が、戯曲だけ読むのでは、読者が頭の中で像を結ぶのが少し難しいのではないか。俳優たちはいずれも印象的だったが、ことに幸枝を演じた島田桃依と、Nを演じた山縣太一の存在感は圧倒的で、彼らのまざまざとしたその存在のありようを、もっとト書きに書き込むことはできなかっただろうか。とはいえ松村さんの書く物語を今後も観たいし読みたい。言うまでもないことだし、言われたくもないだろうけど、もう松村翔子はチェルフィッチュの人じゃないんだなってこともあらためて感じた。
 サリngROCK『少年はニワトリと夢を見る』 は二人芝居としての緊張感が漂っている。が、その村上くんの冷凍保存状態のような(刑務所の)時間の中で、彼が抱いている傲慢さや思い込みがいささか幼稚すぎやしないだろうか。関西弁もわたしの耳には心地良い。が、何かもうひとつこの村上くんの中に愛せるものがあればなあ……。実際の俳優を観たらまた印象もずいぶんと変わるのかもしれないが、戯曲の中では、現実の俳優の姿を観ることはできない。
 福原充則『あたらしいエクスプロージョン』 はなんとなくエンタメ演劇枠でノミネートに呼ばれてしまったような気がしてならないが、邪推だろうか? 以前観た彼の作・演出作品ではもっと面白いものがあったと記憶しているので、この作品でノミネートなのか……と正直思ってしまう。この作品がダメという意味ではない。ただ、岸田國士戯曲賞は現在の審査員の顔ぶれを見てもただエンタメというのではやはり厳しくて、去年の上田誠さんの『来てけつかるべき新世界』レベルの圧倒的な面白さに加えて、哲学のようなもの……例えば人間存在の根底を問うような眼差しが必要になってくるだろう。では『あたらしいエクスプロージョン』はどうなのか? 役をコロコロと俳優たちがスイッチさせていくのは、観客にとっては驚きの経験になったかもしれない。あるいは石王時子の、終戦時の引き揚げの話に戦慄した人もいるかもしれない。けれどもわたしには、岸田戯曲賞をぜひこの作品に!とまで強く思えるものをこの戯曲の中から見つけることはできなかった。
 糸井幸之介『瞬間光年』 は、読み始めてすぐに、これは糸井さん、分が悪いな……と思い、最後までその印象は覆らなかった。やはりヘテロセクシャルな男女のセックスをがっちり前提とした組み立てに、今の時代に戯曲賞が授賞するのはかなり厳しいのではないだろうか。もちろん、糸井さんの書く言葉や歌詞は読んでいるだけでも音が聴こえてきて素晴らしい。今回ついにノミネートされたこともとても喜ばしい。この永遠の少年は、しかし、セックスを描かなくても十二分にその詩的な才能を発揮できるのではないかと今回の戯曲を読んで思ってしまった。あるいは、セックスを描き続けるとしたら(描いてほしいけど!)、この世界観のファンではない人たち(審査員含め)にどういう説得力を持ちうるか。

 さて、最後にノミネート全体のことを少し。今年も候補者8人のうち4人が女性となった。 去年の選評で平田オリザ氏が言及されていたように、「女性選考委員の不在」はさすがにもはや無視できない状況ではないだろうか。ではいったい誰が……? という具体的な話にもちろんなるわけだが、その最有力候補としてYMさんにぜひ選考委員を務めていただきたい。そう願っている人たちは他にもかなりいるのではないだろうか。それにしても、審査員を務められそうな女性劇作家となるとかぎりなく候補は少ない。しかしそれは彼女たちのせいなのだろうか? 岸田賞の選考委員は、基本的に過去の岸田賞の受賞者である。それがどうやら不文律になっているらしい。
 不文律といえば、これも去年の選評で平田氏が「同時授賞は、拮抗した作品の場合」にかぎるという「岸田賞の不文律」について言及されている。あ、不文律もこうやって文字になると不文律ではなくなるのか……という気づきはさておき、では今年は複数同時受賞はありうるのだろうか? わたしの予想は、 西尾佳織『ヨブ呼んでるよ』と神里雄大『バルパライソの長い坂をくだる話』の同時受賞 にしたい。神里さんの描く移動、とりとめのない広さ、謎めいた詩的言語と、西尾さんの知性と切実さは拮抗しうるのではないかと思っている。そして、(山本卓卓さんもそうだが)これらの稀有な作家たちが「岸田賞」という門の前でこれ以上足踏みする必要があるようにはもはや思えない。新しい世界へと踏み出していく、その姿を気持ちよく送り出すのもまた、門番の仕事ではないだろうか。
 ポリティクスの前では無力と言いながら、少々喋りすぎたらしい。最終候補に残らなかった作品としては、山本健介『夜組』(ジエン社)はノミネート間違いなしと確信していたので、意外だった。




徳永京子の大予想! >>>>>
*** 予想のまえに ***

予想しながら読む、という作業は私には不可能なようです。客観性を得る前に、戯曲の中に入り込む時間が必要だからです。
そこで得たものをひとまず横に置いて、審査員の志向や嗜好を想像し、近年の傾向を読み、それらに向けて言葉を費やすのが、ちょっと苦しいというか虚しくなりました。「去年がコメディだったから今年は」「あの人は○回目のノミネートだからそろそろ」といった外的要因を審査員でもない私が考えることに、どれだけ意味があるのか。そんなことより、戯曲と関係を結んだ中で見つけたものを劇評として文章にするほうが、劇作家にとっても、これを読む人にとっても、戯曲と戯曲賞を外に開く試みをしている白水社にとっても、生産的なのではないかと考えました。そして、その中でも特に、これは広く認められるべきだと強く思う発見のあった戯曲を、ここでは予想作品と呼ぼうと思います。ですからもちろん、受賞作と同じ結果になったら、とてもうれしいです。


*** 受賞作品予想 ***
◎本命:山本卓卓『その夜と友達』
○対抗:西尾佳織『ヨブ呼んでるよ』
▲大穴:山田由梨『フィクション・シティー』



*** 受賞予想した各作品について ***
◎ 本命:山本卓卓『その夜と友達』

たとえば「同性愛者を排除しないで」と言われたら、多くの人が「もちろん」と答えるだろう。でも「排除しない」には、そっとしておく、フラットに付き合う、積極的に関わる、丸ごと受け容れる、愛に応えるなど複数の段階があって、「もちろん」の先にあるそのグラデーションを、私たちはどれだけ具体的に想像できているだろう。弱い立場の人たちも生きやすい社会を、普段から強く強く願っているのに。

 この戯曲は演劇の異化効果を使って、そこに深く切り込んでいる。と同時に、広く網をかけている。差別意識など持っているつもりのなかった平凡な善人の平凡な鈍感、それによって大事な人を傷付けてしまった苦い夜から、ようやく関係を取り戻す15年後の夜までを、観客の当事者意識を常に刺激しながら旅するのだ。
 私はこの作品を「プレイバック2017年」で「ベスト10+α」にも選出したくらい感動した。それは最後に導き出されたのが願望(叶わなかった可能性もあること)なのか、それとも希望(良かったと思っていいこと)なのかが、ちょうど半々で提示されたこと、そのいずれもが観客である私にとって深い実感を伴っていたことが大きいのだが、戯曲を読んで初めて、そこにさまざまな仕掛けがあることがわかった。

 例としてひとつ。ト書きの1番最初に登場人物についての説明がある。

  1 田町和範 35歳前後に見える
  2 三枝 夜 20代に見える
  3 滝沢あん 20代にも30代にも見える


 外見の指定とともにフルネームで役名が書かれ、劇中でもお互いが名前を呼び合うのに、通常はせりふの上に記載される役名の場所にあるのは「1」「2」「3」という数字だ。

 1 俺たちがまだ出会ってない頃、夜って名前の友達が昔俺にはいて


 というように。これはどういうことか。おそらく複数の理由があって、まず思いつくのは、交換可能性。この人物は「2」とも「3」とも立場が変わり得るし、もちろん客席のあなたであり、私であり、劇場の外の彼や彼女であるという。山本卓卓はかなり以前から(09年の『東京アメリカ』など)、観客が自分自身も上演と無関係でないことを意識させる仕掛けをつくってきたが、本作は戯曲の中にさまざまなレベルでそれが織り込まれている。客席と舞台の間にカーテンが引かれていると指定されているし、「1」は半分以上のせりふを観客に向けて言うことも指示されている。そもそも第一声の「俺たち」の「たち」は、話の辻褄から考えて「3」でも「2」でもない。「1である俺と俺の目の前にいるあなた(たち)」であり、早々に劇作家が、観客の意識の深い場所に作用しようとしていることがわかる。

 そしてまた「1」「2」「3」は、時間の構成要素である「過去」「現在」「未来」であり、三次元空間の「幅」「高さ」「奥行き」も暗示している。それに気付いたのは、夜が読んでいる本が、時間の哲学についてのバイブル的なマクタガートの『時間の非連続性』であり、また、数式で宇宙が球状だと証明したとされる「ポアンカレ予想の本」だと書いてあったから(内容について興味のある人は、各自検索してください)。

 こう書いて誤解されると困るのは、山本は決して、物理や数学の概念を演劇に持ち込んで目新しさを狙ったのではない。彼の目的はそれらを使い、舞台と客席の風通しを良くすることだ。時には登場人物が客席に話しかけるのもアリ、という異化効果のお約束によって行われていた「1」による観客への語りかけを、「2」の「ねえ さっきから 誰に話しているの?」という質問と、「1」自身の「いやあ 時間がいるんだけどね あっちには」という答えでさらに異化するのだが、そこから導き出されるのは「1」「2」「3」によって構成された舞台上の三次元は、客席=時間が加わって四次元になり、一気に次元が広がるということだ。本来、人間には感知し得ない四次元のベクトルが、せりふひとつで設定できるのが演劇の奔放さ、痛快さではないか。さらに「1」「2」「3」が「過去」「現在」「未来」という時間を表していると考えると、この作品の舞台と客席はお互いに開かれ、循環していると言える。そうしないと、冒頭の「1」のせりふにあるように、時間はあっという間に化石化してしまうのだ。

 ただし、こうした構造上の仕掛けはこの戯曲の魅力の半分で、残る半分はせりふの魅力だ。人間はたいてい、言い過ぎるか言い足りない。時には、言いたくないことや思ってもいなかったことさえ口にしてしまう。その生理を、この戯曲は見事に反映している。「2」の「だから男のチンポコが好きなの! 俺は!」も「3Pしようよ3P」も、「1」の「触んなホモ!」もそんな愚かさの一端であり、彼らの愚かさは、私たちの愚かさでもある。一方で、レインボーカラーの造花が男性器に見えると言って通報するのは、そうやって特定の誰かと、不本意であっても本気で傷付けあった経験のない人ではないかと思う。だから世界はややこしく、誰もが無関係ではない。だからこそ描く価値があると、この戯曲は伝えている。

撮影|鈴木竜一朗



○ 対抗:西尾佳織『ヨブ呼んでるよ』
今年のノミネート作8本のうち5本は実際の上演を観ている。この企画で戯曲を読む時、できるだけ戯曲に集中して、上演を観ていないものとの差がないように留意している。どうしても舞台の記憶が前提になってしまい、それによって戯曲の穴を埋めてしまったり、あるいは読み飛ばしにつながったりするからだ。

 だが本作は、読み出してすぐに上演の記憶が後方に過ぎ去り、あっという間に戯曲に没頭してしまった。せりふが圧倒的におもしろいのだ。テンポが良く、簡潔だが遊び心があり、しかし、言葉の後ろに設定されている時間軸が長い。つまり、ノリは良いがノリだけではない。書いた西尾佳織自身が演出した舞台が、少なくとも私が観た初演ではこの戯曲のポテンシャルを活かしきれていなかったことは、残念ではあるがここでは問題ではない。そう、読み進めながら豊かなポテンシャルを感じること以上に重要な戯曲の魅力はないからだ。

 例えば、主人公の希帆と、彼女の夢の中に現れる(が、どうやら大田区で暮らしている56歳の引きこもり男性)たかをちゃんの会話。「人の機微ってもんが分からないヤツだな! ビックリする!」「ソーリー。」「まあいいけど。」「サンキュー。」「でも夢じゃなかったら私たぶん、たかをちゃん無理だと思うわ。」「ドイヒー。」「適当だな。おめー全然考えねーで喋ってるだろ。」のあとに、たかをちゃんが抱えているらしい何らかの障害、それによってもたらされたと思われる過酷な境遇、家族との特殊な関係、相手には届きにくい独特の優しさなど、現在のたかをちゃんの造形につながる思い出話が語られる。

 おかしさと悲しさのメビウスの輪のようなつながりで言えば、希帆は「どんな女性が面接に来ても落とさず受け入れる、伝説のヘルス」で「ゴメス」の名で働いているのだが(他に、ミゲルとか広沢とかマグワイアなどがいる。興味のある人は画像検索してください)、その店に兄がやって来て、妹の仕事を知り、ショックで店を走り出るとえずく、そのシーンのタイトルが「デッドボール」という。秀逸だと思う。

 時間軸に話を戻すと、背骨のように太く長い存在感を放つのは、希帆がたびたび口にする聖書「ヨブ記」の言葉だ。他人名義の部屋でゴミに埋もれて暮らし、だらしなく太り、幼いふたりの子どもも手放し、兄の援助で暮らす彼女の口から聖書の言葉が出るたび、聞く(読む)人に激しいノッキングを起こす。それがむしろ、その言葉の意味するところ、宗教書特有の明確な答えの無さを容認させ、長期的な思考を促進する。

 半ば私ごとになってしまい恐縮だが、1月、パルテノン多摩で「現代演劇講座」を開催した際、ゲスト講師のひとりとして宮沢章夫氏に来ていただいた。岸田國士戯曲賞の審査員を務める宮沢氏はその講座の中で、戯曲を読む楽しさについて「ト書きを読むこと」だと話されていた。この戯曲の冒頭には、登場人物や場所のあとに「演出ノート」が記載されている。そこには、ヘブライ語では「言葉」と「出来事」というふたつの意味が同じ語で表されていたこと、だとしたら「今、私たちの言葉は、なんとそこから遠くにあるだろうか」、そして「出来事と一致した言葉、それ以上でもそれ以下でもないぴったりの言葉、(中略)その現実には現れ得ない言葉の場所を考えたいと思った。」とある。野望と言ってもいいようなこの宣言は、ここから始まる戯曲を読む期待値を上げてくれるものではないか。言うまでもなく、この作品に関わる演出家や俳優にとっては大きな指針になるはずだ。何より戯曲が、宣言から置いていかれることも、宣言に絡め取られることなく、最後までのびのびと「言葉と出来事の一致」を追い、最後は戯曲単体で「名前と実体の一致」まで近付けたのがいい。


▲ 大穴:山田由梨『フィクション・シティー』
タイトルにもなっているし、せりふとしても何度も出て来るので、多くの人が誤解してしまうかもしれないが、これはフィクションを扱った話ではない。

 最初から最後まで中心に据えられているのは、現代ではむしろ限りなくノンフィクションの、社会の底辺に追いやられた人たちの存在だ。それは戯曲にもはっきり書いてある。受講する学生たちにまったく話を聞いてもらえない講師が、ル・グインの小説『オメラスから歩みさる人々』のストーリーを話すのだが、それはそのままこの物語へとスライドできる内容だ。いわく、ひとりの少年の犠牲の上に成り立っている社会があり、そこで暮らす人々は少年のことを承知しているが、全員が知らないふりをしている、というもの。

 この戯曲の主人公は、フィクションによって翻弄される小説家や女子大学生ではない。ロボット導入による人員削減で出勤日を減らされ、のちに解雇されるアルバイターの奥田、そんな奥田にさえ同情されるゴミ掃除の伴さん、そして、どこに行っても居場所がなく、無視され、認識してもらえるのはホームレスになった奥田だけという役つかずだ。

 山田は2016年の『ハワイユー』以降、合理主義で、言った者勝ちで、わかりやすいことが良しとされる現代の社会では上手く立ち回れない人たちに柔らかい光を当ててきた。この戯曲では、彼や彼女が戦うのは、家族や仕事仲間よりもっと大きなものになった。どれぐらい大きいかというと、手応えがないのだ。奥田のライバルは小さなロボットで、伴さんの仕事は「パズルゲームに出てくる色とりどりのブロック」が上から降ってきて、それを粛々と整理するというもの。「フィクションとは何か」「フィクションには何ができるか」といった問題の先、フィクションとノンフィクションが曖昧な地層のように重なった社会で、リアルな生きづらさを味わいながら、いてもいなくても同じ(フィクションでもノンフィクションでもない)存在として世の中から処理されている人を舞台に現出させたことが、本作の素晴らしさであり、山田が今年ノミネートされたのは、その社会性が認められたからだろうと私は認識している。

 ラストシーンで、それまで劇中に出てきたせりふがランダムに組み合わせて会話として成立してしまうのも、何度も繰り返される「木の枝かと思ったらグレーのビニール」が暗示するのも、ニセモノと本物(フィクションとノンフィクション)の区別がつかなくなった状態を指していて、役つかずが離脱するのは、犠牲者に気付かないふりをし続けた末に訪れる、そんな世界ではないか。

Photo: Kengo Kawatsura



◆今回の全ノミネート作品に関して
 予想に挙げた3作の共通点を挙げるなら、世の中の排除される側への意識が強いことかもしれない。演劇作品を何のためにつくるのか。もちろん理由に制限はない。「モテたい」でも「何となく」でもいい。ただ、この何年かの私個人の心境は、力や言葉を持たない、持ちにくい人への眼差しが感じられる作品に興味が動く。理由はおそらく、現在の日本の状況が大きい。だからと言って、どストレートに社会的な主張を持ってこられても乗れず、そこには当然、演劇的言語、演劇的表現への優れた変換がほしい。その点で、上記3作は、ストイックな正義感でも張り詰めた政治意識でもなく、出来る限り立場を真ん中に、可能性を半々に開いた状態で書かれているのが良い。

 短くなるが他の作品についても。

 糸井幸之介『瞬間光年』。男女のペアをつくって順番にエピソードを描くいつもの羽衣ではなく、パートナーがいない男女のエピソードを展開したこと、孤独を宇宙という大空間に放ったことは新機軸。だがそれぞれの登場人物が、淀んだ空気や塩素水など、目には見えず命も無いとされる物質を発射台にして飛び立つまでの物理的、心理的な放浪が長すぎる。そして、全員の展開が同じパターンで変化がない。登場人物が抱える事情はまったく異なるが、ひとり目、ふたり目、3人目と進んでも、その度にAメロなのだ。宇宙飛行士ふたりの会話も含めて。下ネタが悪い、空気が喋るのが子どもっぽいということは一切無い。そこはブレずに自分の道を進んでほしいが、ひとつひとつのエピソードを戯曲上でAメロ→Bメロにしていく展開を期待したい。

 神里雄大『バルパライソの長い坂を下る話』。最後まで予想の3作に入れるか迷った。神里の戯曲が持つ太陽の日差し、潮の匂いが混じった風、丸い汗がとどまる浅黒い皮膚などの野性味は健在ながら、格段に洗練が進んだと感じる。腐った水と腐っていない水、畑の昼と夜、木の濃い緑と薄い緑の色など、明確に区別できないグラデーションを次々と登場させて、読み手を果てしないつらなり=旅に連れ出す手腕は見事だった。ずっと黙っていた母親は、不機嫌だったのでなく、死んだ夫を自分なりに弔っていて、その結果、夫の言葉を語り出す、という流れにはゾクゾクした。ではなぜ予想に入れなかったのかというと、完成度が高かったから。きれいに収まり過ぎて、ずっと続くはずの旅の終わりを戯曲のラストシーンに感じてしまった。

 サリngROCK『少年はニワトリと夢を見る』。途中までかなり引き込まれて読み、これはもしかしたら予想の3作に入れることになるかも、と思ったのだが、途中から構造も事情もわかってしまい、その枠の中から飛び出すせりふに出合うことがないまま終わってしまった。村上くんが人を刺した時の状況をオノマトペを駆使して説明するシーンは迫力があったが、それでも村上くんが独房から出てきてくれることはなかった。その分、ユキオくんが自由に動いてくれれば良かったのだが、彼もまた、年を重ねるごとに実家/子供時代に戻って来てしまい、世界が収縮してしまった。

 福原充則『あたらしいエクスプロージョン』。これまでのようにキャッチーなせりふでなく、俳優が早変わりで何役も演じる演劇ならではの勢いと、物は無いし人もいないが情熱はあった戦後すぐの日本映画界の勢いを掛け合わせ、ストーリーを転がそうとしたのかと想像しながら読んだ。けれども残念ながら、戯曲から読み取りたかった映画人の、あるいは、何をしてでも戦後を生き抜こうとする人の思いは、次々と変わるシーンで細切れになり、最後はキスの威力でどこかに行ってしまった。いや、そんなもっともらしい話はしないでも構わない、この時代に人前でキスをすること、もしくは、キスそのものの「考えてみたら、これってすごい行為だよね」というせりふがあったなら、と思う。でも、時代設定の説明に時間がかかったか、福原戯曲にしては珍しく展開が遅く、それも勢い任せになってしまったのが、福原ファンとしては残念だ。

 松村翔子『こしらえる』。飼い馴らせないノラ=傑出した才能を持ちながら破滅指向のあるパティシエ夏目の存在が、他のシーンと最後までなじまなかった。だからこそN(夏目、ノラ)は上演中ずっと舞台上にいる、という指示があるのかもしれないが、それでも。レストランの日常と孤高の夏目が水と油だとして、分離した二者をシェイクして混ぜるのが、磯部の妻の幸枝がレストランに乗り込んで、逃げた愛猫ノラの代わりに飼うことにした夫の愛人、夫と衝突するシーンだったのかもしれない。けれどノラは実在しなかった、本当は流産していた、という二重の幸枝の事情が、ことを理に適うものにしてしまった。理由が無いほうが、シェイクの力は強まったと思う。

そして私も最後に全体のことを少し。今年も候補者8人のうち半数が女性、というのは藤原さんも書いているが、いわゆる社会派の作品が皆無なのは珍しい。昨年はそこに偏り過ぎた印象があるので、その反動だろうか。女性劇作家の、それこそ多様性が具体的に審査の対象となると良い。もちろん女性ばかりをフィーチャーしてほしいわけではなく、真に才能ある劇作家が、岸田國士戯曲賞の候補となることで注目され、受賞が一層の活躍の機会となる流れが続いてほしい。その意味でも私は、市原佐都子の『地底妖精』がノミネートされなかったのはショックだった。

演劇最強論枠+α

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